「そんでさそんでさ、カカシ先生がどがーんとふっ飛ばしてすごかったんだってばよ!」
「あーそうか」
「カカシ先生、アヤシーだけあって強いよなー」
「そうだな」
「でもさでもさ俺ってば、ぜーったいカカシ先生をぎゃふんと言わせてやる! そんでさ、」
「ああ……」
「……聞いてねえだろ、イルカ先生!」
びしっと箸で差され、イルカははっと顔を上げた。同時に一楽のオヤジがお茶の入った湯のみを二人の前に出す。どーも、と受け取り、イルカはナルトに苦笑した。
「悪い悪い、ちっとぼんやりしちまった」
「『ちっと』じゃねーってば。イルカ先生、この頃ぼけっとし過ぎ!」
「んー。ちょっとあってな……」
む、とナルトがメンマを摘んだままイルカを見つめる。
「なんか悩んでんのか、イルカ先生? 話しなよ、俺がばっちり解決してやるってばよ!」
「いやー、ははは、大人の事情ってやつでな……」
「え、なになに、すっげー難しい極秘任務とか!?」
目をキラキラと光らせたナルトが声を潜めて体をくっつけてくる。そんなんじゃねーよ、と頬を小突いて押し返してイルカはまた笑う。
「ありがとな。でもこういうのは自分で解決しなきゃならないんだ。うん、そういうものがある」
ふーん、とナルトは唇を尖らせてから、ぱっと口を広げて笑った。
「じゃあ俺、応援する! それならいいだろ!」
がんばれイルカ先生、オトナのジジョーに負けるなよ! と拳を振り回すナルトの声はひどく大きく、鼻の傷跡を掻きながらイルカは眩しい髪に手を置いた。
あの日以来、イルカの脳裏には常にカカシの姿があった。それは首筋や指先や影法師であって、出来の悪い写真のように妙に断片的だ。イルカの中の罪悪感が無意識すら支配するのか、確かに眺めたはずのあの顔や肢体は浮かばない。それがもどかしく苦しい。そして、昼夜問わずそんな想起に囚われている自分が情けなかった。
朗らかなナルトの側にいると一層自分が哀れで仕方がない者のように思え、イルカは意味も無く苦笑するばかりだ。そんでさ、とナルトはラーメンの汁をすする。
「ちょっと前さ、一月くらい前かな、任務の後でカカシ先生の友達と会ったってばよ。上忍でさ」
「そーか」
「俺さ俺さ、がんばってるみたいだなって言われたってばよ! その後もよく会うんだ。甘味屋に連れてってくれたり、修行の相談に乗ってくれたりする。俺ってば、あんまオトナって親切じゃねーと思ってたけど、上忍は違うのかもなー」
ナルトは満面の笑みでそう報告する。ほう、とイルカも心からの笑顔になった。カカシの友人なら、色眼鏡無しでナルトに接する者とているだろう。
「良かったなあ、ナルト。優れた人達ってのは普段から違うからな、良く見ておけよ」
「うん! 俺も早く上忍になるんだ!」
そして火影になーる! と意気を上げる金髪にイルカはしみじみと見入り、この子の人生はやっと出発地点に立ったのだと実感する。これまで無視され疎まれた苦しみの上に立ち上がり、力を認められる事で『人』と成る、そんな忍としての人生が始まったのだ。この子はそうして生きていくしかなく、それをナルト自身が喜んでいるのが幸いだと心中で複雑な溜息を吐く。
「楽しみだなあ、火影になったらとりあえず俺の給料を上げてくれよ」
「おう! 毎日肉食えるようにしてやるってばよ!」
「そりゃすごい」
笑いながら二人は一楽を出た。星がきれいだとナルトが言い、見上げた空にまた、式を摘み上げるカカシの柔らかな手首が過ぎった。
それから幾日か後、イルカは七班の子供達が三人の大人の忍に囲まれて歩いているのを見かけた。子供達はそれぞれ手にアイスキャンディーを持っており、大人達も同じように冷菓を食べながらのんびりと歩いているように見える。切れ切れに聞こえる会話から、彼らの得意技の話をナルトがねだっているらしいと知れ、ああ、例のカカシの友人かとイルカは微笑んだ。
が、中の一人がサクラの肩に手を置いた時、妙な具合にイルカの心臓が跳ねた。その手はなにげなく、すうっと首筋を触って離れた。サクラは一瞬体を固くしたようだが、場の和やかさにその緊張はすぐに解けた。別の男がナルトの頭を撫で、やはり僅かに耳の後ろの柔らかい皮膚を触ったのも見えた。
そして、カカシだぜ、とサスケがやけにくっきりと言い、二人を引っ張って上忍達から離れた。いつの間にか木陰に佇んでいたカカシが一見柔和な笑みを上忍達に向けている。ナルトは明るく男達に手を振った。イルカはしばらくその場に立って彼らを見送っていた。七班も上忍達も見えなくなって歩き出そうとして、膝が震えて立ち止まる。
カカシは、子供達の背後を守るように両手を広げて歩き出しながら上忍達を振り返った。その目は、ターゲットに飛び掛ろうとする忍の目であった。
「あ、イルカ先生!」
高い声に呼び止められ、イルカはアカデミーの廊下で立ち止まった。駆け寄ってきたサクラの後ろにはサスケがいる。
「こんにちはー」
「元気そうだな、二人とも」
「……今、いいか?」
珍しくサクラに従って寄ってきたサスケがぼそりと言う。
「なんだ? 腹でも減ったか?」
内心の激しい動揺に抗ってイルカは間延びした声で答えて笑う。しかし、サクラが急に目を伏せて胸の前で両手を組み、サスケをちらりと振り返ったので、イルカは笑いをひっこめた。
「……どうした」
あの上忍達との事が気がかりだった。カカシが気付いているなら大丈夫だろうが、見てしまった以上、イルカが穏やかでいられるはずがない。近い内に探ってみようと思っていたところだったので丁度良い。イルカは二人を促して中庭に出、丸太を半分にしただけのベンチに座った。サクラとサスケの顔を交互に覗き込むが、二人とも戸惑い、どう話してよいものかと互いの目を探り合っている。イルカは辛抱強く待った。
