熱い。
回る。
嘔吐感。
「ラムザ」
鏡の水面に石が落ちるようにラムザの中に言葉が飛び込んできた。
「……ここは」
「オーボンヌ近くの廃屋だ。水を」
背に慎重に腕が差し入れられた。視界は薄暗い中をさ迷い、目の前に現れた茶色の影に怯えて体を震わせる。
「飲んで欲しい。三日間何も口にしていないのだから」
目を瞬き、ラムザはやっと木の器を認めた。軽く唇を開くとそれは宛がわれ、冷たい水が流れ込んでくる。
「ゆっくり」
穏やかに、清涼に、ラムザの極近くから聞こえる声。
「……アグリアスさん」
彼女は頷いただけだった。
「三日、経ったの……あれから」
点滅するように記憶が蘇る。紫の光、アルマの赤いドレスの裾、ラムザは深く息を吐き、アグリアスを見つめた。彼女は珍しく髪を結わずに垂らしていた。部屋は廃屋というには清潔な印象だが、ベッドとアグリアスの座る椅子だけで満杯というほどに狭い。すぐ側の床の上で、黄色いランプの光が揺れながらベッドの足を照らしていた。
「私が言えた台詞ではないがおまえは無理をし過ぎた。あの状態で挙術で回復すればこれくらいの床になって当然だ」
「……そうだね」
アグリアスは少し躊躇った後ラムザの頬に指先で触れた。ラムザの顔にさらりと空気を混ぜるような音とともに髪が落ち、そっと唇に唇が乗せられた。乾いた感触の口付けだった。
「ジャッキーは……追いつけなかった」
口付け直後の言葉としてはあんまりだと笑いたい気持ちになりラムザは唇を曲げたが、漏れたのは長い溜息だった。
「そう」
「すまない」
「あなたのせいじゃない」
胸の中に熱い渦を抱え、しかしラムザは叫ぶ事も泣く事もしたくはなかった。そうすれば狂ってしまいそうだった。何もかも、自分が足りないせいだ。全てに、足りない自分の。
「……しばらくここに逗留しようと思うがどうだろう」
「アルマを追いたい……」
ラムザは空ろにそう言った。沈黙が二人の間に挟まり、それを掻き分けるようにアグリアスは呟く。
「堪えて欲しい」
「今すぐ追いたい」
「無事なのは私とアグネスだけだ」
ラムザは眉を寄せてアグリアスを伺った。視線を落とし爪を見つめていたアグリアスは、仕方ない、と重そうに口を開く。
「ムスタディオは骨まで傷めている。ラッドも似たようなものだ。ジャッキーは追撃中に負傷した。ボコから落とされたらしい」
「僕が一人ででも、」
「おまえが一番酷い」
ラムザは小さく声を出した。彼自身にもアグリアスにも、その言葉の意味は分からなかった。夜を透かせている窓がかたかたと鳴り、微かな風が部屋の中を通り抜けた。
「……分かってるよ。言いたかっただけ」
「私は動ける。探ってみよう」
「僕らの世話をしてくれないと困るよ。アグネスはがさつだし」
「……すまない」
「だから謝らないでよ」
「……一刻も早く助けたい気持ちは私も同じだから」
「アルマは僕を捕らえるために攫われたんだ」
「ラムザ、」
「だから必ず教会の方から接触してくる。そこから切り込もう」
今、ぼろぼろの僕らが救出できるとは思えないしね、とラムザは薄く笑った。アグリアスは真っ直ぐラムザを見つめていたが、小さく頷いてから立ち上がった。
「食事を持ってくる」
彼女は先ほどと同じようにラムザの頬を触った。そしてぎこちなく微笑み、部屋を出て行った。
スープを飲み終え、ラムザは眠れないまま窓の外を眺め、アグリアスは側の椅子に座って剣を磨いている。
「アグリアスさん、もう眠ったら?」
僕は眠り過ぎたみたいだからもう少し起きているよ、とラムザは肩を竦めた。するとアグリアスも同じ仕草を返す。
「……使える部屋も寝台も無いんだ」
「え?」
困ったようにアグリアスは剣を膝に置いて溜息を吐いた。
