冬雨 1

 日が落ちた雨の中、イルカが駆け込んだ岩の切れ目には先客がいた。いたのだが、イルカはしばらく彼に気付かなかった。相手が故意に気配を消していたからだった。

 雪になりきれなかったしびれる程冷たい冬の雨にイルカはたっぷりと濡れていた。手近には火を熾せるような材料は無く、外に探しに行くのも億劫だったためベストを脱ぎ、裾を解して中に詰めていた固形燃料と火付け代わりの堅い綿を引っ張り出す。暗くしかし乾いた空間に転がっている石を適当に組んでかまどを作り、印を切って青い炎がぽっと灯った瞬間、最奥にうずくまる人影が浮かんでイルカはうおっと声を上げた。
「……にぶいね」
 額当てで同じ里の者と見極め、戦闘態勢に入ろうとしていた両手をひっこめる。
「いるならいるって言えよ」
 ばつの悪さにイルカは苦笑して見せた。
「面倒で……」
 空気の抜けた風船のように彼は言い、イルカが近寄っても指一本動かそうとはしなかった。
「動けないのか?」
 乏しい灯りの中で妙に白く見える顔色に眉を寄せて言えば、彼は僅かに顔を背けた。二十歳そこそこの同じ年頃に見えたが、妙な老成具合がイルカの興味を引いた。
「チャクラ、なくなりそうってだけ」
「怪我は?」
「無い」
「無くは無い、な」
 右腕全体が傷ついているようだった。ベストすら右側から裂けて半分に千切れそうになっており、アンダーシャツに至ってはこびり着くように残骸が残っているだけだった。
「腕、見せてみろ」
「いい」
「いいこたぁないだろ、ほれ」
 イルカは構わず彼の腕を取った。
「いいって言ってんだろ!」
「強情だな……」
 しばし押し合いになったがチャクラ切れというのは本当のようで、僅かの後にはイルカが勝利した。ベストとアンダーシャツを剥がすと痩せた体は顔よりも白く、これは体調ではなく生まれつきかと思いながらイルカは右腕を検分した。
「火傷、か?」
「……ま、そんなとこ」
 むくれた声を出す彼がなかなか整った顔立ちである事にようやく気付き、手当てをしながらイルカはその顔を盗み見た。瞑ったままの左目とその上を走る傷があってなお、彼は平たく言えば女好きする容貌だった。
「任務はどうなった」
「終わったよ、当然」
 イルカの無遠慮な問いに彼は憤慨し、軟膏を塗るイルカから音が出そうな勢いで顔を背け唇を尖らせる。随分と幼く見える仕草にイルカは噴出しそうになるのを堪えた。『みてくれ』よりも幾つも年下なのだろうと思う。
「そうか。お疲れさん」
「……当然だよ」
「チャクラ無くなってもちゃんと完了出来たんだな。よくがんばったな」
 言ってから少々子供扱いしてしまったかと心中で舌を出したが、彼は今度は反応しなかった。背けた頬が若干赤く、ああ照れているのかと気付いて悪戯心のままに、心配しなくても俺が連れて帰ってやるよと畳み掛けると、彼はうーと威嚇音を発してイルカを笑わせた。

 手当てが終わる頃には狭い岩間は暖まり、生来元気な質であるイルカは下着一枚になった。濡れそぼった服を固く絞って広げ置き、焚き火の前に座る。向かいの青年といえば、ぼろぼろの任務服を無理やり着直し、膝を抱くような格好で黙っていた。しかし彼が少しだけ火に近付いた事にイルカは気付いていた。
「さむ……」
 呟くように彼は言ったが、岩に反響したその声はくっきりと耳に届く。
「悪いな。防寒布があったんだが仕掛けに使ってしまったんだ」
 いいよ、と答える彼は少し震えていた。よほどチャクラが足りなのだろう。忍はある程度の経験を積めば体温を調節して多少の熱さ寒さには動じなくなるが、チャクラが低下してくるとまず、その調節機能を停止する。何が起こるか分からない状況下では、僅かなチャクラも節約したくなるものなのだ。
「兵糧丸、食うか?」
 ポーチを示してやるが、揺り戻しがきついから、と断られる。どうにも気詰まりな空気にイルカが話題を探して低い天井を見上げている間に彼は眠ってしまった。始め膝の間に顔を埋めていたが、その内にぼそっと音を立てて横倒しになり、そして動物じみた動作で丸くなると背中から火にじりじりと寄る。
「なんかなあ」
 警戒されているように感じてイルカは溜息を吐いた。
「……仕方ないか」
 先程の手当てで分かった事がもう一つあった。彼は、上半身に多数の歯型と鬱血を散らせており、その手酷い強姦の跡を見られたく無かったために手当てを拒否していたに違いなかった。
 ――ああいう跡をあからさまに残すのは、私怨か制裁、か。
 丸まった背を見つめてイルカは眉を寄せる。怪我の有無を問わず、任務後は大抵医師による体調のチェックが行われる。その場で強姦の跡を見せねばならない屈辱を見越しての仲間内での制裁を、イルカはこれまでに目にした事があった。
 敵に囚われてああまで陵辱されて生きて戻れる事は稀だ。今、彼が単独でいるのはそういう予定だったか、戦闘中にはぐれたかだろう。まさかどさくさに紛れて抜けるつもりでは、と暗い気持ちになるが、少なくとも同じ里のイルカに過剰な反応は見せなかったので考えないようにする。
 眠気と戦いながらそんな事を考えていると、くしゃみが聞こえた。更に続けて二回。自ら起こした振動で彼は目覚めて少し頭をもたげ、そして一層丸まった。ふう、と溜息を吐き、イルカは立ち上がった。
 ゆっくりと火を回り込んで小さくなっている体の脇に立つ。既に相手はぴりぴりと緊張している。頭を掻きながらイルカは屈んで膝を着いた。相手の出方を確認しながら隣に寝転ぶ。途端にびしっと腕が飛んできた。それを受け止め、イルカは慌てて言った。
「何もしないって」
 飛び起きそうな様子に掴んだ腕を押さえつけ、イルカは彼を見つめた。激しく威嚇する目を見開いて彼は歯を剥いた。
「触るな!」
「そんなに震えてたら気になって仕方ないんだ」
「じゃあ見なけりゃいい!」
 そうは言ってもなあ、と敢えてのんびりと言ってイルカは彼の腕を放した。彼は瞬きもせずイルカを睨み付けている。イルカ越しの炎が映っている目は正に燃えているようだった。それでも彼は動かない。余程の消耗だと見て取り、イルカは彼を引き寄せようとした。
「触るな!」
 大きく震えてから彼は叫んだ。そして目から涙を零した。これは興奮や恐怖のためではなく、本当に瞬きせずにイルカの全動作を見逃すまいとしているがための生理的なものだ。彼の性格が窺え、こりゃあ敵が多そうだなと思いながらイルカはまた少し彼に近付いた。
「寒さで経絡が乱れたら回復するもんもしないだろう? 落ち着けよ」
 むっと唇を結び顎を引き、彼はイルカを睨み続ける。
「俺、体温高いんだ。本当に何もしないから」
「……俺は誰も信用しない」
 彼の語調に勢いが無くなり、イルカは肩の力を抜いた。若干諦めるような表情になった彼はそれきり静かになり、イルカが密着しても暴れる事はなかった。片手で彼を抱き、イルカは先に目を閉じて見せた。
「入り口にはトラップを仕掛けてあるから、侵入があれば音が鳴る。神経にも触るようにしておいたから俺はもう寝るよ」
 言い、イルカは目を瞑って相手の反応を窺った。腕の中の緊張は長く続いたが、ある時点で急速に弱まり終に、ことりと落ちるようにして彼は眠った。