「あのね……イルカ先生……」
とうとうサクラが言った。
「うん」
「あのね、大人って……」
「うん?」
「ええと……」
「大人は子供の体をどこまで触っていいんだ?」
サスケが言い、サクラがはあっと溜息を吐いた。イルカは一瞬で腹の底に炎が噴出すのを感じたが、敢えて分からない振りをした。
「そうだなあ。俺は教師だからな、生徒が怪我したら運ぶし、実技の指導で手足とか結構触るなー」
「そんなんじゃない」
「じゃあ、どんなんだ?」
再び沈黙になり、イルカは待った。サクラはもじもじと俯き、サスケはいや、だから、と言いよどむ。
「……誰とは聞くなよ、俺ら、最近知り合いになった大人がいるんだ、忍の」
「うん、それで?」
「その人らがよく俺らを触るんだ。始めからあんまり良くない感じがしたんだが、俺は家族がいないから慣れてないだけだと思っていた。でもサクラも変だと思っているらしい。親とかそういうのと違うって」
うん、とサクラが肯く。
「違うの。なんだか……べたっとした感じで……嫌」
上手く言えない、とサクラはもどかしそうにイルカを見つめる。
「とにかく、違うの」
「嫌、なんだな? 二人とも」
イルカが確認すると、二人はこっくりと肯いた。
「ナルトは? どう言ってる?」
「あいつは喜んでる。……仕方ないと思う、あいつは今までさんざん無視されてきたからな」
サクラが困ったようにサスケを見、イルカを見上げる。
「あの人達に、触らないでって言うのが怖いの。でもどうしたらいいか分からない。だからイルカ先生に相談しようって……。ナルトも心配だから」
誰にでも付いてっちゃうでしょ、とサクラは眉をぎゅっと寄せた。サスケも落ちつかない風情で爪先で土を蹴っている。イルカは思わず二人の肩をぽん、と叩き、ああ、ごめんと言った。二人は首を横に振る。
「ちっとも。イルカ先生の手は気分が良い感じがするわ」
そうか、とイルカは唇を噛む。
「分かった。そうだな、とにかくおまえ達が事を荒立てるのは避けた方がいいな」
「やっぱり、そうかな?」
サクラが心細そうに言う。
「相手は大人だ、子供は大人に抵抗出来ないと思っているような。そういう奴らは現実に抵抗されるとひどくキレる可能性がある」
「このまま我慢しろって事か」
サスケが憤慨し、イルカはきっぱり、違う、と言った。
「大人の始末は大人がつけるべきだって事。俺が彼らと話すよ。他言しないから、相手の名前を教えてくれないか」
二人はイルカと同じにきっぱりと躊躇無く、だめ、と声を揃えた。
「おいおい、なんでだよー」
驚きまた苦笑してイルカは肩を下げてがっかりして見せた。が、サクラは腕を組んで断言する。
「だって上忍だもの。イルカ先生が危ないわ!」
「ボコボコにされるな」
ひでーな、おい、とイルカは笑ったが、二人は真剣そのものの表情だ。
「だって元暗部だって言ってたもの!」
「カカシと写輪眼を使う任務でよく組んだらしいぜ」
瞬間、イルカの血が音を立てて爪先まで下がった。
その夜、イルカは再びカカシを見た。彼は、昨日見た上忍達と連れ立っていた。上忍達は無駄に朗らかで、カカシは彼らを先導して真っ直ぐにどこかへ向かうようだった。イルカには追う理由も権利も無く、決然とした背中をただ見つめた。
演習場は長雨の合間の陽光に光って美しかった。
昨日の実技指導ではまた例の折鶴を使った。雨が強まり雷が鳴り出したため、怖がる子供達と共に慌ててアカデミーに戻りその後は忙殺されたため、使い終わった仕掛けや式を回収出来なかった。そのまま放置しても良い程度の使いきりばかりだが、たまに良く出来る生徒がおかしなアレンジを施して遊び、怪我をする事があるので、それらの回収は教師の決め事となっている。
「罠は全部解れてる。後は……鶴か」
一羽、折鶴が見当たらない。風に飛ばされたか雨で流れたか、捜索範囲を広げようとイルカは腰を伸ばしてゆっくりと草の深い区画に足を向けたが、目を見開いて立ち止まった。
「……これは」
前方に結界があった。慎重に近付き、ぎりぎりの所でしゃがむ。なかなか見事な結界だった。それは、内部を隠す、という結界本来の目的に加えて『近付くな』という警告を発している。結界を破られない自信があってこそ出来る技だ。
イルカの目の前にある細い光の筋は強固な力で結ばれており、およそ二十畳ほどの空間が閉ざされていた。内部は完璧に遮断され、一見ごく自然な草原に見えるがそれはまやかしで音も漏れては来ない。しかし、結界の性質から人を守るものであると知れたため、中に誰かが居るのは確実だ。
「上忍の仕業だな」
呟き、イルカはその場に座り込んだ。もう授業も受付のシフトも終わっている。誰が何のために施した結界かを見届けるつもりだった。イルカでなくともそうしただろう。私闘を禁ずるため、また慰霊碑があるこの演習場のような一般人も出入りする場所では特に、不用意に結界を張る事は禁じられている。
すうっと息を整え、イルカは演習場の草いきれの中で完全に気配を消した。
――ああ、そんなに俺が憎いかね。
思ったのはそれだけだった。下忍任務の帰り、里の真ん中で三人の男を見かけた時にカカシはそう思った。一足先に帰ったはずのナルトが、彼らに頭を撫でられて笑っている。カカシ先生の友達なのか、上忍で元暗部ってば、すごいなあ。そんな言葉が聞こえる。男達はナルトに微笑み、そしてカカシに粘い視線を向けた。
それから、男達は子供達への接触を始めた。カカシが見ている事を知っていてナルトの耳に、サクラの首筋に、サスケに触れる。
