順調にビサイドでの対面を終えた折り返しの道程、ビサイドからキーリカ、キーリカからここルカへと町並みが騒がしくなるごとにジェクトの足取りは軽くなっていく。
ビサイドのようなのどかな村では夜遊びをするにも酒場での馬鹿騒ぎ程度で、感心なことに禁酒を続行していたジェクトにとっては素面で騒ぐのにも限界があったらしい。彼のザナルカンドとは比べ物にならないとはいえ、ここスピラでも都会にはそれなりに娯楽があり、また尻の軽い女もいる。上機嫌のジェクトとは逆に、軽蔑も露なアーロンは口数が少なくなるのだった。ブラスカはそういう二人の間に入り、仲裁とも合いの手ともつかない口出しをしては笑っている。
雨が降っていた。ジェクトは出掛ける用意をしながらの鼻歌、アーロンは押し黙ってそれを見ている。
「よお、おめぇも行かねぇか?」
ちら、と振り返り、いい笑顔を見せるジェクトに怒りよりも呆れ果てるのが先にきて、アーロンはそっぽを向いて無視を決めこんだ。
「安全そーな女をみつくろってやるからよ。こないだヤリかけた詫びってヤツで」
「なっ、何を……」
先日の未遂事件についてはそれ以降話すことは無かったから突然の話題だった。狼狽を殺せずアーロンは椅子から立ち上がり、盛大にジェクトから後退った。
「ルカみたいな場所でおめぇをどうにかしよーなんて思ってねーよ」
今度はジェクトが口の端を下げて呆れる。言外に相手はいくらでもいる、と言われて傷ついたアーロンは、傷ついた、という事実にショックを受けていた。鼓動が早く、面白そうに見返してくるジェクトに耐えられず、つま先をじっと見る。
「そんな怖がんなって。元々俺の好みってのはよ、こう、掴みきれねーくらいのおーきなおっぱいのねーちゃんだっつの」
まーアレだな、こないだはちと血ィ上っちまって悪かったよ、とジェクトらしい、独り言じみた謝罪。何も返せない言葉に、それでも搾り出すようにアーロンは言った。
「気にしていない……もう忘れた」
本当は部屋を分けて欲しかった。でもブラスカにどんな言い訳ができただろう。それからも同じ部屋で過ごし、町並みが変わる毎に楽しげになるジェクトの気配を感じながらずっと、胸の奥に氷が張っていた。
「そか」
短く、照れたようにジェクトは言った。頭を掻いて笑い、んじゃちょっと行ってくるわ、と部屋を出て行った。胸の中でぴしぴしと何かが鳴っている。部屋の真中に突っ立って、アーロンは実際両腕で体を抱きしめ、それを止めようと必死で雨の音を聞く。
分からなかった。あんなことをされたいなんて思っていたんじゃない。これからも絶対に思わない。でも、狂ったように求められ、全力で抵抗してなお敵わなかったジェクトの強い腕が、今でも体に張り付いているような気がする。僧兵として独り立ちするまでには数え切れないほど剣技で負け、強い年長者に憧れ嫉妬した、その気持ちに微かに似て同時に全く異なる感覚。
完膚無きまでに打ちのめされ思うままにされたら自分はどうなるんだろう。羞恥も及ばないほどのどん底では何が見えるだろう。
征服されたい。あの男に。
「違う!」
そんなんじゃない、そんなじゃない! 俺は、そんな可笑しなことなど望んでいない! 激しく頭を振り否定すればするほど肌が泡だってくる。
どうにもならなかった。考えなど皆無、アーロンは部屋を飛び出してジェクトを追った。
「行ってらっしゃい」
ブラスカの声が宿の廊下の先に聞こえ、アーロンは慌てて立ち止まった。体が静止すると途端に、音が聞こえそうなくらいに全身に廻る血流を感じる。
落ち着け。そう、こんな考えなしでぶつかってどうにかできる相手じゃないだろう。落ち着け、冷静に考えるんだ。
アーロンは荒い息を静めるための深呼吸を自嘲できるまで繰り返した。後でいい。もう一度ジェクトの顔を正面から見て、それから行動しても遅くはない。
踵を返そうとした。
「おめぇくらいのイイ体に当たりゃいいけどな」
全く。
苦笑を抑えきれず、唇をほころばせてブラスカはジェクトを見た。ジェクトは気まずそうに忙しなく足を踏み変え、首を鳴らしている。
いい加減可愛らし過ぎるよ。殴ってもいいかなあ。
「変な例え方はやめなさいって。お待ちかねのルカなんだから、早く行ったらいいよ」
「なあ」
ジェクトは妙に真剣な顔で言った。
「おめぇも行かねぇ?」
真意は分からない。でも気持ちは分かってブラスカは噴出した。なるほど、名案だ!
