カカシが帰ってから数時間後、イルカは猛烈な喉の渇きを感じて目を覚ました。よろよろと這いながらベッドから降り、その時に裂傷の痛みが劇的に引いているのが分かって驚く。薬が良く効いている。しつこい芯のように身内に凝ってはいるものの、台所まで行て水を飲み、苦労はしたが小用も済ませてふと、隣りの風呂場を目に留めた。
薄いクリーム色の床に、黒っぽい血が流れた跡があった。見ればその血に混じって吐瀉物らしき物もこびり付いている。カカシが自分を洗って手当てしたらしいと気付いてイルカはしばし壁に縋ってそれを見つめた。
カカシはシーツにくるんだイルカを叩き込むためにこの部屋に来て、その後一旦は出て行ったはずなのだ。一度目を覚ました時にカカシはいなかったのだから。しかしカカシは戻って来た。激情が冷め、後悔に苛まれて再びここを訪れ、自分の行いの結果を治療するのはどんな気持ちだっただろう。
手洗いで鏡を見たが確かに酷い顔だった。きっと傷口も。自分でやったものなら尚更だ。そんな体をカカシに洗わせて治療させた、それを思ってイルカは涙ぐみながらベッドに戻った。頭を下げるカカシが震えていたのが思い出されて一層の後悔の中で足掻いた。
その日の夜からカカシが言ったように、イルカの側には暗部の女が一人、世話役として付いた。長い黒髪のその女は口止めされているのか、カカシについて聞いても何一つ答えてはくれなかった。元々口数の少ないタイプなのか必要な言葉しか口にしなかったが、彼女がカカシを『先輩』と呼ぶのを聞き、カカシが親しい知人に自分を任せたのだと察してイルカの胸はまた締め付けられた。
それから十日の後、イルカは職場に復帰した。かなりの時間を要したのは、イルカ自身が思っていた以上に彼の状態が悪かったからだ。一番の理由は裂傷の痛みが治まる頃から始まった頭痛だ。
大きな物音などを原因に、耳鳴りと地面が回るほどの目眩が同時に吹きつけ、頭を千切って捨てたいほどの頭痛がイルカを襲った。昼夜問わずの悶絶に、とうとう入院という措置が取られた。検査の結果首の異常であると判明してギプスで固定するようになってからは、嘘のように頭痛は治まった。激昂した上忍によって床に叩き付けられたのだから当然の結果と言える。数度の脳波検査を終えてやっと復帰の許しが出た後も、しばらくの間はギプスの装着を余儀なくされた。
職場に戻ったイルカを待っていたのは同僚達からの過剰な労いだった。ただしこれは、復帰前夜に五代目から届けられた短い文を読んだ時点で覚悟していた。文には、イルカの欠勤の理由が『里への侵入者に偶然行き会い戦って負傷した』となっている、それだけが書かれていた。中忍教師だって役に立つんだって、おまえが証明してくれたな、とからかいながら讃える同僚達に、違うんだと叫びたい気持ちをギリギリと堪えてイルカは曖昧に笑った。
今度ばかりは受け入れる。そう固く決めた。これも『罰』なのだ。頭痛の件もあって当分目立つ格好をしていなければならず、それなりの理由が必要ではある。しかし、欠勤理由をあえて『誉れ』にする必要があるとは思えない。事前に文が届けられた点からも、甘んじて受けよ、という五代目の意図が感じられるのだ。
イルカは授業と任務から外され、体を動かす方が気が紛れるのにと落胆しつつ、込み合う受付所でせいぜい仕事をこなした。一つ幸運だったのは、受付故にカカシの状況が判明した事だ。彼が去り際に言った「始末をつける」という言葉にイルカは大きな不安を持っていたのだ。
帰還予定の一覧にカカシの名を見つけ、イルカの不安は解消した。カカシという忍に適当な難易度のもので、そうした任務に出ているのならばさほどの咎めは無かったのだろう。『事故』の処断においてイルカに寛大だった火影がカカシに無体をするとは思わなかったが、実際に確認すると少しだけ肩の荷が軽くなったように感じ、イルカは密かに安堵の息を吐いた。
季節は変わっていった。
その間、カカシと顔を合わす事はなく、何も無かったように日々は流れた。会えなければ消息も知れないのが忍家業、イルカはいつもカカシの様子を気に掛けてはいたが、前線任務へ戻ったらしいという誰にでも知り得る情報しか把握できなかった。