もちろんすぐに、何が目的なんだ、子供達に触るなと殺気を見せた。しかし彼らは何を言うかと笑うばかりだった。いわくつきだがキツネもうちはも可愛いじゃないか、俺らも上忍師になるかな、後輩の育成に携わるのも上忍の勤めだな、そんな事を笑って言った。
しかし次第に子供達に不安が見え始める。いや、不安を見せるサスケやサクラはまだいい。人の悪意に慣れたナルトは善意に弱い。男達に囲まれて甘味屋に座っているナルトを見て眩暈がした。経絡を教わっているらしいが、男達は違う意図を持ってナルトの腕から首、胸や腹を指で辿る。ナルトはそれにくすぐったそうに応じながら真剣に学ぼうとしていた。カカシは叫び出したい気持ちを堪えて彼らに近寄り、そして終に彼らを飲みに誘った。
もちろん、行ったのは居酒屋ではなく繁華街の裏通りにあるうらぶれた旅館だった。テーブルセットが一つと風呂、そしてベッドがあるきりの、それだけのための貸し間でカカシは自分から服を脱いだ。男達はカカシに言った。おまえも好きだなと。そんなにしたかったのかよと。確かに彼らは一言もカカシに要求しなかった。ああそうだよしたかったんだよと、彼らの望む言葉を吐いてカカシは一人一人の性器をしゃぶった。そして自分で体をこじ開けて一晩中男達に揺さぶられた。そうして遊ばれ、済んだと、カカシは思った。
が、当然、それでは済まなかった。男達は度々カカシを待ち伏せ笑いかけた。やがて人目につくからと旅館から演習場へと場所を変えると数が増えた。暗部時代、フォーマンセルの実行部隊に補助隊として付けられていた特別上忍の者達が合流し、五人を相手にカカシは草の中で足を開く事になった。
雨上がりの土は湿り、その上に覆い被さる草は生き生きとしてカカシの肌を切る。気温が上がって湿気と絡まった草いきれが息苦しい程にカカシの肺を満たす。特別上忍の一人がうつ伏せるカカシの後口を指で開いて、相変わらずカカシさんの中は綺麗な色ですね、と言いながら圧し掛かる。全く昼間っから暇だなこいつらは、とカカシは頬を草に切られながら思う。体を支える役にも立たずに投げだした手足の上を風が通り、かさり、と小さい音がして、カカシは視線をそちらに向けた。
雨にしおれ、泥に汚れた紙切れが草の間に見えた。指を伸ばして触ると、ほんの一欠けらだけ知った気配が残っている。
――ああ、鶴。
ひしゃげた鶴からは僅かな、僅かなイルカの気配がした。背後からの揺さぶりが厳しくなって、カカシは目を閉じ唇をきつく噛んだ。男達はカカシに射精させようと夢中になっているようだ。快感どころか感覚も失っているカカシは指先に意識を凝らした。
――あたたかい。
折れた翼の先をそっと摘み、カカシは溜息を吐いた。好きなんです、とイルカの声が頭の中で反響する。
「うる、さい」
呟き、カカシは意識を手放した。構わず次の男が尻を持ち上げる。
ばらばらと、結界の中から男達の姿が見える。その幾つかが見覚えある者と知ってイルカはぐっと腹に力をこめた。動揺とは逆に一層気配を沈め、ほとんど仮死状態に持っていく。相手が上忍レベルであるからだったが同時に、そうしなければ今すぐ飛び出して殴りかかりそうだった。
三、四、五。数えて待ったが最後の一人が立ち上がらない。そこにいる事は間違いないが、ぴくりとも動かない。イルカは極緩やかに体内の活性を上げ始めた。呼吸と心拍を整え、ふうと息を吐いて立ち上がる。足元にあった結界はすっかり消えていた。
「……近付きますよ」
一応声をかけ、そろそろと歩を進める。長いはずの陽は落ちかかり、透明なオレンジが草原を枯野に見せていた。
「……」
草の間に小さく白いものが見えた。探していた式だ。そういえばこれが目的だったと屈むと、その先の草の間から見え隠れするもう一つの白いものがあった。色彩を奪う日暮れの光の中で死体のように、整った指先が力無く落ちていた。
「カカシ、さん」
結界の主達の姿を見た時に予想と覚悟はしていた。
「カカシさん、しっかり」
そっと指を触る。動かない。草を退ける。腕が、肩が、そして頬が、そして、じっとイルカを見つめる赤い目が現れた。逸らしもせずに見つめるその目に項垂れ、イルカはカカシの手を強く握った。
「カカシさん……」
「二度と話さないって言っといて悪いけど」
カカシは大儀そうに唇を動かす。噛み締められた裂傷から血を垂らしている。
「連れて帰って。あんたん家でいい」
大儀そうにカカシは言い、眉をひそめた。
「なんでアンタが泣くわけ」
「俺、俺は、」
「ああもういいから、後で聞くから。俺、水が飲みたいんだよね」
はい、とイルカは言いベストから防寒用の軽い布を引っ張り出した。カカシを包みながらイルカの息と手が何度も止まる。全身に散らばる草で切った傷、歯型や鬱血、そして何より尻から腿までを汚した少なくない血。
「ほら、手ぇ止めない。さっさと行こうよイルカ先生」
言葉なく肯き、イルカはカカシを抱き上げた。
カカシは存外にしっかりとしていた。体を洗おうと言うイルカの申し出を断って風呂場に行き、かなり時間をかけたが一人で済ませて戻って来た。
「傷の手当てをします」
救急箱を手に待ち構えていたイルカが言い切ると、カカシはうんざりと唇を曲げたが大人しく座った。さすがに挿入による傷には触らせなかったが、その他の傷には全てイルカが薬を塗った。ああ薬臭い、と文句を言いながらカカシがイルカの寝巻きに袖を通す頃にはすっかり夜となっていた。
「飯、食って下さい」
やはり断定的に膳を突き出され、絶対に退かぬという目の色を認めてカカシは溜息を一つ吐いた。
「全く……あんたは疲れる」