「まともな部屋は他に一つしか無い。ラッドとムスタディオがベッドを使って、アグネスとジャッキーは床に眠っている。それでいっぱいだ」
「で、後はこの部屋だけ?」
「そういう事だ」
「椅子、それとも床? この三日間あなたが眠ったのは」
ラムザは呆れてアグリアスを細めた目で見る。
「……毛布はあるから」
「隣にどうぞ」
「いや、怪我人が優先だ」
「二人で眠れるよ」
「いや、」
「ちゃんと体力を回復してもらわないと困るんだけど。隊長命令にしようか?」
アグリアスはいつになく動揺して剣を眺め、そして覚悟したように鞘に収めると立ち上がって椅子に置いた。
「どうぞ」
ラムザが体をずらすとアグリアスは緩慢な動作で上着と靴を脱いでベッドに上がってきた。
「どうしてそんなに緊張するかな……」
今更、と言わんばかりのラムザの声にアグリアスは溜息で答える。そして横臥してラムザを遠慮がちに見つめて言った。
「おまえは三日間、よくうなされてもがいていた」
「……今夜は大人しくしてるよ」
「そうじゃない。私が隣に眠れば酷くなりそうに思う」
真摯な目は暗い緑だった。ランプの灯りは弱い。
「僕は……何か言っていた?」
「……『もう許して』と」
そうしてアグリアスはラムザに背を向け、壁に張り付くようにして距離を置いた。
「……よくある事、なんだ」
ベッドが僅かに軋んだ。ラムザもアグリアスに背を向けたらしかった。
「よくその夢をみる。みた事をはっきり覚えている訳じゃないけど、たぶんそうなんだ」
アグリアスは無言でラムザの言葉を聞いている。
「だから何て事ないんだ」
二人ともが眠ろうとしていた。しかし家屋のどこかから漏れ入る風の音がそれを妨げていた。
「ああ、でも」
ほんのりと笑う気配がラムザから漂う。
「目覚める時に抱き付いてしまうな。助けてって。みんな被害に合ってるからたぶんそうなる」
「それでは」
振動に振り返るとアグリアスがラムザを見つめていた。僅かな距離、手を伸ばすまでもない距離。
「今から抱いていても構わないはず」
囁き、アグリアスはそっとラムザを胸に抱いた。自分でも驚くほどラムザは抵抗を感じずされるままに頭を撫でられていた。懐かしいようなくすぐったい感触に身を捩ると腕が緩み、待ったとばかりにアグリアスの腰辺りを抱き返した。今度はアグリアスから笑う気配がした。
「困るね」
ラムザは少しばかり拗ねたように言う。
「そうなのか?」
「あなたに触れられるのは気持ちがいいんだけど、とても嫌でもあるんだ」
「……」
「違うと分かっている気もする。でも、僕は」
アグリアスからは甘く何かが香った。春の盛りの風の匂いかもしれなかった。
「とても醜い。あなたをそれに染めるようで嫌だ。そして同じ場所に染めてしまいたい気持ちもある」
「私は構わない」
「それだ。あなたがそう言うから」
「何」
「酷い事をしたくなる。あなたに僕を嫌って欲しくて、それだけで頭が一杯になるんだ」
ラムザは呟きアグリアスを仰ぎ見た。その時、揺らめいていたランプの光が消えてアグリアスの顔は暗いばかりになった。
「そうすればいい。きっと何かが解かると思う」
「解かる前に嫌いになるね。賭けてもいい」
「私の昔話と交換ではどうだろう」
「そんなに聞きたい? まあ、どっちにしろあなたの話は簡単だからもういいや」
むっとした風情でアグリアスが身じろぎした。ラムザは小さく笑って続ける。
「尊敬する上官と恋仲だったんだよね? それでその人はあなたに何も言わずに前線に出て行方不明になった。あなたは残されてとても怒っている」
「ちっとも簡単じゃない」
「簡単だよ」
ラムザはアグリアスから手を離した。彼女もつられたようにラムザを手放す。