「なんだよ、笑うなって」
ふて腐れた風にジェクトは側の壁に肘をついて頭を支え、斜めになってブラスカの顔を覗き込む。
「あはは、あは、駄目だよ、私は」
「なんでだよ、ショーカンシ様は色街に出られねえってか?」
「違うよ、私は亡き妻に貞操を誓っているからね」
ジェクトは一瞬固まり、次にブラスカに負けないでかい声で笑い出した。
「わははははは! 何言ってんだ、あんだけイっといて!」
「こらこら、声が大きいよ」
「面白えなあ、おめぇよ」
「本当に誓っているんですよ」
澄まして言うブラスカに顔を寄せる。
「えぼんさんのバチが当たるぜ?」
「だからね、ソッチはともかくとして、例えばあなたがお尻に入れてーって泣いて頼んでもそれはしてあげない、ということで」
「何が、ということで、だよ、いーかげんな貞操もあったもんだぜ」
「いいの、私はそれで!」
「しょーがねーな、不良召喚士さんよ」
至近距離だった。首を上げれば唇が触れるな、とブラスカは思う。でもそんなことはしない。一晩楽しかった、それが自分達の関係の全て。上背のあるこの体に抱きつきたくでも、その匂いに堪らなく惹かれても、そんな感情には意味も名前も無い。
「悪いオンナノコに引っかからないようにね」
首を傾げてにっこり笑い、早く行きなさい、とブラスカはジェクトの背を宿の出口に向かって押し出した。
「おうよ、任せとけ」
ジェクトは背を向けたまま手を振り、のんきな足取りで宿の出口に向かって行った。
あの二人が。
どうやって部屋に戻ったのか覚えていない。気が付くとアーロンは部屋に戻って寝台に伸びていた。あの二人が、とそれだけが頭の中で回っている。
それがなんだというんだ。そうだ、自分はブラスカ様がそういうことをなさる、という事にショックを受けているに違いない。そうに決まっている。
ごろごろと掛け布の上を寝返りして頭を抱える。胸は氷解し、代りに溶けた金属が流れ込んだ。熱く、締め付けられ喉が締まる。肺に溜まった空気は熱を持って体内を焦がしてそこら中に穴を開けているような感覚。
「どうして」
意識の外からその言葉がするりと出た。
「どうして……」
でも、何に嘆いているのか分からない。ただ苦しく、ただせつなく、アーロンは呟き続ける。
ノックの音。
我ながら笑ってしまうほど驚いた。もしかして、という期待を放り投げてブラスカが返事をすると、ゆっくり開く扉の向こうから顔を出し相手に、ほらね、と自分を笑い、アーロンを迎える。
「どうしたんだい、アーロン」
「ブラスカ様……」
青ざめている。具合でも悪いのかと立ち上がろうとすると、さっと側に寄って来て足元に跪いた。
「アーロン?」
彼は膝に手を置き、ブラスカを見上げる。その頼りなげに揺れている瞳に、ブラスカはなつかしい場面を思い出して微笑んだ。幼い頃、よくアーロンはこうしてブラスカに甘えた。辛い事、苦しい事、解決できない自分の気持ちへの回答を得ようと、膝に縋って見上げ、そして必ずブラスカはこう答えた。話してごらん。一緒に考えよう。
「話してごらん。一緒に考えようね」
頭を撫でられてアーロンは眉を寄せた。変わらないブラスカ。最後に頼るのはいつもこの人だった。そもそも誰かに頼る癖のないアーロンが、なぜかブラスカにだけは情けない姿を見せられる。だからなのか。
「ブラスカ様……」
だから、ジェクトも。
「ブラスカ様」
何もかも受け入れるこの人だから、ジェクトは抱いた。
「アーロン」
諌める声でブラスカは言った。アーロンの手が滑るように腰に回ってきたから。
「分からないんです」
「何がだい?」
優しく言いながらも回った手を取るブラスカに抵抗する。胸に顔を埋めて奪い返した手で肩を抱いた。
「アーロン」
「教えて下さい、俺は、」
首筋に唇を触れる。ブラスカは本当に驚いた様子でびくん、と跳ねた。
「どうか……」
戸惑うブラスカの手はアーロンを引き剥がすつもりでその肩に触れたが、震える体に止まる。
「お願いです……」
囁く声でアーロンは懇願する。実際、何を求めているのか分からない。でも、ブラスカならばきっと、答えをくれる。最後にこうして甘えてからもう十年も経ったろうか、しかし昨日の事のようにブラスカの微笑みを覚えている。一緒に考えよう、とアーロンの話を聞き、言葉にならない思いを言い当て、いつまでも隣に座って相手をしてくれた。
