豆腐屋で、朝食を。 6

 ささくれた気持ちのままやって来た赤城の駐車場で、拓海はそれが義務であるかのようにひたすら下を向いていた。
「埼玉はあと二戦だな……。次の相手はこれまでの経験を踏まえて当たれば特に苦戦をしないはずの相手だ。データ以上のものは出てこないだろう」
 淡々とメンバーに語る涼介の足元は、今日もレザー製のスニーカーだった。それまではほとんど意識していなかった、右の爪先に二つ並んだ小さな油の染みが目につく。あの夜、店の奥に脱いであった見覚えのあるデザインの靴の先に、この染みを見た後の出来事を拓海はずっと思い返し続けていた。一気に血が頭に上がり、その理由もわからないまま怒鳴り父親を責めたあの時、自分は何に怒っていたのか。何度考えてもわからない。
「大丈夫か?」
 手の中にいつの間にかビデオと数枚のプリントがある。小さく隣から肘で小突かれ、拓海は顔を上げた。苦笑気味の顔で松本が肩を竦めて見せる。
「あ……はい……」
「今夜は相当ボケてるぞ。仕事が忙しいのか?」
「いえ……普通です」
「それならいいんだけどな。無理する前に相談しろよ? ドライバーがへたってたらバトルにならないんだからな」
「すみません……」
「じゃあな」
 背中を叩いて去っていく松本を見送り、一つ溜息を吐いてハチロクへと体を向けようとした拓海はびくりと強張った。
「ちょっと話せるか、藤原」
 目の前に立つ涼介を一瞬見上げ、しかしすぐに目を逸らして拓海は頷いた。じゃあこちらへ、と促されるままにハチロクのテールと茂みに挟まれたベンチの前に並ぶ。
「座れよ」
「……いえ」
 首を横に振りながら、注がれる視線に堪えて下を向く。そうか、と呟いた後、涼介は一呼吸も空けずに言った。
「プロジェクト、止めてもいいぜ」
 数秒、拓海はぼんやりとしていた。意味がわからなかった。そしておっとりと脳細胞が動いた途端、え、と弾かれたように頭を上げた。
「嫌だろう、これ以上俺と組んでいるのは」
 涼介は穏やかな顔をしていた。これといった感情を見せずに拓海を見つめていた。
「そ、そんな、俺、」
「無理するな」
 わずかに笑い、涼介は頭を左に傾けた。
「俺はもう文太さんとは会わない」
 きっぱりと言い切る言葉に拓海は小さく口を開けた。しかし、声は出なかった。
「だからと言って、おまえの気が済むとも思えない。思い出すのも嫌だろう。それならプロジェクトを抜けていい」
 拓海は両手を中途半端に上げ、しかしどうすることもできずにぎゅっと自分のシャツを掴んだ。
「もうセッティングも決まっているから、次のバトルだけはやって欲しいんだ。でもその後のことはおまえが決めていい」
「……俺のせいですか」
 一瞬涼介は目を見開いた。
「俺のせいで、オヤジと……」
「まさか」
 肩を竦めて見せ、涼介は緩く口角を上げた。
「遊びが終わった、それだけのことだ。おまえには関係ない」
 わずか、細めた目が見下ろしてくる。軽蔑じみたその視線に背筋を硬く強張らせ、しかし拓海は反射的に、違う、と胸の中で呟いた。
「次のバトルが終わってから返事をくれ」
 拓海の反応には一切関知せず、涼介は淡々と言って背を向けた。シャツを握り締めたまま、拓海はFCに向かって歩いて行く涼介を見送った。彼は側で待っていた史浩と言葉を交わしてから乗り込み、白い車はかすかな光を纏いながら拓海の前を通り過ぎて麓へと消えた。



 赤城を後にした拓海は、散々迷った末に自宅に戻った。くだらないことには煩いくらいに突っ込んでくるくせに、本気で拓海が落ち込んでいる時には馬鹿話ばかりをとめどなくしゃべり続ける樹にいつまでも頼る訳にはいかない。
 二日ぶりに戻った家は、いつものように表の硝子戸から大豆の匂いのする蒸気を吐き出していた。またそこでうろうろと迷い、結局拓海はその戸を開けた。
「おう」
 白く泡立つ釜を見下ろしながら、文太が一声かけた。
「ただいま」
 早口で言って踵を返した。しかし、何か座りが悪いような気持ちで拓海はもう一度父親の背中に目を向けた。湯気を上げる白い液体に目をやり腕を組んでいる文太は、何もなかったように仕事に集中している。
「オヤジ」
 なんだ、と振り返る顔もまた、拓海が知っている範囲の父親の顔だった。
「あの、さ……」
 硝子戸の端を握って拓海は視線をうろつかせた。
「涼介さん、は……」
「ああ、それか」
 ぶつぶつと沸く湯の音に紛れるような、独り言じみた声だった。文太は再び釜に視線を落とし、腕を組み直した。しかしそれ以上の返事は無い。妙な汗をかきながら、拓海は湯気で見え隠れする文太をちらちらと見た。
「来てんだろ……」
「来てねえよ」
「きょ、今日じゃなくて……」
 耳に血が上っているのがわかって拓海は眉をきつく寄せた。土間を移動する健康サンダルの音がひたひたと響く。
「あいつとは切れた」
 やはりつぶやくような言い方だった。しかしそれは圧力を持っているかのように拓海の顎を弾き上げた。
「だからもう来ねえ。心配すんな」
 いきなり世界がこの店だけの小ささに縮んだかのようだった。何かが胸を押し潰そうとしている。見慣れた作業風景がひどく歪んで見え、何かを言いかけるように口を開いた文太を置いて拓海は勝手口へと走った。そのまま一気に二階に上がると逃げ込むように部屋の襖を閉めて、やっと拓海は胸に詰まった息を吐き出した。
 朝から開けっぱなしだった窓から大豆の匂いのする風が吹き込んでいる。追い詰められた気持ちで拓海は暗い空に浮かんだ薄青い雲を見上げた。