雪が降る頃、最も手のかかった教え子と毎度の事ながら一楽のラーメンをすすり、変わらぬやんちゃぶりに口元を緩ませていたイルカは、ようやく具体的なカカシの消息を彼から得た。カカシはかつて暗部であった時代のように、苛烈を極める任務を任されているらしい。
「今はさー、忍が減って非常時ってやつだもんな。適材適所だってばよ。カカシ先生売れっ子だし」
「売れっ子、か……。それにしても大人みたいな口を利くようになったなあ、あのナルトがなあ。ふーむ」
「あったり前だってばよ! 任務のふり分けだって火影の仕事なんだから研究してるんだ!」
「はは、そうだな、六代目を目指してガンバレよ」
「この間受付でカカシ先生に会った時にも言われた! オレってば、期待されてる?」
「この間って……最近か?」
「そー」
麺を口からはみ出させながらナルトは首を傾げた。
「イルカ先生、会わないのか? 任務やってんだからフツー受付に来るだろ、暗部に戻ったんじゃないんだし。オレ、何度も会ってる」
ずるずると一滴残らずスープを飲み干すナルトに、そうだな、と言葉を濁しながら、会わないのはやはりカカシが意図的に自分を避けているのだとイルカは悟った。ラーメンの湯気を吹く息に混じらせて密かに溜息を吐く。
――会ってどうなるものでもない。むしろ会わない方がいいんだ。
「なー、イルカ先生、痩せた?」
どきり、としてイルカはナルトの顔を見下ろした。未だ、あの『事故』の夢をみて飛び起きる朝がある。そんな日は食が進まない。
「んな、眉毛下げなくてもいいじゃん……。よーし、今日、オレってば金持ちだったりするから奢っちゃう! イルカ先生もう一杯食っていーぞ!」
ぱんぱんに膨らんだカエルの財布に頬擦りし、ナルトはキシシ、と笑ってみせた。
誰に責められなくとも己の不甲斐なさを知り忘れない。重く心にしこる後悔を持ち続けるという罰を受け続ける。それしか出来ない事すら罰であると、イルカは優しい教え子に笑い掛けながら心に刻み直した。
慰霊碑に向かいながら、カカシは秋めいた雲の薄い空を見上げた。ぱたぱたと不器用そうな羽音を立てて茶色い小鳥が渡っていく。
――また会ったな。
のろのろとしていた歩行の速度を上げ、カカシは小鳥を追う。予想通りに小鳥は慰霊碑に向かって飛んで行く。
あの鳥は口寄せの獣だ。妙に不器用そうに飛ぶのはおそらく、翼をほとんど使わず気流や風脈に乗って移動する伝令専門の鳥だからだろう。カカシが追いついたところで小鳥はふわりと慰霊碑の上に舞い降り、咥えていた一輪の花を足元にちょんと置いた。
「ご苦労さん」
カカシが声をかけると、小鳥は首を傾げて彼を見上げ、ちち、と鳴いた。そして昨日捧げたしおれた花を嘴に挟むと、またふわふわと舞い上がってどこへともなく飛んで行った。小鳥が去った後の慰霊碑には、白い茉莉花が香る枝が残されていた。芳香が風に揺れる。
カカシは里にいる間は毎日慰霊碑を詣でるが時間は早朝と決めていた。この小鳥と出会うのは、都合がつかずに午後になった時だけだ。誰が、誰のためにこんな事をしているのかカカシは知らない。けれど自分と同じように毎日通ってくる小鳥を通してその術者を思うようになった。大怪我を負って自由に動けないのかもしれないなどと、暖かい気持ちで花を見る。
一年程前のあの日、カカシはイルカの部屋を出ると真っ直ぐ火影の元を訪れた。そして全ての事情を話して項垂れて待った。
「そうか、分かった」
彼女の言葉はそれだけだった。そして煩そうに、もう行けとでも言いたげに片手を振った。カカシが、え、と顔を上げると
「ああ、イルカに付けた暗部の世話役の費用はおまえに請求する」
と言って巻物に視線を戻した。
「いや、あの、五代目」
「なんだ、まだ何かあるのか」
カカシが間抜けな顔で突っ立っていると彼女は深く溜息を吐いた。
「期待を裏切るようでなんだが、処分はしない」
「しかし!」