「ブラスカ様……」
首に縋った手に引き寄せるための力が入る。抵抗は無く、ブラスカはアーロンに唇を許した。押し付けるだけで離れる唇、キスさえ不慣れなのか、と思ったのはつかの間、強く抱かれて椅子から立たされるとベッドに崩れた。
ブラスカは頭防具だけははずしていたがまだ複雑な装備を付けていた。アーロンは手早くそれを脱がしていく。それもそのはず、僧院育ちのアーロンは僧服や装備を知り尽くしている。素直で賢いアーロンは幼い頃から僧官にも寺院付の召喚士にも評判が良く、僧兵になるまで高僧達の身の回りの世話などをよくこなしていた。特に儀式の準備は得意とするところで、祭壇の手入れから着替えの手伝いまでアーロンの知らないことはない。ブラスカの、正式とはいえ手を抜き加減の召喚士の装備など、目を瞑っていても脱がせられるのだろう。
裸の胸を曝し、ブラスカは妙に恥ずかしくなった。ジェクトには気にならなかったのに、と思い、不意にアーロンが若いからだ、と気付く。苦笑してブラスカは帷子を脱いでいるアーロンを見上げた。体格の違いはあってもアーロンの肌の方が抱かれるに相応しい美しさがある。目の前で見るアーロンの裸体はいかにも健康そうで希望に溢れているように見えた。きっと自分もかつてはそうだったのだろうが、今はそうそう人に見せびらかすものではなくなった。灯りも消さない部屋で抱かれるために曝すなど哀しいことだなあ、と溜息を吐く。が、致し方ない。圧し掛かるアーロンの背中を慰めるように抱いた。
剣に鍛えられた固い手の平が頬を包み、唇が落ちてくる。存外に濃厚なキスをされてブラスカはふっと力を抜いた。
キスも若いな。
体の重みを受け止める。つるっとした舌は快感よりも情熱を伝えてかすかに木の香りがする。真っ黒な髪は揺れるランプに煌き星の瞬く夜のようだ。閉じた瞳、太陽の匂いのする体、何もかもが若い。
ジェクトのキスはねちっこかったな。
逃げれば追ってくるし絡めれば酔わされる。角度を変えて唾液を混ぜ合うと髭を食べそうになった。幻光虫を溶かした特殊な水に長く浸かる結果、ブリッツ選手の髪は固くなるのだと聞いていたが、触ったのは初めてで本当に固いのだと知った。ぴったり張り付く手の平は乾いていて想像よりも柔らかく、体からは獰猛で同時に繊細な、なにものでもない「ジェクトの匂い」がした。闇の中の熾火のような赤い目はずっとずっと、悪戯小僧の視線をブラスカに投げ、褪せた黒髪、傷だらけの膚、整えられた筋肉の収縮と弛緩、ジェクト、ジェクト、ジェクト。
目を見開いてブラスカはアーロンを見た。目の前の彼は美しかった。
「アーロン」
アーロンは返事をせずに起き上がり、ブラスカを見て首を傾ける。
「アーロン」
「どうしました?」
初めて聞く熱っぽい声。
どうしよう。どうしよう、やめたい、なんて言えない。どうしよう、したくない、どうしたら。
「……ブラスカ、様……」
傷ついた目でアーロンは見下ろしている。
「アーロン……?」
「……申し訳、ありませんでした」
静かにアーロンはブラスカの上から退いた。足の側に座り、ふう、と息を吐いて片手で額を覆う。どうしたんだ、と体を起こすとシーツの上に転々と染みが出来た。それを不思議な気持ちで見つめる。
「申し訳、ありませんでした……」
アーロンはベッドから降りて膝をついた。ブラスカの手に自分の手と額を重ねて請い願っている。
「許して下さい、どうか、」
呟くようなアーロンの声に、ブラスカは呆然と頬を触った。
「どうか、お泣きにならないで下さい……」
アーロンもまた、泣いていた。
ルカでの滞在は数日続き、一行はブリッツ観戦を楽しみ都会の猥雑な雰囲気を味わった。主にはブラスカが知己に会うために滞在を引き伸ばしたのだが、そこにはジェクトへの労いの意味もあったようだ。その労いを心行くまで楽しむジェクトは、夜毎街に繰り出しては朝はいつもアーロンに叩き起こされて半分眠ったまま朝食を食べるのだった。
明日の朝にはいよいよ出発、となり、それでも出掛けようとするジェクトにブラスカは拍手を送っている。そんな二人を横目に、アーロンは黙々と旅支度を作っていた。
「んじゃな、今晩は早めに戻るわ」