 遠征は何の問題もなく終わった。涼介と史浩は先に峠を離れ、ごちゃつく機材をワンボックスに詰めているメカニック達を手伝いながら拓海は何度目かわからない溜息を吐いた。
「どうした。走りに納得いかなかったのか?」
 眼鏡の奥の目を顰める男に、拓海は慌てて違いますと首を横に振った。
「タイムアタックもいい出来だったけどな」
 どこか慰める声音で松本が言い、いよいよ拓海は焦ってぶんぶん頭を振り回して二人の失笑をかった。
「まあ藤原くらいになれば、俺らにはわからないところでも悩むんでしょうね」
 そう言ってFD担当はワンボックスに乗り込んだ。もう一台に足を向けた松本が、ふっと拓海を振り返る。
「次も期待してるからな、藤原」
 はい、と小声で返事をして拓海はハチロクに向かう。運転席に座ると自然に頭が下がってハンドルに額を当てた。次、という言葉を思い出してまた情けない息が漏れる。まだ涼介に返事はしていない。もっとも、止めるつもりはなどないのだが。
「どーしよ……」
 あの言葉は、涼介こそが拓海と顔を合わせたくないということではないか。
 そう思い至ってからはそればかりを考えている。今夜も涼介は普段と変わらない指揮ぶりだったが、仕草の端々に疲労が見えていたように思えた。そして露骨ではなかったが、確かに拓海との接触を避けていた。
「こんなんじゃ、続けたくても……ダメだ……」
 ぐりぐりと額をハンドルに押し当てていると、ふぁん、と大きくクラクションが聞こえた。タイヤの音がそれに続いて、ハチロクの隣に黄色い車が頭から突っ込んで来た。
「藤原!」
 怒鳴り声に跳ねるように顔を上げ、拓海はレバーをぐるぐる回して窓を下げた。タバコを咥えた啓介が真横に顔を見せている。
「どうしたよ。具合悪いのか」
 眉をひそめる啓介は、本当に心配している様子だった。メカニック達に気遣われた時の三倍は焦って、拓海はただ頭を横に振る。
「じゃあいいけど。俺、もう帰るぜ」
「か、帰ります、俺も」
「そうしろ。とにかくさっさと帰って寝ろよ。おまえまでおかしくなったら遠征どころじゃねえかんな」
「え、あの、啓介さん、どっか悪いんですか」
「俺じゃねーよ、アニキだよ。おまえ、わからねえ? ここんとこずっとヘンなんだけど」
 何かを思い出すような顔つきで、啓介はタバコを灰皿に押し付ける。
「りょ、涼介さん……が……」
「アニキは忙しいからな、疲れてるのが標準装備って感じだけどここんとこマジでおかしいんだよ」
 鼓動が速まるのを感じ、拓海はぎゅっと膝を掴んだ。
「おかしい、って……どう……」
「生きてる感じがしねえ」
 恐ろしい台詞をさらりと言って啓介は自分の顎に指を乗せる。
「つーか、五月頃からすげー調子良かったんだよな。いつもより忙しそうなのに、なんか浮かれてたっての?」
 顎を掻きながら、啓介は眉をきりきり寄せた。
「それが先週くらいからかな、急に終わった感ありありでさ。ありゃ、本命にフラレたってとこかな」
 拓海の手が膝から胸に移動する。押さえていないと心臓が飛び出しそうだ。
「で、でも、涼介さんもてるんじゃ……」
 何を言っているのかわからない。案の定、啓介はふんと鼻を鳴らした。
「いくらもてたって、本気の相手にサヨナラされたら意味ねーじゃん」
「……」
「ああ見えてセンサイなヒトだからさ。まあおまえもアニキが転んだりしないように気ぃつけてやってよ。あ、こんなの俺が言ってたって誰にも内緒な! アニキにバレたら殺されちまう」
 言いたいことを言い終えると、じゃあなと啓介はFDをバックさせ、タイヤを軋ませながら峠を下りて行った。







 ここ数日、拓海の様子が妙だ。

 気まずい雰囲気がしばらく残るだろうことは文太も覚悟していたが、むしろそれは問題になっていない。二日ぶりに帰った後はプロジェクトの遠征の準備だと言って家を出たり入ったりと忙しそうに過ごしていたが、戻って来た翌日からは今度は妙な具合で落ち着かないのだ。
 雨のために遠征の予定がはっきりしないと拓海は言っていたが、少しも緊張が抜けないのはそのせいではないようだった。ケータイとやらを耳に当てて茶の間や台所をうろついていたかと思えば、エンジンをかけるだけかけて発進させずに部屋に戻って行き、また下りてきて勝手口から車を眺める。どうしたんだと聞いてみても、いやちょっと、などともぐもぐと言うばかりで要領を得ない。
 今朝も、帰りは遅くなると言っていたわりには暗くなりきらない内に帰宅して二階に駆け上がって行った。それきり下りて来ないままで、文太は首を傾げながら一人で夕食をとった。