ぶつぶつと言いながらもカカシは箸を持つ。ゆっくりと椀を持ち上げ、カカシはまず味噌汁をすすった。彼が物を食む姿を初めて前にして、イルカは箸の使い方まで綺麗なものだと思う。思う自分に呆れて目を背けるが、背けた視線の先に落ちている爪先を、形を覚える程に見つめてしまう。やがて諦め、飯を食うだけの男をどうしようもなくイルカは凝視した。そしてじわじわと、この体を好きに開いた者どもが居るという、過ぎる不快が神経を立ち上ってきた。
「子供達のため、なんですよね……」
抑えに抑えた結果の呟き、カカシは知らぬ顔で漬物を食む。
「不器用過ぎる。他にやり方があるでしょうに」
「何、他って?」
味噌汁を飲み終えてカカシはぶっきらぼうに呟く。ぱっと顔を上げてイルカは言い募った。
「三代目に訴えましょう! これは私闘に準じる行いです」
「俺が好きでやってる事だ」
「まさか!?」
「少なくともあいつらはそう言うよ。そしてそれを覆すものを俺は持たない」
「そんな、」
「証言でも取る? 医者にでも? ダメだね。俺、錯乱して医者のズボンを引きずり落としてしゃぶろうとした事があるらしいから。見てた看護婦が言ってたよ、軽蔑した風にね。マワした奴らは口裏そろえるだろうし、今回のだって無駄だ。子供らは嫌がってはいたけど実害は無かったし、第一そんなもんが出る前に俺があいつらを連れ込み宿に誘ったんだから」
ごちそうさま、とカカシは綺麗に平らげた皿を載せた盆をイルカに突き出した。機械的にそれを受け取り、イルカは深く溜息を吐いた。
「カカシさん……」
「いいんだ」
それでカカシはしん、と黙り込む。所在無くその鋭利な横顔を見つめているのも気詰まりで、イルカは盆を台所に下げた。やりきれない失望を感じて流しに両手を突き、がくりと首を落とす。
――どうしたら。
蛇口からぽたりと垂れる水が疎ましく、ぎりぎりと栓を捻る。木の葉は確かに自里の忍を愛する里だ。カカシが言うように相応の証拠が無ければ軽軽しく忍を裁いて罰する事は無い。その、美しい故郷の決まり事を憎んだのはイルカにとって初めてだった。寒気を感じて深く息を吸う。あの男達が憎い。今すぐ殺してやりたい。
開け放してある扉、ベッドは台所からも良く見えた。大人しくベッドに寝そべっているカカシはつまらなさそうに窓の外を眺めているようだった。蛍光灯の下ではその体は死体には見えない。
「どうしたら……」
唇を噛むイルカの前、カカシは重さを感じさせない動作で起き上がって窓を開け放った。掛けてあった鍵を、開けた様子は目視出来なかった。ひらりと手首を返すだけでカカシは表の空気を部屋に入れる。そして、別のものも入れた。額当てをほっかむりした犬と、額に『忍』と刻んだ小型犬、それから包帯だらけの犬だった。三匹は先を争って主に乗り上げ折り重なり、中の一匹が薬臭いのう、と言うのが聞こえた。カカシは犬達を丁寧に撫でながら何かを言い含めるようだった。
「あなたの忍犬ですか」
茶を持って戻ったイルカは犬に埋もれているカカシに微笑み、六つの目が彼と主人を見比べる。
「そ。じゃ、おまえら頼んだぞ」
フウッと気合のような返事をして犬達はまた窓から出て行った。
「あ、牛乳やろうと思ったのに」
残念そうに言うイルカを見上げてカカシは苦笑する。
「犬、好き?」
「ええ、かなり」
そっか、とカカシは笑顔を見せた。気付かれぬようにイルカはそれに見とれる。
「あいつらをナルト達それぞれに付けてる。大概の事はなんとかなるよ」
「ああ……そうでしたか……」
彼の事、なんらかの手段は講じているとは思っていたが、自身を生贄にするだけでなく護衛も出していたのだと知りイルカは一段と肩を丸めた。
「何、がっかりしたみたいだけど」
「……俺、何も出来ないなって」
「しなくていいんだ、あんたは」
カカシはぴしりと言った。
「あの子達は俺に巻き込まれた被害者だ。俺が始末を付けない理由は無い」
「俺に、何か出来ませんか」
イルカは真摯に言った。カカシは多少呆れたような目で見上げる。
「あんたに何が出来るわけ?」
冷たい言葉にイルカは眉を下げた。何も、と言うしかなく、湯飲みを渡す。
「ああ、一つあるかな」
ふう、と湯気を吹いてカカシが言い、イルカは自分でも滑稽だと思える程の勢いで振り返った。
「なんですか!?」
「セックス」
は、と間抜けな声が出た。何度カカシに聞かせた事だろうかと思う。
「俺、フツーのセックスってした事ない。強姦か任務だけ」
笑うか怒るか、イルカは一瞬迷った。が、真剣なカカシに間抜け面をさらす。
「あんたなら出来るでしょ、フツーの」
「フツー……」
イルカはぼんやりしたまま湯のみを机に置いてベッドに座った。
「そ、フツーの」
「……カカシさん」
唇を曲げて見せるカカシにイルカは泣きたくなった。
「うん、しよう」
「いいえ、しません」
「なんで?」
「俺、言いましたよね、あなたが好きだと言いましたよね」
「……」
「あなたはそれが嘘だと、俺が自分を誤魔化すためなのだと言いました。しかし今こうやって誘うという事は、俺が本気であなたに惚れていると分かっているからですね?」
「……」
「あなたがそれを、俺の本気を認めているから、普通のセックスが出来ると思うんでしょう?」
「……さあ? そういうムツカシイの分からない」
「カカシさん」
イルカはベッドから降りた。跪いてカカシの手を取る。誘ったはずのカカシはびっくりして逃げようとし、イルカはその手をしっかり握った。
「例えば抱かなければあなたが死ぬというのなら、抱きます。でも今は出来ない。あなたはこんなにも傷ついている」
ぐっとカカシは言葉に詰まった。今までの短いながらも濃い経験で、イルカはカカシとの会話のコツを多少なりとも掴んでいる。正攻法であればあるほど『効く』のだ。
「体の事だけじゃない、あなたは今とても悲しんでいる。自分の身の上じゃなく、子供達を巻き込みそうになっている事態に、だ。あなたは本当にあの子達を愛しているから、だから、これほど自虐的な方法を選択するんでしょう、自分を罰するために」