弾かれたように顔を上げたカカシは机に両手を置いて火影に詰め寄った。が、彼女はじっとカカシを観察するように見る。
「おまえらは直球勝負しか知らんのか。忍なら頭を使え」
「は!?」
「今回私はイルカに『罰を与えない罰』を適用した。イルカはそれに耐えられずにおまえに制裁を求め、おまえはそれを実行した。故に、おまえにも同じ罰を与えるのが順当だろう」
罰を与えない罰、カカシは呟いて自分の拳を見下ろした。
「イルカには私からの関与はしない。それが相応と思うからだ。おまえの事後処置で充分だしな。以上だ」
「俺は……! 木の葉の同志をこの手で、」
「イルカも同じだろう?」
彼女の栗色の目には意外にも強い力が込められており、カカシは僅かに怯んだ。
「おまえらは性懲りも無く同じ事を繰り返した。そのおかげで純然たる被害者も加害者も無くなった。よって罰が必要とは私は思わん。第一これ以上の罰を受ける必要がある者と言えば、事態を見誤った私だろうが。これもな、おまえの処遇をめぐって、ご意見番やらなにやらの煩さ方を納得させる手間で相殺してもらいたい」
ふー、と溜息を吐き彼女は巻物に戻り、それきりカカシには反応しなくなった。カカシはしばらく彼女を見下ろしていたが、とぼとぼと部屋を出た。
その帰り、偶然にしては出来過ぎのタイミングでカカシは一人の男と出会った。自分はカカシの恋人の最後の任務でリーダーを務めていたのだと男は説明し『事故』の顛末を聞かせた。
目撃者の生々しい証言により、カカシは恋人であったくのいちに、より大きい責があると判断せざるを得なかった。男はカカシに、自分がイルカの気を削いでいた事も『事故』の原因の一つだと、深く頭を下げた。
事故、だったのだ。何もかもそうなるように巡り合わせた結果だった。
カカシは逆に男に対して丁寧に礼を取り、誰も悪くなかったのだと明言してその場を辞した。そして自宅へと戻る道すがら、急に思い出した。Aランク任務から戻った彼女が、引き続いて任務を受けると言い出した夜のことだ。その夜カカシは、次の任務は止めた方が良いと言ったのだ。
それまでは、彼女の任務に関して一切の口出しをした事がなかった。もっと過酷な状況でも、彼女の判断を信じて任せたものだ。けれどその夜だけは思わず止めてしまった。彼女は笑い、大丈夫、ベテランが一緒だし難易度の低い任務だものと言い、それもそうかとカカシはそれ以上何も言わなかった。
あれは、何かの予感があったからなのか。あの時、滅多に無い口出しをした自分の勘を信じて強く止めていれば、やはり滅多にない事だと彼女も感じて留まってくれたかもしれない。何もかもが、そうなるように巡り合わせた。叫んでも恨んでも後悔しても、取り戻せるものは何一つ無い。
それからカカシは、イルカが自分に制裁を与えて欲しいとやって来た気持ちをたっぷりと追体験した。誰かに罰して欲しいと思わない日は無かった。暗部の後輩にイルカの様子を逐一報告させ、時には背後をつけた。ギプスを首に巻き、足を引きずってアカデミーに向かう背中に駆け寄り、どうにかしてくれと揺さぶりたい気持ちを必死で堪えた。
受付や教壇に復帰したイルカがいつも気になった。随分長い間イルカの笑顔がぎこちなかった事、子供に抱きつかれて奥歯を噛み締める顔、そんなものを遠くから見ずにはいられず、しかし姿を見せる勇気も理由もなく、対面を避けながら変わっていく季節を過ごした。
そんな中に、慰霊碑に捧げられる花があった。花はいつも白くしおれかかっていて、前日に置かれたものらしかった。現場を初めて見たのは昨年の真冬で、大きなサザンカを重そうに運んでいた小鳥に思わず笑った。春が近づくと梅、アネモネ、ユキヤナギ、コデマリと花は頻繁に変わり、夏場はアオイやサルスベリが揺れていた。毎日の事だ、白い花ばかりを集めるのは苦労だろう。ただ思いを残しているのではなく、もはや意地になっているような行為だ。何年も通い続けるカカシがそうであるように、忘れまいと意地になっているから出来る。それくらい、失った者に悔やむ気持ちを持つ顔も知らない小鳥の主に、カカシは己を重ねた。