「さて、と」
 きぬごしを切り終えて水に泳がせた文太はタバコを取り出した。相変わらず減りの速い中身は残り二本、紙パックを水場に置きライターを擦る。じりり、と燃える葉の音が静かな店の中でよく聞こえた。
 ゆるゆると昇っていく煙を追うように伸びをすると、ところどころ染みの浮いた天井の木目がよく見えた。大豆の匂いとタバコとが長い時間をかけて染み込んだ褐色の板は、これまでもこれからも重なっていく日々の象徴のようだ。何も変わらずに続いていく時間。それだけがこの店にある。
 最後の煙を吹き飛ばし吸殻を灰皿に押し付ける。今日の仕事は終わりだ。明け方の配達まではすることがない。茶の間へ上がろうと店の奥へと歩き出した時、派手な音が二階から響き、間を置かずにどたどたと拓海が階段を駆け下りてきた。やるな、と思った途端に最後の数段を踏み外した。くっそ、と悪態をつきながら立ち上がり、またしゃがんで携帯電話を拾い上げている背中に言った。
「大丈夫か」
 靴を脱ぎながら見上げると、拓海は大げさなほどびくりと体を揺らして硬直した。気付かないふりでちゃぶ台の脇に座布団を寄せて座り、テレビのリモコンを手に取る。
「オヤジ」
「ああ」
 騒がしいお笑い番組を素通りして、ニュースにチャンネルを合わせる。
「FCが……」
 外れた調子の声に振り返ると、拓海は、見てわかるほど震えていた。
「FCが工場でなんかひどくて……松本さんが見に行ったって……」
「おい」
 とりあえず座れと畳に引っ張る。
「れ、連絡取れなくて……俺、どうしたら……」
 今にも泣き出しそうな顔の拓海はぎゅっと握った携帯電話を凝視している。
「わかるように言え。FCがどうしたって、」
 そこまで口にし、文太ははっとした。拓海を送ってきた白いサバンナ。
「涼介、か」
 がくん、とうな垂れるように拓海は頷いた。
「松本ってのは何だ」
「松本修一さん……ハチロクいじってくれてる人」
「ああ、前にいっぺん来たな。そいつがどうした」
「さっき連絡あって……どっかの修理工場にFCが持ち込まれて、じ、事故車で、廃車にしてもおかしくないって……」
「落ち着けよ、拓海」
 小さく正座している拓海の肩を揺する。
「確かに涼介の車なのか」
「松本さんが間違える訳ない!」
 悲鳴のように叫んで拓海はまた大きく震え、畳の上を膝でいざった。
「お、俺、行かないと……」
「待て」
 腕を握ってもう一度座らせる。青ざめた顔で拓海は文太を縋るように見た。
「落ち着け拓海。涼介はどこだ」
「わ、わかんない……」
「ああ?」
「りょ、涼介さん、ここんとこ連絡取れなくて……啓介さんも探してて……」
「啓介?」
「涼介さんの弟」
「家族も知らねえってことか」
「車だけなんだよ、見つかったの……」
 ひく、と喉を上下させて拓海は唇を歪める。なんだそりゃあと呟き、文太は額を触った。事故を起こした車の行き先は、概ね廃車か修理工場か警察に押収かのどれかだ。だからFCが修理工場に持ち込まれたのは別におかしいことではないのだ。だが、そういう処理をするのはオーナーであるはずで、そのオーナーが行方不明という意味がわからない。
「あいつから誰にも連絡はないのか?」
「史浩さんがずっと電話してるけど、繋がらないって」
「また違うのが絡んでんのかよ。誰だ、史浩ってのは」
「涼介さんの友達で……あ、俺が酔っ払った時に送ってくれた人」
「あれか。秘書が捕まえられねえってんなら厄介だな」
「ヒショってなに……」
「関係ねえよ、おまえは泣いてろ」
 泣いてねえもんと涙声で抗議し、拓海はぶるぶる頭を振った。
「どこだ、その工場」
「えと……前橋の市役所の近くって」
「あそこか」
「オヤジ、知ってんの?」
「ああ」
 首を捻って口を閉じた文太を拓海はじっと見つめた。そしてわずかの躊躇の後、手に持っていた携帯電話をぐいっと突き出した。
「知ってんなら行って見てきてよ」
 手のひらに収まる小さな機械を胡散臭げに見下ろし、文太は二、三度自分の額を叩いた。
「場所、教えてやるからおまえが行け」
「行けない……怖いもん」
 俯き、無理やり文太の手に携帯電話を握らせ、拓海は長い溜息を吐いた。
「……ったく、おまえは」
 きつく目元を顰め、文太は立ち上がった。
「コレ、どうやって使うんだ」
「なんかわかったら俺から電話する。絶対出ろよ」
「だから、どうやったら出られるんだって聞いてんだ」
「音が鳴ったらココ押すんだよ。そんでしゃべったらいいから」
 簡単に言いやがってなどとぶつぶつ言いながら、文太は茶の間から台所へと移動し拓海がその後をとぼとぼと追う。
「おまえ、どうするんだ」
「別のとこ探す」
「わかった」
 勝手口の小ぶりのドアを開け、出て行く文太の背中に拓海はもう一度言った。
「電話、絶対出ろよ」
「ああ、なんとかする」
 ぎしっと閉まったドアの向こうで、低くエンジンが回転を始める。やがてゆっくりと遠ざかっていくインプレッサの排気音を聞きながら、拓海はまたとぼとぼと茶の間に戻った。どさっと畳に座り両足を投げ出して、尻ポケットに手をやった。もう一つの携帯電話がそこから引っ張り出される。ぷちぷちとボタンを押し、耳に当てるとすぐに相手が出た。
『なんだよ』
「藤原です……」
『わかってるよ。新しい番号、ちゃんと登録してやったんだから』
「けーすけさん、何してんですか」
『レポートだよ。さっき終わって今から寝んの』
「そんなのするんだ。大学生みたい」
『みたいじゃなくってそーなんだよ!』
「ふーん」
『ふーん、じゃねえよ。もう寝ぼけてんのかよ』
「違いますよ。……あの、FCちゃんと直りました?」
『ああ、ちょっと擦ってミラー折っただけだかんな。もうそろそろ引き取りじゃねーかな』
「そっか。良かった」
『……なんだよおまえ』
「なんすか」
『泣いてんの?』
「……泣いてねーもん」
『……』
「……」
『おまえ、今どこ』
「家」
『暇なら走りに行くか? 俺も久しぶりに秋名見たいし』
「行く」
『じゃーいつものファミレスのとこで待ってるわ』
「うん」
『飯おごれよ、社会人』
「ヤダ。啓介さん、バカ食いするし」
『うるせー。さっさと来いよ!』
 電話を切ると拓海はハチロクの鍵を持って家を出た。白黒の車体は黙って指示を待っている。
「俺って意外と演技派かも……」
 一つボンネットを叩いてぐっと目元を腕で拭うと、拓海は慣れ親しんだドアを開けた。