相変わらず短く楽しげな台詞を残してジェクトは出て行った。
「これから先は野営が増えるね。魔物しかいない場所が続いたらジェクト、退屈で死んじゃうかもねえ」
ブラスカののんきな言葉にアーロンは肩を落とす。
「ブラスカ様……」
君の方が死にそうだね、と呟いて笑い、ブラスカもアーロンの背後で自分の装備を点検し始めた。
「俺は、ブラスカ様が心配です」
「なんでー?」
「そういうのをカラ元気っていうんですよ」
「言うようになったもんだね」
くすくす笑うブラスカをねめつける。
ぎくしゃくしないのはブラスカの精神力のおかげ。アーロンは何事も無かったように自分に笑いかけ、泣くほどの相手を煽りすらして街に送り出すブラスカに、正直完敗した気分だった。
結局ジェクトはどちらに対しても何の未練も無く、事実を過去にして強烈に前向きだった。
アーロンは眉から力を抜き、肩を竦めた。おそらく、自分がジェクトに惹かれる理由もその前向きさであるのだろうと思う。様々な出来事に囚われながら心を叱咤して歩いていく自分と比べ、歴然としたジェクトの自信に満ちた足跡の輝き。得られないのならせめて自分の中にも足跡を付けて欲しいと思い、彼の奥深くに触れることで、何かを理解できるような気がした。全て、ジェクトというカリスマへの憧憬なのだ、そうアーロンは結論つける。まだ、胸の奥は引き攣れてはいたが、それを思ってはいけない。
果たしてブラスカも、そのジェクトの輝きに惹かれてそしてその輝き故に諦める事ができたのだろうか。それともまだ。
恐るべき速さで自分の荷物を作っているブラスカを眺める。いいかげんな括り方したら崩れますよ、と手を出したら叩かれた。
「ちゃんとできてます! 失礼だな、もう!」
と、アーロンの目の前に誇らしげに掲げた荷物の紐は早速解けて、スフィアが幾つか転がった。
「……完璧ですね」
「わざと! そう、わざとだからね!」
慌てて詰めなおす背中を笑って見守る。
「うーん」
がんばって詰めている。スフィアが壊れなければいいけど、と心配になる。
「それにしてもねえ。最後の夜に三人部屋っていうのもまた私達らしいっていうか」
誤魔化すようにブラスカは言う。
「都会は宿代もそれなりですからね」
「もうちょっと後先考えないとだめだねえ。まあ、考えても仕方が無いような旅だけれど」
無事に折り返えせたご褒美、と称してブラスカはガード二人にまとまった額のギルを与えた。どうやらブラスカ自身にも個人的な出費の予定があったようで、一人で使うのは気が咎めたようだ。もちろんアーロンは出発後に(今渡せばどうなるか分かったものではない)ほとんど手付かずの分け前を返す予定だが、ジェクトは当然今夜で使い切るだろうし、ブラスカはいつ使ったものか、確かにギルの袋はすっかり小さくなっていた。
「心配ないですよ。まだ旅は長いです。いくらでも稼げますから」
「そういう生々しいことを言う君は可愛いね」
照れるよりもがっくりして見れば、ブラスカはにこにこ笑って最後の紐を足を使ってぎゅうぎゅう締めている。
「……それでは、何にも取り出せないのでは?」
厳重に捕獲された荷物を見ながらアーロンは呟く。大威張りで大丈夫! と言い切るブラスカを見ながら、やはり自分がやった方が良かったと、止まらない苦笑をアーロンは堪えるのだった。
言った言葉を忘れたのか、ジェクトは夜半過ぎても戻らなかった。
明日起きられなかったらビサイド・オーラカに売っぱらっていきましょう、と提案するブラスカに深く頷き、アーロンは寝台に潜った。
窓の外はまだブリッツシーズン中の人出が残っていて仄かに明るい。ブラスカの呼吸を聞きながら、アーロンは窓際の寝台で横臥し、床から天井まである大きな窓から外を眺めた。
ひとつ、ふたつ、と街の灯が消える。そろそろ街は仕舞いの時刻だろう。ジェクトのザナルカンドは眠らない街だと聞いた。このルカというスピラ第ニの都市が最もはしゃいでいる時間でさえ、ザナルカンドの真夜中のまぶしさには敵わない、とジェクトは言った。ジェクトにとっては頼りないだろうこの街の光。この中のどれか一つが、起き上がって帰り支度をする彼の灯したものかもしれない。そう思ってアーロンは次第に静まっていく街に目を閉じた。