そろそろ終わりなのだろう、二つだけ花の付いた茉莉花の枝を見下ろしてからカカシは慰霊碑に背を向けた。間もなく太陽が真上に昇る時刻で、とりあえず昼食でも摂るか、と商店街に歩き出し、ふと思い立って方向を変えてアカデミーの校庭に足を向けた。
カカシが校庭を横切って目を上げた時、イルカらしい姿が受付の椅子から立ち上がった。無意識に身を隠す。イルカはしばらく任務に出ていた。無事に戻ったようだ。廊下を行く姿を確認してカカシはアカデミーを出た。
よく生徒達がたむろしている駄菓子屋でパンと牛乳を買い、ぶらぶらと郊外に向けて歩き出しす。民家の集落を過ぎ、林を抜け草原を抜け、そして丘が見えてきた。
緩い傾斜にはこの時間よく陽が当たる。カカシは昼寝がてらにこの丘に来て、誤魔化し程度の食事をしながらぼんやり過ごすのが気に入りだった。気に入り、と言っても里の外での任務に掛かりきりのこの頃は、上忍師時代ほどには訪れる機会もない。久しぶりに見る丘は、黄と赤の花がちらちらと緑の草の間から見え、タンポポの綿毛があちこちで光っていた。
ほっと息を吐き、カカシは丘に登ろうとした。登りきった所はとても景色が良い。丘の下はぐっと低くなっていて、崖とも言ってよい形に迫り出した頂上からは里の半分ほどが眼下に見渡せるのだ。かつて狂った狐が里を荒らした夜に、この丘は尾の一つに抉られてこんな形になったのだ。
のんびりと首を巡らせたカカシは、しかし、何かを感じてすっと丘から退いた。脇の林の中に溶けるように分け入ると、直感は間違いなく、やがてイルカの姿が丘の裾に広がる草原の中に見えた。
イルカは軽く駆けて丘を登り一番高い場所に立った。彼は手に持った何かを口に咥え、くないを出すと片腕をまくって皮膚を突付き、滲んだ血を指先に取って印を組み始める。彼の手の下から、ぽん、という音と共に小さな煙が立ってカカシは大きく目を開いた。するりと茶色い小鳥が現われたのだ。イルカは小鳥の喉をくすぐり、咥えていたものを差し出す。白い、コスモスに似た花だった。小鳥は茎を嘴に挟むと飛び上がり、ばたばたとイルカの頭の上を一度旋回してから飛び去った。あの不器用そうな飛び方は間違いなく、慰霊碑に通う鳥のものだった。
イルカはしばらく眼下の景色を見つめるようだった。飛び立った鳥を見送るようでもあった。やがて彼が歩き去るとカカシは林から姿を現した。
あの日、慰霊碑で会ったイルカが茉莉花の枝を供えていた、それを思い出す。なぜ思い至らなかったのか。
複雑な思いで、消えていくイルカの背中をカカシは見送った。まだ、何も、考えられなかった。
それ以来カカシは、前にも増してイルカを気にするようになった。気にしながら、毎朝慰霊碑の上にぽつねんと残されているしおれかけた花に眉を寄せるようにもなっていた。捧げられるために咲く花。それは、イルカの自虐そのものに感じられた。
――いらぬ世話。
平たく言えば、そうだった。
――悲しむのは自分だけでいい。イルカになど弔われたくない。
結局自分はイルカを恨んでいるのだ。花を捧げているのがイルカだと思い当たらなかったのは、イルカだとは考えたくもなかったからに違いない。
もはや、彼女を失った悲しみよりもその恨みの方が重いような気がする。そうカカシは考え着いて、自分に唾を吐きかけたい気持ちになった。そして、そんな気持ちにさせるイルカを一層不快に思い、思いながら気にするのだった。
その夜も、カカシは一人夜道を自宅へ歩きながら重い気持ちに項垂れていた。間もなく向かう任務に必要な小道具を、専用の店で受け取っての帰りでもあった。項垂れてしまうのは、店がイルカの家の近くだったからだ。そして、だからこそ、気がついてしまったのだろう。
空き地があった。そこに花壇があるのをカカシは知っていた。小道具を注文するためにここを通った時に、白い花が咲いていたからだ。今も、夜目に白く花弁が揺れており、そして側に人影があった。