 医学部の横を走り抜け、橋の手前で文太は車を止めた。時間貸駐車場にインプレッサを放り込み、スポットライトに照らし上げられて白く浮いている看板を目指して足を速めた。ところどころがへこんだアルミ製の事務所の戸を叩くと、はいはいと返事があってドアが開いた。
「おっ、なんだ文太じゃないか」
 驚く男に久しぶりだなと返して文太は工場内を指差した。
「白のFC、入ってるか」
「ああ」
「邪魔するぞ」
 言うなり、文太は友人を押し退けるようにして工場の中へと足を進めた。
「どうしたよ、文太」
「すまん、急いでんだよ」
 黒のセリカを迂回しながら振り返りもせずに言い、文太は道を塞ぐ作業台をぎちぎちと押し退けた。それで開けた場所に大股で踏み込み工場内を見回せば、止まっているのはセリカの他にはワゴン車だけだった。
「どこだ、FC。しかも流行ってねえじゃねえか」
 ぐるっと振り返ると友人はつなぎのポケットに手を入れたまま肩を竦めた。
「俺んちのことより自分んちのこと心配してろよ。FCならさっき出てったぞ」
「ああ? 出て行った? なんだそりゃ」
「車はエンジンかけたら走るモンなんだぜ、文太ちゃん」
「そーじゃねえ、廃車寸前って事故車だって聞いてたんだ」
「それこそ、なんだそりゃ、だ。ちょっとした物損でミラー折っただけだぞ。ちゃんとオーナーが運転して帰ったぜ」
「そういうことは先に言え!」
「先に聞けよ」
「……邪魔したな!」
 おいおい茶くらい飲んでけ、と呆れ顔の知己を置いて、文太は来た時よりも速い足取りで工場を後にした。インプレッサに戻ると腕組みをして眉間の皺を深くし、そのままじっと考える。
「とにかく、だまされたらしいな……」
 情けない結論にがっくりうなだれた瞬間だった。懐かしいダイヤル式の黒電話の音が車内に鳴り響いた。
「うお!? なんだっ!」
 音はひどく近くから聞こえる。そうだと思い出して胸ポケットを探る。取り出した拓海の携帯電話はちかちかとライトを点滅させて鳴っていた。
「ちょっと待てよ、待てって……コレか? コレだな!」
 なんとか通話ボタンを押すことに成功し、なにやら画面の色が変わったのを見て耳に持っていく。相手は既に何事かを話し始めていた。
『おい、聞こえてるか?』
 そう聞こえた。拓海の声にしては低いように思えるが、携帯電話越しではこんなものなのかもしれない。文太は恨み言を言うべく大きく一息吸った。
『藤原?』
 先に相手の声が聞こえた。言葉を飲み込み、文太は再び眉を顰める。
「……おまえ、涼介か?」
 え、と小さく声が聞こえる。それきり無言になった。
「おい、涼介」
『……』
「返事しろ」
『……なんで文太さんが』
「知らねーよ。拓海に押し付けられたんだ」
『そうですか』
「そうですか、じゃねえよ、おまえどうなってんだ、拓海もずっと心配して、」
『どうもしませんよ。じゃあ』
 ぷつっと一方的に電話は切れた。
「切りやがった」
 文太は唖然と小さい機械の箱を見つめた。きっと掛けなおす手段はあるはずだということは予想しても、具体的な方法が文太にわかるはずはない。誰でもいいから掛けてこい、と念じても、わずかに光る白い箱は沈黙したままだった。
「……仕方ねえな」
 低く唸り、ペダルを踏みしめると文太はキーを回した。