 ――猛烈に熱い。
 そう感じてイルカは目を覚ました。大して眠っていない感覚だ。目覚めてすぐ、腕の中の彼が発熱しているのではないかと考えた。しかし彼は穏やかに眠っている。実際イルカは僅かに汗をかいていたが、気にする程の事ではないと思われた。
 すっかり目が冴えてしまい、彼を観察する。眠っている顔は一層少年じみ、長めの睫が幼さを強調するようだ。いや、自分も寝顔だけは可愛いと女に言われた事があるから、男は眠ると幼く見えるものなのかもしれない。
 ふさふさした銀髪が喉元に当たって痒い。イルカは少し体をずらした。それに合わせて彼も移動してきた。眠る前の意固地な姿とはうって変わった様子に笑おうとして、イルカはぞくりと背を緊張させた。
 ――おかしい。
 何が? 強いて言えば熱い。常の自分には無い何かが腹の底にある。
 ――なんだ?
 再び汗ばんでイルカは瞠目した。彼の体に被せていた腕を退ける。それで彼が動き、とん、と額が胸に当たった。びっくりしてイルカを目を開き、穏やかな顔で眠っている彼を凝視した。色の無い睫が凍ったように降りている。白い頬は緩まって僅かに開いた唇が妙に赤く感じられた。
 ――おかしい。
 これは自分ではない。そう思いながらイルカは再び手を伸ばした。そっと赤い部分を辿り、頬を横切って耳たぶを摘む。
 ――欲情している……?
 腰から上を起こし眠る青年を覗き込む。
 ――駄目だ。
 はっきりと身内にそう言い聞かせる。欲情する理由などイルカには全く無く不思議なほどだった。しかしイルカの指はぞろりと動いて眼下の白い首筋に触れた。軽く顎を傾け柔らかい耳殻に唇を寄せる。もう一方の手が、彼のベルトをかちゃりと鳴らした。
 ――駄目だ!
 ばっと顔を背け腕を土に突いてイルカは全身に冷や汗を浮かせた。駄目だ、駄目だ、胸の中で叫びながらイルカは体を退こうとして酷い頭痛に背筋を緊張させた。脳内に生き物が侵入して暴れ始めたようだった。首から上を千切って捨てたい程の痛みにイルカの顎に汗が伝う。欲情に逆らう事がまるで死に向かうような苦痛だった。
 ――なんだ、これは!?
 腕の筋肉がぶるぶると震える。激しい緊張と努力、イルカは辛うじて彼の上三十センチで留まった。堪えようと必死で考える。それは、孤独や絶望と戦う時の思考と似ていた。イルカは忍ではなく人としての存在の理由すら思い起こして必死で堪えた。脳が端から壊れゆくような激烈な痛みに逆らい、じりじりと体を避ける。
 眉を寄せるイルカの下で、すうっと空気が動いて彼が目を開けた。まずい、とイルカは思うが大きくは動けない。彼は唖然と眼を開いてイルカを見上げた。両目ともが開いていたから酷く驚いていたのだろう。彼の左目は黒かったが赤く濁っていた。そして反射的な抵抗の動きで彼の腕がイルカの胸を押した。彼は顔を背けてイルカから逃げながら手のひらにぐっと力をこめた。瞬間、イルカの視界が暗く歪んでがくりと頭が落ちた。
「よ、せ、」
 低く唸る。目の前にある彼の白い首筋。
 ――いけない
 思った時にはそこに噛み付いていた。途端に頭痛が薄らぐ。力の限りに彼を抱きしめ肌に舌を這わせると痛みは溜まった水が抜けるように引いていった。それは強烈な快感に似過ぎていて、イルカは強力な磁力に引き寄せられるように白い肌を吸った。腕の中の銀髪はぶるぶると震え、しゃっくりのような音をさせて大きく息を吸った。
「呼気で……排出されるんだ」
 何、とイルカが耳を澄ますと彼は細い声で言った。
「催淫剤」
 イルカの胸を押していた彼の手がぽとりと落ちた。
「最近流行ってる遊びだって。俺はやだって言ったけど……チャクラ無かったし……」
 全身から力を抜き、彼は投げやりな声で続けた。
「薬は息から抜ける。あんた、それを吸ったんだ」
 薬、という言葉はイルカに衝撃を与えた。彼にとって最悪の衝撃だった。自分に生じた異常を自責として必死で堪えていたのだ。その原因が薬、そう聞いてイルカの中で何かが力を失った。一層体を沈ませるように、彼の腰を強く押さえつけた。
「あんた、手当ての時に大丈夫だったからさ……。薬に強い体質だって思った俺が、悪い……」
 弱弱しく彼は言い、ふっと諦めた視線を横に流した。イルカが暴き始めた肌に青っぽい固形燃料の炎がちろちろと映って美しい死体のようだった。それに触れれば楽になれる、そんな間違った刷り込みが欲情と絡まってイルカの思考を完全に支配し、どっと汗が浮かんだ。
 最後、確かにイルカは、駄目だ、と自分に叫んだ。しかし理性はどこまでも滑り落ちて見えなくなった。