「その人は、あなたの恋人じゃなかったんだ」
暗闇ではない濃い青の中で二人は互いの目を探した。
「あなたにはそうでも、その人にはあなたは違うものだった。だからその人は全てを話す事はしなかった。あなたを巻き込む覚悟が持てなかったんだ」
アグリアスには、それは愛していたからこそ巻き込めなかったのだと思えた。それだから彼女は未だ怒っているのだ。しかしそれを言う気にはなれなかった。ラムザには何かはっきりとした根拠があり、それには触れてはならないように感じたからだった。
「僕とディリータもそうだった」
飲み込んだばかりの疑問に答えを投げつけられ、アグリアスはうろたえた。それを楽しむようにラムザは彼女の髪を指に絡めて引っ張る。
「気持ちの悪い話だよ、とても長い話だよ」
「試されるのか、私は」
「聞きたがってたんじゃなかったっけ?」
吐息を数えるように、しばしの沈黙が落ちた。
「……聞きたい」
二人ともが相手に負けたと思った。そしてラムザは話し始める。
その作戦が実行されたのは、ラムザがアカデミーに入学した年の初秋だった。
五十年戦争の終結が宣言され支配層はようやく国内に目を向け始めた。が、既に盗賊の被害や貴族に抵抗する勢力の破壊行為が深刻化して、イヴァリース全域が多大の被害を受けていた、そんな時期であった。
ベオルブ家の領地でも貴族への抵抗勢力による被害が多発していた。領地の広さから言えば比較的治安が良い部類に入ってはいたのだが、小さな村が丸ごと焼かれるという事件が起こって人心に動揺が走った。この集団の実態は貧しい農民や仕事を失った職人達が緩く組織化したもので、戦争を長引かせた王家への恨みを筆頭貴族のベオルブ家を攻撃することで晴らそうとしていた。この焼き討ち事件の後まもなく、当主の代替わりによってベオルブが弱体化したのだ、という噂が当の集団によってばら撒かれるに至り、ダイスダーグはその集団を「獣の巣」と呼び、ベオルブ家の名誉にかけて領内を安寧せしめる事を決意した。
その作戦にはアカデミーの訓練生が多数投入される事となった。未だ国境付近では緊迫状態が続いており、兵士の数が足りなかった事がその理由とされた。また相手は基本的に戦いには素人同然であり、良い訓練となるとアカデミー側が快諾した事も後押しとなった。
ダイスダーグ自らが発案した作戦の内容は、明確で効果的であると思われた。
まず、故意に捕虜を与える。そして偽の情報を流させて「獣の巣」を集め、一斉攻撃によって捕縛するというものである。即ちこの作戦の要は「捕虜役」で、その要にさえ歴戦の者を当てれば良いという点において、人員不足のその時代には適していたのだった。ただし、ごろつき達の中に放り込まれる捕虜の生命は無いものと考えねばならない事から、熟練兵士を「捕虜役」に当てるというやり方には反対意見が挙がった。これはダイスダーグの実弟、ザルバッグが最も強く主張した。
しかし現在の兵力、そして次々と報告される「獣の巣」の被害実態にザルバッグ以下反対派は折れる事となった。「獣の巣」の破壊行動は徐々に苛烈になり、日々十人単位で奪われる命の分、領地に当主への不満が満ちていくのである。また、ここで手ぬるい処置しか取らないならば、「獣の巣」は増長して本当に手に負えない存在になりかねない。ザルバッグは敢えて自分の部下からニ名を選んで兄に進言した。
弟の苦渋の決断にダイスダーグは大いに心を動かされた。そして、作戦に若干の修正を加える事になる。それは、「捕虜役」をアカデミーの訓練生から選ぶというものだった。