ふっと目を開ける。寝入り端、とはまさにこのことで、反応が鈍いままアーロンは目を凝らして部屋の気配を探った。
ジェクトのようだ。特徴のある歩き方をする。音を殺して進み、寝台が軋む音がした。やっと帰ってきたか、とまぶたを降ろす。
「ブラスカ」
囁き声。
「ブラスカ」
掛け布がごそりと衣擦れの音を立てる。
「おかえり、ジェクト」
いやにはっきりした声でブラスカは答えた。今まで眠っていた者の声ではない。沈黙。寝台が鳴る。
「どうしたんだい?」
「……やりてぇ」
「今!?」
ブラスカはぱくん、と口を閉じた。大声を出すとアーロンが起きてしまう。
「だめだってば」
「だめか?」
「あっちにアーロンが寝ているんだよ?」
「起きやしねぇよ」
「馬鹿、元僧兵がそんな鈍感な訳ない、」
被さってきたジェクトは有無を言わさず唇を塞いだ。口の中で溶けそうなくらいに熱い舌でかき回され、ブラスカは夢中になりかけ、慌てて胸を押して抵抗する。
「だめだって! どうしてもっていうなら表で、」
「ここの宿の親父、うるせえんだよ。さっき俺だって入れてもらうのに苦労したんだぜ?」
「ここでするよりマシだと思、」
またキスで黙らされる。ジェクトの匂いを鼻腔に吸い込み、ブラスカは抵抗を諦めた。
「ジェクト、静かにね」
唇の間から唾液とともに小さく漏らす。
「おう」
ブラスカに息を吹き込みながらジェクトは答える。
香水の移り香はするが酒の臭いはしない。ちゃんと守っていていい子だね。強い髪に指を埋めて撫でる。唇から逃げた舌は耳を這い、首を辿って鎖骨を吸う。痕を沢山残して欲しい、とブラスカは半ば朧の意識で思う。残った半分で静かに、静かにと自分に言い聞かせながら。尻に少し冷えた手のひらが当たって、ぐっと唇を噛む。
「柔らけえな」
指を差し入れながらジェクトは呟く。少しずつ埋まっていく指の形をはっきり感じながら、ブラスカは喉を上げる。上げると声が出そうになってジェクトを引き寄せて唇をねだる。併せた唇の端から流れる唾液をすくっては塗りつけて指が増え、二人の足に跳ね除けられて掛け布が床に落ちた。
「背中……」
「ん?」
「背中から、してよ」
「おう」
ゆっくり体を回す。入ったままの指も粘膜を巻き込みながら回り、甘く鼻に抜ける声をかすかに漏らしてブラスカはきつく目を閉じ、手に触れた枕を掴み寄せて顔を埋めた。ジェクトが引き上げるままに腰を上げると空気を噛みながら粘膜の音が少し大きくなる。
「それ、なんとかならないか……?」
ブラスカは困ってジェクトを振り返った。
「やらしー顔してんな、おめぇ」
「あのねえ、ジェクト、」
「わーかったって」
アーロンはブラスカ以上に困っていた。ショックを受けてもいいはずだが、それよりも動く事もできない自分の状況に焦っていた。浅い眠りの間に寝返りを打ったらしく、二人の方に顔を向けている。不用意に動くと気付かれそうだ。アーロンは混乱しながら自分の爪を眺めたが、
「う、ん」
ブラスカの押し殺した声に、ぞく、と肌を撫でられて思わず目を上げてしまった。シーツに体を伏せたブラスカの上にジェクトが乗っていた。表の灯りはすっかり消えて濃い闇が部屋を覆い、またジェクトが真ん中で眠ると主張したからアーロンと二人の間にはベッド一つ分の距離がある。しかし、少し上げたブラスカの腰の下にジェクトの手が潜り込んで動いている様すら分かってしまう。ブラスカの白い体にジェクトの焼けた肌が絡んでいるから、そのコントラストで二人の行為は顕だった。
「痛ぇか?」
呟くようなジェクトの声がする。
「……大丈夫」
ブラスカの甘い囁き。
「気持ちいい……」
「あんま動かねぇぜ? 上手くイケよ」
「ん……」
激しく絡み合うスタイルが一般的なものだと思っていたから、二人がしていることがアーロンには驚きだった。二人はとても静かだった。ブラスカの伸びた両足は肩幅に開き、ジェクトはその足を跨いでぴったり重なっている。ブラスカの高ぶりに指を絡めて愛撫を続けているが、あれではブラスカどころかジェクトも行けないんじゃないか、と余計な心配をするくらいには穏やかだった。
うっとりと目を閉じながらブラスカはジェクトに任せた。
気持ちが良くて、安心して、少しだけ切なかった。それは、ジェクトの体が熱を持つごとに、彼の肌に残った女の匂いが濃く蘇ってブラスカの上に降りかかってくるからだった。