カカシには彼が良く見えていたが、相手は気付かぬようだった。気が付けない状態であった、と言うべきかもしれない。何度も咳き込む姿はよろよろとして足元がふらついている。具合が悪そうにも関わらず、人影は印を組んで白い煙を上げた。月の明るい光の下、影を纏った小鳥が主の肩に止まる。
「頼むな」
そんな言葉が風に乗って流れる。彼はコスモスに似た白い花の一本を手折り、小鳥の嘴に差し出す。小鳥は主を心配したのか、猫が喉を鳴らすような声を発して頭を首筋に擦り付けた。やがてイルカに促されると花を咥え、夜空に消えた。
いらいらとカカシはイルカを見ていた。彼はいつもは括っている髪をざんばらに肩に広げ、寝巻きの上にカーディガンを羽織っている。咳き込みながら空き地を横切り家に戻るイルカの後を、カカシは当たり前のように追った。自分が何をしたいのか分からなかったが、込み上げる気持ちのままに追った。
住処に向かう階段をイルカは硬い音で上っていく。裸足に下駄のような物を履いていた。なんとも危ない足取りと履物にカカシが更に渋面を深くした瞬間、イルカは案の定階段を踏み外した。彼は、どたん、と音を立てて倒れ、忍とは思えない愚鈍な様子で滑り落ちていった。
「あんた、何やってるんだ!」
途中で受け止め、イルカを抱きかかえてカカシは言った。イルカは朦朧と視線を上げた。あの日と、介抱した時と同じ顔をしているイルカに舌打ちをし、カカシは彼を抱いたまま階段を上った。
「入りますよ」
部屋の鍵は掛かっていない。駄目だと言われても、かっかと火照っていて相当熱があると分かる体を放り出す事は出来ない。カカシは返事を待たずに扉を開けるとサンダルを脱いだ。
「カカシさん……?」
ぼんやりイルカが言った。階段から落ちた時に打ったらしく唇が切れて血が滲んでいる。カカシは無言でイルカをベッドに運んだ。しばらく寝込んでいたらしく、ベッド回りには市販の風邪薬の箱や食器やらが散かっている。
「何をしていたんですか」
分かっていてカカシは聞いた。
「こんなに具合が悪いのに、何をしていたんですか」
トゲのある物言いになっただろうと思いながらカカシは言い、イルカは未だぼんやりとカカシを見る。
「……ちょっと」
何がちょっとだ、とカカシはイルカを見下ろした。もつれた髪がいかにも病人に見える。イルカはようやく事態を認識し始めたようで、気まずそうに目を逸らした。カカシはしばらくその姿を睨んでいたが、はあ、とわざとらしい溜息を吐いてから居間に向かった。
――何をやっているんだろうか。
そう考え何度も手を止めようとしたが、カカシは部屋を漁って生薬を引っ張り出して風邪薬を調合した。それと水を持って行くと、イルカはしっかりとカカシを見上げてしきりに恐縮した。通りかかったついでです、とカカシは無感動に言い、イルカはしゅんとして、不甲斐なくてすみませんと呟く。氷をたくさん詰めた水枕も用意し頭を横たえてやりながら、カカシは、ふん、と顔を逸らした。
「具合が悪い時に馬鹿な事をしてるからだ」
すると、眉毛を下げて困っていた顔を急に真剣な表情に変え、イルカは言った。
「馬鹿な事じゃないです」
むっとカカシはイルカを睨む。イルカも睨み返して互いに引けなくなった。
「馬鹿ですよ、くだらない」
「くだらなくなんてないです!」
「それが馬鹿だって言うんですよ」
「馬鹿馬鹿言わんで下さい!」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪いんですか」
「いいんです、俺がそうしたいんだから!」
馬鹿の応酬に、イルカは一旦怒って横を向いてしまった。が、相手が誰だかを急に思い出したように彼は硬直し、そして恐る恐るカカシを見上げた。
「何が」
ぞっとイルカの全身が粟立った。
「何が、俺がしたいんだから、だ」
奇妙な程白い手の平が眼前に迫ってイルカはひっと息を詰まらせた。掴まれた襟元をぐっと引かれ無抵抗に釣り上げられた。
「目障りなんだよ、あんた」
あの、制裁を受けた日、何度も聞いた羽虫の旋回のような音がカカシの口から漏れてイルカは硬直した。面布越し故に一層得体の知れない音だった。カカシ自身がそれを酷く意識し、いけない、と思うがもう止められない。
