豆腐屋で、朝食を。 3

 ううい、と声を出しながら背を伸ばし、文太は納車されたばかりのインプレッサの天井を触った。午後五時、どんよりと厚い雲に覆われた向こうから弱弱しい日差しがダッシュボードの上に落ちている。
 目覚ましにコーヒーでも飲もうとキーを抜き、車から降りた。三十分刻みの路上の駐車スペースからガードレールを跨いで歩道に上がり、数枚のコインを道路公団に寄付して小さな公園に入った。妙な顔付きの動物を模した置物達が薄い陽を浴びている。その間を抜け、何組かの親子連れが群れている砂場を迂回し藤棚の下に立った。盛りの花の間を数匹のアブやクマバチが羽音を立てて飛び回っている。甘い香を一息吸い、すぐ脇のベンチに座った。
 広葉樹の隙間から見え隠れする道路を、拓海の勤める運送会社の名を大きく塗ったトラックがゆるゆると走って行く。よくは見えないが、年配の男が運転しているようだった。
「育っちまったな……」
 我ながら放任に継ぐ放任だった。拓海らしいと言えばそうなのだが、かけらも親を煩わせずにいつのまにか社会人になってしまった息子に、時に文太はすかすかした気分になる。どんなに思い出しても、拓海から我儘を言われたのはただの一度きりだ。十年も前、夏祭りに連れて行ってやろうと差し出した手を引っ掻かれ、母ちゃんと約束したんだから母ちゃんと行くんだと蹲って泣いた、それ以来何かを強請られたことは無い。
 母親べったりだった子供と、息子をすっかり女房任せにしていた男。二人きり取り残されて互いに途方に暮れていたあの頃から、自分達の関係はあまり変わっていない。家に灯りだけは点けていてやろうと車家業を完全に引退してとうふ屋を始めたことも、何にも興味を示さないならただ一つ自分が得意なことを教えようとハンドルを握らせたことも、クソオヤジという称号を得た以上の意味はなかったように思える。それどころか、拓海が口でどう反抗しようが結局文太の言葉を呑んで行動してしまう裏には、あの夏祭りの夜に父親を悲しませてしまったという後悔があるらしい。無口な息子のそういう気性が、文太には今でも気掛かりだ。
 同じベンチの端に誰かが座った。ぎし、と軋む音と同時にプルトップを押し込む音が聞こえ、文太は当初の目的を思い出し自動販売機に向かって席を立とうとした。
「どうぞ」
 ぎくり、と心臓が跳ねた。恐る恐る横を見やると、形の良い指先が青い缶を差し出している。
「……神出鬼没だな」
「大学の近くですから」
 理由になっていない答えと共に、赤い缶を押し当てた唇が薄く笑った。手を出さない文太の側にコーヒー缶を置き、涼介はわずか背中を丸めて腿の上に手を置いた。
「大学、か」
 チュルチュルと鳴きながら、苔色の小鳥が二人に近い花にぶら下がるように止まった。揺れる房と白い目元が目立つ小鳥を眺め、はい、と涼介は答える。
「何年だ」
「六年です」
「六?」
「医学部は、六年制です」
「なんだあんた、医者か」
「来年、国家試験に受かったら」
「はあ、そうかい」
 力尽きた感で文太は置かれたコーヒー缶を手に取った。涼介は別の房に飛び移るメジロを目で追っている。
「なんでまた……医者みたいなのがとうふ屋のオヤジに絡んでんだ……」
「医者では、駄目ですか?」
「そういうこと言ってんじゃねえ」
 涼介はゆっくりと文太に体を向けた。前髪が頬に影を落とす顔が、赤味を強くした背後の太陽を受けて輪郭を深くしていた。
「藤原さんくらいが、いいんです」
 また厄介なことを言い出しもんだとうんざり顔を見ると、涼介は妙に真剣な表情をしていた。
「若い男じゃ勃たなくて」
 鈴を振るように鳴き貫き、小鳥が飛び立った。
「……あんたがおっ勃てる必要はねえだろうが」
 ぐっとコーヒーを空けて息を吐くと、隣で喉を震わせる音が聞こえた。俯き、肩を揺らして涼介は笑っていた。我慢できずに短く声を上げて笑い、胸を押さえる姿を文太はぼんやり眺めた。
「本当だ……ふ、必要、ありませんね」
 はは、と笑いを収めて涼介は目元を拭い、立ち上がった。
「今日、店はどうしたんですか?」
「ああ……。閉めてきた。常連の小料理屋が追突されたってんで配達を頼まれた。見舞いがてらだ」
「じゃあ、時間、ありますか」
「……なんだよ」
「送ってもらえませんか?」
 まだ笑いを残した楽しげな口調で涼介は首を傾けた。
「あの大した車はどうした」
「車検です。代車がクズ過ぎて……そこらにぶつけてしまいたくなるので置いてきました」
「おっかねえな、あんたは」
「涼介です」
 立ち上がった文太に倣って側のゴミ箱に缶を放り、涼介は彫りつけたような微笑みを浮かべた。
「俺の名前は、涼介です」
 深く溜息を吐き、文太は顎をしゃくった。
「……送ってやる、涼介」
 はい、と満足げな声を聞きながら文太は既に後悔していた。



