アーロンがブラスカという存在を知ったのは十になって間もない頃だった。その年、僧院への『配属』が決まり、小さな荷物を抱えて孤児院から送り出された先での事だ。
大人に囲まれる中、それまでの生活とは一変したエボンへの奉仕を目的とした数多の規則を学びながら、まだ細い腕に剣を握る日が続いた。そしてある日その男はやって来た。それまで後見として寝食を共にしていた『部隊長』の手からあっさりと引き離し、貞淑な法衣に身を包んだ男は名乗るやアーロンを院の奥へと連れて行った。目の回るような変化の中、唯一どっしりと構えた存在であった『部隊長』との別れは辛く、目に涙を溜めてアーロンは白い手に従った。
ブラスカはアーロンに個室を与えた。それは院本棟からは少し離れた場所に建てられた一個の別棟であり、アーロンの他にも何人かの少年が住んでいた。部屋の中、椅子に座ってなお涙ぐむアーロンにブラスカはおっとりと笑い、日中はこれまで通りに『部隊長』の指導の下で鍛錬せよと言った。それでアーロンの不安はあらかた消し飛んだ。彼は、見知った者が側にいる、という単純な状態を望む程度に子供であったのだ。
やがて月日が経つと、アーロンは誰に気兼ねもせず息を吐ける個室を与えられた幸運に感謝するようになった。幼さ故に人を求めはするものの、彼の根本の質は孤独と相性が良かったのだろう。
ブラスカは夕餉の後に部屋を訪れ、経典や道徳を唱え、あるいは書を読み昔を語った。子供と日常は仲が良いもので、僅かの後にはブラスカは『部隊長』と共にアーロンが頼るべき者となり、この初期の数年は彼なりに満足と幸せを覚えた時代となった。
子供の日々は長く同時に速く、目の前に積み上がった課題を疑問もなく連綿とこなす事に明け暮れながらアーロンは成長した。そして十四になった年の終わり、いつものように訪れたブラスカに茶器を差し出したのが、アーロンの子供時代の幕引きとなった。
ゆっくりと茶を干したブラスカは、特に断りも説明も慰めもなく、アーロンに服を脱ぐように言った。仰天する時間も与えられずただ言葉に従ったその夜を、アーロンはほとんど記憶に留めていない。続く数週間も曖昧だ。そして記憶は突然、年明け頃の光景の中にくっきりと浮かび上がり、アーロンは当然のように、ブラスカの囲い者であるという自身の立場を心身に馴染ませて生活しているのであった。そして自分が住む場所が、アーロンと同じような立場にいる子供や少年の住む場所であるのだとも理解していた。
その記憶の不自然さは、幼い心が唯一取り得た防衛だったのだろう。その外見からは想像が難しいが、ブラスカは完璧な屈服を要求する男だった。相手が初心であるからといって、それが変わるはずもない。多少の手加減はあっただろうが、まずは苦痛でもって、後には快楽によって完璧な蹂躙を強いられたのだろうとアーロンは想像する。想像するだけ、だ。
ぼやけた記憶の薄皮をゆるゆると揺らせば、そこには一本の皮の鞭が見え隠れする。一度も使われなかった故にその痛みを知らないにも関わらず、圧倒的な恐怖を喚起する固い鞭の色は淡い橙色だ。夕日の中、あるいは果実の上に、アーロンはその色を見て不意に呼吸を止める。それは長じても尚、季節外れの花のように時折やってくる。あるいは、夢という形をとって。
やがて、アーロンは遅い反抗期を迎えた。それはブラスカの結婚に端を発した。
結婚から数年、アーロンは放逐されるでもなくそれまで通りに囲われていた。寺院は、そのような場所だった。まだ十代のアーロンはブラスカの持ち物として留まるしかなかったのだ。
回数は減ったが、ブラスカはアーロンの部屋を訪れる事を忘れはしなかった。それ故に、ブラスカが『かけおち』という泥臭い現象を招き、やがて生まれた娘に夢中になる様を、アーロンはごく近くで見続ける事になった。その日々の中で、否応なく従い崇拝すらした対象が、実は自分と同じ人間だったのだとアーロンは気付いていった。