「不愉快だってのが、分からない訳?」
カカシの腕にイルカの震えが伝わる。唇の間から微かに歯が鳴るのさえ聞こえた。当然だ、あんな事をされた相手なんだから、そう思っても目を見開いて硬直するイルカの脅えはより一層カカシの感情を波立たせた。
「あんたなんかに花供える資格があるのか、ええ!?」
思い切りカカシが怒鳴るとベッド脇の窓ガラスがびりびりと振動した。頼りない藻のようにイルカの髪が浮いた頭から垂れ下がっている。まん丸に目を開き、どうしてそれを、と呟くイルカはあまりにも間抜け面で弱々しく、カカシの中で突然激しい記憶の対流が起こった。
カカシは、恋人を失った悲しみに浸る事さえ許されなかった。イルカが関わったがために、真実を知ったがために、悲しみには憎しみが混じり、それを激怒が粉砕して罪悪感がこね上げ、出来上がったものは耐えるしかない罰だった。失った女や未来、そんな明るい色のものたちと、悲しみも憎みも出来なかった耐えに耐えた一年間がどっと逆巻き、カカシは破裂するように胸の中身を吐き出した。
「全部台無しにしたあんたが花供えたって、あいつは浮かばれない!」
その言葉と同時に、カカシの手から力が抜けた。イルカの頭は枕に落ちて、ざりり、と氷が鳴った。
カカシは茫然としていた。イルカを持ち上げていたままの形で固まった手は痙攣し、イルカもまた全身を震わせ、二人は長く沈黙した。
「……すみません」
小さな声は、イルカだった。
「ごめんなさい」
「……忘れて、下さい」
どっと疲労に襲われたように、掠れた声でカカシは言った。
「カカシ、さん」
「あなたは悪くない」
祈りとも呪詛ともつかない声音で言い置くと、カカシはよろりと立ち上がった。
「俺、俺が、」
呟きのようなイルカの声に弾かれたように、カカシは走って部屋を出て行った。
次の日から、慰霊碑の花は消えた。
雪の上に足跡が付いている。薄い雪だった。足跡の上には再び降った雪がうっすらと積っていた。
その足跡を踏むようにしてカカシは歩いた。あるものを愛でにゆくために。
「ユキヤナギ、か……」
呟き、半ば雪に埋もれた枝をカカシは見つめた。
そこは丘だった。里の半分を見渡せる丘でカカシはしばらく景色を見渡し、そしてぽつんと残されている花をじっと見る。花の側には、足跡ではない丸い跡が残っている。それは花を置いた者が膝を付いて祈った跡だ。
イルカに言いたい事を言ってしまったあの夜、カカシは冷たい夜道を駆け自分の家に飛び込むと部屋中をめちゃくちゃに荒らした。
イルカが憎かった。粉々にしてしまいたかった。かつてその機会を提供したイルカが尚憎かった。仲間に暴力を振るったことで忍としての己にすら失望し、どんな感情も封印されたようなカラカラの心で日々を過ごすはめになった。
――全部台無しにしたあんたが花供えたって、あいつは浮かばれない。
そう叫んだ気持ちは本当だった。全部が、台無しになったのだ。何も知らなければ女のいない空間を悲しみ、悲しみ尽くしていつか立ち直ったはずだった。ここまでこじれた今、もう生涯を混沌とした気持ちで過ごすしかないとすら思える。
めちゃくちゃになった部屋の真ん中で、カカシは怒りに全身を震わせて立ち竦んでいた。それは自分の人生そのもののように彼には思われた。
何かを投げた拍子に割れたらしい窓ガラスから小さな雨の粒が舞い込み、頬に当たるようになってやっと正気を取り戻し、そしてカカシは思わず笑った。何もかも破壊したようでも、部屋のある一部分だけは完全に無傷だったからだ。
それは枕元だった。写真立てが二つと鉢植え、そして彼女が編んだレース。それらだけは、十年も前からそこにありきっと十年後にもそこにあるだろうという静かな様子で存在していた。
散らばったガラスを払ってレースを取り上げ、カカシはふっと息を吐いた。ようやく、彼女を失った事を悲しめるのだと思った。何もかも台無しになったのなら、すっかり始めからやり直せばいいのだ。知ってしまった真実は忘れられないし、イルカに言ってしまった言葉も消せはしないが、感情を吐き散らし荒れ狂った後の今でもきっと、この部屋のレースのように大切なものは心に残っている。