 赤城山から見下ろす下界は光の帯が並ぶ黒い夜だった。
 修理工場からいつもの峠へと直行し、軽く流した後涼介は駐車場に車を止めた。
「問題無い、な」
 ボンネットを叩いて新しいミラーの角度を調整する。そもそも大した事故ではなかった。むしろ誰にも言わずに済ませたい類のものだった。大学への出掛けに門扉で左のミラーを折った、それだけだったが時間が無くその夜のミーティングまで放置していたところ、Dのメンバーがやたらと騒いだのだ。中心は賢太で、その日は来る予定でなかった松本まで呼び出した。彼に顔色の悪さを指摘され、確かに門扉を潜る辺りで一瞬目の前が白くなって手元が狂ったとうっかり言ってしまった。それを啓介に聞かれ、FCを取り上げられた挙句に黄色い車に詰め込まれて両親の病院へと連行され点滴を一本打たれた。
「まあ、近い内に替えるつもりだったしな」
 松本の勤める工場は故障車が立て込み入れることができず、懇意の別工場に運ばれたFCはクラッチ板まで新しくなって戻ってきた。苦笑し、涼介は駐車場から歩き出た。
 一台、二台と走り屋の真似事をしているらしい外車が、耳障りにタイヤを軋ませ目の前を駆け下りて行く。ガードレールにもたれ、涼介はポケットを探った。大学に入ってなんとなく始め、臨床実習がスタートする前に止めたはずのタバコはそこには入っていなかった。車内に忘れてきたらしい。その代わりに指に触れたのは、黒い小さな箱だ。
「藤原め」
 携帯電話を睨み付け呟く。プロジェクトをどうするか、拓海が返答の期限に指定したのは今日だ。そんな日に、携帯電話を人に預けてしまうとは。
「よりにもよって……」
 全力で呼び込むように過労を重ねた結果、ある意味最悪の事故を起こしたFCの引き取り日と重なったのは偶然だろう。しかし。
 ――おまえ、涼介か――
 耳に吹き込まれるように聞こえた声を思い出し、涼介は身震いした。まだ、何一つ思いきれていない。
「どうしろって言うんだ、藤原……」
 問うても返事など無いメタリックブラックの携帯電話を懐に戻し、涼介はFCへと足を向けた。タバコはナビシートの上にあった。それを掴んでドアを閉めた時、近付いてくるスキール音に涼介は素早く顔を上げた。
「……どうして」
 すぐさま白いドアの中に駆け込み、入れ違いに下ってしまうこともできたはずだった。しかし涼介にできたことは唇を動かすことだけで、後は凍りついたように車道を凝視して立ち竦んだ。
 生まれて初めて、涼介は自分の能力を呪った。一度だけナビシートに座り、それも街中をごく平凡に移動しただけの車、それが全開走行する音をどうして聞き分けてしまうのか。そして、その音を耳だけでなく全身で追っているのはどうしてなのか。

 コーナーから鼻面を見せたのは思った通りの車、だが、想像を超える軌跡を描いて涼介の思考を全て奪った。
 夜と朝との間を染める明け色が、常夜灯の白い光を水飛沫のように纏って刹那に眼前を駆け抜ける。夜に沈みながらも鮮烈な青は、迷い無く一本の線上を駆け上がって行く。このホームと呼ぶべき峠で、それは、涼介には見えていないラインを走っていた。
 気が付けば涼介は追っていた。軽い眩暈にふらつきながらたどたどしく、追いつくはずもない残像を求めて車道に跳び出した。
 あの車を追わなければ。
 まともに動いていない脳が反復したのはそれだけだった。遠い感触でダイヤがきしむ音を耳が拾い、それに顔を向けるとハイビームが目を焼く。同時に体を弾くような強さでクラクションがぱあんと鳴った。甲高くブレーキ音が尾を引き、五十センチの余裕を残して涼介を避けた車は半回転してその惰性で駐車場に突っ込み、砂っぽいコンクリートをずるずると鳴らした。
「涼介!」
 慌てた様子でインプレッサから文太が跳び出してきた。
「何してんだ! Uターンしたのが見えなかったのか」
「……文太さん」
「どうした、当てちゃいねえぞ、おい」
 おい、ともう一度言って文太は涼介の腕を掴んだ。まだ車道にはみ出していた涼介はそれに素直に従った。従ってそのまま、文太の体に倒れ込んだ。
「涼介、おい涼介! 当ててねえって言ってんだろ!」
 倒れかかる肩を両手で支えられ揺すぶられながら、涼介は辛うじて答える。
「当たって、いません……」
「涼介?」
「あなたはやっぱり完璧だ……」
 目を閉じ、うっとりと涼介は囁いた。何言ってやがる、と愚痴のように言う声を聞きながら、涼介は力の抜けきった体を文太に預けた。







 数分後、涼介は突如として顔を上げた。面食らっている文太に少し待って下さいと告げると携帯電話をほうぼうにかけ始め、結局来たのは運転代行業者だった。なじみの業者らしく短いやりとりの後キーが受け渡され先にFCが峠を下り、やるべきことをやり終えてゼンマイが切れたようにぼんやりとする涼介を文太は助手席に座らせた。そもそもそのつもりでここに来たのだ。好きにしろということならそうさせてもらうと、文太はインプレッサを始動させた。
 が。