「ア――」
 長く、悲鳴が上がった。細かく震えている体を今度こそ引き剥がそうとする。イルカ自身が酷い疲労を感じてもう終わりたかった。しかし収まる気配は微塵も無く、再び律動を始める。
 もういやだ、と小さく彼が言った。言いながら、彼は決してそれが叶えられないだろうと知っている目でイルカの背後をぼんやりと見ながら手足を投げ出している。全く抵抗は感じられないがさっきまでしゃくりあげて泣いていた。疲労のためだ。青年のチャクラはとうに底を尽き、僅かに錯乱し始めている。男女なら経絡を回す事も出来るが、男同士ではそんなものは期待できないだろう。ただ互いに消耗し、それでもイルカは衝動に抗えずに彼を犯し続けていた。自分の下で敷物も無しに押しつぶされている肌は石で傷つき幾筋も血が流れている。それをイルカは知っていたが気遣う事も出来ない、ひと時も体を分ける事が出来ない。最初に繋がった形のままただひたすら続くこれは、イルカにとっても拷問だった。
 青年の唇からは絶えず荒い息が吐き出されている。イルカが強く突き入れると、ひ、と息を詰め、それからまた空気を求めて喉を上げる。イルカの頬を彼の吐息が撫でてゆき、背筋をぞっと泡立たせた。食いつくように唇を合わせるとすうっと緊張が解ける。間違いなくその呼気をイルカは求めていた。口付ける度に、群集の怒声のような欲求がイルカの内部から沸き起こった。
 岩の切れ目の空間は、二人の喘鳴で厚く水蒸気が積み重なって何もかもが雫を垂らしているようだった。苦痛を耐えるための長い呼吸、次第に鼻に抜ける高い音がそれに混じってゆく。もういやだ、と嘆く彼は体を丸めようとした。子供のように怯えて悲しむ姿全てにイルカの欲望は刺激を受け、逃げる肩を押さえつけて平らかにすると骨盤を砕くように強く打ちつける。より一層逞しくなるもので彼の苦痛が増し、彼の悲鳴でイルカの熱が上がり、どこにも終わりは無い。
 ――最悪だ。
 射精しながらイルカは思った。快楽はほとんど無く、吐き出さなければという責め立てがまた新たに始まる。青年は揺すぶられながらゆっくりと目を閉じたり開いたりを繰り返して朦朧としている。
「は、ああ、あ、あ、」
 震える喉、イルカはその息を求める。合わせた唇の間から切れ切れに、彼は「痛い」と言った。いたい、いたい、いたい、そう言いながら彼は薄く笑い始めた。イルカの体に手を回して口の中で笑う。しかしその顔に表情は無かった。
 イルカが失神するように目を閉じた時も、彼は微かに笑い声を立てていた。


 少し意識が飛んだ。おそらく眠りかけていたのだろうと、イルカは目をこらして薄赤く低い石の天井を睨み、時間が気になって側の火に顔を向けた。固形燃料は十二時間燃え続け、次第に赤みを帯びていくのでだいだいの時間を把握してイルカは上体を起こした。血が下がるような感覚と共に激しく目がかすむ。脳が振り回されるような眩暈。目を擦り、手探りで手を突くと柔い肌に触れた。ああ、とイルカは思う。ああ、とだけ。
「……せんせい?」
 そんな風に聞こえた。触れた手に絡む指。
「せんせい」
 するりと昇ってきた指が髪を掴んだ。逆らう事など考えもつかずにイルカはされるままに伏せた。唇を探り当ててほっと力を抜き、舌を差し入れて安堵する。
「せんせい」
 彼の声は寝言のように輪郭が曖昧だった。激しい欲情はもう感じなかったが、残り火のような瞬きに押されてイルカは彼の足を開いた。ようやくはっきりした視界には出血こそ無いが赤くただれた体腔が見え、眠りたいと思いながら繋がる。何の感覚も無い。思考も鈍重だ。せんせい、せんせいと髪を丁寧に撫でられる。俺は、あんたの先生じゃない、そう言ったか言えなかったか、声と思考が混ざってイルカには分からなかった。せんせい、せんせいと、恋しい者を呼ぶようで同時にただ悲しいだけのようにも聞こえる呼びかけが、静かに腰を振る青年から漏れていた。
 何に対してかはっきりしないまま、イルカは羨ましいと妬ましいと馬鹿馬鹿しいと、意識に刻んだ。





 里に戻ったのはそれから三日後の事であった。青年が言った催淫剤の効果は強かったが持続性は弱く、翌日の朝にはイルカは正常な思考と体の自由を取り戻していた。しかしすぐには動けない程度には疲労は深く、イルカは兵糧丸で一時的な体力を得ると、深く眠る青年を背負って里を目指した。
 出立の際にイルカは岩間に封印を施した。青年が任務に関わるなんらかの物品を隠してある可能性を考えたのだった。しかし本当は、その封印は青年のためというよりはイルカ自身のためであった。二度と訪れたくも思い出したくもない場所、そこを厳重に封じたイルカは体力の続く限り走り続けた。背中の温みはぴくりともせず、イルカは淡々と精神を塞いで進んだ。

 里に着きすぐに青年を病院に運ぶと、少々騒ぎになっていた事をイルカは知った。彼から里への連絡が長く途絶えていたからだった。行方不明の期間の一部は自分の責であったが、それを告げる事はどうしてもイルカには出来なかった。チャクラ切れの彼を偶然発見したのだと報告し、逃げるように病院を後にした。
 彼の全身への検査が行われれば自分がした事柄は明らかになろうとイルカは覚悟して待ったが、何日経っても何の音沙汰も無い。おそるおそる病院に見舞いに行ってみたが、彼は特殊体質を理由に隔離病棟に収容されていたため面会出来ず、名前も教えられないと言われた時に、名乗り合ってすらいなかった事に気がついた。

