空にはこのところ居座り続けている雲が白く流れているが、まだ梅雨の宣言は出ていない。排気音が幾重にも重なる赤城の峠、拓海はリーダーがメカニックに断言的な指示を与えているハチロクへと目をやった。
どんなに短時間であっても、涼介が姿を見せるとミーティングは質そのものが変わる。自分を取り巻く状況に対する認識が鈍い拓海も、いつの間にかそれを理解していた。缶コーヒーを啜りながらのわずかな休憩時間、車の鼻先を眺める。イメージ通りにどうにでも車を改造できるように思える松本が、安堵した表情で涼介と並んでボンネットの中身に視線を落としていた。涼介が頷く、それだけで誰もが自分の選択に自信を持ち、より効果的にそれぞれの力を発揮するのだ。
「藤原。……藤原? おい藤原!」
「はっはいっ」
視線を当てている相手に呼ばれていたことに急に気付いて、拓海は跳び上がるように背筋を伸ばした。
「どうした。具合でも悪いのか」
「い、いえ、全然大丈夫、です……」
「こっち見てるのに返事しないから、嫌われたのかと思ったぜ」
「そんな、あの……」
からかう表情で笑っている涼介の隣で、松本もにやにやしている。啓介や賢太などは拓海のぼんやりに時に手厳しいが、この二人はいつも鷹揚だ。
「あの、すみま、せん」
「謝ることはないさ」
こっちへ来いと指先で呼ばれてボンネットの脇に立つ。エンジンルームの変更部分とその効果を理解しているかを二人がかりでチェックされ、汗をかきながらなんとか答え終えると、まあまあだなと揃って言われた。どうにも反応できず、拓海はあのそのと言いながら俯くしかなかった。
「今はそれで充分だ」
ふっと笑い、涼介はハチロクから離れて行く。珍しくジーンズ姿の彼はスニーカーを穿いていた。白とブラウンのコンビのそれはレザー製で、拓海も好きなメーカーのものだった。俯いたままそれを見送っていると、松本がこつんと肩をぶつけてきた。
「上出来だよ、藤原」
え、とふらつき、拓海はぶんぶん首を横に振った。
「いえ、なんか、俺、やっぱダメっす……」
「そう言うなよ」
楽しげに顔を寄せてくる松本は機嫌が良いようだった。
「最初に『DOHCってエンジンが見たいんですけど、どんな車に入ってるんですか』って聞かれた時には眩暈がしたからな。大進歩じゃないか」
「う……」
「今は知ってるよな?」
「ハチロクの元のヤツ……」
「よしよし」
「……」
「心配するな。最低限のことはちゃんと頭に叩き込んでやるから」
にこやかな松本がボンネットを閉めたところで解散の声がかかった。黄色い車から降りてきた黄色い髪が涼介にじゃれついているのを横目に、拓海は松本に礼を言ってハチロクのドアを開けた。
車から降りた店の脇で、拓海は豆の煮える匂いを嗅ぎながら樹からのメールに返事を打った。まだ通話にも慣れない携帯故に、毎度随分時間がかかる。でもきっとすぐに返事が返ってくるのだろう。小さく溜息を吐き、靴のかかとを踏み付けながら勝手口に向かおうとして拓海は立ち止まった。
この間の風呂の件は結局うやむやになってしまったが、昨日物干し竿に垂れていたタオルケットは普段文太が使っているものではなかった。女ができたのは確実だと拓海は思っている。このまま裏から入ってしまえば顔も合わさず寝ることになるだろうし、寝起きは拓海の方が使い物にならない。たまには親父『で』遊んでやろうと拓海は薄笑いを浮かべて靴先の向きを変えた。
少し開いた硝子戸から蒸気が薄く吐き出されている。その隙間に頭を入れると、文太は熱い豆乳が桶に溜まっていくのをじっと見下ろしていた。仕事に関しては一点集中型の父親を驚かせるのは非常にまずいことだと知っている拓海は、店の中に入る前に軽く戸を叩いた。
「なんだ、珍しく間が悪いじゃねえか」
振り向かず、文太は言った。
「帰りな。ついさっき拓海が戻って来たんだよ」
鈍い息子にもこれはさすがにわかった。誰かと間違えている。笑いかける口を押さえ、拓海は黙ってそのまま立っていることにした。女名前でも呼べばもうけものだ。
「帰れって。俺ぁもうホテルなんざ行かねえからな、あんな落ちつかねえもんは、」
「ホ、ホテルって!?」