しんしんと、冷たいもののようにそれは降る。ブラスカの背や髪、体を埋め尽くして降り積もる。花畑に倒れているような良い香りだけれど目に凍みる。きつく閉じても瞼をこじ開けて入ってくるから目が痛い。あんまり痛いから枕に顔をきっちり押し付け直してそれで息を吐く。
「ブラスカ、顔見せろ」
うつ伏せたブラスカの顔を覆う温かい薄茶色の髪を掻き分けながら覗き込む。
「駄目。声が出るから」
ジェクトの代わりに抱いている枕に一層強く顔を押し付ける。ブラスカの足を広げてその間に体を入れて、腰を上げながらジェクトは時折痙攣する背中に唇を当てた。ぐぐもった喘ぎがかすかに聞こえる、ジェクト、と名を呼んでいる。シーツに広がる乱れた髪を掻き寄せ、うなじを暴いて歯を立てても、最奥まで侵入しても、ブラスカは決して顔を上げない。
キスをしたそうにジェクトは髪を何度も掻き上げては覗き込み、ブラスカの唇を探している。きつく繋がってしかし音を立てないよう動きは緩慢、二人は蠢く1つの生物のようだった。目が離せないままに見つめるアーロンは、ジェクトがずっと不安げにしている事に気がついた。髪をひっぱり耳元で囁き、背を触ってキスを落としては一生懸命気を引こうとしている。振り返って笑って欲しいのだ。そう、アーロンは思った。きっと自分でもそう思うだろう。快感に溺れているブラスカはそれに気付かないのだろうか。
「ブラスカ……」
「うん……」
「イっていーか?」
「わ、たしも」
「ん」
数回、激しい動き。ブラスカの背が弓なりに反って一瞬顔が見え、アーロンは彼らに背を向けた。
シーツを滑る体の音、荒いニつの呼吸、ベッドの軽い軋み。
「へーきか?」
ブラスカは返事をできずに肩で息をしている。その肩をそっと触ってキスをし、そろそろと撫で擦ってジェクトは体を離した。濡れた手をぞんざいにシーツで拭いてから朧に霞む背中をしっかり胸に抱く。ブラスカはジェクトの手の甲に触り、指の間に指を入れて交差するように握った。胸に押し付けられる感覚、ジェクトはほっとしてブラスカの髪に埋まって目を閉じる。手の平に速い鼓動が伝わっている。片足をブラスカに乗り上げ、離すものかと絡み付いてみるとかすかに笑う気配がした。握られた指を握り返して体を回そうとすると、
「このままがいいんだ」
ブラスカは囁いた。
「そか」
窓は仄かに月の光を零し、黒い固まりになってアーロンの背中が見えている。不自然なまでにピクリともしないから、たぶん起きているんだろうとジェクトは苦笑した。明日せいぜい嫌味を言われてやるから勘弁しろよ。
「良かったぜ、ブラスカ」
「うん」
握られたままの手を移動し、腰と肩に回して力を入れると、軽い笑い声がして抵抗してくる。
「顔、見せろって」
「こんなの見ても仕方ないよ」
「うるせ、俺様が見てえんだから見せろ」
「やだってば」
行為の後のけだるさと華やいだ親しみを表現してブラスカはジェクトの腕を指を強く引いては体を擦り付ける。それをきつく抱きしめ、耳を噛んでふざけながらふと、ジェクトは動きを止めた。
女の匂い。
洗い落としたはずの匂いが蘇っている。それは、悪い冗談のようにジェクトの汗で流れブラスカを染めていた。粘凋な香りは長い蔓となってブラスカを羽交い絞めし、そこここで花を咲かせては散り急ぐ。ジェクトは腕に降りかかる暖かい花びらを感じた。
「おい……」
「うん?」
「なんか言え、そんな、」
「なに?」
「ブラスカ」
ジェクトは強引にブラスカをあお向けた。微かな月の光が弾ける髪を撫で付けて暴けば、零れる花も照らされた。力無いブラスカは、埋葬される美しい死体のようだった。
「なんで泣いてんだ……」
「泣いてないよ」
「なんでもいー、泣くな」
「泣いてない」
首筋に噛み付けば、く、と哀しげな声を漏らしてブラスカは硬い髪に指を伸ばす。
「やだったか」
「違うってば」
「最初から無理やりだったしな……」
「そんなんじゃないから」
息を殺し、二人は肌ごしに互いの気持ちを探る。沈黙とも間隙ともつかない。酷く濃密でありながら傷つくほどに距離は遠かった。
「勢いで抱いちまった。そこんとこは誤魔化さねえよ」
「もういいって」
「アーロンをからかってたらマジなことになっちまって」