 彼を忘れる事はなかった。しかし日々が過ぎる程に、イルカにはあの出来事が夢のごとくに思えるようになっていった。名前も分からない青年の顔は次第に曖昧になり、声などはすぐに思い出せなくなった。ただし一つだけ、あれが現実だったとイルカに知らせるものが彼の体に残された。それは岩間で絡み合ったためにイルカの膝にめり込んだ小石が残した跡だった。それには金属が混じっていたらしく、赤い色素をイルカの肉に残していた。過ぎる日々と共に馴染んで濃く変色してゆくその色は、まさしくあの青年の赤みがかった黒目に似て、いつまでもイルカを見つめるのだった。
 その傷を自宅でぼんやり眺めるイルカは教師になっていた。なぜ、自分が教師になったのか、真実を探ればよく分からなくなる事がある。自分を導いてくれた三代目のように、子供達の柔らかい心を伸ばす者になりたかったのは事実だ。教職の募集を耳にして、即座に志願したのはきっといつもそれを思っていたからだ。が、本当にその時に教師になる必要や欲求があったかといえば怪しい。上忍試験を受けようと中忍仲間を集めて鍛錬していた最中だったし、外勤は性に合っていたように思う。なのにイルカは募集を聞いた瞬間に決めていた。躊躇は無く、誰の引きとめも聞かなかった。
「せんせい」
 あの声、彼が発した中でも一番ぼやけているはずの音が、イルカの中で最も鮮明な青年の記憶だった。正確に言えば、あの呼びかけが自分に対するものではなかった事が笑いたくなる程悔しかった気持ち、それがイルカの中に埋もれ火のように残っている。嘱望されていたとまではいかなかったがそれなりだったキャリアを捨てさせ、自分の背をアカデミーに押し込んだものはこの埋もれ火ではなかったか。イルカはふとした時間にそう考える。膝の傷が、そう囁く。
 あれきり彼の消息は知れない。生きているのか死んでしまったのかもう忍を辞めたのか。最悪身の不幸を嘆いて里を抜けたかもしれぬ。考えても何の答えも見つからない事柄など、イルカは嫌いだ。それを何度も何度も考える。薬に侵されたあの時間の苦しさに似た焦燥を心の底に置いて、イルカは『先生』と呼ばれて四年を過ごした。それは、名前も知らず一晩苦しめた青年に恋をしたという、馬鹿馬鹿しい事実に気付くに充分な時間でもあった。





 受付に座ると僅かに気分が高揚するようで、イルカはひっそりと苦笑した。今日は初めての依頼任務を済ませた七班が報告に来る。顔からはみだすようなナルトの笑顔を思うと頬が更に緩み、ううん、と咳払いをしてからイルカは書類に戻った。
 ナルトら七班の上忍師に会うのもイルカの密かな楽しみであった。顔合わせの初日から遅刻してくる男が不安で火影に訴えた結果、彼が相当に大仰な人物であるのだと教えられてイルカは複雑な気持ちを抱いたものだ。しかしそれはナルトの教師としてであって、一人の忍としてのイルカは、はたけカカシという最上の忍と接点が出来た事に心を浮き立たせていた。昇格に未練があるせいかもしれない。教職がぬるま湯だとは決して思わない。しかし心一つで例え暗部であってもぬるくなる。だからイルカは優れた者から受ける刺激を求めていた。
「お願いします」
 すいっと差し出された書面を受け取り、イルカは気を引き締めつつ顔を上げた。見知らぬ男だった。
「お疲れ様です」
 イルカは報告書に目を落とし、そこに記された名にびっくりして再び頭を起こした。
「は、はたけカカシ上忍、でしたか……!」
 ハイ、と額当てを斜めに付けた男は眠そうに言った。慌ててイルカは周りを探したが、子供達の姿は無かった。それにつられるようにカカシも首を巡らせた。
「……何か?」
「あ、そ、いや、お、お疲れ様です」
 少しがっかりした声になった。それでイルカの内心を察知したのか、カカシは笑う気配で言う。
「皆疲れてしまったんでね、現地解散しましたよ」
「そうなんですか……」
 見れば任務内容は失せ物探しで、しかも大至急という事だった。三つの大蔵の中身を全て出して目的物を探し出し、更には掃除と収め直しとくれば、確かに疲れただろう。
「初任務は力が入るものですからね。ま、がんばってましたよ」
「そうか……良かった」
 思わず本音が漏れ、イルカは照れて俯いた。鼻を掻きながら書類を点検して印を押す。
「確かに受理致しました」
「ハイハイ。で、あなたイルカ先生、だよね?」
 雰囲気が変わったように感じてイルカは首を傾げてカカシを見上げた。
「ナルトの担任だったイルカ先生」
「はい」
 カカシはじっとイルカを見下ろしていた。何か待っている風情だった。イルカははっとして椅子から立ち上がると頭を下げた。
「あ、俺、いや、私がナルトを卒業させました。調子良いばっかりで頼りない奴ですが、今後よろしくご指導の程お願い致します!」
「そう」
 短すぎる返事に不安を感じて頭を上げると、カカシは相変わらず眠そうにイルカを見つめていた。まだ、待っている様子に見えた。
「……えと」
「俺の事は、カカシって呼んで」
 言い、カカシはくるりと背を向けた。取り残されたような気持ちになって、イルカは立ったままでその背中を見つめていたが、カカシは一度も振り返らずに出て行った。


 次の機会にも、似たような状況が繰り返された。カカシは報告を終えると何かを待つようにしばらくイルカを見下ろしていた。ただしその時は子供達がいたのでイルカはそれを目の端に捉えてはいたものの、反応せずに済んだ。受付の机をひっくり返しかねない勢いのナルトは騒がしく、イルカは教室でのやり取りをすっかり再現して雷を落とし、そして最後に三人全員の頭を撫でて帰らせた。
 そして今日もまた、カカシはイルカを見下ろしている。もう何度目だかイルカは覚えていない。受付が済み、用の無いはずのカカシがその場にじっと居残っている。
「……」
「……」
 なんとも気詰まりで、イルカは天井を見上げて話題を探した。カカシは明らかに何かを待っている。イルカがぽつぽつと零す言葉に適当な答えを返しながら、望むものを待っている。それを探す事がイルカの使命らしい。
「きょ、今日は随分暑いですよね……。そ、そういえば、は、カ、カカシさんは汗かきませんね」
 なんとも情けないスモールトークだ。うう、とイルカは更に言葉を探して上向こうとし、しかしカカシはそれに妙な反応を見せた。少し目を開き、続いてふっと視線を外したのだ。
「……今はチャクラあるから」
「は?」
「よっぽどじゃないと使い尽くさないよ」
「そ、そうでしょうね、潜在量とか俺と段違いでしょうし」
「や、俺の弱点だーよ。あなたと同じくらいじゃないかな」
「へー、すごいな……」
 イルカは素直に感心した。写輪眼はチャクラをやたら食うものだと聞く。それを使いこなしているカカシのチャクラがそれくらいだとすれば、相当なコントロール力を持つという事だ。
「随分と努力されたんでしょうねえ」
 そのイルカの言葉が更にカカシを変化させた。彼は足を踏み変え俯き加減に、そうでもないよ、と言った。照れているらしい。それにはイルカも参り、お互い視線をうろつかせて黙ってしまう。
「……0、プラス」
 は、とイルカが鼻を掻きながらまぬけな声を出すと、でしょ、とカカシが言った。
「ええと……」
「血液型」
「は、そうですが……?」
 そこでカカシはまた『待ち』に入った。なんだろうとイルカは首を傾げる。そして受付の扉が開いて任務を終えたイルカの知り合いが顔を見せ、おう、と手を上げるとカカシは背を向けた。
「あ……お疲れ様でした!」
 慌てて声を掛けたが、やはりカカシは振り向かなかった。