そこから後は早かった。自分の体を好きに扱って尚、超然と見えたブラスカの中に単純な欲情や凡庸な感情を見つける事に成功すると、次はそれらを露骨に垂れ流させるようにし向け始めた。
単なる反抗期であればこれほど事態は陰湿にはならなかったはずだが、いわゆる『普通の少年時代』知らないアーロンは、成長する体への不安を性的な不安と結びつけた上で、ブラスカに責任を取らせる形で解消する事に決めたのだった。
その中で最も成功したのが、例の『部隊長』への心変わりであろう。それは心変わりではなく閨変えに過ぎなかったのだが、ブラスカには、心変わりと映ったはずだ。
当時のアーロンは愛を知ったようでいて何も得てはいなかった。その代わりに、人の感情を自分の思う方向へと曲げる術を手に入れていた。それは概ね、ブラスカとの関わりの中で培われたものだ。強引な手管をかわして少しでも穏やかでいられるように涙ぐましい努力を続けた結果、アーロンはちょっとした技術を身に付けるに至った。
それを簡単に表現するならば、『媚び』だ。元々は自己を守るためとも言えた『媚び』は、やがてアーロンの防具となった。ブラスカは、足元に蹲るアーロンにすっかり騙された。『媚び』とは、抵抗しない者あるいは力弱い者である事を表明する行為、そんな思いこみがブラスカに変わりゆく気配を気付かせなかった。
ある日アーロンが清々しく微笑み、「長らく可愛がっていただきありがとうございました」と言い出した時にすら、転属であろうかと考えたほどにブラスカはだまされていた。続く「この程成人し、寺院から離れて生活する事となりました」という言葉に、まだ給金は充分ではないだろうから援助しようとさえ言った。が、「お気遣いには感謝致しますが、幸い共に暮らす相手もおりますので不自由はありません」とにこやかな声、ようやく事態に気付いたブラスカにアーロンは深々と頭を下げた。
待ちなさい、と言いかけた目の前でドアが開き、ブラスカの表情が僅かに変わった。『部隊長』から昇格して『護衛長』となり、ブラスカに迫る程の権限と人脈を手に入れていた男がそこにいた。ブラスカの前、二人は睦まじく肩を並べて部屋を片づけた。荷物は瞬く間に一つの箱に収まり、それではと彼らが後にしたがらんどうの部屋の中に残ったブラスカは、それ以降アーロンと会う事はなかった。
となれば、それはそれで決着も着いたのだろうが、実際には二人の関係はそれ以降も続いた。アーロンと『護衛長』は長く続かず、一人身となった彼の元には再び当たり前のようにブラスカが訪れるようになったのだった。それはブラスカが妻を亡くしてから、よりあからさまになっていった。
アーロンは勝利した。端から、そのためだけに護衛長を利用した。それは回り回って彼を左遷に追い込む事になったが、アーロンには一片の悔いもない。かつて己を、底の無い焦燥と屈辱そして悦びに突き落とした支配者はいなくなったのだ。
残ったのは奇妙な立場にいるというだけの、取り立てて述べるものもないただの準召喚士に過ぎず、情交という布で包めば己の牙は知れども相手のそれは見えない。ある種安定し双方向に利益のある関係、それには終わりが無いように思われた。
だが、ベベルの地下牢で遺跡から来たと言い張る男と出会った時、アーロンは『終着』を見る事となった。なぜそう感じたのか説明は出来ない。おそらくは、隣で笑っていたブラスカの気配に拠るのだろう。幼い頃、その気配だけに頼り先読むことで関心と保身を得ようとした、悲しい癖の名残だったのかもしれない。
何にせよ、アーロンは気付いた。特に苦痛も喜びもなく、『終わった』と。
そして事実、二人は終わった。
「アーロン?」
ブラスカが覗き込んでいる。
「珍しいね、寝坊なんて」
あ、と小さく声を上げてアーロンは飛び起きた。