予想を飛び越えた収穫に思わず出した大声に、ぐるっと文太が振り返る。一声も漏らさなかったのは年の功と言うべきか、文太は開けた口をぱくっと閉じた。
「オ、オヤジ、ラブホとか行くん、ってうわ、待てって、」
無言で近寄って来た文太に襟首を掴まれ、連行されながら拓海は体を捻って振り返る。
「いいじゃん教えろって! なあなあどんな人、」
「やかましい!」
茶の間に放り投げられ、すり硝子の入った障子がばしっと閉められた。
「ラブホかよ……オヤジが……うわー似合わねえ……ひひひっ」
腹を抱えて笑い出せば、寝ろと怒鳴る声がそれに被さる。ひとしきり笑ってもまだ収まらず、しかし文太が戻って来る気配に慌てて起き上がると靴を脱ぎ、拓海はさっさと二階へと退散した。
「これで当分ネタに不足しねーなー」
にやける頬を叩きながら、拓海は窓を開けた。相変わらず空は曇り、大豆の匂いがたちこめている。
ぴしゃりぴしゃりと水音が続いている。フィルターぎりぎりまで灰にしたタバコをもみ消し、立ち上がった文太は台所へと入った。思った通り、昼飯を食べた皿を漬けっぱなしにしていた洗い桶の中に、蛇口から水滴が滴っている。ぎゅっと捻って背を向けると、一呼吸だけ止んでから、水音は再開した。やれやれと覗き込むと、ハンドル部分からじわじわと水が染み出している。
「またか」
藤原家の水道蛇口は、ハンドル部分の水漏れ止めパッキンがすぐに甘くなる。台所、洗面書、風呂場、店や駐車場の蛇口も全部だ。なぜかと言えば、父子共に必要以上にきつく締める癖があるからだった。握力も関係するだろうが、どういう訳だか一滴も漏らしたくないと二人ともが思っている。それ故に、パッキンどころの話ではなく拓海は風呂場、文太は台所の蛇口のハンドルを素手では開かなくなるまでねじ込んだことがある。
文太は勝手口から出て、駐車スペースに置きっぱなしの工具を取り上げた。ついでに水道の元栓をぎゅっと閉めながら、この元栓がイカれたらどうすりゃいいんだろうなどと考えつつ台所へと戻る。ハンドルをばらしてコマを取り出して眺めていると、するっと背後で襖が開いた。
「どうしたんですか」
「水漏れだ」
左側の肩に頭が乗る。振り払うのも面倒で、そのままにして買い置きの新しいパッキンを付けたコマを取り付け直す。
「結構、簡単な構造なんだ……」
感心したように呟く涼介は、タオルケットを被っただけのだらしない様子で文太にもたれて斜めになっている。
「おまえん家は水漏れもしねえのか」
「さあ。何にしても業者を呼ぶと思います」
「そうかい、ぼっちゃん」
「そもそも、レバー式の蛇口ですし」
「……ああそうかい」
肘鉄をくれてやると涼介はわざとらしくよろけて見せた。元栓を開けて戻って来ると、彼は蛇口を横から覗いて水を出したり止めたりしていた。
「遊ぶな」
漏れが無いことを確認し、タバコを咥えて六畳間に入る文太の横をずるずると、タオルケットをひきずりあくびをする涼介が追い越しいい加減に敷かれた布団に横たわった。
「おい、いつまでいる気なんだ」
定休日の午後、さあ昼寝だと台所に山積みの吸がらを捨てにいったところで勝手口の扉が叩かれた。帰れ、嫌です、と狭い間口で押し合い、出てけ、嫌です、と狭い布団を奪い合っている内に妙な気配になって数時間。陽は傾き、魚屋の屋根の上でカラスが派手に鳴く時間になっていた。
「眠いんです」
薄緑色のタオル地に口までくるまって、涼介は不明瞭に言った。
「おら、服だ」
笑っているのか本当に眠いのか、弓形に細まった目が文太を見つめた。
「騎上位って疲れるんですよ」
「……」
「今日は藤原さんが楽したんだから、もう少し寝させて下さい」
「おまえ、俺より幾つ若いと思ってんだ……」
「ゆとり教育でなまったもやしっ子ですから、体が弱くて」
涼介はもそもそと背を向けて丸まり、文太は丸めたタバコのソフトパックをその後頭部に投げ付けた。またもそもそと文太に向き直った体が片肘を支えに起き上がる。
「藤原さん」
「なんだよ」
抜け殻のようにタオルケットを残し、白い脇腹が布団を這って長い指があぐらを組んだ足首を握った。
「今ので、催しました」
「ああ?」