 その日は早上がりで仕事を終え、イルカは家路を辿っていた。
 受付の後の授業の間もイルカはずっとカカシの事を考えていた。昼間のカカシの態度についてだ。何と解釈すべきだろうかと、気に掛かって仕方が無かった。
 元々楽天家であるイルカなので、カカシの『待ち』には困惑していたが負担に思っている訳ではない。カカシとの会話には確かに努力を要するのだが、くだらない天気の話からでも今日のようなチャクラの問題など、思ってもいなかった益ある内容になる事がある。そういえば、数日前に技の話になった時にもカカシは少し乗り気を見せた。彼のオリジナルの『千鳥』についてである。本当に雷を切ったのかというイルカの問いに、彼は少し笑い、そんな訳ないでしょと言った。しかし彼の口調の微妙な響きに、事実なのだ、とイルカは感じた。本物の雷とは限らないが、少なくとも雷様の何かを確かにカカシは『切り』、そこには仔細を説明出来ない事情がある。それでも本当だと言う事は出来るが、カカシはそうは言わなかった。そんなあり様にカカシのスタンスを感じたイルカは彼に合わせ、そうですよねえと笑って見せた。するとカカシは、頭を掻きながら帰ってしまった。彼は彼で、イルカが信じた事に気がついたのだろう。

「いい人だよな」
 ふっと口から出てしまう。カカシはいい人間だ。少々胡乱な面はあるが、子供を任せるに足る人物だ。彼ならばナルトやサスケを上手く教育してくれると信じられる。そうだな、サスケは同じく写輪眼持ちだしな、チャクラのコントロールは最も大事だろう、カカシだからこそきっと。
 そこまで思い、何かが過ぎってイルカは足を止めた。しかしそれは引っかからずに飛んでいってしまった。うーん、と探りながら残りを歩き、家に入って着替え、茶でも入れるかと台所に入ったところで玄関に人の気配を感じた。
 平日の夕方に訪ねて来る者など限られている。ナルトかな、と窺ったがそんな気配ではない。とても抑制された大人のものだ。人物特定が出来ないくらい穏やかな波であったので忍であるとも知れた。緊急連絡の類かと、イルカは慌ててドアに走った。
「こんばんは」
 カカシだった。裸足で玄関のコンクリートを踏んできょとんとイルカは突っ立った。
「……こんばんは……?」
「上がらせて」
 カカシはイルカの体を押して上がり縁に足を掛ける。
「あの?」
「いいからいいから」
 自分の家であるのにカカシに手招きされ、イルカは居間に入った。
「で、イルカ先生」
「は」
 びっくりした。カカシはいきなり『待ち』の体勢になった。なぜここまで来て『待ち』なのか。
「えと……ご用件……は……」
「あなたに会いに来ました」
 カカシは当然のようにそう言い、イルカは自宅の天井をゆっくり見上げる事になった。
「や……ですから……なぜ、会いに……」
 カカシは無表情だった。覆面で隠された部分に何らかの色が浮かんではいるのだろうが、イルカにはいつもの眠そうな顔にしか見えず、推し量れるものは何も無かった。
「にぶいね」
 その言葉にはさすがとむっとして、イルカは少々きつい目をカカシに向けた。
「いきなり来た上にだんまりでは誰だって訳が分からんでしょう」
「ま、そうだね。普通は」
 俺は至って普通の人間ですよ、とイルカはぶつぶつ言い、カカシはやはり待っている。
「にぶいね……」
 喉で笑う音を発してカカシは窓にもたれた。
「相変わらず」
 相変わらず? とイルカは彼の言葉を反芻した。自分とカカシは、相変わらずという表現が使えるほど長く知り合っていないし、付き合いが途絶えた事もない。つい一ケ月ほどの関係に、相変わらずも何も無いだろう。いや、ということは逆に、彼と自分は過去に会っているのか? それを思い出せと言っているのか。
 イルカが高速で思考する間にカカシはゆらりと窓から離れた。妙な緊張を感じてイルカはにじり下がる。そしてカカシの姿はふっと歪んだかと思うとほぼ密着する位置に現れ、おかしな汗をかくイルカの耳元で囁きが聞こえた。
「相変わらずにぶいねえ、せんせい?」
 体に電流が走ったように感じてイルカは固まった。
「なんで忘れちゃうかな」
 せんせい、その響きにイルカは戦慄した。繰り返し思い起こした声だった。
「見る? 写輪眼」
 カカシは硬直するイルカに構わず額当てを外した。
「あの時は変な色だったでしょ。チャクラが無いと色が褪せて模様も消えるんだよ」
 囁く息が触れる。正面からきらめく赤い目に見つめられてイルカは恐怖した。
「あの後ね、あんたがOプラスって分かった。こっちは望んでなくても残った体液とか勝手に調べられちゃったんだけどね。で、登録プロフィールからOプラスを抽出して、性別、大体の年齢、それから髪と目の色で絞ったら簡単にあんたが見つかったよ」
 火影から得た『上忍師はたけカカシ』の情報が、ファイルのページを繰るようにイルカの脳裏に映し出された。あの時カカシは上忍だったはずだ。しかも、どんな理由からなのか着ていた物は一般の任務服だったが、立場は間違いなく暗部であった時代。
「あなた、だったのか……」
「思い出した?」
 カカシの両手がゆっくりと回ってイルカを抱いた。力をこめれば背骨を折る事も出来る位置だった。殺られる、そう確信してイルカは目を閉じた。
「何、落ち着いてんの」
 不満そうにカカシは言い、イルカは迷った末に言った。
「て、抵抗しましょうか?」
 本気で言った。そうした方が殺りやすいのならしてやるつもりだった。
「馬鹿じゃない?」
「……たぶん」
 分かってんならいいか、とカカシはのんきに言った。少し力が強くなり、イルカは溜息を吐いた。
「で、なんで?」
「は……?」
「だからー、今あんた、殺されても良いって雰囲気なの、なんで?」
 イルカは黙ってその問いをやり過ごそうとする。
「あのお馬鹿ちゃんが上忍だったって分かったから?」
「……」
「弱ってる上忍の暗部を犯っちゃって、階級意識とか自責の念とか感じてる訳?」
「……」
「じゃ、何」
 カカシはじっとイルカを抱いている。腕も指も冷たかった。夏に向かう季節だというのにカカシはしんしんと冷え、あの日の雨に濡れているようだった。
「あなたが俺を殺したいなら、それでいい」
「答えになってないよ」
「俺は忘れなかった。でも、あなたは忘れたいでしょう? 忘れるために俺を殺すっていうのは、道理に適っているような気がする」
「どこが、」
「抱き締めてもいいですか」
 いらっとした気配がカカシから立ち昇った。しかし拒否の言葉は無かったのでイルカはそっと腕を上げてカカシの背に回した。あの時よりもしっかりした体躯になっているようだった。首筋に鼻先を持っていくと、わずかに覚えのある匂いがした。イルカは場違いな幸福を感じてしっかりカカシを抱いた。
「俺はあなたが……好きなんです……」
 言葉が漏れた瞬間、ざっとイルカの肌が泡立った。密着するカカシから最大級の殺気が噴出してイルカの息を止める。
「馬鹿が」
 自分の骨の軋む音に目を剥きイルカの喉が上がった。力の加わった腕は容赦なく締まり舌が自然に突き出して息が止まる。
「ぐ、う……」
「随分だな、あんた」
 カカシは奥歯を噛み締めたくぐもる声を聞かせる。
「あんたは自分を救いたいだけだ。忘れたいのはあんただろう、後付けで俺に惚れたつもりになるくらいに」
「ち、が、」
 額当てを外した時のようにカカシは軽くイルカを放った。盛大に咳き込み、しかし背の痛みに体を丸める事も出来ずイルカはごろごろと畳を転がった。そしてカカシの足が無感動にイルカの視界を横切り、消えた。