「家に帰ります」

 大鳥居を越えた辺りだった。いきなり気が変わったらしい涼介の声に文太は本気で噴出し、車はかすかに左にブレた。
「何言ってんだ、おまえは」
「帰ります。ここで下ろして下さい」
 横目で見れば、涼介はダッシュボードに置きっぱなしだった拓海の携帯電話を凝視している。舌打ちして文太はわざとらしくエンジンを鳴らした。
「帰らせて下さい」
 気落ちしたように小声で、しかしきっぱりと涼介は言った。俯くその顔をちらりと文太は見たが、長めの前髪で目が隠れて表情は読めなかった。
「なんで今更正気に戻るんだ、おまえは」
「いつだって正気です、俺は」
「嘘つけ。そんなに拓海が気になるのか」
 図星のはずだが、涼介は全く反応しなかった。
「用事を思い出しました」
「あの大層な車を他人に預けてこいつに乗って、今更どんな用事だよ」
「あなたには関係ありません」
「ガキめ」
 むっと睨む涼介を鼻で笑って、文太は白い箱を投げてやった。
「おまえの方がこいつをよく知ってんだろうな」
 即座に膝に投げ返される。
「あいつが自分で俺に渡してきたんだ。掛かったら絶対出ろって言ってな。まあ、お許しが出たってことだろう」
「……」
「これで連れ込むのが気に入らないってんなら、あいつが出ていくのが筋だ」
「俺はそういうあなたは見たくない」
「ああ?」
「藤原を一番にして下さい」
 お願いします、と涼介はうな垂れた。文太は細い目をより細めて毟るようにポケットからタバコを引き抜き、がちりと火を点けた。車は信号で停止する。
「……だからもうちょっとおかしくなってりゃいいって言ってんだ」
 調子が変わった声に顔を上げた涼介に向かって、ハンドルから手を離した文太は身を乗り出す。途端、仰け反る白い顎を乱暴に掴んで視線を合わせた。
「離して下さい……っ」
「よく聞けよ、涼介。親子ってのは、おまえが思ってるほど強くも弱くもねえ」
 わかりたくない、と言うように涼介は手の中で顔を捩ってもがく。
「あいつがいいって言うなら、いいんだよ。何かあるってんならそれは、拓海の問題だ」
「俺は……」
「これで俺がおまえをまんまと逃がしちまったら、泣くのは拓海だろうなあ」
「そんな」
「ボケたあいつにしちゃあ、がんばったと思うぜ、俺は」
 涼介から手を引き、どいつもこいつもガキくさくていけねえ、と文太は呟いた。自分の気持ちに気付かぬまま文太を後押しした拓海も、平凡なやもめ親父とぼんやりした息子に自分の理想を映してだだをこねている涼介も、そして全部をわかっていて腹をくくってしまった己自身も。
「文太さん……」
「黙ってろ、もう」
 前の車が流れ始め、インプレッサは右折レーンに入る。涼介はそれからも帰ると何度か訴えたが文太は無視した。やがて車はゆっくりと渋川に入り上り坂の途中で左折し、店仕舞いの終わった商店街に入った。