伸び上がった涼介がタバコを奪って灰皿に投げ入れる。スウェットの胸元を両手で掴まれ、文太はバランスを崩して涼介の上に倒れ込んだ。
「おい、」
「もう一回しませんか」
にこりと綺麗に笑った顔が間近にあった。
「ふざけんな」
胸元の指を解けばそれはするりと上って肩を掴む。
「抱いて下さい」
言葉だけは行儀良く、涼介はゆっくりと両足の膝を曲げた。それは文太を落とし込むように左右に広がっていく。台所の窓から差し込む黄色い日差しが開けっ放しの襖を遠慮なく通って照らす中、彼は頬一つ染めずに緩く勃ち上がった性器とその奥までを曝した。
「……頭おかしいだろ、おまえは」
溜息を一つ、文太は目の前の硝子玉に似た目を睨んだ。それはきらきらと翳る陽を映している。
「一度だけなら過ちです。でももう、三度」
いや四回、と涼介は首を竦めて笑った。
「あなたと俺は、共犯です」
――ああそうだ。
文太は奥歯を噛みしめる。言われなくともそれくらいわかっている。細い顎をぎちりと掴み、言葉を幾度も呑みながら黒く揺れる目を凝視する。
「涼介さんよ」
「はい」
顎の手に力を込めると、ううん、と涼介は妙な声を出して笑った。
「いつまでもつまらんオヤジで遊んでねえで、オウチに帰んな」
「もう少しだけ」
文太の威嚇は何の効力も持たないらしい。くすぐるように耳たぶを爪が掻き、強く頭を振って振り解く。
「日に何発もヤってられっか」
「そうですか?」
片手が下がったと思った途端にスウェットの腰に潜った。無遠慮に根元を握られ、文太は眉を顰める。ゆるゆると扱き上げてはねっとりと先端に押し付けられる指先の動きに連動するように涼介の呼吸が速まる。ちろりと覗いた舌が顎を押さえる親指を掠め、反射的に手を離すと涼介はぐっと文太の肩を引き寄せた。
「藤原さん」
彼が名を呼ぶ時、その発音は甘い。その色に気がつきたくないほどに、甘い。それはあの公園に垂れていた藤の香のようにかすかに、しかし長々と文太にまとわりつく。
「少しだけ」
スウェットがずらされる。開き切った膝を引き上げ、腰にふくらはぎが絡む。ゆっくりとした動きで文太の性器が温い鳩尾に押し付けられ、骨盤を通って会陰に導かれた。
「少しじゃすまねえだろうが」
涼介が更に身を縮めると、まだ濡れている場所に先端が辿り着いた。それで動きを止め、涼介は文太の頬を触った。鼻の横辺りにぺたりと置かれた唇が肌をくすぐりながら小さく告げる。
「キスしてくれたら、やめてもいいですよ」
わずか、涼介は顔を離した。緩く開いた唇から覗く赤い舌を見ながら、文太は何も言わずに涼介の腰を掴んだ。
「う、ん」
強張りは一瞬だけで、ローションがまだ残っている肉は簡単に文太を受け入れた。耳元で深く息を吐く音が聞こえ、我慢できずに舌打ちをすると案の定涼介は唇の先で笑った。
「ああ……。いっても、いいですか……」
「勝手にしろ」
冗談かと思ったが、背中に回った腕がきちりと締まって涼介は大きく震えた。あ、あ、と呟くような喘ぎと共に肉壁が収縮する。
「……どういう男に仕込まれたんだ、ったく」
腰を抱え直す。力の抜けかけた腕が首に縋り、濡れた唇の上を舌でなぞると瞼を痙攣させながら涼介は細く目を開けた。
「ふどうさんや」
舌足らずに言って涼介は満足そうに笑った。
「ああ?」
「土地、を売ったり、買ったりする……」
「それがどうした」
「お金を、借してくれたんです」
うっそりとした視線を受け、文太の背筋に鳥肌が立った。
「それで、」
「言うな。黙ってろ」
深くえぐると喉を反らせて涼介はうめいた。おそらくは、はい、と。
実のところ、文太は涼介のような顔立ちは男女に関わらず好きではない。切れ味が良すぎて人間味を感じないからだ。多少崩れているくらいが心地いい。だが事後に、どこを見ているかわからない目をぼんやり開けて投げやりな呼吸をしている姿は悪くないと思っている。
寝転んだまま、めっきり増えたタバコを咥える。煙が青く見える時刻になっていた。
「帰れ」
腰に回った腕を叩く。解くつもりが無い様子で涼介は肩に懐いてきた。
「藤原さん」
「文太にしろ。おまえ、拓海のことも藤原って呼ぶだろう。ややこしいんだよ」
「甘やかす人だな」
「何がだ」