「申し訳ありません!」
「いいよ、君が疲れているのは知っているから」
慌てて身支度を整えるアーロンをブラスカは苦笑でねぎらう。
「元気が良すぎるからね、ジェクトは。君がはらはらしっぱなしでも無理は無い」
「いえ、自分は、」
「朝食がもうすぐ出来るよ」
言葉を笑顔で遮り、ブラスカはテントから出て行った。
三人で綴ってきた旅は既に終盤を迎えていた。ナギ平原での最後の野営を終え、今日から雪に閉ざされた山に入る。アーロンは頭を一つ振り、剣を担ぐとテントを這い出た。
「めっずらしー事もあるもんだな!」
「……悪かった」
なんだよしおらしいじゃねえかと、大口を開けて笑うジェクトを綺麗に無視してアーロンは火の側に寄り、鍋を掻き混ぜているブラスカに頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。交代しましょう」
「いい、と言っただろうに」
小さく笑うブラスカに笑み返してアーロンは場所を代わった。まだ、腹の中に何かが回っている感触を、生々しく理解する。
「もう少し野菜を入れましょうか」
毒がいい。
「そうだね。同じものばかりが続くけれど」
「ジェクト、それを取ってくれ」
「どれだよ」
どれでもない。ここにはない。
「ああ、こいつか。甘くなるんじゃねえか」
「ならない」
甘く、など。
「アーロン?」
いや、毒ならば。
きっと。
「アーロン?」
「あ、はい」
「顔色が悪いよ。大丈夫かい?」
「なんでもありません。少し夢見が」
ブラスカの顔を見つめると、酷く遠い場所から現状を観察しているような気分になった。不意に目覚めた真夜中、隣に横たわるブラスカを見るとも無しに見ていた時に突然襲ってきた感情を思い出す。身震いしそうになる何かを飲み下すように押し殺した。
「夢見が、悪かったもので」
そう答え、出来上がったスープを各自の皿に注いだ。
「緊張しているのか」
呟くようにブラスカは言い、アーロンから皿を受け取る。
「そうかもしれませんが。山の冷気に当てられたのでしょう」
ふうん、とジェクトがあくびのように言い、そっとブラスカの手がアーロンの額に触れた。熱はないねと微笑みを含んだ声。
なぜ、と。
アーロンは無風の湖面のような感情で思う。かつて完全な保護の下に体を重ねていた頃よりも、ブラスカを親しく近く感じている。それは少年だったアーロンが真実欲したもので、今更与えられても仕方のないものだ。
報復、か。
心変わりという形で反逆し、プライドを踏みにじった事への報復なのか。
しかし、しかしだ。
この現状が報復とするならば、ブラスカはかつて、アーロンが望んでいたものを知っていたという事にならないか。知っていて与えず、得体の知れない支配で代替し、知りたくもないものを詰め込んだ?
「山越えは二日もあれば成るらしい。少しの辛抱だよ」
ならば、報復すべきは俺だ。
腹の底に、スープでは無い何かが重く溜まる。
最後に裏切るのは俺だ。
アーロンは捻るように顔を上げた。
「本当に大丈夫かい?」
ブラスカに覗き込まれ、スープの中にパンが落ちた。
「ヤバイぜ、こいつ」
ジェクトも大げさに眉を寄せている。
「いえ。本当に大丈夫です」
スプーンでがつがつと食事を終えてアーロンは皿を置いた。
「まああれだな、登りゃあ目も覚めるってこった」
ジェクトもまた、がらんと皿を放り投げて首を回した。
「さあて行くか。ああまで白いってのはやりきれねえがなあ」
三人は山を振り仰いだ。そこには確かに白い山があった。
ナギ平原を出て山際に入ると一気に気温が下がった。相変わらず半裸のジェクトをブラスカが気遣うが、本人は一向に気にする気配が無い。
「それにしてもよ、山登りまですることになるたあ思わなかったぜ」
腕組みをしてジェクトが立ち止まった。ガガゼトの山門が眼前に聳えている。