その修正案が提出された会議は紛糾した。作戦の「要」がアカデミー生に勤まるものではない、またいかに戦士の子弟であろうと幼い程の子供達を死地にやる親などいない、そんな意見が大勢を占めた。しかし彼らも本音のところでは、熟練兵を失うよりはましだ、と思っていた。親さえ黙らせる事が出来れば、薬を使って洗脳してでも「ひよっこ達」にやってもらいたい、口には出さなくとも多くの重臣がそう考えた。
そして、決定権はあくまでもダイスダーグにあった。当時、アカデミーの運営資金の三分の一以上が、ベオルブの寄付によるものだったのだ。
戦は、修正案を採用し決定された。
そして「捕虜役」には、アグネス・フューラーという、まもなく十七歳になる娘が選ばれた。フューラー家からは抗議も非難も出なかった。
彼女が選ばれた背後には、簡単かつ残酷な理由があった。まずもって、フューラー家にはベオルブ家に高額の借財があった。更には既に成人して嫡子をもうけている兄と、より高位の貴族との結婚を控えた姉がいた。即ち、アグネスという個人には、政治的な役目は既に存在しなかったのだ。そんなフューラー家にダイスダーグが何を囁いたかは想像に難くなく、結果としてフューラー家は末娘を永遠に手放す覚悟を決めさせられたのだった。
彼女はアカデミーの応接室でダイスダーグと面会し、自分の役目だけを告げられた。
『作戦の要であり名誉ある役目をおまえに与える。捕虜となって敵に偽の情報を流しなさい』
その前後を考える事も無く、いや、考えられない程の強力な言葉にアグネスは頷くしかなかった。
「私……どうなるの……」
作戦の三日前、アカデミーのラムザとディリータの部屋を訪れてアグネスは涙を零した。
「先生に、来年は無条件で進級させるって言われたの……去年と変わらない成績なのに……怖い、私はどうなってしまうの?」
自分で言った言葉に半ば気を失いかけた彼女の背を支え、ディリータは無言で眉を寄せた。
アカデミーで三人はよく行動を共にしていた。ラムザには妾腹という中傷、ディリータには庶民に対する軽蔑、そしてアグネスには留年を繰り返している力の無さへの陰口が纏わり付き、他の者との交流が持てないために彼らは自然に集まった。
「アグネス……」
心配そうにラムザが覗き込むと、アグネスは必死の顔で彼を見つめた。紙よりも白い、というのはこのような顔色だとラムザは思った。
「ラムザ……私がどうなるのか……ちゃんと助けてもらえるのか、ダイスダーグ様に聞いて下さらない? それが分かれば少しは気が楽になるかもしれないわ……」
「本当か?」
ディリータの声は険しい。
「本当って……」
「本当に、知って、楽になるのか?」
アグネスはとうとうその場に座り込んだ。椅子に辿り着く事も出来ない程に震えている。
「でも……でも……!」
「待ってよ、ディリータ」
「普通の作戦じゃない。百人以上をまとめて焼き殺した『獣の巣』を捕らえるんだ、無理を承知の捕虜だ」
「ディリータ!」
床に倒れ伏し、声を上げて泣き始めたアグネスの肩を撫でながらラムザは怒って見せた。
「それが本当の事だ。ダイスダーグ様も同じ事をおっしゃるだろう」
「頼んでみるよ!」
ラムザは憤然とディリータを睨み上げた。
「アグネスを外して下さるように頼んでみる!」
「そういう事を簡単に言うなよ……」
「なんだよ、ディリータらしくない、冷たいよ!」
「誰かが行くんだ、アグネスじゃなくても誰かが」
「別の方法があるかもしれないよ」
「無いから、こんな事になっているんだろう?」
「ある、きっとある!」
「俺が選ばれるべきなんだ!」
いきなりそう大声で言って、ディリータは荒い足音で窓に向かった。アグネスは泣き止み、ラムザは口を開けて彼の背中を見た。
「……それが順当じゃないか? 俺には悲しむ親もいなければ、絶やしてはならない血も持っていないんだからな」