ボロボロの部屋の中で、カカシは一晩白いレースを抱いていた。胸に浮かぶのは明日を生きていこうと思える綺麗な思い出ばかりだった。身を絞られるような苦痛はやってこなかった。新しく刻まれた名が風雪で丸くなるように、彼女を失った苦痛の角はすっかり取れていたのだ。
そしてカカシは思った。これが、何も知らない一年だとしたならば、ここまで美しく悲しみは昇華されただろうかと。この一年、カカシは死に執着した。通り過ぎる死に慣れた自分が良くも悪くも執着した。そのおかげで大混乱はあったが同時に癒されもしたのではないだろうか。
何も知らなければ、これも忍の運命なのだと格好をつけるばかりで、まともに感情を動かしはしなかったかもしれない。親友を、恩師を失った時と同じように。
翌日、幾分落ち着いた気持ちで慰霊碑を訪れたカカシは、激しい衝撃を受ける事になった。そこに花が無かったからだ。少なくとも昨夜のコスモスに似た花があるはずだったが見当たらない。
予期した事だった。が、カカシは動揺した。花の無い慰霊碑は自分が望んだものだったのに、いざそれを目にするとびっくりするほどに鼓動が速まり、カカシはおろおろと石の周囲に白い色を探した。風に飛んだのではないと分かると、その日の午後再び詣で、長い間小鳥と新しい花を待った。しかし空はただ澄み渡っているだけで、それきり花は絶えてしまった。
そしてある朝、初雪を纏った慰霊碑の異様なまでの寒々しい姿を見た時、カカシは気付いた。慰霊碑に花が無くなったのではない。自分が花を失ったのだと。
カカシはある意味、この花に縋っていたのだ。哀惜の感情を殺しながらも、それが薄れて過去になる事に激しく抵抗するという矛盾したものの全てを花に託して縋っていたのだ。僅かずつ、しかし確かに、記憶というものは過去というものに変わっていく。それが現実を受け入れるという現象だとカカシは知っている。事実、この慰霊碑に通い始めた元々の理由は既に懐かしいほどの過去になってしまった。今胸に強く輝く彼女もいずれ、同じように懐かしい面影となるのだ。それに抵抗して通い続けるカカシを、花はそれでいいのだと慰めるように思えた。ここにも悲しみを抱える者がいるのだと、主張しながらカカシを癒してくれていた。
その花を失った。
カカシは茫然とした。花の主がイルカであると知っているのに、カカシは失った花を惜しんだ。未練などという簡単なものではなく、また誰かに死なれたようにさえ感じた。
やがてカカシは行く宛てもなく雪の中をふらふらと歩き始めた。いつの間にか郊外に出ており、目の前には気に入りの丘があった。
丘は、静かにそこにあった。カカシはそれを登って高い所で雪の中に倒れこんだ。眼下の里のように、このまま雪にうずもれてしまいたかった。
顔を横向けて倒れていると、何かが目に留まった。なんだろうと細めた目の先に、冬に不似合いな瑞々しい緑色が見えた。
水仙だった。凛と伸びた水仙が、葉を一枚つけて横たわっていた。
カカシはがばっと身を起こし、その花に跳び掛って手に取った。そして置いた者を探すように首を巡らせ、そして、見た。
それは丘の一番高い所で、眼下には里の半分ほどが見渡せた。花が置かれた場所から真っ直ぐ先、そこにカカシの視線は固定した。今は雪の白に惑わされて判別はつかないが、周囲の様子からそれは明らかだった。花は、慰霊碑正面の延長線上に置かれていたのだった。
カカシが踏み荒らした雪の上に、辛うじて丸い窪みが二つ、残っていた。それは靴跡では無かった。おそらくは、花を捧げた者が跪いた跡だ。花を握り、カカシはその窪みを見つめた。窪みの上にうっすらと被った雪に、なぜかぽつぽつと丸い穴が空いている。その穴は見る間に数を増やしていった。
「なんで、俺……」
カカシは泣いていた。なぜ、泣くのか自分でも分からなかった。しかし涙は止まらずカカシはその場に突っ伏し、気の済むまで泣いた。