「道はほぼ一本だと聞いている。迷う心配が無ければそう苦しいものでもないだろう」
山を見上げるブラスカは柔和に笑った。その、張り付いた笑顔と無表情とにどれだけの差があるか、そんな事を思いながらアーロンは彼に並んだ。
「はっ、簡単に言ってくれるじゃねえか」
「なんだいジェクト、無理ならここで待っていてもいいよ。後で戻って来るのだし」
「バーカ、てめえらだけじゃ危なっかしくて話にならねえ」
「ブラスカ様、まずは長老にご挨拶を」
「ああ、どちらにおられるのかな」
「長老? なんだそりゃ」
「ガガゼト山はロンゾ族の聖域だ。長の許しが、」
首を巡らせると山門の脇に何人かの人影が見えた。声を掛けるまでもなく、進み出たブラスカは丁寧な礼を取った。
美しい。
舞うような彼のエボン礼に、アーロンは密やかに唇を歪めた。彼は美しく、正しく、そして傲慢な支配者、だった。
そう、『だった』のだ。
太陽が天頂に差し掛かろうとしていた。ゆっくりと姿を見せた長老とブラスカは、穏やかに礼を交わしている。雪山からの照り返しに目を細めながら、アーロンはブラスカの背を見つめた。どれほど、何度、見つめたか分からない背だった。
「済んだか、おい済めって陽が暮れるっつーの!」
からりと空気を割って声が響いた。太い腕があっさりとブラスカを振り向かせる。
「ちょ、ジェクト、ああ申し訳ありません!」
ジェクトに引きずられながらブラスカが叫ぶ。長老は気にした風もなく、何度か頷いてから両手を上げた。
「ロンゾは皆、ブラスカとそのガードの武運を祈る」
静かに、低く、ロンゾ達が歌い出した。
「ありがとうございます、ああもうジェクト、帯を引っ張るな、解けるだろう!」
ばしりと手を叩いてジェクトを剥がすと、ブラスカはその場でもう一度深くロンゾ達に礼を贈った。
「行こう、アーロン」
瞬間、アーロンは動けなかった。反転した景色を眺めるようだったのだ。間違いなく見えてはいても実像を掴めない景色を、自分には決して与えられなかったものをやすやすと奪い与えた者達を。
「アーロン」
瞬きを繰り返し、アーロンは顔を上げた。白い道にブラスカが立っている。
「……はい、参りましょう」
そしてやはり背だけが目に映り、瞬間、甘い香りが吹き抜けた錯覚にアーロンは額を指で支えた。
かつて、『抵抗』を知らなかった時代にブラスカに連れられてベベルを出た事があった。行き先は忘れた。たくさんの花が咲いていた事は覚えている。
遊山、だった。少なくとも表向きは。僧にそれが許されるものなのか、アーロンには分かりかねたが従うより他はなかった。いや、決して辛いものではなかったのだ。一般の生活を知らない少年には見るもの触るもの全てが珍しく美しく、時間は瞬く間に過ぎ去った。
ブラスカは度々アーロンを置いて単独で出かけて行ったが、この遊山にはアーロンの顔見知りでもあった僧兵が数名同行しており、一人の時間を持て余す事はなかった。振り返れば、これら顔見知りから何かしらの揶揄や意地の悪い言葉を聞かされた事は一度も無い。遊山にも離さず連れまわすような見目の良い少年が、僧にとって「何」であるかを知らぬ者などいなかっただろうに。事実として、僧に限らず高位者の「御手付き」となる事は出世への近道ではあるから、やっかみくらいは身に受けても良かっただろうとアーロンは思っていたが、それらしい反応を見聞きした事は皆無であった。随分後に、『護衛長』から、ブラスカが圧力に近いやり方で手を回していたのだとアーロンは知らされるのだが、ブラスカが果たして、何のためにそこまでアーロンを懐深くに入れなければならなかったのかは分からぬままだ。