 それからしばらく、イルカがカカシの姿を見かける事は無かった。志願した上忍任務で里外から出ているとナルトから聞かされたのはあの夜から二週間が経った頃で、逃げられた、と思う反面ほっとしたのも事実であった。イルカ自身、何気ないシフト調整によって受付から離れる時間を増やしていた。

 雨がちの季節に入り数日、ようやくからりとした昼にイルカは演習場に立っていた。卒業に近い子供達への実技訓練を午後の授業で行うためだ。失せ物探しを基本とした退屈になりがちな授業であるから、派手な幻術を発動する式を埋め、危険度は少ないが大掛かりなトラップを仕掛ける。それら準備を終えて子供の目線に屈み隠し過ぎてはいないかと見渡していると、聞き覚えのある声が幾重にも重なって流れてきた。顔を向ければ七班の三人とひょろ長い影が一つ、草の深い区画に見え隠れしていた。
 任務終了後らしく、子供達はやや疲れた足取りだった。そのまま解散の風で、カカシはその場に残って子供達にひらひら手を振った。子供達は挨拶もそこそこに居住区に戻って行く。カカシは背を向けようとし、振り返り、そして子供達を呼び止めた。そしてゆっくりと歩いて行くとベストの前ポケットから何かを取り出し、子供達の手を出させてそれぞれの手のひらに落とした。それを見てサクラが微笑みナルトが紙を剥いてすぐに口に入れたので、飴だろうとイルカは思う。サスケだけはつまらなそうにすぐに去ってしまったが、彼が尻ポケットにそれを仕舞いこむのがイルカに見えた。ナルトから、サスケが大事なものをそこに仕舞うのだと聞いた事を思い出す。全く現金なもので、サクラとナルトは今度はちゃんと元気良く手を振ってからサスケを追いかけて行った。
 子供達を見送るカカシを草の間から覗き見つつ、イルカはしばし思案した。このままやり過ごす方が気は楽だ。カカシに暴力と共にああいう決め付けをされて以来、イルカはふつふつと不満とも怒りともつかない心根を持て余している。もちろんきっかけとなったあの岩の切れ目の出来事に関しては、自分の非によるものだと重々理解しておりカカシからの責めは受けて当然と思う。が、イルカがこの数年間思ってきた気持ちの否定は堪らなく不快で反論したいものだった。
 しかし同時に、カカシの気持ちを優先したいとも思っていた。カカシの心を乱すような真似はしたくない。自分の不快の解消やいい訳よりも、カカシの平安を尊重したかった。そういう錯綜した嗜好に絡まってイルカは目を閉じていたが、結局立ち上がった。まだ、カカシに謝っていない事を思い出したのだ。