外を見ているディリータは僅かに肩を震わせていた。しかし、ふっと気配を穏やかにするとぐるっと大きく振り向いて笑って見せる。
「俺なら絶対に戻って来れるしな。魔法ばかりのお嬢さんとは鍛え方が違うぜ?」
「止めて……ディリータ、そんな……!」
もう一度笑ってディリータはアグネスの側にしゃがんだ。
「安心しろよ、なんとかしてやる」
それから間もなくディリータは、混乱するアグネスを部屋に送って行った。一緒にいたラムザは、通りすがりの教師から応接室まで来るようにと言われて途中で別れた。
微かな予感があった。今日は定例の議会が近郊の街で行われたはずだった。
「久しぶりだな、ラムザ」
低く威圧する声。予想通りに長兄が応接室のソファに座って書籍を手にしていた。
「兄さん……お久しぶりです。お元気そうでなによりです」
眩しく彼を見、ラムザは緊張して背筋を伸ばした。
「うむ。少し背が伸びたようだな。座りなさい」
隣のソファを指差しダイスダーグは薄く笑った。しかしラムザはその場に立ったままだった。
「どうした?」
「兄さん……お願いがあるんです」
その短い言葉を口にするために、ラムザは最大限の勇気を注いだ。彼に願い事をするのは初めてだった。ダイスダーグも意外に思ったようで、ラムザを見つめて黙って待った。
「無理は承知です……でも……あの……」
「なんだ? 言ってみろ」
「……アグネスを、『捕虜役』から外してはいただけませんか……!」
ダイスダーグは珍しく驚きを顔に出した。
「ほう。アグネス嬢とおまえは親しかったか」
「はい……あの、とても親切にしてもらって……」
「うむ」
ラムザは冷や汗を感じて俯いた。いつもこうだ。兄の前では言いたいことの半分も言えない。兄の存在そのものがラムザを萎縮させる。
「アグネス嬢を外して、そして、どうするのだ?」
きた、とラムザは身を縮めた。ディリータと同じ事を兄は言う。分かっていた、ディリータはいつも正しい。
「捕虜にならなくても、情報を流す事ができませんか?」
ダイスダーグは静かに溜息を吐き、ラムザを手招きした。今度は大人しくそれに従い、示された隣に座るとラムザはもう一度言った。
「何か、別のやり方はありませんか……」
「ないな」
きっぱりと否定され、ラムザは、しかし、と言いかけた。その言葉はダイスダーグの鋭い眼光に遮られる。
「それは重臣達とも重々協議した。例えばこんな案があったな。彼らの中に『草』を紛れ込ませ、それによって情報操作するというものだ。もっと早い段階ならそれも可能だったろうが、今は被害が激化する一方、すぐにでも奴らを制圧しなければならない。『草』役が奴らの中である程度の信頼と影響力を得るまで、悠長に持ってなどいられんのだ」
「で、では、奴らの大きな拠点を攻撃すればきっと士気が落ちて、」
「おまえが考えているような士気や連帯感などは奴らには存在しない。そもそも定まった拠点などを作ってはおらず常には一市民として振舞い、策略を思いつけば集まって来るような、実態が有って無い集団なのだ」
ラムザはうろたえて兄の視線の中で身じろぐ。
「そういう奴らのやり方を逆手に取るのだ。奴らは何らかの強力な連絡手段を持っているがために、そうやってばらばらに潜伏していられる。つまりは、『信頼でき利用できる』情報を適切に与えてやれば、奴らを操る事も可能なのだ。そこでこの作戦では、奴らが恨む貴族の子弟であるアカデミーの生徒を使う。生徒達は貴族内部からの有益な情報を与える存在と見なされるだろうから、喜んで捕虜にしてくれるだろう。そして、ベオルブの現当主が少ない護衛と共に郊外に外出する日時を知らせ、しかも醜聞になるような理由で忍んで行くらしいという情報を与えてやれば、ベオルブ家の権威を失墜させる絶好の機会だと奴らが飛びついてくるとは思わんか?」