 最後の抵抗のように、勝手口を上がった辺りで涼介は置物のように佇んでいる。
 文太は構わず二階へと上がって行った。拓海、と呼ばわる声が家の中に響き、みしみしと階段が鳴る。
「いねえな」
「いない、って……」
「ツレのとこにでも行ったんだろ」
 いい加減こっちに来い、と顎をしゃくってから文太は茶の間へと入った。靴下が脱ぎっぱなしで置いてある。何度言っても直らない拓海の癖で、文太の癖でもある。そしてちゃぶ台の上には新聞に挟まっていたちらしが一枚、白い面を上にして置かれていた。真ん中に大きな字で『ウソついてごめん イツキのとこにいる 配達たのむ』と書いてある。涼介にああは言ったがどこか肩の力が入っていたのだろう、やっと息をついて文太は振り返った。
「来い、涼介」
 遠くでもふうっと溜息が聞こえ、きしりと台所の板が鳴った。
「文太さん」
 目の前まで歩いて来た涼介の顔を見て、文太は借りてきた猫という言葉を思い出した。勝手に上がり込んでくつろいでいた同じ人間とは思えない。涼介は居場所を見つけられないようにうろうろと足を踏み替え、ちゃぶ台の上に残されたメモを見、そして文太を見つめた。
「ウソってなんですか」
「おまえがひどい事故を起こして行方不明で、廃車寸前のFCだけ修理工場にあるとかなんとかいう話だったな」
「……下手すぎる」
「上手くいったけどな」
 ふっと涼介は困ったように笑った。その緩んだ背後に文太は立ち、緊張が戻る前にがちりと組み付いた。
「え、文太さ、」
「うるせえ、いいから来い」
「ぶん、あっ」
 六畳間の敷きっぱなしの布団に二人して倒れ込んだ。
「文太さん!」
「おまえみたいな頭ばっかりのバカは、黙ってやられてりゃいいんだ」
 ぱっと涼介の表情が変わった。悲しみと自嘲の光を目に浮かべ、ひたと見つめてくる。それは哀れにも滑稽にも感じられ、だが、文太には言った言葉を訂正する気はなかった。これは、すこぶる頭が良いくせに自分のことは何一つわかっていない子供なのだ。親に愛されたいと願っている子供のまま止まった時を、決して動かさないと心に決めている。反射的に続いていた抵抗をやめて全身の力を抜いていく涼介を見下ろし、それもまた、誰かによって作られた反射なのかもしれないと文太は思った。
「……わからない、文太さん」
「何だ」
 シャツのボタンを外す文太を見上げ、涼介は不安を隠さない表情で言った。
「俺は、どうすればいいのかわからない……」
「寝てりゃいいんだ。……きっついな、これどうやって履いたんだ」
 細身のジーンズを力一杯に引き下ろす。手伝う気なのか反射の続きなのか、涼介は腰や足をもぞもぞと動かし、すっかり脱がされてしまうともの言いたげな目を向けた。
「黙ってろ」
 くどく繰り返した。言葉で解決できる領域は、始めから二人の間にはなかったのだ。涼介にもそれはわかっているはずだ、そう確信しながら裸体を曝した涼介をきつく抱いた。ふ、と息を止める振動が伝わり、警戒するように体が固まる。しかし、文太が両頬を手のひらで挟むと開けかけた唇は動きを止めた。睨むように視線を合わせ、殊更ゆっくりと近付いて薄い唇を吸う。舌を差し出したのは涼介の方が先、長い手足が文太に絡み、呟くような溜息が口付けに混ざる。始まりと同じにゆるゆると唇を離すと、涼介の舌先が追いかけるように宙を舐めた。宥めるように額を何度も撫で上げる。
「涼介」
 文太の腕が締まると涼介もまた全力で抱き返してきた。髪からうなじ、背中へと、見た目を裏切る高い体温を纏った体を手のひらで辿る。茶の間からの黄色い灯りの中でもはっきりと白さがわかる骨ばった腰に行き着き、足の付け根からそろそろと中心へと指を這わせた途端、あ、と上がった驚いた声を再び唇で塞いだ。
 文太がそれをするのは初めてだった。熱を帯び始めていた性器は手の中で小さく震え、引き剥がそうとするように文太の腕に涼介の指が縋る。嫌がるように体を捻りながらしかし、涼介は決定的な抵抗は見せなかった。頼れるものはそれだけとばかりに舌を絡め、されるがままに更に体温を上げていく。
「う……」
 涼介は横倒しに姿勢を変え、全身で耐えていた。肌に差す赤味、滲む汗、空いた手で背を撫でるたびに肩に擦り付けられる小さめの額、いけよ、と耳元で言えば、本気で驚いた顔を左右に振って文太を笑わせた。
「じゃあずっと我慢してろ」
「い、やだ……」
 光る目で見上げて涼介は首を振り続ける。
「わかったわかった、好きにしろ」
 ふうふうと熱い息を吐き、涼介はぐっと体を丸めて文太の胸に顔を押し付けた。後頭部を撫でつけながら抱き返してやり、先端の粘膜に親指の腹を擦り付けて往復させる。先走りが溢れ濡れた粘膜が音を立て、体を震わせながら涼介はそれでもしばらく往生際悪くこらえていた。だが、手のひら全体できつく擦り上げる動きに変えるとぶるぶると震えが大きくなり、文太の胸元を握る指先が痙攣し始める。
「あ、う、」
 文太の胸に顔を押し付けたまま涼介は吐き出した。くう、とまだ我慢を続けているように苦しげに息を継いでいる肩を引き寄せ、濡れた指を更に奥へと進ませる。
「ぶんたさん……」
 呂律の回らない声が胸の中にこもる。涼介は冷え切ったかのように体を震わせながら文太を見上げた。キス、と声無く呼ぶ唇に口付け、熱のこもった肉を指先で割る。
「涼介」
 目を閉じて快感に集中している涼介には、文太がどれほど優しい顔で名を呼んだのかは見えなかった。
「おまえも腹をくくれよ、涼介。俺に惚れてるんだろう」
 肯定も否定もなかった。涼介はそろりと目を開けると、文太に体重を預けて薄く笑った。その顔は久しぶりに見る、あの左右非対称の曖昧な笑みだった。
「はじめて……」
「ん?」
「はじめてあなたを見たのは、この店じゃない」
 文太の指の動きに合わせて腰をにじらせながら、涼介は朦朧と呟く。
「秋名だった……」
「峠か」
「秋名にトレノの幽霊が出ると聞いて見に……。いくら速いからって、車を幽霊にたとえるなんておかしいと思って、あ、」
 指を増やすと涼介は目を見開いた。しかし、意識は鮮明ではなく文太を見つめてぼんやりと笑んだ。
「秋名に……何度か通って若い男が乗っているのはすぐに確認しました。でも、何か腑に落ちなかった」
 文太には見えないものを見ている瞳で、涼介は視線をたゆたわせる。
「ある時、ハチロクを止めて……エンジンを覗いているあなたを見て……それで納得しました。二人だったんだ。二通りのドライビングじゃあ、いつ見ても違和感が……ああっ」
 足を広げられられ文太の肩に掴まって、涼介はぐっと喉を上げた。
「……きついな。平気か?」
「あ、あ……文太さん、文太さん」
 しがみ付く腕を解き深く腰を抱き、根元までを押し込んで文太は息を吐く。激しく胸を上下させて息を吐き散らしながら、それでも涼介はまだ話すのを止めるつもりは無いようだった。
「あなたを、見たのは一瞬、だった……。下り始めたハチロクを追走して……絶対に追いつけなくて……その時に、あなたと、寝てみたいと思っ……」
「涼介、もうわかった」
「文太さん……もっと深く……」
「わかってる。俺もこれで全部だ。これで全部なんだ」
「もっと……もっと深く、俺を、」
「わかったって言ってるじゃねえか……」
 そこからは言葉にはならなかった。互いにきつく抱き合い揺さぶり合った。終わりが無いほど長くにも、瞬きほどにも短くにも感じられる時間の幕引きに、溺れる者のように文太の背を掻き毟って涼介は達した。
 そしてこと切れるように眠りに落ちる直前、涼介は言ったのだ。あの深海の光を閉じ込めた硝子玉の目を文太に注ぎ、声にもならない音で。
 ――ずっとここにいたい。
 疲れ果てた体を叩き起こしてすぐにまた喘がせたいと文太を戦慄させるほどに、密やかなその言葉は甘く落ちて夜に溶けた。







 話し声に目を覚ました。ここはどこだろう、と本気でしばらく考え、涼介は布団の上にぺたりと座った。

「あっちぃ! 何やってんだよオヤジ!」
「おまえがそっちひっぱるからだろーが」
「ひっぱってねーよ!」
「でかい声出してんじゃねえ! いいから豆腐入れろ!」
「いらねーって、ほーれんそーだけにしよ、な、な?」
「うるせえ、入れりゃいいんだよ入れりゃあ!」
「だからそっちがうるせんだよ、起きちまうだろ!」