 カカシは未だ子供達と別れた場所に立ったまま横顔を見せていた。気付いて当然の距離だがこちらを見ようともしない。無視を決め込むつもりかとイルカは覚悟し歩き寄って行った。が、カカシは本当に気付かぬようだった。
 ざわざわと草が揺れ、カカシの髪も透明な炎のようになぶられている。土から湿気が抜けて行く演習場の空気はまろく、イルカは息苦しさを覚えて胸に手を当てた。心をすっかり奪われてしまった者特有の微動だにしない体と眠りかけの猫のような目で、カカシは子供達が見えなくなった彼方を見ている。イルカの気配も届かぬ深さで何もない地平を見つめている。
「カカシさん」
 数拍も置いてからカカシは大きく体を揺らして驚いた目でイルカを見やった。それにイルカは感動した。それ程に深く、しかし本人達に知られぬような分かりにくいカカシの愛情に。
「なんでしょう」
 目を逸らし、カカシは無愛想に言った。逃げたいならそうすれば良いと思ってイルカは発見された場所に止まって待ったが、カカシは足踏みをするようにその場でゆらゆら体を動かし、長く息を吐くような仕草をした後イルカの方に向かって来た。
 生い茂る雑草の中、見事に何の音も聞こえない。映像のクローズアップのように現実感無くカカシは近付いてくる。言うべき事どもを全て忘れ、イルカはカカシを見つめた。陽光振る初夏と草の匂いが濃厚に纏わり付いたしなやかな体は、その動作の全てが奇跡のように完璧だった。僅かな幻術の助けを借りれば今すぐ蝶にでも蛇にでも成れる柔らかな動線、それでいて獲物を狙って張り詰めた猛禽の視線を併せ持ち、その筋肉は脳と一体化したかのように持ち主が望む理想の動きを実現している。青いまでの銀髪は日差しに溶け、黒一色と思われた右目は子供のようにくっきりと青く縁取られて白目は光る程鮮烈に白かった。
 このような存在をイルカはこれまでに見た事が無かった。
「あなたが好きです」
 あらゆる災厄が降りかかろうともこれを逃すなど出来ない、出来はしない、熟慮も決意も無くイルカは言った。
「好きです。信じて下さい」
 真上からまともに日差しを受けて草原は暑く、陽炎が銀髪をより危うく歪め、カカシの顔もまた歪んだ。
「カカシさん、俺は、」
「騙したよ」
「え」
「あんたに非は無い」
 カカシは強く発声してイルカを留めた。そして、その場に自ら座って隣に来いと目線で促す。躊躇しながら、イルカはそろそろと足を運んで人一人分の距離を開けて座った。カカシにはすぐに話し始めるような気配は無く、イルカは沈黙に耐えて草ばかりの視界を眺める。
「……あんな事を言いに行ったんじゃない」
 土は僅かにひんやりとし、心地よい風が通る。草のざわめきに紛れるような言葉を始めイルカは聞き逃した。
「あれは俺が仕掛けた事で、あんたに非は無かったと言いに行ったんだ」
 イルカが目を大きく開いてカカシを見つめると、彼はまともに視線を返してきた。そして額当てを外して口布を引き降ろし、ふうっと大きく息を吐く。葉陰がゆらゆらとその面を漂い、水中のような不確かさにイルカは眩暈を感じた。そしてあの岩間で抗えなかった彼の唇から漏れる呼吸に、再び強く惹かれた。カカシの息が泡のように立ち上って自分の肌を舐めながら上空に消えていく夢想が見えるようで、カカシがふっと横を向いただけで消えてしまうようにも思えたイルカは僅かに体を乗り出した。カカシはそれに敏感に反応したが、耐えるように体を強張らせた。
「始めは空気を回していたんだ」
 何を言い出したものかとイルカは戸惑った。しかし語るカカシの唇は赤く、内容が理解出来なくとも動くそれにただ見とれていたいとも思った。
「あんた、上手く対流して暖かいって言ってたな……。でも、あれは違う。あんたに呼気を吸わせたくなくて俺が空気を回してたんだ。それくらいのチャクラはあった。あんた、火を焚いたろ、俺の息が火の中を通って失効するようにしてたんだ、最初の内は」
 言葉を止めて、カカシはまた深呼吸した。
「俺はさ、あの頃写輪眼を恨んでたよ」
 口布をいじりながらカカシは言い、ちらちらと見える喉の白さがイルカの目を焼く。
「写輪眼自体は大事なものだ。でもコントロールが恐ろしく困難で使えば一気にチャクラが減る。子供の頃から俺の一番の課題は決して大きくは無いチャクラを如何に上手く使うかで、やっとそれなりに折り合いがついたと思ったら今度は写輪眼の発動だ。すっからかんになればぶっ倒れるしかない。『写輪眼のカカシもこうなったらただの荷物だ』、そう思われながら隊に抱えられるのが嫌で、でも大概そうなってしまって俺はいつも不機嫌だった。克服したはずのコンプレックスをいつも突きつけられながら無理を続けていたために、経絡が乱れて単なる情緒不安定だったのかもしれない。でも写輪眼を使わねばならない任務は多く、俺は必要以上に過激になったり逆に何もしなかったり、自分でも言動を抑制出来ない状態になる事が増えた。そうなれば、俺を嫌う者達が出てくるのはごく自然の事だ」
 立てた膝に片手を乗せ、カカシは気軽な調子で続けた。
「十八くらいだったかな、いつも通りに写輪眼にチャクラを食われて俺は地面にぶっ倒れて悪態を吐いていた。普段なら嫌そうに俺を運ぶ奴らが妙に機嫌良かったのを覚えてるな。仕事は大半が終わっていて、後は中継地点を間違いなく通って里に帰るだけで、夜営にテントを張る余裕があった。その中で輪姦された」
 カカシは目を閉じていた。草になってしまったかのように静かで、イルカは思わず手を伸ばしてカカシに触れた。反射的に避けるそぶりを見せたが、カカシは払う事無くイルカの指が肩に触れるのを許した。
「最悪だったな。ヤラれる事自体がどうでも良いくらい気分が悪かった。男女の房中と違って気力を食うばかりだろ、無いものが減っていくって感覚を初めて味わったよ。それが里に帰るまで毎晩だった。あいつらは交代しながら俺をほとんど眠らせなかったから、最後には錯乱して自分から進んで足を開いた。……いや、よく覚えてないな。病院で目が覚めたら医者も看護婦も妙な雰囲気だった。どうやら俺は酷い淫売だと思われてたようだ。あいつらがそういう報告をしたんだろうし、たぶん俺の状態からも『裏付け』が取れたんだろう」
 イルカの指がそっと離れ、カカシはそちらに目を向けた。イルカは何も言わず、カカシの唇を見ている。
「それから俺は、前にも増してチャクラコントロールに血道を上げるようになった。僅かな無駄も気にして普段から左目を瞑って過ごすようになったし、それでも心配で額当てで隠した。壮健生薬も常飲したしツボにも凝った。愚かに聞こえるだろうけどそれくらい必死だった。でも、基本的に一夜漬けでどうなる問題じゃない。あいつらは写輪眼任務の補佐を任される程度には実力があるから、それから何度も同じ事が起こった。……チャクラが極限まで減っても多少は暴れるからね、あいつら、俺が錯乱するのを待てなくなって、その内に催淫剤を使って最初からいいように扱うようになった。あんたに会った時もそうやって遊ばれた後だったよ。もちろんその頃にはさすがにコントロールが上達してそうそうぶっ倒れる事は無くなっていたんだ。無事に任務が進んで途中で別行動になってね、一人ならって安心してチャクラを使ったのが間違いだった。ちょっと面倒な相手だったから『千鳥』を使ったんだ。あれはぶっ倒れるまで使えば自分に返る事がある。あの火傷はそのせいだ。で、里に帰れる分だけ回復しようと隠れて寝てたら、あいつらが戻って来たよ。そんなに俺が憎かったのかね、別行動なんてする必要なかったんだ。あいつらサボって俺が良い具合に倒れるのを待ってたって訳だ。その後はご想像にお任せする。とにかく好きなようにした後、あいつらは俺を放って帰還した。死んでも良いって事だったんだろうね」