何も言えずにラムザは俯いた。そういう特殊な形態の集団とは知らなかった。そして兄の自信に満ちた物言いは正しい事に思える。
「私を襲う算段をするにも、その計画を実行するためにも、奴らは大人数を一箇所に集めざるを得ない。それを叩くのだ」
「捕虜役には、どれくらいで助けが行くのですか……」
おろおろとラムザは問い、ダイスダーグは静かに答える。
「最短で二週間だ。『ダイスダーグ・ベオルブが極秘に出掛ける』日時の設定が、作戦開始日から二週間後となっているからだ」
「そ、そんなに、長いなんて……」
「奴らに悪巧みをさせる時間が必要だろう? 短い猶予では行動を起こさせる事が出来ない。更には奴らの末端まで連絡が行き渡るにはそれなりの時間が必要だ。出来るだけ多い人数を一時に捕らえたいのだ。捕りこぼしが多ければ、この作戦によって恨みを深め、より許し難い悪事を繰り返す事になるぞ」
「兄上……」
「ラムザ、時には大胆で無体な行動が必要になるのだ。それが我々ベオルブという名誉と責任ある者の勤めなのだ」
「アグネスには重い役目だと……思います」
「分かっている」
ダイスダーグは沈痛な表情で見つめてくる。
「準備はくどい程に綿密に進めている」
「二週間も監禁されれば彼女の精神が持ちません……きっと嘘の情報だと言ってしまいます……!」
戦士としては屈辱的な評価であったが、アグネスを守るためにラムザはそう言った。ダイスダーグは重々しく頷き、低い声で囁くように言った。
「それは予想済みだ。実行日の前日にアグネス嬢に暗示をかける。魔道士による強力な暗示だ。彼女はその情報が重要な真実だと信じ堅く口を閉ざすのだ」
「待って下さい、兄上!」
ラムザは意味が分からずに眉を寄せて兄の顔を仰いだ。
「それでは相手に伝わらないでしょう?」
「だからだ。なかなか口を割らないからこそ、重要な情報だと奴らは思う」
「口を割らないから……」
「二週間という期間の根拠には、アグネスがその情報を漏らすまでに数日の拷問が必要になるという予想も含まれている」
衝撃を受けてラムザは立ち上がった。しかし、ダイスダーグが強く腕を引き元に位置に座らせる。そしてラムザの肩に重い手が乗った。
「ラムザ」
「そんな、そんな……」
「落ち着きなさい。捕虜になるという事は、情報を漏らしてしまうような拷問を受ける事と同意なのだ。だからこそ、捕らえられれば自害せよとアカデミーでは教えるのだ。拷問の苦痛と味方に与える被害を防ぐために、な」
確かにそれはラムザも授業で何度も耳にしていた。しかしその理由は明確でなく、戦士とは虜囚という辱めに甘んじないものである、そんな意味合いの事を教師は語った。知識上で知っている様々な拷問が脳裏をよぎってラムザはぶるりと大きく震えた。
「拷問なんて! アグネスは僕よりずっと弱いのに!」
「今更誰と代わるのだ?」
端的に核心を突かれてラムザは口を開けてダイスダーグを見つめた。
「男なら良いのか? 確かに男なら苦痛だけで済む場合が多い。しかし、最終的に命が助かる可能性は無いに等しいな」
兄の言葉が再び理解出来なくなり、ラムザは早くなる鼓動を収めようと胸に両手を置いた。
「女だからこそ、命だけは失わずに済むかもしれんのだ」
「兄上……?」
少し躊躇った後ダイスダーグは目を閉じた。
「おまえには分からぬか。その年齢では仕方ないのかもしれぬな」
「女だからこそって……なぜ……?」
「強姦だけでは簡単には死なぬ」
その言葉をラムザはすぐに理解出来なかった。