僧兵らと鍛錬をし、有名な寺院から来た僧の説教を聴こうと訪ねてくる信徒の相手をし、時には茶を飲みながら他愛ない話をした。窓からは特有の甘い匂いが流れ込んでいた。スフィアを見るような滲んだ記憶を辿ればあの断崖に行き当たる。宿から出て右に曲がってすぐの所、谷を足元に抱いたあの崖だ。シンによって荒まされた土地が多いとはいえ観光の名所であったのだろう、そこには腰の高さまでの頑丈な手すりが備えられていた。手すりに身を預けて下を覗けば小さな蛇のように川が流れ、目を上げればはるか遠くまで続く森の木々が一面に白い花を咲かせていた。辺り一帯の空気がその花に染められ纏いつくように甘く、口の中までべたつくようだった。
暖かい土地であったが朝の空気は冷たかった。ブラスカは朝食の席で突然にその日の外出を告げる、というやり方を好んだから、アーロンは毎朝、質素な食事を前にして息を潜めるようにしてブラスカの顔を盗み見た。一人で出掛ける、そう告げられれば「お気をつけて」と送り出すしかなく、清しい空気の中、ブラスカは見送りの声に軽く手を上げて真っ直ぐに歩いて行くのだ。甘い香りを断ち切るように真っ直ぐに。
お気をつけてと。
彼は、手を上げるだけで真っ直ぐに。
追いかけるようにブラスカの周りを回る、白い花弁。
いつも、呼ばれ振り返るのはアーロンだった。いや、考えてみれば、ブラスカの視界に入るために彼を呼びつける、などという行為は許されていなかったのだ。用があるなら側に寄って跪き、声が掛かるのを待てば良い。
それは躾けられたのではなく、アーロンが勝手に決めた事だった。ブラスカの邪魔をしないため、いつの間にか身に付いた行儀のようなものだ。ならば当たり前なのだ。呼ばれない背が振り返る事など有り得ない。
しかしその白い朝の連なりの中でアーロンは待っていた。
暖かい土地と濃厚な空気、白い花弁。
この、非現実的な場所ならば。ずっと呼んでいる自分を見返ってはくれないかと。
振り返った顔に語る言葉など持たなかったのだが。
意志を漲らせて凍った道を登って行くブラスカの背に、アーロンは呟いた。
「まだ、引き返せます……」
ブラスカは微かに横顔を見せた。
「どこへ?」
アーロンは首を振った。ただ、ブラスカの意識に混ざりたかっただけだった。
「私はもう、止まらない」
肯定の代わりの無言に微笑み、ブラスカの足の下で雪が鳴った。その悲鳴に似たいじらしさにアーロンは強く目を瞑る。
今、自分は何を期待したのだろうか。
見渡す限りの白い視界のどこを探したとしても、甘い香りなど残ってはいないのに。
「うおう、すげえ!」
山の中腹辺り、急に空が曇ったと思った途端に強烈な吹雪に見舞われた。相変わらずはしゃぐジェクトを横目にアーロンは飛ばされそうなブラスカの腕を掴む。
「このまま進むのは危険です」
うーん、と首を傾げてブラスカは前方に目を眇める。本当に飛ばされかねない頭の防具を外すと、彼の長い髪がアーロンの顔を掠めて飛び散った。
「この吹雪じゃ先は無理だね。休む場所を作ろうか」
頷き、雪つぶてに逆らってアーロンはジェクトを呼んだ。
「今日はここまでだ。凌ぐ場所を探す!」
「それがいいだろうな!」
泳ぐように吹雪を掻き分けてきたジェクトはほとんど目を閉じている。
「堪らねえよ、目ン玉まで凍っちまう」
「そんな格好をしているからだよ」
ブラスカが手を伸ばしてジェクトの腕に触る。
「おや、暖かい」
「これがあるからな!」
自慢げにジェクトは腰に引っかかっている皮のベルトを指差す。
「こいつがテキトーに温度を調節してくれんだよ。ブリッツ選手の常備品だ」
「ほう」
しげしげとベルトを摘まんで見つめるブラスカの声を聞きながら、アーロンは辺りを見回した。
「あの窪みはどうでしょう」
「いいね、なんとか登るよ」
「おめー邪魔」
「うわ、ジェクト、降ろしてくれ!」
「貴様、なんて担ぎ方を、」
「やかましい、運んでやるだけありがてえと思えや」
ブラスカを肩に担いでジェクトは雪つぶてに突っ込んで行く。
「ジェクト! 絶対にお落としするな!」