一息、イルカは深く呼吸をし、そして言った。
「俺は似ていますか」
強くカカシを引き寄せ腕を握ってイルカは言った。カカシは両目を開いてイルカを見ていた。怯えた色がその中にある。
「あなたの先生に。あなたを愛して守った先生に、あなたがそうありたいと願う人に」
ずっと考えていた事がイルカの口からつるつると滑り出る。
「煩い、聞きたくない!」
今やカカシは必死でイルカの手を解こうとしている。上手くいかずにいらだち、ベッドをどんどん叩く。
「似ているんでしょう、あなたを褒めた人に。無条件に愛した人に。ただ大事に抱き締めてくれた人に」
「違う、先生は、違う、」
「ええ、違います、俺はあなたに惚れている。キスだってそれ以上の事だってしたい。それが出来ないのはあなたが俺を少しも好きではないからだ」
「煩い、うるさい……っ!」
「随分、なのはあなたの方だ。俺はあなたの先生じゃない。あなたは違うと言いながら、俺の中に『彼』を見ているんだ」
「離せ!」
「はっきり言いましょう、あれもそれが理由だ」
黙れ、とカカシは乱暴に腕を振る。演習場で足を痙攣させた時と同じく、振り解けずに苛立ちをベッドにぶつけるだけだ。
「俺が似た事を言ったから腹を立てたんだ、あなたは。あなたの先生はたった一人だから、俺なんかに言われたく無かったんだ。そうでしょう、だからあの岩間で俺を騙して仕返しをしたんだ。手負いの獣のように穴倉で膝を抱えてたあなたに、手を差し出していいのは俺じゃなかった、あなたの先生だけがあなたを助ける権利を持っている。だから似ていても、俺が『彼』ではない事をあなたは確認したかった」
そうでしょう、とイルカは言った。その自分の声は掠れていた。思った以上に自分の言葉に傷ついて指の力が抜ける。するっとカカシが逃げ、イルカはベッドに顔を埋めた。
「俺は、イルカ、です」
くぐもった声が聞こえたかどうか。
「俺を、見てはもらえませんか……」
カカシの気配は消えていた。開け放たれたままの窓が不満げに高く軋み、湿った風が部屋をかき混ぜて通り抜けて行った。
そして、中忍選抜試験の日程が発表される事になる。
ああ。
帰り道、イルカは嘆息を零し続けていた。めまぐるしい一日だった。受付で久しぶりにカカシと会えたところまでは良かった。イルカがナルト達の安否を気遣えば、カカシは不自然なほど愛想が良く、また丁寧に答えてくれた。多少嫌味を言われたような気はするが、あまり考えなければつつがなく終わるはずだった。これをきっかけに、少し話しが出来るかとさえイルカは思っていた。
が、その直後に火影や上忍達の前で派手にやりあったのだ。
「あなたとナルトは違う」
最悪の発言がずっと頭で回っている。もちろん、イルカは自分がナルト達の試験参加を止めるべく行動した事には一片の後悔もない。教師として正しい行いだと信じている。しかし、あれは、あれだけはイルカの私情が入った言葉だった。カカシがまた混同していると、それを暗に非難したのだ。
果たして、それに対するカカシの返しは苛烈だった。
「潰してみるのも面白い」
それに激昂する間もなく、カカシは冷徹に話を終えた。彼らはイルカの生徒ではない、自分の部下だと。そして今、道々分析する程に、どうやら自分はカカシに嫉妬されているらしいとイルカは思いついた。確かにナルトは未だイルカにべったり、誰に対しても不遜なサスケですら自分には微妙に丁寧だ。受付での『尊敬するアナタ』という発音に嫌味を感じたのは気のせいではないだろう。だからこそ、あの場でカカシは『自分の部下』だと強調せずにはいられなかったのではないか。
「潰す気なんてさらさら無いくせに……」
文字通り全身全霊で守っている事を永遠に悟らせないそぶりでカカシは子供達を送り出すのだろう。気付かない子供も嫉妬するカカシも、そうなるべく、といったところだ。
「俺に嫉妬する暇があるなら、自分を構えばいいのに」
――あんな対処療法じゃ、いつまでたっても終わりが無い。
ずしり、と心臓が傷む。
――ナルト達に、あの男達を避けるように言うべきかもしれない。
イルカは沈鬱に思考する。中忍選抜試験を控え里がごたつく今なら、さすがにあの男達もおかしな遊びは控えるだろう。この機に距離を取れば。
そう考え始めたイルカの前方に、容赦ない現実が立ちはだかっていた。
「イルカ先生!」
嬉しそうなのはナルトの声だ。男に髪を撫でられていたサクラがぱっと顔をイルカに向けた。残る二人の男はナルトを挟んで笑んでいる。
「……ナルト」
軋むような声をイルカは喉から搾り出す。
「やあ、あなたがイルカ先生か。ナルトから噂を聞いてるよ」
ナルトの肩に、頭に手を置いた男達がにこやかに言う。
「いい子だね、ナルトは」
「俺の家に招待したんだよ」
ぞ、とイルカは体を硬直させる。
「すっげー術の巻物、見せてくれるって! 俺ってばまた強くなっちまうってばよ!」
無邪気にナルトは笑顔を見せている。その後ろ、歯を食いしばったサスケがナルトのジャケットの裾を強く握って俯いている。茫然とした表情のサクラがイルカの名を呼ぶ。じゃあな、とナルトが手を上げ、なんだよサスケ、離せってば、とまた笑う。
どうしようもない。
「悪いな、ナルト。実はこの方達に急な任務が入ったんだ」
ええー! と不満一杯に唇を尖らすナルトにイルカは笑ってやった。そして三人の男に言う。
「そういう事なので、任務内容をご説明します。俺と一緒に来て下さい」
イルカ先生、とサスケが言った。サクラがそっと手に触れた。それに振り向かずにイルカはナルトを背後に押しやって男達の前に踏み出した。