「貴族への恨みがあるからこそ、奴らは徹底的にアグネスを辱めようと考えるだろう。二週間程度ならば殺さずに強姦し続ける可能性が高い」
「兄上!」
心の深部にやっと届いた言葉に、ラムザは大声を上げた。手を振り、ダイスダーグは話は終わりだと言うように席を立った。
「僕が行きます!」
「馬鹿な事を」
半ば笑ってダイスダーグはラムザを見下ろした。
「僕が……僕が行けば、もっと効果的です……!」
自分が何を言っているのか、正確なところはラムザ自身にも分かっていなかった。
「ベオルブの末弟が語る話なら相手はすぐに信じます!」
「黙りなさい、ラムザ」
「お願いです、兄上!」
ラムザはダイスダーグの腕に縋りついた。
「僕は知ってる! フューラーの借金が理由なんでしょう!」
ダイスダーグが僅かにひるみ、ラムザは勇気を得て続ける。
「それにアグネスの姉上の嫁ぎ先はベオルブの縁故ですよね!? 兄さんが何か言えば、いつでも縁談は壊れてしまいますよね、あの結婚が駄目になったらフューラーはもっとお金に困る事になるんでしょう!?」
「ラムザ、おまえ」
「兄さんお願いです、そんな卑怯な方法でフューラーを苦しませないで! ベオルブがそんなやり方をするなんて駄目です、僕に行かせて下さい!」
「……策略は、統括する者にとって重要な技術なのだ」
「ベオルブの末弟が捕虜になるならば、皆、助けようと力を出します! 『獣の巣』だって、フューラーの娘よりもベオルブの者を囚えたいに決まってます!」
「それは危険が増すという事だ! 生きて帰れないぞ!」
「生きて帰ります! 兄さん達が助けてくれるのだから!」
ダイスダーグの腕に爪を食い込ませてラムザは必死で言った。兄は激怒に近い表情でラムザを見下ろす。
「おまえを失えば父上に顔向けが出来ん」
低くそう言い、ダイスダーグは強引に腕を払って背を向けた。ラムザも言葉を無くしてその場に立ち尽くした。
「おまえを行かせるくらいなら、フューラー家に恨まれ卑怯者と呼ばれる方がましだ」
「兄上……」
「行け、もうおまえの話は聞かぬ」
それきりダイスダーグは無言で窓の外に顔を向けた。ラムザは悄然と項垂れ、その背に頭を下げると部屋を辞した。
同じように、ディリータもダイスダーグに願い出た。しかしそれは、「おまえの役目はラムザを守りその右腕となってベオルブを支える未来にあり、今死ぬ事ではない」という一喝によって潰えた。時に残酷な行為を強いられていたディリータではあったが、ベオルブの若き当主のその言葉には感銘を感じずにはいられなかった。複雑な血の問題はあるにせよ、ラムザがダイスダーグにとって失えない者であると、ラムザを守り生きていく事が自分の使命であると、この純粋な少年は信じた。己の存在が必須であると信じる、それは当時のディリータにとって唯一の生きるよすがであったのだ。
そして作戦は実行された。
熟練の兵士の中にアグネスを含めた隊が、盗賊行為を行って後逃走する「獣の巣」と衝突し、作戦の幕は上がった。
それは、もしも完全に逃走されれば次回に持ち越すという、柔軟な幕開けであったが、一度目の追尾で「獣の巣」は激昂して隊に切り掛かり、正面衝突となった。僅かな戦いの後、気を失った振りをしたアグネスをその場に残して予定通りに隊は撤退した。
作戦は始まった。
ダイスダーグの計画は寸分の狂いもなく始まった。
顔まで隠す鎧を着込んだアグネスの剣が少しばかり上達している事も
彼女が口をきかず、本来よりも僅かに背が低い事も
熟練の兵士がそれらを見逃す事も
全て、ダイスダーグの計画通りに。
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