「……大丈夫か、おまえんとこ」
タバコを口から落としかけつつ文太は言った。一昨日に入荷した商品が未だ山積みになっている八百屋の軒先で、雀がつまらなさそうにサトイモを突付いて飛び去っていく。
「待ってたぜえ、文太ちゃーん」
達観した様子の幼馴染がにやりと笑った。
「にんじんくれ、っておい、ナスはいいけどな、レタスはいらねえって、聞けよ入れるなっつってんだろ!」
「食物繊維だぞー大腸にいいぞー」
「そんなもんおからで間に合ってんだよ、俺は生野菜は腹がな、」
「ラクラクピコピコってのが入っててさ、よく眠れるんだってよー」
「なんだそりゃ。適当に言ってんだろ」
「ホントだって」
ラクッコピコリンよお、と奥さんが訂正しながらあくびをする。本格的に暇を持て余している夫婦から早々に退散し、いらぬ買い物で両手を塞いだ文太は勝手口から自宅へと入った。台所で改めて袋の中を覗くと、ニンジンの下にはナスが七本とレタスが二個も入っている。
「どーしろってんだ……」
ぼやきながらよく見えるように冷蔵庫の真ん中に突っ込む。拓海に押し付けちまえ、と考えることを放棄した文太は、やっと手に入れた干し椎茸の入った袋を持って茶の間を突っ切り障子を開けた。
「……」
足元を見てなにやら力が抜け、文太はその場に座ると障子脇の柱に背をもたせ掛けてあぐらをかいた。急に陽が翳った店先を見れば、いつの間にか降り出した細かい雨を巻き込んで小さく渦巻く風が硝子戸を叩いている。
「梅雨入りか」
早いかと思われた雨の季節は、気象庁の発表によると例年と大して変わらない時期にやってきた。ちゃぶ台から灰皿を取り上げて傍らに置き、胸ポケットからタバコを出す。薄青い煙を店の方向に流しながら、上がりかまちに横たわっている物体を眺めた。六日ぶりに見るそれは、狭い板の上に軽く丸まって寝息を立てている。
「どんどん図太くなりやがる」
次に会ったらどう振舞えばいいかと、さすがの文太も少しは悩んでいたのだ。しかし相変わらずの不法侵入に加えて熟睡ときて、すっかり気が抜けた。
「起きろ、コラ」
膝の裏辺りを小突いた。しかし涼介は身じろぎもしない。さわさわと細かい雨が屋根を叩く音が家の中に満ちる中、疲れた顔を隠さずに眠り続ける涼介を跨ぎ、文太は土間に下りた。あるべき場所に椎茸を押し込み、仕事道具を点検する。水槽から水を抜き、まだ泳いでいた三つのとうふをざるに掬い上げた。そうして腰を伸ばした時、硬いものが落ちる音が小さく聞こえた。かつん、と弾く音を細く響かせたそれは、靴脱ぎ場のコンクリートの上、白と茶のレザー製のスニーカーの隣でちらりと光りながら跳ねると、文太の足元まで転がって来た。
「まだこんなもん、持ってんのか」
深海の色を浮かべたビー玉を片手に握り、文太は茶の間の前に立った。緩く握られた右手の中にそれを落とすとまた涼介を跨いで部屋に上がった。
厚揚げをサイコロ状に切って鍋に入れ味噌を溶き、沸騰する前に火を止める。そこで台所を離れた文太は茶の間を覗いた。ちゃぶ台の脇に引きずってタオルケットを被せておいた涼介が、起き上がって壁に掛かった時計を見上げている。
「飯、できたぞ」
「はい?」
ぼんやりしている涼介を放って味噌汁と豚肉と野菜の炒め物を運ぶ。炊飯器をどすんと畳に下ろし文太は顎をしゃくった。
「冷めるぞ。食え」
「いいんですか?」
「もう二人分作っちまった。食ってけ」
「餌をやると居つきますよ?」
「今すぐ帰れ」
「いただきます」
ふーと長く溜息を吐く文太の向かいで涼介は炊飯器から白飯を茶碗に盛り、きちんと両手を合わせてから箸を持った。
「柔らかいな……なんだろう」
野菜を摘み、首を傾げ、口に入れて更に考えている涼介に文太は憮然と言った。
「レタスだ」
「レタス?」
「ああ」
「へえ、知らなかったな。炒めものにも使う野菜なんですね」
「そうだ!」
「?」
男二人の食事は早い。文太がタバコを片手に新聞を読む横で、涼介はちゃぶ台に片肘を突いてニュース番組の流れているテレビを眺め始めた。