ブラスカの喉が、小さく息を飲んだ。
「舌噛もうとしやがるから手ぇ突っ込んで止めさせた」
「……」
「噛まれてさ、なんかすげー痛くてさ、ホントすげー痛いの。部屋おん出たから行くとこねえし、おめぇにポーションもらおうって、したら鍵かかってねえし。荷物漁ってポーション振り掛けながら、いい加減気が付けって見ててもおめぇ、なんか幸せそーに眠ってて、側寄ったら触りたくなるよーな顔してやがるし、触ったら寝ぼけて腕回してくるしで」
「いいんだ、ジェクト」
「良かねえ、全然」
「次の日もしたんだし、ね。楽しかったじゃないか」
花弁に窒息する澄んだ青い目はジェクトを映して光っている。
「泣くな……」
「泣いてないよ」
頑強に言い張る震えもしない声。ジェクトはそっと口付けた。自分だけを見ている目、言ってしまいたい。こんなに勝算のないゲームも泣かせて辛い相手も初めてだから、もう負けを認めてしまいたい。
「あのな」
唇はまだ触れ合っている。ブラスカはしん、と静まった蒼い湖面の視線をジェクトに注ぐ。それだけしか出来なくなってしまったように、ジェクトの指はブラスカの頬をただ撫でる。
「三日前は一人、ニ日前はニ人を抱いた」
首に回った腕が、押し殺しながらも確かに震えた。その冷たさに、見当違いでも一生懸命頬を撫でる。
「昨日は三人。無茶苦茶だ。そんで今晩、おめぇに似たのとやってみた。こんな色の髪でさ。香水きつくて閉口したけどな。さっきみてぇに背中から抱いてみたけどやっぱだめだったわ」
どう反応していいのか分からず、ブラスカはジェクトの顔を見ようと視線だけを移動した。大事業を成し遂げたようにくたりと体の力を抜き、ジェクトは重なったままぼうとブラスカを見ている。言い澱むように、ごつい指が肩と首の間を往復し、また頬をくすぐる。
「イかねーの。説明すんのむつかしーな、出るもんは出すけどよ、した気がしねーの。イかせたし誉められたし、でもなんか俺様はイってない気がしてよ」
照れたように困ったように笑った。
「さっき、すげーよかった。顔見てりゃ、もっとよかったぜ?」
「ジェクト、」
「おめぇがいい」
ブラスカよりもジェクトの息が先に止まる。言うつもりで言った言葉の重さが、口を離れてリアルに脳内に反響した。ゲームは、終りだ。
「でもな、もうしねぇ。だから泣くなよ?」
狼狽する青ざめた頬に一つキスをしてジェクトは起き上がった。ほぐれた蔦のように力無い白い腕が、ぽとり、とシーツに落ちる。寝台を鳴らしてジェクトは立ち上がり、振り返っていつもの仕草で首を鳴らした。
「あー、やっぱおめぇがあっち使えよ、そこ、汚れちまったからよ」
ブラスカは生まれたての雛のようによろよろと起き、手を伸べた。
「一緒に寝ようよ」
「……明日カタブツが面倒だぜ」
「やだ。ここに来なさい」
消えてしまいそうな語尾に差し出される手、ブラスカはそれを引き寄せ、大事そうに胸に抱えた。
「私がいいんだろう?」
「おうよ」
誤魔化さない。じっと目を見詰めても視線を逸らさない。
「じゃあ、一緒に寝ようよ」
返事の代わりにジェクトは口付けで答えた。ブラスカの頬を撫でる指は緊張して真っ直ぐに伸び、ずっと同じ場所ばかりを行き来している。とても、不安そうに。
「アーロンと寝そうになったよ」
不安を純粋な驚きに変え、片膝を立てて隣に腰を降ろすと慌てて両手でブラスカを包んだ。
「なんだ、そりゃ?」
「アーロンは傷ついて混乱していたよ。君のせいだろうね。だから寝てもいいかなって思った」
「したのかよ」
真剣な声にブラスカは首を傾げた。指先でジェクトの鼻を触る。
「彼は綺麗ですごく情熱的だった。自分の体が恥ずかしくなったくらいに」
「そうかよ」
「髪なんかすごく柔らかくて若草みたいな匂いがするし、キスも結構上手かったよ」
「あーそうかい」
「でもジェクトのことばっかり考えてた」
肩に手を置いて体重を掛け、ジェクトを押し倒す。面白いように思うままだった。腕をつっぱって見下ろせば、まだ不安げな視線は変わらない。
「ジェクトのことばかり考えていたよ? 君じゃなきゃいやだって思った」
ジェクトは探るように見ている。その赤い光に近づきたくてたまらない。朝も昼も夜も見ていたい。ねえ、完璧な君が、本当に私に負けてくれるのかい?