 重く落ちた沈黙にカカシは薄く笑った。
「あの時、あんた、俺を褒めたよね」
 え、と久しぶりに発声したイルカの声は裏返った。
「よくがんばったなって」
「そう、だったかな……」
「言ったよ。腹が立ったからよく覚えてる。その時俺には嘘っぽくしか聞こえなかったし、惨めにもなった。今考えるとなんでだか分からないけどね……。それで空気を回すの、止めた。あんたもあいつらとおんなじなんだって。それもねえ、俺が感じただけで、あんたには何にも関係ない事なんだけどねえ、俺はそうしたかった。あんたが人肌だの言って側に来てからは逆に、あんたが俺の息を残さず吸うようにしてやった。だからあんたに非はないよ。俺がそうしたかっただけ。あんたは俺を忘れなよ」
 唐突に話を終え、カカシは尻を叩きながら立ち上がった。じゃあね、とカカシは言って手を振った。
「嘘だ」
「何が」
 イルカの厳しい声にカカシは首を捻って振り返った。同じく立ち上がり、イルカは真っ直ぐにカカシの両目を見つめた。
「あの時、あなたは俺に本気で怯えていた。側に来るなと噛み付きそうになっていた」
「記憶違いでしょ」
「違わない」
「俺は、」
「じゃあなんで、俺に思い出して欲しかったんですか、俺の家まで来るくらいに」
「……逆恨みってやつだよ。それについては反省した、俺が悪かった」
「そんなんじゃないでしょう」
「知らないよ」
 じゃあね、と呟き、カカシの膝が曲がった。それに跳躍の予感を見て、イルカは考える間もなく叫んだ。
「あなたは俺を先生と呼んだ!」
 言ってから、何ほどの意味を持つかと苦笑に眉を歪めかけたイルカの前、果たしてカカシはぴたりと動きを止めた。思わぬ効果にイルカは口は開いたままカカシを見つめた。
「嘘でしょ」
 カカシは目の前の空気を見つめるような顔をして、微かな唇の動きで呟いた。
「嘘だ」
 苦しげな言葉に同意したくなり、しかしイルカは腹から声を出した。
「本当です」
 ぱっと顔を向けたカカシは途方に暮れたように眉を歪ませ、それもまた美しいと思いながらイルカは彼を見返した。
「意識は確かでは無かったでしょうが……。あなたは俺を抱き締めて、先生、と言いました」
「嘘だ!」
 力一杯の叫びにイルカは思わず顔を背け、その隙にカカシはだっと駆け出した。あの奇跡のような音の無い美しい動作を連続させカカシは草を分けていく。
「カカシさん!」
 追いつけるはずは無かった。しかしこのまま行かせてはならないと信じてイルカは俊敏な背中を追う。
「カカシ、さん!」
 彼は怒っている、そう思いながら走った。しかし、広がるばかりに思えた距離は容易く縮まり、彼を突き動かしているのは怒りではないとイルカは知った。変わらずに無駄の無い動きのままカカシは足を痙攣させて傾き、イルカは大きく跳躍してその腕を掴んだ。掴んだと同時に腕は乱暴に叩き解かれ、二人の周りに姫女苑の小さな花が飛び散った。
「先生はあんな事しない!」
 必死で足を踏ん張り、また駆け出そうとしながらカカシは叫んだ。その肩を掴み引き寄せ、イルカも叫び、カカシは彼の胸に額をぶつけてもがく。
「分かってますから!」
「しない、あんな事!」
「分かりましたから、」
「絶対にしない、絶対に、」
 しないんだ、とわめいてイルカの胸を叩く。さっきまでの完璧な映像も忍すらも無く、ただ暴れるカカシは地団駄を踏む子供だった。あの岩間で見た時と変わらずに、拗ねて威嚇し諦めて泣く、年にそぐわない子供を身内に抱えていた。
「離せよ!」
 自分を振り解けもせず、胸をばちばちと叩くカカシが哀れで、イルカは望まれたように腕を開いてやった。いきなり自由を得たカカシは、面白い程予想通りによろめいてたたらを踏んだ。カカシの舌打ちとともに、かさ、と乾いた音がした。
「あ、」
 イルカの神経がぴりりと張り詰め、途端、二人の足元に光の円が滲み出る。そして滝が逆流するように透き通った鳥の形をした光が草叢から立ち昇った。大小様々の無数の鳥は、湧き出てはまた地面に戻りと、二人の頭上でアーチを作る。生徒達のためにイルカが作り、潜ませていた式をカカシが踏んで発動させたのだ。
「あーあ、今日の目玉だったのになあ」
 正直にイルカは呟き、苦笑して鳥のアーチを見上げた。幾重にも重なり虹色を輪郭に乗せた鳥は、薄氷が割れるような高く澄んだ羽音で羽ばたいている。イルカの予想を上回る良い出来だった。
「会心だ。こりゃあ、見せてやりたかったなぁ」
 残念そうなイルカの側で、カカシは呆けたようにアーチを見上げている。
「……これ……知ってる」
 僅かに震えた声にイルカは振り返った。
「下忍認定の……サバイバルで」
 ふうっと大きく溜息を吐き、透明な鳥にカカシは手を伸ばした。カカシの指先を掠める鳥はきらきらと音を聞かせて回る。
「初めて見た、先生の式だ。綺麗でびっくりしたな……」
 久しぶりに思い出した、とカカシは呟いた。そして足元の小さな折り紙を拾った。
「……俺も、もうちょっとキレイなもん、見せてやりゃよかったかな」
 手のひらの歪んだ鶴に目を細め、カカシはイルカには分からない事を言う。
「子供は確実に喜びますからね、この手の式を」
 イルカは控えめに声を出した。それに肯くような俯くような、緩く曖昧に頭を振るカカシは鶴を摘むと正しい形に戻す。そして瞬間的に彼が印を切ると、頭上でアーチを造っていた鳥達が二人に向かって雪崩落ち、さあっと渦を描いて鶴に吸い込まれた。
「使いきりの式のはずなのに。参るなあ」
 そう言いながらも楽しげに笑って手元を覗き込んだイルカからカカシは顔を背けて離れた。自分の中を見せた事を後悔するように、カカシの気配は急に硬質さを取り戻してしまった。鶴が舞い上がり二人の間を流れて元あった草の間にすうっと降りる。それを合図にカカシはイルカにきっぱり背を向けた。
「カカシさん」
「もう話す事はないよ」
「俺は、」
「あんたとは二度と、話したくない」
 イルカの視界にはまぶしい鳥達が焼き付けた光の輪が幾つも点滅し、カカシはそれを掻き分けて彼方へ去っていくのだった。生きてはいないもののようだと、伸ばそうとした手をイルカはぐっと握った。
「カカシさん」
 それでも未練で漏れた声、カカシは今度は何の前兆も見せずに姿を消した。残った風に彼の匂いを探そうとするのか、イルカの足が草をにじる。
「俺は、本当にあなたが」
 遠くから子供達のにぎやかしい声が流れてくる。その愛しい音を見失うほどに、イルカは美しい残像を脳裏に映して長くその場に立っていた。






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