「つけこまれますよ?」
「だから何がだ」
「つけこもうかな」
吸いかけを盗られる。うつ伏せになった涼介は長い足を膝で折って宙に遊ばせた。細く長く煙を燻らし、わずかに目を細めて彼は文太を見下ろす。ちらりちらりと掠める視線が肌に痒く、子供をあやす気分で文太は言った。
「わかった、聞いてやる。切れたのか、そいつとは」
「言っていいんですか?」
してやったり、と聞こえてくるような曲線を描いた唇が、舐めるようにフィルターを咥えた。
「つけこむんだろう?」
肩を竦め、涼介は灰皿を引き寄せた。
「切れてなきゃ、あなたと寝るのは不可能だ」
挑むように光る目が文太を眇め見る。ほとんど睨み返し、文太はタバコの箱を掴んだ。
「なんで親に借りなかった? 金持ちなんだろうが」
執拗に吸殻を捻り潰しながら涼介はなじみになった左右非対称の笑みになる。
「金を借りたのは、両親ですから」
起き上がり、首を回しながらの言葉に文太の指からライターが落ちた。
「……なんだ、そりゃあ」
のろのろと服を手繰り寄せ、青白い背中が丸くなる。
「十二年前の火事、割と有名なんですが。高崎の高橋クリニック」
確かに文太もそれは知っていた。知り合いが火事の直前に退院し、助かったなと言い合った覚えがある。
「新築の病棟が焼けました。刷新した機器も火と水ですっかりスクラップになりましたが幸い死者は出ませんでした。原因は、オーバーワークが続いていた若い医師の放火です。訴える代わりに全てを不問にするということで彼の家族と話をつけました。彼は今も精神科に入退院を繰り返しているそうですが。そういう事情で火災保険も大して使えず、増築時に借りられるだけ借りたために銀行からの追加融資もわずかで、火事で容態を悪くした入院患者への保障をするだけで精一杯でした。商売柄、早急に焼けた部分を取り壊して増築前の状態に復帰させなければならず、両親は頭を抱えていました。そこに、古い知り合いが無利子で金を貸そうと言ってきたんです」
細いジーンズに足を通しながら、涼介は淀みなく言葉を続ける。
「その人が提示した金額は、焼け跡を取り壊すだけでなくもう一度建て増しして機器を購入できるほどのものでした。両親は首を括らずに済み、工事が半ばまで進んで到底引き返すことができなくなった頃、その人が俺の家庭教師になりたいと言った」
靴下を探して涼介は四つ這いで布団を捲っている。
「あの日、家に帰ると珍しく両親が揃っていて、あの人を紹介されました。中学受験の時期で、俺は一人で大丈夫だと思っていましたが親が言うならとあの人と部屋に行って……そうですね、三十分ももたなかった。俺は逃げ出して、でも親はもういなくて、いつもいるはずの家政婦も見当たらなかった」
あった、と黒い靴下を指先にぶら下げて涼介は文太に首を傾げて見せた。
「かわいそうでしょう? 同情して下さい」
美しく微笑み、彼は爪先を靴下に押し込んだ。フィルターの焦げる臭いに文太は目を上げた。
「もう借金は返せたってことか」
「あの人は死にました」
乱れた髪を両手で撫で付けながら涼介は布団の脇で背を伸ばした。
「殺してませんよ?」
小さく笑う。
「四年前、関越の玉突き事故で。大学から戻ってニュースを見ていたら、あの人の名前が読み上げられました。信じられなくて彼の会社に電話したら、秘書が間違いないと」
みし、と畳を鳴らして布団を迂回し、紫とオレンジが交じり合った台所の窓を見つめて涼介は言った。
「嬉しかった」
ゆっくりと勝手口に向かう長身を追って文太は立ち上がった。
「あんなに嬉しいことは、俺の人生にはもう、起こらないと思います」
「涼介」
呼びかけたが、何を言う当てもなかった。
「言ったでしょう、つけこまれるって」
スニーカーを引っ掛け、アルミ枠のドアを開けた涼介は横顔を見せていた。それは笑っているように見えた。
「また、来ます」
ぎしりと閉まったドアを見つめてから文太は蛇口を捻った。顔に水を浴びせて体を起こす。
力一杯に締めた蛇口は今度こそ、業者を呼ばなければ開かないだろう。
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