「……いつまでいるんだよ」
ぱらりと新聞を捲って文太が言う。
「また何かくれるかもしれないし」
「もう出ねえよ!」
「居つくって言ったでしょう」
「いいから家に帰れ」
「……帰りたくない。あそこには何も無いから」
思わず涼介を見れば、向こうも視線を流してくる。にやりと笑った口元に慌てて活字に目を戻したが、ずりずりと畳を這って涼介は近寄って来た。
「来んな!」
「今日は藤原、帰ってきませんよね。明日定休日で配達が無いから」
「……何言ってやがる」
「俺、知ってるんですよ」
あぐらを組んだ右足の上に頭と腕が乗り、文太は新聞を放り投げた。
「とにかく帰れ!」
「泊まっていいですか」
「帰れっつってんだろうがって触んなコラ!」
べちっと頭を叩くがのしのしと上がってきた涼介に押し倒され、後頭部を畳に擦った。あちち、と頭を押さえる文太の上で、涼介は潜り込むように不精髭の生えた顎の下に頭を置いた。
「ったく……」
「餌やった文太さんが悪い」
「図々しいにもほどがあるってんだ」
「文太さんが増長させているんです」
「……ああそうかい、全部俺のせいか」
「悪いのは俺です。でも文太さんのせいだ」
しらっと言ってのけた涼介は、文太の首と脇腹に緩く腕を絡ませテレビを眺めてくつろぎ始めた。
「いい加減にどけよ……」
返事代わりに首筋に舌が這った。ぎりぎりと耳を引っ張りそこから顔を退かすと、イタイイタイと言いながら笑う振動が胸に伝わってくる。天気予報が終わり、アイドルの歌声交じりのコマーシャルが流れて、文太も諦めたように画面へ目をやった。何がおかしいのか、ぺったりと貼りついたままの体がまた小さく揺れる。やがて耳元に、クイズ番組の景気のいいテーマソングがハミングで繰り返された。
「泊まっていってもいいですか」
返事を期待しない軽い口調だった。それに続くかすかなハミングを聞きながら、文太は無言で腕を上げた。両肩を掴むと手の下の筋肉が警戒したように強張る。ちらりとこちらへ視線が流れた瞬間、後頭部を力任せに掴み締めた。
「う?」
疑問系のうめきを上げて両腕を突っ張ろうとする涼介の背中をがっちりと押さえ、彼から不意にされるキスを真似て唇を舌で捲る。しかしなぜか歯は食い縛られて開かない。これくらいが可愛げがあるってもんだと思いながら煽り続ける。結局歯は噛み合ったままだったが、覆い被さった体から力が抜けていくのを確認して文太はある種晴れ晴れとした気持ちで腕を解いた。逃げるかと思った涼介はぽとりと落ちるように文太の胸に顔を伏せてなにやら深刻そうな溜息を吐き、それを笑って脱力した体を押し退けて立ち上がる。
「そうやってイイコにしてるんなら、泊まってっていいぜ」
涼介は返事をしなかった。
何か忘れていると思いながら、文太は台所の電気を消した。大したことではないだろうと六畳間を開けると、ぱちんぱちんと枕元のスタンドをいじっていた涼介が小さな灯りを残してぷいと背を向ける。自分の布団を踏み越えた文太は、襖の閉まる音と同時に頭までタオルケットを被って丸まった姿をしばし眺め、一気に剥ぎ取った。涼介は半端な姿勢で猫の子のように四肢を固めて目を見開いた。本当に驚いているらしい様子に満足しつつ、圧し掛かって仰向けに転がし、間髪容れずに唇を合わせる。しかし何が気に入らないのか、茶の間と同様に涼介は歯を食い縛り足をばたつかせた。
「文太さん!」
両肩に指をかけて唇を引き剥がし、涼介は唖然と言った。その両手首を握ってまた唇を合わせ、頑なに噛み締めたままの歯列を辿り唇の裏側を捲くるように舌で煽る。何度も頭を振って抵抗する体を潰すように全身で押さえ付け、しつこく食み続けること数分、うん、と唇の隙間からかすかに声が漏れた。それを合図のように硬く強張った手首が緩む。同時に薄く開いた歯列を無視して下唇を吸ってから離れると、涼介はぼんやりと文太を見上げた。
「口、開けろ」
濡れた唇を拭ってやり、そう命じると半分瞼を下ろしながら涼介は素直に従う。
「舌出せよ」