「わーかってるって!」
困った様子のブラスカの手が、ゆっくりとジェクトの首と肩に縋る。
吐き気が、する。
このまま一人、山を降りるのもいいかもしれない。そう思った時にはアーロンは二人を追い越して岩の窪みを覗き込んでいた。まるでアルベドの忌むべき機械仕掛けのようだと笑いが込み上げる。
「中は安全だ、お連れしろ」
振り向く時にはなんとか胸の底に嘲笑を収める事が出来た。
「いっちいち命令口調は止めろや、ったくよー」
「ホントにジェクトはあったかいね」
「ああん、だっこして寝ろってか?」
抱き合うようにしてブラスカを降ろすジェクトの声が、意外と深い岩穴に反響を残す。
「ブラスカ様、火をお願いできますか」
作ったように正確な発音で、無感情な声をアーロンは発した。
結局吹雪は止まなかった。
「おはよう、アーロン」
開いた目にブラスカが映る。体中が重い。それほど抱かれたのかと考える。答えは否。僧兵として鍛えた彼にはブラスカの愛撫はただ甘い。しかし、寝台を共にした後の朝は必ず、アーロンの体は金属になったように軋む。
ブラスカは朝に似合う清潔な顔で笑い、手を伸べてくる。同衾した証か儀式のように繰り返されてきたそれに、アーロンはしばし考える。細いばかりの指に縋って起き上がるほどに痛んではいない。ただ、ブラスカがそうしたいというだけなのだ。
それでもアーロンは微笑み、白い手に自分の手のひらを預けた。僧にしては鍛えてあるとはいえその肌は柔らかく、むしろ自分の手の硬さがやけにくっきりと感じ取れた。
「おはようございます、ブラスカ様」
導かれるままに立ち上がる。思いの他強く握られた手、優しい温度と滑らかな感触。
吐き気がする。
溜息のように始終繰り返される胸の悪さ。
「ブラスカ様」
「いい朝だよ」
ぐるり、とブラスカが反転した。彼がどろどろと渦巻き収縮する様をぼんやり眺めながら、ああこれは夢なのだとアーロンは理解した。
「ブラスカ様」
今や一個の点になったブラスカを手に乗せる。
「ああ、これだ」
これが、ブラスカなのだ。
彼の真っ黒な世界。それは、円状の染みのように彼の中にあり、中には誰もいない。ブラスカ自身でさえ、通常はいない。しかし、ある時アーロンが振り返るとブラスカの姿が消え、指先ほどの黒い染みの中にすっぽりと埋まっている事がある。そういう瞬間、ああ、彼だ、と思う。それが、ブラスカなのだと。
「ブラスカ様」
阿呆のように名を繰り返し呼びながらアーロンは点を見つめた。それもまた、微かに蠢き渦を巻くものなのだった。
「……ロン、アーロン、おい起きろ」
「ああ、聞こえている」
頭を振り身を起こした。本当の覚醒だと気付くのに時間は要らない。アーロンは剣を握って立ち上がった。彼の足元にはブラスカが毛布を被って寝息を立てている。
「雪、だいぶマシになったぜ」
「そのようだな」
「ブラスカはもうちっと寝かせとくか」
「ああ、日が昇るまでは。おまえも横になっていろ」
「おうよ」
さすがに冷えたのか、火に駆け寄るジェクトと交代して岩穴の正面に立つ。
「……ここも……」
「何か言ったか?」
「いや」
僅かに青くしかし黒く、山を覆った夜の中に雪が回っていた。それを美しいと思っても良いのか、アーロンには分からない。憑かれたようにアーロンは山際を凝視した。
「ここも」
ぱちりと火が爆ぜ、振り返ると二人は近い位置で静かに横たわっている。
「逃れられない」
回る雪は吸い込まれるように集約しては拡散し、繰り返して次第に軌道が曖昧になっていく。しかし、新たな螺旋が次々と加わり終わりは無い。ざっと音を立てて耳の側を通り抜ける風に、アーロンはくらりと体を傾けた。
夜が、明けるのだ。雪に彩られた夜が。
その他 TOP・・・
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