「こちらです」
彼らは満足そうに笑っていた。
「残念だなあ」
「任務じゃ仕方ない」
「また今度な、ナルト」
機嫌の良い男達の声を背に連れて、イルカは子供達と逆の方向へと足を向けた。真っ直ぐに、演習場へと。
「残念だったってばよ!」
そんな大きな声が聞こえてアスマは振り返った。商店街の入り口で自分の『部下』達を待っているところだった。
「ぜってー、すっげえ巻物だぜ、惜しいなあ!」
ウスラトンカチ、といつもよりも沈んだ声が聞こえ、彼らの背後をとぼとぼと歩く少女は何度も後ろを気にしている。
「あっ、ひげ先生だ」
「適当に呼ぶなよ」
だって名前しらねーもん、とナルトがにやっと笑い、アスマも笑い返した。
「どうした、今日はおまえらだけか?」
七班の面々を見渡してアスマは言った。実際はカカシが今、『第二の試験会場』の下見に駆り出されているのだと知っている。
「カカシせんせー、なんか用事だってばよ。今日はじしゅーっての?」
頭の後ろで腕を組んでナルトがのんびり言う。この騒がしい子が何も言わないところを見ると、中忍選抜試験への参加をまだ知らされていないようだ。自分は早速これから言い渡すつもりだというのが真面目に過ぎるように思われアスマは苦笑した。
「私……やっぱりイルカ先生が心配……」
心ここにあらず、といった風情であったサクラがぽつりと言って二人に背を向けて歩き出そうとする。なんだ、と見守るアスマの下で、サスケが目をしかめて舌打ちをした。
「おまえが行ったって仕方が無いだろうが」
「でも……」
「なんでー? イルカ先生、任務の話するだけだろ、なんでサクラちゃんが気にすんの?」
「……ナルトの……」
「え、ナニ?」
「ナルトのばかー! イルカ先生がぼこぼこになっちゃったらアンタのせいだからね!」
ヒステリーを起こしたようにサクラが叫び、アスマはオオ、と身を引いた。
「な、なんでボコボコ?」
「いい加減気付け……」
サスケは今度は、驚いて仲間の顔を見回すナルトに舌打ちをした。
「おいおい、穏やかじゃねえな。どうしたよ」
タバコをもみ消し即座に新しいものに火を点けながらアスマは笑う。この年頃は大げさで賑やかなところがいい。多少面倒だが。
「んー? イルカ先生がカカシ先生の友達と仕事の話するってどっか行っただけだってばよ?」
カカシの友達? とアスマは髭を撫でた。そんなもん里にいたっけか、と首を捻る。
「……嘘だ、たぶん」
サスケはそう言い、くるりと背を返した。
「サスケくん!」
「俺が戻る」
短く言って跳ぼうとする襟首を捕まえる。面倒な予感にアスマは嫌々言った。
「……どんな奴らだ」
「離せよ、アンタにゃ関係ない」
「いいから言え」
少し凄むと逆に凄み返された。たいしたタマだと呆れ、彼をぶら下げたままサクラに向く。
「どんな奴らだったんだ?」
サスケとナルトの顔を見比べ僅かに逡巡してから、サクラはおずおずと口を開く。
「上忍の人達です……昔暗部で……カカシ先生とよく任務に行ったって……」
彼女の語る男達の人相に、アスマの表情はどんどん渋くなった。
「……くせえ」
え、と三人が聞き返した時には、アスマは姿を消していた。
「俺まで『御用命』に預かるとは思ってもいませんでした」
真正面から彼らを睨みつけてイルカは言った。三人ともがイルカより四、五歳年上に見え、じりじりと間合いを詰めてくる。夏草が勢いよく伸びつつある演習場は、この場面に似合わないすがすがしい香りに満ちていた。
「へえ、事情を知ってんだ」
一人がずいっと踏み出して伸ばした手からイルカは逃げる。三人の上忍から無事に逃げおおせられるとは髪一筋も思わないが、抵抗しない理由にはならない。
「じゃあ話は早いや。要するにカカシに飽きちゃったんだよね」
かっとイルカは目に力を入れる。
「ちょっと違うタイプも良いかなってさ」
「なかなか遊び甲斐がありそうだもんねえ」
「冗談じゃない、嫌です」
忍として最も充実した安定期の実力者を前にはっきりとイルカは拒絶した。
「意味ないんだよ、アンタの意思なんてさ」
当然相手は全く動じず、笑みを深くする。視線に加わった粘さが感覚として認識できるようだった。
「さあ、どうして遊ぶ?」
その言葉にイルカが殺気を飛ばそうとした時には、既に背後にぴったりと一人が張り付いていた。彼は見事な速さでイルカの手指を縄で固定し、印を組めないように折り曲げ留めた。
「適当に暴れていいぜ、イルカ先生」
それもまた面白かろうと言い笑いして、男達はイルカを地に叩き付けた。
夏草のざわめく音がうるさい。風ではなく、男達が踏み荒らす音が。
――なぜ。
下半身の服をむしり取っていく手が時折肌を引っ掻く。きつく目を閉じたイルカは、ぱりりとした夏草に顔を埋めて唇を噛んだ。
――なぜ。
自分でも不思議であった。イルカが今酷く憤り傷ついているのは自身の身に起こっている事ではなかった。
――こんな事を、なぜ、許していた。
荒っぽい動作で足が開かれ、嘲笑とも興奮とも取れる笑いが沸く。冷たい液体が垂らされ、指らしきものが体に入ってただ不快が増していく。
――なぜ、あの人は。
答えは分かっている。心細げに見上げる瞳、逆に無邪気な笑い声。言葉には出せない助けを求めて触れるあの小さな手、それらが彼をイルカを、そうさせたのだ。
「先生よ、ちっとは声出せ」
「ははは、おまえがイイとこ探せないからだろが、ヘタクソ」
「キツくて上手くいかねえんだよ、おまえが代われよ」
奥を乱暴に引っ掻かれてうめきそうになり、イルカはより強く奥歯を噛み締めた。彼らを喜ばすような反応は決してしない。
「……入るか?」
「まだ無理だな」
「勃たせろよ」
「待てよ、こっちを、」