それからカカシは、慰霊碑を訪れる前にこの丘を登る。
花を目に焼きつけてから、慰霊碑に向かうのだ。それに一々写輪眼を使うほど馬鹿ではなかったが、瞼に焼き付けたものを慰霊碑に重ねることがカカシの新しい日課となった。
慰霊碑に向かって捧げられたユキヤナギは凍り、細かい花弁は透き通っている。日差しはどこか柔らかい。春を予感させる風がカカシの髪を撫でる。カカシは微笑み、そして花に向かって深く頭を下げた。
――ありがとう。
単純で美しい気持ちだけがカカシの中にあった。どれだけ考えてもそれ以上の言葉はないだろう。緩やかな坂を降りながらカカシは微笑んだ。
――もしも、彼と顔を会わせられたなら。
カカシは丘を振り返った。雪がきらきらと朝陽に輝いている。切ないが、決して悲しみではない思いが胸に溢れた。
――きっと言える。
憎ませてくれてありがとう。慰めてくれてありがとう。
そして、忘れないでいてくれてありがとうと。
イルカは小さな枝を懐に抱いて走っていた。アカデミーの裏庭に植えられた茉莉花の枝に、一つだけ花が咲いたのだ。アカデミー内の植木や花壇の世話を一手に引き受けて一年以上経つが、こんな事は初めてだ。狂い咲きだろうとなんであろうと、この花は特別だからイルカはとても嬉しくなった。早めに出勤して良かった。駆けて戻れば勤務に充分間に合う。
場所を変えたからあの人と会うことはない、今度こそ知られはしない。早朝の空気を割ってイルカは駆ける。一刻も早く持って行きたい。
自分の心ばかりを考えてあの人を傷つけた。風邪をおして、どこか自虐的な気分で花を小鳥に託した自分は彼の言う通りに本物の馬鹿だった。あの人はそれを一瞬で見抜いてしまったのだ。責めるまいと耐えていた彼に、心の棘を吐き出させてまた傷を抉った。自分は、自分の事しか考えていなかったのだ。
胸の内の全てを言ってしまった彼が、泣き出しそうな子供の顔とそっくりの表情で走って逃げていくのを見て、イルカは目が覚めた思いだった。『私刑』をさせてしまってすまないと後悔したはずなのに、イルカはただ、自分が許されたかっただけだった。心のどこかで、自分が花を捧げているのだと分かって欲しいとイルカは思っていたのだ。それで許して欲しい、勘弁して欲しいと願っていた、だから慰霊碑に置いた。あの人にとって意味のある茉莉花という名の花を何度も手折った。
彼女のために捧げたなど嘘だ、自分のためだったのだ。見抜かれて当然のあさましい行為、それに気付いてイルカは愕然とした。高熱も吹き飛ぶほど背筋が凍り涙を流す余裕も無く、ベッドの上で膝を抱え続けた。
そしてイルカは供花を続けた。一晩考え抜いた末の結論だった。
イルカは場所を変えて毎日花を捧げて祈った。殺してしまった女のためだけではなく、あの人の心が穏やかになるように。
祈ることが傲慢だとはもう思わなかった。自分のようにあさましい人間であっても、他人のために祈るのならそれは意味を持つはずだ。なにより花には子供達の純粋な気持ちが宿っているかもしれない。白い花が目立つようになったアカデミーの裏庭は、教師達からは地味だと苦笑されるが子供達には意外な程好評なのだ。
いや、きっと宿っているだろう。自分では追いつかない綺麗なもの、子供達の笑い声や柔らかい心が花をきらめかせ、それらはきっとあの丘から一直線に飛んで行く。あの、冷たく悲しい石の碑まで。
駆けながらイルカは微笑んでいた。自虐でも罪のためでもなく、ただ死を、苦しみを悼むために、丘へ向かう自分になれた。それをいつか言えたらいい。
気付かせてくれて感謝していると。
それは全て、あなたが教えてくれたのだと。
丘が見えてきた。イルカは速度を緩めず微笑んで駆けて行く。どこか春じみた風が香り、深呼吸したい気分だった。
丘はまもなく終わる。カカシはゆっくり歩きながらサンダルの底を意識する。温い風が乱した髪に手をやった。
柔い風越しに、二人の目が合った。
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