「苦しくて、でも言い出せなくて。そしたらやめてくれたんだ」
唇を合わせる。ブラスカが欲しい舌がねっとりと絡んで唾液が混ざった。
「ジェクトとしたかった」
「そか」
さらさらと触れ合う肌の感触、互いに早い鼓動を感じる。
「君の方が気持ちいいな……」
「アーロンちゃん、かわいそー」
「じゃあ、していいんだ?」
「してぇのかよ」
むっとするジェクトの唇を摘むように食む。すかさず伸びてくる舌を意地悪く避けてからかうように微笑む。
「したい訳じゃないよ。『オンナノコと遊んだ後の君』といい勝負、かな」
ジェクトは素早く反応してきつく尻と背を引き寄せた。
「じゃあ毎日させろ」
「えー、それは無理」
「そんじゃ約束できねえな」
「約束、か」
苦しいくらいのジェクトの腕の中で、不自由な幸せを思ってブラスカは笑った。自分達ほどに、約束が出来ない関係もそうはないだろうと。
じっと抱き合う。互いの気持ちなど探っても分かりはしない。言葉を尽しても肌を密着しても吐息を混ぜ合い体の中にまで侵入し合ってもそんなものは理解にはほど遠く、いっそ沈黙の中にこそ染み入るように分かる何かがある。それだけを理由に抱き合う。仄かな暖かさだけを頼りに手探って見つけ合う。
ふっとジェクトが体を起し、ベッドを降りた。ふうん、と背を向ける形で横臥したブラスカの上に、床に落ちていた掛け布が被さった。同時にやはり猫科の動きでもぐりこんで密着したジェクトは、笑う気配と共に囁いた。
「わーった。おめぇだけで我慢してやる」
完全敗北宣言。ブラスカは一度も遊ぶなとは言わなかった。
くる、と向き直り、甘く腕を絡めながらブラスカも囁く。まるで恋のようだと思いながら。愛のようだと思いながら。
「それじゃ、今度はジェクトのお尻に入れてあげるね」
馬鹿、とジェクトは笑った。
翌日、二人が目を覚ますとアーロンは既に支度を終えて部屋にはいなかった。宿の前で待っていた彼は、装備を背負い剣を背負って遠くを見ていた。
三人は言葉少なくにぎやかな街中を過ぎ、長い階段を登って行く。先頭に立つアーロンに追いついて並ぶブラスカをジェクトは下方から見ていた。
「アーロン、」
「いえ、昨日は良く眠っていましたから」
「……まだ何も言ってないけど」
「持ちます。お疲れでしょうから」
ブラスカの背中で躍っているぎゅうぎゅう詰めの荷物を奪う。ジェクトは追いついてこない。声が聞こえない程度の距離を開けてぶらぶらと登っている。
「……言うね」
「言いますとも」
「……怒っているんだね?」
「もちろんですとも」
しばらく黙々と歩く。振り返ればジェクトはブラスカの歩調に合わせきれないらしく、かなり下まで駆け降りてまた駆け登ろうとしている。
「トレーニングのつもりでしょうか」
「そうだと思うよ」
「階段走りは腰は安定しますが、関節を痛める可能性があります、止めさせましょうか、今度ジェクトを口説いてもいいですか?」
「……はい?」
「だめですか?」
「いや、ええと、」
「ブラスカ様にはもうフラれたじゃないですか。だからあとはジェクトです」
「はあ」
「俺、多情なんです。よく分かりませんが、そうなんです」
「うーん、いや、どうだろう……」
至って真面目な顔のアーロンを見上げてブラスカは返答に困る。どうやら昨夜の一件でキレたらしいとだけは分かった。
「大丈夫ですよ、俺なんかにはなびきゃしません」
「どうだろうね……」
未遂があるこんなに綺麗な子に誘われたら、ひとたまりもないんじゃないかと思う。目の前の背中すら、その若さと希望が日差しに映えて神々しいほどだ。ただ一つの救いは、彼がジェクトが好むような経験豊かでもなければ奔放なタイプでもない、ということか。その辺りでかろうじて自分に軍配が上がるかも、とブラスカが思ったところでアーロンはゆっくり振り返った。
「でももしも、上手く口説けた時には」
とても良いお顔で微笑む。背筋が寒い。
「他でもないブラスカ様ですから。たまには貸してあげますよ」
「……はい?」
「なんなら三人一緒でも構いませんし」
召喚の杖がばたり、と落ちた。追いついてきたジェクトがそれを拾って不審な顔でアーロンを見上げ、固まっているブラスカを見下ろす。
「なんだ、おめぇら?」
「それくらいで驚かなくても」
澄ました顔でアーロンは言い、すたすたと登って行った。固まっているブラスカを揺り起してジェクトが引き摺る。
「どーした、何話してた?」
「じょ、冗談だよね、ね?」
「あ? なんだ? あいつが冗談言う訳ねーだろーが」
「そうかな、そうだね……どうしよう……」
「なんだ? おめぇ、泣きそう」
「泣いてませんっ!」
一足先にミヘン街道の入り口に立ち、アーロンはいかにも睦まじい二人を眺めた。ジェクトは、抱えるようにしながらもちゃんと歩かせているブラスカをからかっている。ブラスカは、少し甘えながらもジェクトの隣を歩いている。
昨夜、密やかに囁き合った意地っ張りな恋人達のように、愛を愛ではないと、恋を恋ではないと、息を潜めて抱き合って決して離れられなくなるような、そんな者には自分はまだなれない。それだけをアーロンに確信させて、おぼろげに見えた想いは形を見切る前に飛び去ってしまった。
まだ、いいんだ。
きっと自分にはどこかに自分だけの相手がいるのだと思う。もしかしてこの世界にはいないのかもしれないけれど、それでもどこかで待っているのだ。この真下の二人のように、絡み合う偶然の糸の先で。
よろよろと登りきったブラスカに手を伸べる。少しだけ、でも真剣に怯えている様子に苦笑した。
「嘘ですよ、ブラスカ様」
微かに安心する気配を漏らすブラスカに聞こえないように付け足した。
本気だったけれど。
その呟きを懐かしく思い出す未来は、まだ遠い彼方。
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