寝起きのようにゆっくりとした瞬きが繰り返される。迷う風情だったが控え目に舌が覗き、それを軽く噛み存分に捏ね回すと自由にしてやった両手が首から背中へと這った。ん、ん、と強請る声を出して絡んでくる体をきつく抱き、欲しがるだけ与えてから顔を離せばすっかり伏せられていた瞼が震えながら上がった。焦点を怪しくした瞳が、灯りを映して硝子玉を思わせる透明さでちろりと光っている。
「……同情?」
ぽつりと言った唇は赤い。捨て鉢に微笑み、涼介の腕がするすると背から腕へと滑り落ちる。
「しろって言ったのはおまえだろう」
そうですね、と視線を横に流しながら強く眉が寄る。刻まれた皺を親指で押し伸ばせば嫌がって頭を振る。
「そうだな、同情か。してるな」
再びきつく唇を結ぶ涼介の額を撫で上げる。
「したがな、一度きりならともかく、そんな理由で何度も野郎に突っ込むほど俺はお人好しじゃねえし不自由もしてねえなあ」
光りながらさ迷い、判断を迷って忙しなく瞬きする目をじっと見下ろす。やがて、文太を見つめた涼介は困ったような溜息を細く吐いた。
――ああ面倒だ、ガキは面倒だ。
拗ねたように尖った唇の先をぶつぶつを動かす顔を見ながら、文太はどこか楽しんでいた。白旗を揚げるようにそれを自覚した。
「わかってんのか、おい」
もぞりと動き、脇から背中へとまた腕を回して涼介はぴったりと文太に抱きついた。ふっと鼻で笑うと憤慨したように爪が立つ。
「ここでくらいは安心してろ。俺はおまえの親にはなれねえけどな、何かをおまえから盗ったりもしない」
一瞬、涼介は硬直した。しかしそれはほんの刹那のこと、足まで絡めて全身で縋ってから、はい、と小さく涼介は頷いた。
最初に気付いたのは涼介だった。
肩の辺りで振動を感じた文太が目を覚ますと、薄暗がりの中で青白い背中が起き上がるところだった。涼介は両腕で体を支え、店と部屋とを隔てる襖に顔を向けていた。頭を軽く傾けたその後姿はどこか幼さを感じさせる様子だったが、漏れた言葉はひどく抑揚が無かった。
「ハチロク」
聞き慣れたエンジン音が家を回り込み台所へと近付く。服を探して畳の上を涼介の腕が滑る。
「寝てろ」
一見、冷静な顔が振り向いた。文太は足元に丸まったタオルケットを手繰り寄せ、無表情を凍りつかせた涼介にばさりと被せた。あの時、忘れたのは店の硝子戸の鍵を閉めることだったと思い至るがもう遅い。
「勝手口から二階へ直行だ。何ともねえよ」
手早く服を着込みながら希望的観測を口にする。返事の代わりに涼介は薄緑色のタオル生地の下で手足を縮めて丸まった。車のドアが閉まる音が小さく聞こえ、トレーナーからずぼりと頭を出した文太がみしりと畳を踏みしめたと同時に、店の表戸ががたがたと鳴った。
「あれ」
間の抜けた声が、しんとした空間に妙に響いた。
「オヤジ?」
ずりずりと踵を土間に擦る音は、拓海が靴を脱ぎながら歩いている証拠だ。
「いねえなら鍵くらい……」
音が途絶えた。しかし立ち止まったのはほんの数秒ですぐにずるずるとまた聞こえる。そして、障子が開け閉めされる気配と共に茶の間の床が重そうに軋んだ。
「オヤジ」
襖を先に開けたのは文太、引手に掛けようとした手を宙に浮かせている拓海の肩を茶の間に押し戻す。
「イツキはどうした」
しかし拓海は文太の腕を受け止めながら前傾姿勢になった。
「誰がいるんだよ」
拓海は踏ん張り、腕を押し返して六畳間を覗こうとする。
「いねえよ」
「……ふざけんな」
機嫌の悪いらしい声で拓海は唸った。わずか、だが確かに上からの視線に睨み込まれながら、文太はもう一度拓海を押して後ろ手で襖を閉めた。
「中、見せろよ」
「ふざけてんのはおまえだ」
「誰だよ」
二人の間で空気が緊張した。ほぼ一方的にキレている拓海を怪訝に思いながら、文太は苦いものを噛むように言った。
「この前おまえが言った通りだ。連れ込んでんだ、聞くな」
「誰だよ!」
間近の怒鳴り声に、文太は細い目を一層細くしてかすかに顔を背ける。
「しつけえな……」