 朝餉の準備らしい音の合間に、潜めているようだが丸聞こえの会話が挟まっている。ううむ、と働かない頭を振って、涼介は辺りを手探った。枕もとのスタンドの紐が手に触れてぱちりと点ける。その音と同時にここがどこかがようやくはっきりわかった。そして昨夜起こった出来事も。

「かまわねえよ、起きりゃいいんだ」
「うわ、マジで!?」
「忙しいんだろうが、あいつは」
「ちょ、タンマ、お、俺ちょっと出て……」
「うぜえな、おまえは全くよ」
「……なんだよ」
「ぐずぐず逃げてねえで腹くくれって言ってんだ」
「ひっでえ、先に逃げたのオヤジだろー! あああーそーかよわかったくくってやる!」
「ああそりゃめでてえなあ」

 穏やかではない会話を聞きながら、涼介はのろのろと服を着始めた。体は最低限拭かれているらしいが、まだ色々と問題がある。だが贅沢は言っていられない。どうせ男三人、どうとでもなるだろうと投げやりにシャツのボタンを留め終えて立ち上がったところに、すぱんと襖が開いた。ばっちりと目があった文太が、一瞬怯んで一歩下がった。
「お、おう、起きてたか」
 飯だぜと言いながら背を向けたその奥に、なにやら必死な顔付きで味噌汁を椀に分けている拓海が見えた。
「おはようございます」
 言いながら洗面所に向かう。とりあえず顔だけでも確認しておきたい。背後では、二人がまた喧嘩ごしの会話をしながらガチャガチャと食器を鳴らしている。鏡の中の顔は、相変わらず血色が悪かった。しかし首回りに隠せないような痕は残っていない。文太はそういうことをしないタイプの男だとはわかっているが、昨夜は少し違った。随分甘え、甘やかされた気がする。う、と後悔の喘ぎを漏らし、涼介はばしゃばしゃと乱暴に顔を洗った。
「涼介、飯が冷める!」
 手に触ったタオルで適当に顔を拭いて大股で茶の間に向かおうとして、また涼介はうっと声を漏らした。痛い。今までは、唐突に見えても必ず涼介側で完全な準備をした上でのセックスだった。全部を文太に任せたのは昨夜が初めてで、やはり無理があったようだ。しかしこれくらいなら慎重に行動すれば他人にバレることはないだろうと判断し、得意の平静顔を作って二人のいる畳の上へとゆっくり歩いた。
「食え」
 座るなり、言われる。拓海はもう食べ始めている。よっぽど空腹だったらしく、涼介を一瞥することも無くただひたすら味噌汁をすすって白飯をかき込んでいる。若いな、と微笑ましく思いながら涼介も茶碗を持った。
「朝から邪魔して悪いな、藤原」
「そ、そんなことないです!」
 やはり拓海は涼介の顔を見ない。飯との格闘に夢中になっているようにも見えるが、相当気まずいのは確かだろう。しかし、昨夜文太にも散々言われたように、拓海が許すと決めたのならもう自分はありのままに振舞うしかないのだと思う。おまえの親父を取ったりしないからな、少しだけ借りてちゃんと返すから、と胸の中で呟いて味噌汁をすすった。
「食えるか?」
 はい、と答えながら聞いた文太を見返す。
「美味しいですよ」
「ウチは主食が豆腐だからな。こいつは文句ばっかりだ」
 な、なんだよと口一杯に頬張った拓海が文太を睨み、食いながらしゃべるなとゲンコツが落ちる。
「そう言われてみれば、全部豆腐だな……」
 味噌汁の中身はホウレンソウと豆腐、付け合せはがんもどきと白菜の煮物に自家製薄揚げとキュウリの酢の物だ。
「毎日は無理だって、こんなの」
「ったくおまえは何年豆腐屋の息子やってんだ」
「ダメなもんはダメだろ! 飽きるっつってんだよ」
「じゃあ食うな!」
「ヤダ!」
 豆腐はともかく、毎朝このテンションで喧嘩をしているならすごいものだと思いながら、涼介は率直な感想を述べた。
「本当に美味いと思います。俺は毎朝でもいいかな」
「毎朝、か」
 ええ、と顔を上げると今度は文太がじっと見ていた。拓海が二人を交互に見、なぜか耳まで赤くしてまた飯に顔を突っ込む。
「じゃあ、そうすりゃいい」
 ぼそりと言って文太は新聞を広げた。テレビの天気予報が終わって占いのコーナーがにぎやかに始まる。茶碗を鳴らしているのは拓海だけ、涼介は心臓まで止まったかのように体を固めた。
「そうすれば……?」
 呆然と呟く涼介からは、文太の顔は新聞で見えない。
「文太さん?」
 落とすように箸を置き、涼介は畳を這って文太に近付いた。斜向かいの拓海が異様に慌てているが自制など効くはずはなかった。
「文太さん」
 涼介はあぐらを組んだ足に縋った。大豆の匂いが染み付いた作業着を鷲掴みで揺する。
「本当に、いいんですか」
 滑稽なほど声は裏返った。
「俺、俺は、本当に、」
「いたいならいりゃいいんだ」
 文太はなんでもないことのようにそう言って新聞を捲る。
「文太さん、文太さん文太さん……!」
「おおお俺、仕事行く!」
 立ち上がった拓海が叫ぶように言ってばたばたと出て行く。
 ドアの閉まる音と同時に、食いつくように文太を見つめる涼介の肩先をかすめ、折り畳まれた新聞が放り投げられた。




 その日の藤原とうふ店の開店は、随分と日が高くなってからだった。



                                   (終)


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