三人なら一時間くらいだろうか、それとも二回ずつだろうか、それならインターバルを挟んで二時間半というところだろう、早いとこ試験会場の準備に行かなくちゃならねえんだが、そんな事を考えながらイルカは歯を食いしばる。
「もう待てねえ、入れてやる!」
「ははは、ばーか、裂けるって」
「勃たねーなー」
そうだ、一つ良い事があるな。これからはあの人の代わりに俺が。
「やり過ぎたな、おまえら」
ずるっと体から異物感が去り、イルカは深く息を吐く。知った声が聞こえたように思ったが曖昧だ。
「俺ぁ、止められんぜ?」
誰だったろう、薄く目を開け見上げると空に立ち昇る熱の束が視界を焼いた。
「ま、待てよ、なんで、」
うろたえる男達の足がイルカを踏み、蹴飛ばして後退する。
「冗談だろ、たかが中忍じゃねえか」
「なあ、これでおまえはお役ごめんになるだろうが、なあ、おい!」
身の近くで強く空気が巻いた。微かに伝わる熱と視力を奪う白光、イルカは手で顔を庇おうとしたが縛られたままの腕は自由には動かない。拘束のためだけではなく妙に体が重かった。男達が触った内部に常に無い熱と痺れを感じて、『薬』という単語がイルカの脳裏に浮かんだ。
「おまえらは死んでいい」
は、と視線を上げる。眩しい光は強烈に目を射続け、その中に般若の顔をした美しい者がいた。
「死ね」
光が移動しイルカの上を越えて行く。弾丸のような直線性と張り詰めた殺気、光軌を残して振り上げられる腕と彫刻のように怒りを固めた顔、輝く髪。
「ああ。綺麗だ」
それが何かの術であったかのように、カカシはぴたりと歩を止めた。慌てて追いすがったアスマがカカシを羽交い絞めにし、その前方を転がるように男達が逃げて行く。一瞬考えるように前方を睨みつけ、そしてアスマを振り解いてゆっくりと見返ると、固い覇気を燃え立たせたカカシは激怒の続きをイルカに向けた。未だ残る『千鳥』の名残を纏った右手にイルカは目を細める。なんと美しい技。あれは必ず雷を斬るだろう。
「馬鹿が! なんであんたが、」
「あなたは綺麗だなあ」
イルカは満面の笑みだった。場違いである気がするが、感情のコントロールが上手くいかない。頭を持ち上げようとするがそれも失敗する。
「あなたはね、あんなのに触っちゃいけません、そんなに綺麗なんだから」
カカシの顔が歪んだ。そんな顔しないで、と言おうとしたが頭は一層重く地面に埋まりそうなほど、気分の高揚と同時に抗えない重力を感じてがっくり体の力を抜く。カカシが自分に近付いてくるのを感じながら堪えかねて瞼を落とすと、意識もすとんと落ちた。
重い水を掻き分けるように目を覚ます。時間が知りたくて仕方ない。
どうやらイルカは自分のベッドの上にいるようだった。しかし視界は薄暗く目を凝らそうと思っても視点が定まらず、起き上がろうとすると体全体が、おそらくは皮膚が、縮れたような痒みを訴えた。焦燥感がどっと脳を支配しそうになり、しかし本能的にそれ以上に動いてはならないと感じて顔だけを巡らせる。と、随分と無表情に自分を見下ろすカカシが目に入った。
意味も無く嬉しかった。我が身に起こったあらゆる不快がすっと霧散し、イルカは手を伸ばしてカカシの膝を撫でた。カカシは眉を寄せたがベッドの側に座って横顔を見せ、布団の上からイルカの肩をぽんぽんと叩いた。そうやってイルカは何度か目を開け、その度時計を探してカカシを見つけた。
翌朝イルカはようやくはっきり目を覚ました。昨夜の曖昧な記憶を反芻しながら体を仰向けると、最後に見た同じ位置でカカシがベッドに寄りかかって眠っていた。カカシさん? とイルカが呼ぶと、ああここにいるよ、と不鮮明な声が聞こえる。繰り返して呼んで、やっとカカシは驚いたように目を開けた。
その直後、非常に強く止めるカカシを制してイルカは出勤した。それが彼の意地であったし、昨日の出来事を根に持った男達が子供らに何かを仕掛ける可能性を考えたからだった。
が、すぐに三代目の呼び出しを受けた。その目的はアスマによる私刑告発の確認だった。イルカは自分が知る、自分に起こった事だけを語った。三代目はある程度の事情を把握しているようだったが、何としてもカカシの名を出さないイルカに苦笑し、私刑の存在を証明するために薬物検査を受けるように『命じて』早退させた。
火影の対応は早く、その日以降ナルト達の周りを不審な大人達がうろつく事は無くなった。もっとも選抜試験が始まってからは、それを安心するよりも新たな不安に眠れぬ夜を過ごす事になったのだが。
それは七の月五日の夜。昼夜無く正しき任務服姿で口寄せを待っていたイルカは、不意に過ぎった影に過剰に反応して窓を押し開け窓枠に飛び乗った。
「……すごい勢いですね、イルカ先生」
カカシだった。彼は電信柱の上にしゃがんで呆れた顔でイルカを見ていた。
「あー、あなたでしたか」
「ヘンな顔」
「へ?」
「顔、びしびしだよ」
悪い報せかと強張っていた表情を指摘されて、イルカは頬を叩きながら窓枠を降りた。そして招くように手を伸ばす。しかし無言だ。来るも来ないも自由、と示された手をじっと見つめ、そしてカカシは跳躍した。
「こんばんは」
イルカの真ん前に音も無く着地し、特にこだわりも無いようにカカシは言った。イルカは多少面食らいながらも同じ言葉を返す。
「上忍方は塔で待機されているのかと思っていました」
カカシは首を回して溜息を吐きながら、息抜きですよ、と言った。
「お疲れ様です。……俺、今から飯なんですが一緒に食いませんか」
敢えてのんきにそう言うと、カカシはふっと目元を和ませて肯く。今まで見た事のないカカシの柔和な気配にイルカは激情に近い思いをぐっと呑み込んだ。
「あ、あいつら、どこまで進んだんでしょうねえ」