肩を握ったままの指に力を入れると、即座に拓海の手がくたびれたトレーナーの胸元を鷲掴みにする。親子ならではの勘でこれまでは踏みとどまってきたラインをあえて越えてきた息子に、引きずられるように文太の声も低くなる。
「おまえにゃ関係ねえって言ってんのがわからねえほどガキか?」
「知らねえよ!」
「やかましい!」
二人の沸点に大した差は無かった。同時に相手を引き寄せ投げ捨てようとして拮抗し、縺れたまま二人は床に転がった。どすんめりめりと古い床が悲鳴を上げ、文太を乗り越えて襖に向かって這う拓海のベルトが思い切り引っ張られる。ちゃぶ台がひっくり返り湯飲みと急須とテレビのリモコンが空を舞い、突き飛ばしたい拓海と掴み締めたい文太は縺れ合って半回転した。
「拓海!」
固く握り込んだ拳をすんでのところで拓海は止めた。文太の下から奥歯を合わせる音がぎりりと聞こえ、震える拳がごつっと胸の真ん中に押し付けられる。顔を歪めてがつがつと文太の胸を叩きながら、拓海は開こうとした唇を噛んで明らかに言葉を呑んだ。
「……っ」
「拓海?」
息子の表情に文太は眉を寄せた。これを、どこかで見たことがある。儚い記憶が頭をよぎった時、隣の部屋から襖を滑らす軽い摩擦音が聞こえた。それに気をとられた一瞬の隙に拓海が飛び起きる。
「涼介さん!」
障子を開ける前に拓海はそう叫んだ。文太の伸ばした手は途中で固まった。ばつん、と開いた障子の前、跳び出したものの硬直したように上がり縁に突っ立った拓海は、土間の中央に立った背を見つめた。
「なんで」
ぽつりと漏れた声に湿った店の空気が震えた。
「なんで、涼介さん、なんだよ……」
コンクリートの床の上でスニーカーをにじらせ、影と一体になったような長身が振り返った。店の正面辺りの空に月が出ているらしく、逆光に彼の表情はよく見えなかった。たぶん笑っているんだろう、そう文太は思う。
「涼介さん……」
頷くように涼介は俯いた。そしてそのまま頭を落としていく。深く身を折り、涼介は二人に向かって頭を下げた。すっと拓海が息を呑み、無言のまま涼介は背を伸ばすと店を出て行った。
茶箪笥の上から取り上げた車のキーがちゃりんと鳴る。振り返る拓海は責める目をしていた。それを押し退け、文太は土間に下りた。
「……オヤジ」
「あいつ、足ねえんだよ」
振り向けず、言い訳を落として文太は建て付けの悪い硝子戸を開ける。乾物屋の前を歩いている涼介がその音に足を止めた。何を言いたいのかわからないまま追いつき、とにかく腕を掴んで引き戻した。
「帰ります」
「わかってる。送ってやる」
「結構です」
「ぐだぐだ言うな」
「本当に、一人で」
文太の手を一度握り、ゆっくりと解きながら涼介は微笑んだ。月の照らす顔はいつもより白く、硬質に見えた。
「一人で帰りたいので」
そうか、と言うしかなかった。会釈を一つ返すと涼介はゆるゆるとした歩調で静まった商店街を通り抜け、肉屋の角で曲がって消えた。
家の中では、やけに眩しい茶の間の光を背負って拓海がまだ上がり縁で固まっていた。その目の下まで歩み寄り、激情が去らないまま肩で息をしている息子を見上げる。
「……なあオヤジ」
抑えきれないものを言葉に滲ませ、拓海の声はあからさまに震えていた。
「どう、だったんだよ」
ぎくしゃくと唇を動かし、拓海は苦しげに笑んでいた。
「風呂入って寝ろ」
我ながら馬鹿の一つ覚えだと思える台詞を吐いて、サンダルを脱ごうとした。
「答えろよ……」
「わかんねえこと言ってんじゃねえ」
「ヨかったかって聞いてんだよ!」
全身で叫ぶ息子に上げかけた足を下ろす。
「涼介さんのカラダ、ヨかったかって聞いてんだよ!」
拓海はぎりぎりと壮絶に睨み下ろし、食い千切るほどに唇を噛み締めると背を向け荒々しい足音を立てて二階へ駆け上がって行った。力任せに襖を閉める音がそれに続き、文太は首の後ろを揉みながら上がり縁に腰を下ろした。
「……は、冗談じゃねえ」