心の内を隠すために急いでそう言い、イルカは口を押さえる。当然試験経過を知っている上忍師を探るような物言いになったかもしれない。
「すみませ、」
「ぎりぎりで間に合うんじゃないかな……」
「え」
イルカは口を開けてカカシを見た。
「……ま、お互い過保護という事で」
「それを言いに来て下さったんですか……!」
いや、息抜きって言ったでしょ、とカカシはぷいと横を向く。背後からの月明かりがカカシの輪郭を危うくし、イルカは目を瞬いた。ありがとうございますと呟くと、だから違うってと歯切れの悪い声が返る。
「試験を見てね、色々考えた。ナルト達と自分が重なって昔の記憶がどんどん湧き出てきてね」
口布を下げながらカカシは言う。
「俺も、自分の下忍時代を思い出していましたよ」
そう、とカカシはイルカを真っ直ぐ見た。が、すぐに視線を外してまた横顔になる。
「考えていたんだ、」
言いかけ、カカシは唇を噛んだ。何を告げるのかとイルカは息を潜める。しん、とした空気にカカシは少し震えた声を吐き出す。
「本当にね、」
あの頃、俺には先生がいたんだなって。世界の全て、そう、俺達三人の世界の全てだった人が。
聞こえるか聞こえないかの小さな声でカカシは言った。その言葉にイルカは深く肯く。イルカもまた、親のいない空間を三代目の励ましと師の厳しく暖かい指導で埋めていた。
「俺は、幾つも嘘を重ねた。でも今から言う事は本当です」
信じますか、とカカシは聞いた。もちろん、と迷い無くイルカは答える。
「……濁った俺の中にたった一点残った透明なものがある。あの岩間で俺は」
カカシは静かにイルカに近寄った。手を伸ばすまでもなく触れ合える距離だった。
「あんたが憎かった。俺の透明なものが、動いてそこにいたからだ。どうしてだか、そう信じてしまったんだ。俺はそんな気持ちを何と呼ぶのか知らない。でも知っている事がある。俺はあんたを騙したけれど、それはあんたと寝てみたかったからだっていう事だ」
カカシは断罪を待つように項垂れている。
「正直、それだって理由を聞かれると分からないよ。以前言ったように、あんたの化けの皮を剥がしてやろうと思ったのも確かだ。でも、俺は」
イルカが少しだけカカシから離れるために動く。きっちりその分だけカカシが近付く。
「毎日いらいらして誰もが俺の失敗を望んでいるように感じてずっと必死で、その上やられまくって体中痛いしチャクラも無くなって寒くて腹も減ってて里に帰ってもまた」
そこで言葉が止まった。不思議な気配を感じてイルカが覗き込むと、カカシの顔から雫が一つ落ちた。
「褒められて、俺、すごく嬉しかった」
イルカがそっと頬を触るとカカシは歯を噛み締める。
「先生みたいだったよ、あんたは。俺のたった一つの透明なもの。俺はずっと、それをあんたに伝えたかった。どうしても、伝えたいと思った。騙して悪かったって、すごく嬉しかったって」
「カカシさん」
名を呼ぶだけでイルカの喉は一杯になった。
「なのに、あんたに良くしてやりたかったのに、たった一つしかないものがまた俺に降リて来るなんて有り得ない、きっとまたすぐにどこかに飛んで行く、そんな事になったらこの世が終わってしまうと思って罵って首締めて、あんたに良くしてやりたかったのに良くしてやりたかったのに、やるくらいしか思い浮かばないし、巻き添えまで食わせて、俺、」
もう、どうしたらいいのか分からないよ。
子供のように止まらぬ涙がぽつぽつと落ちるのをイルカは黙って見つめた。
「……ありますよ、まだ」
なに、とカカシが洟をすするとイルカは涙の溜まった手のひらを示す。
「透明なもの、たくさん」
あなたは綺麗です。とても、がんばってきたんだから。
耳に染みこませるようにイルカは囁き、カカシは、う、と堪えた声を出した。
真っ暗だ。
寒い。ひりひりと引き攣れる右腕。
長く動かずにいた。冷たい岩と同じ温度に体が冷えている。どれくらいじっとしているのか分からない。しんしんと凍える温度に夜が来たのだと知る。もう数えてはいないが。
誰もいない。一人は好きだった。誰もいないから。
強く膝を抱えて目を瞑る。凍った全身からぱらぱらと氷の皮膜が零れる錯覚に眩暈を覚えた時。
――おおい。
誰か来た。
嫌だ。
寒い。
嫌だ。
寒い。
嫌だ。
誰か来た。
――おおーい、誰かいるかぁ? いないかぁ、そっかあ、なんだ、いると思ったんだけどなー、まあいっか、あーびっしょびしょだ、氷雨って堪んねえなあ、雪のがマシかな、いや死ぬか、ははは。
入り口に見え隠れする影が、うろうろと奥を窺っている。精一杯気配を消して息を殺す。目を瞑る。もう二度と開けまいと決心する。嫌だ、嫌だ、嫌だ、
――ホントに誰もいないのかー? いたらいいなーって、何言ってんだ、俺、ははは!
そして静まる。不安になる。行ってしまったんだろうか、もう、行ってしまったのか。縫いつけようとすら思った瞼を慌てて押し上げると影が手を伸ばしているのが見えて息を吐く。それはじっと立ち尽くし無言で手を差し伸べている。よく見ればその影もまた、寒さに小刻みに震える小さなものだった。
そっくり同じと思った師の姿が、影に重なりながらも霧散してゆく。おまえも行きなさいと、きらきらと消えていく。乾いて張り合わされていた喉が、やっと震えた。
「ここ、だよ」
瞬間、どっと光と暖気が身を包んだ。
痺れるほどの安堵に泣きながら手を伸ばし、触れる暖かさにまた泣いた。目の眩むまぶしさの中を歩き出すだけでいい、それだけでいい、ぬくいものに手を引かれたままでも構わないのだと、懐かしい声が囁いて通り過ぎた。
暗い岩間はどこにも無く、冷たい雨はとうに、上がっているのだから。
NARUTO TOP