馬鹿馬鹿しさに笑いがこみあげる。半端に押し込んだキーがポケットから土間に落ち、乾いた金属音が白々しく暗がりの中に響いた。
このところ、拓海の帰宅は遅い。本来企業回りで七時頃には退社できるはずだが、今は宅配まで引き受けて残業をしているようだ。出て行く時もただ台所を突っ切るだけで文太と一切関わりを持とうとはしない。今朝はすれ違いざまに一言、イツキのところに泊まる、と言った。それだけでも上等だ。
店仕舞いを終えた店内で丸椅子に座り、文太はぼんやりと窓の外を飛ぶカラスを見上げた。
昼間が最も長いはずの日、空は一日中雨雲におおわれ淀んでいた。朧に緩んだ陽光は、そのような生き物であるかのように薄暗がりばかりを選ぶあの白い顔を、何度も文太に思い起こさせた。それが戸を開けるのを、この日文太は待っていた。
三本目のタバコが半分まで灰になったところで、風の音とは違う人為的な軋みが聞こえた。硝子戸に影が差し、数センチの隙間が開く。そこに指が掛かってがらりと戸が鳴った。
「こんばんは」
いつもの、感情が読めない平坦な声だった。文太はだらりと立ち上がり、深く煙を吸い込んだ。
「来た、か」
斜め向かいのパン屋から漏れる光が、電灯を点けていない店内の雑多な物を青白く浮かび上がらせている。その一つに成りすますかのように、戸をくぐった涼介は壁に貼りつき静止した。
「疲れてますね」
かすかに頭を左に傾けた涼介の顔に、文太は一瞬世界を遠く感じた。陰影を深くした切れ長の目、高さのある真っ直ぐな鼻筋、持ち主の内心と同じく掴み所の無い笑みを浮かべた唇。濡れた色の髪がかかる頬はこれしか有り得ないと感じさせる完璧な曲線を描き、それは首へ、そしてその下へと続いている、これを、何度も抱いたのか、と。
さあな、とタバコを灰皿に突っ込み、文太は白い溜息を吐いた。
「これきりだ」
何かを仕掛けられる前に口を開かねばならない。
「俺はおまえよりも拓海の機嫌をとりてえ。だからもう、二度とここには来るな」
――母ちゃんと行くんだ!
そう叫んだ拓海の涙を堪えた顔。それをもう一度見ることになるとは思わなかった。第一息子と親父が男を取り合うなど、笑い話にもならない。文太の決断は早かった。
あえて視線を合わせた。右側からのかすかな光を受けた目が、蛍の点滅を思わせる瞬きを数度繰り返す。
「そうなるだろうと、思っていました」
笑うな、と喉まで出かかった言葉を呑む。
「それなら話は早い」
背を向けて白い上っ張りを脱ぎながら、文太は店の奥へと足を向けた。
「今日はおまえの好きなようにしてやる。何でも言え」
「何でも?」
「ああ」
振り返るとすぐ目の前に涼介がいた。
「……音くらい立てろ」
深く首を傾げてから、涼介は文太の肩の上に顎を乗せた。するりと両手が腰に回る。
「やっぱりあなたは、完璧だ」
体重がかかった。しかしそれは、ひどく小さいもののように感じられた。
「何でもいいなら……少しの間、このままでいてもらえますか」
囁きは細く、文太は黙って涼介の背を抱いた。
業務用の冷蔵庫が大げさに振動してからモーター音を途切らせる。しん、と空気が硬直したのは刹那、空から地へと追い迫るような水音が空気を満たし始めた。さわさわと屋根を叩き数を増し、やがて川に似た包み覆う響きで二人の吐息さえ掻き消して雨が降る。
「さようなら」
穏やかに告げる声に顔を上げた。嬉しそうにさえ見える笑みを浮かべた唇が動く。音にすれば壊れるかのように、ぶんたさん、と唇はただ動いて閉じた。薄い布で撫でる感触を残してぬるい体が離れ、文太が命じた通りにさりさりと靴の裏で床を鳴らして遠ざかった。
やがて雨音ばかりとなった店の中で、機械的にタバコを探して一歩を踏み出した。しかし、慣れきったはずの土間は足の下でスポンジのように柔らかく歪み、文太は床に強かに尻を打ちつけた。
転んだ、ということが理解できないまま、文太は飛んだサンダルが転がしたバケツをぼんやり見つめた。
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