 ソファってヤツは座りにくくていけねえとぼやき、文太はライターを手に取った。赤っぽい部屋の趣味の悪さ以上に、自分がソファだのベッドだの似合わない家具に拒否されているような気がする。
「どうなってんだ、俺は……」
 もうもうと煙を立てながら記憶を辿る。ハチロクだと思っていたらしい涼介は青い車体に驚き、足回りをチェックしつつなにやら人の悪い笑みを浮かべていた。その後、ナビしますからと住所を言わない涼介にあっちだこっちだと曲がらされて、急に明るい道に出た。あと数秒考える時間があれば気付けたはずだ。右折と言われて反射的にステアを切って、妙なマンションだと思った瞬間に横から腕が伸び、唖然としている間にハンドルを取られて駐車スペースに突っ込んでいた。冗談じゃねえとバックしようとすれば、信じられないことにエンストしている。隣が降りたのはわかったが構わずキーを回して背後を確認すれば灰色のシャッターが下り始め、運転席のドアを開けながら、もう料金が発生してますから使わないと損ですよとやけに白い顔が笑った。
 部屋に入った途端に背後から抱きつかれ、取っ組み合いになってもつれながら床に転がった。ふざけんなと怒鳴って一つ頬を張ると、涼介はいきなり泣いた。不意打ちに怯んだ瞬間、ずるっとズボンを脱がされしゃぶりつかれ、なんとか引き剥がせば歯を見せて笑う。それでまた、文太はキレた。結局、襲われることよりも襲うことを選択した訳だ。

「だからって、ヤるこたあねえんだよ……」
 まったく馬鹿じゃねえのかと輪っかの煙を吐いた時、真横の座面に重みがかかった。
「なんですか?」
 濡れた髪の涼介が、人工的な花の匂いを振り撒きながら肩に腕を置いた。来んな、と払って新しいタバコを咥える。
「ばあちゃんの言ったことを思い出してたんだよ」
 白いバスローブを視界に入れないように前だけを見て、やけっぱちに文太は言った。
「逢魔が時に出歩くもんじゃねえってな」
 髪を拭きながら涼介は首を傾げ、タバコの箱に手を伸ばした。温まって赤くなった指で一本抜き取る。挟みこむ唇も上気してひどく赤かった。
「火、下さい」
 ぐっと寄ってきた顔に仰け反り気味になりながら、文太はライターを擦った。オレンジ色の炎を映した目がちらりと文太を見つめ、伏せられる。
「良くなかったですか、俺の体」
 げほ、と咳き込む文太の横で細く煙を吐きながら、涼介は思案する顔になっている。
「でも、何もするなって藤原さんが言ったから」
「言うな……」
「ろくにフェラチオもさせてくれないんじゃ、やりようがないですよ?」
「黙ってくれ、頼む」
「次はちゃんと指示して下さい。こんななりでも色々できますから」
「次はねえよ……」
「そうなんですか?」
 言いながら涼介は膝を折り曲げて寝転び、文太の腿の上に頭を置いた。立ち上がって振り落とすこともできたが、文太は脱力してソファの背に頭を預けて天井を見上げた。
「おい、涼介さんよ……」
 はい、と気軽な返事を聞きながら、文太は天井に煙を吹き掛けてからタバコを灰皿に押し付けた。
「どういうつもりか知らねえが、これ以上は勘弁してくれ」
 白い腕がゆったりと動いて文太の顎の線をなぞり、爪の先で無精髭をちりりと鳴らした。
「男とどうこうする趣味はねえんだよ」
「お上手ですよ?」
「……」
 真意の読めない整い過ぎた顔を一瞥し、文太は曝された喉の上に右手を置いた。
「何、考えてやがる」
「なんだと、思いますか?」
 文太の手首を温い指が掴み、己の喉に押し付ける。視線を強く合わせて二人は黙った。ぞろりとした筋肉の動きが手のひらに伝わり、鼻を鳴らすような呼吸で笑って涼介は目を閉じた。
「どうにでも、して下さい」
「する気がねえっつってんだ」
「でも藤原さんは今夜も俺を抱いた。拒否できなかったとは、言わせない」
 涼介は文太の手を抱き込むように握って寝返りを打ち、半ばうつ伏せた。
「……ガキが」
「はい」
 含み笑いが鼓膜に痛い。ちろりと指先を舌が這う感触に眉を顰めながら、命綱を探すように文太は空いた手をタバコの箱に伸ばした。



「ここでいいか」
「はい、ありがとうございました」
 行儀の良い返事にタバコのフィルターを噛み潰し、文太はシートに頭を付けた。
「また良い所にお住まいだな」
 街並みは一目で高級住宅地と分かる。何もかもが嫌味でできているようなガキだ、心中で呟きホルダーに置いた空き缶にタバコを捻り込む。涼介はノーズの前を歩いて道の向こうへと踏み出しかけ、ふっと振り返った。まだ団欒の灯りが点っている時間、ひっそりと陰に沈むように陰影を濃くしながら涼介は運転席に近寄って来た。こつこつと叩かれ、開けるつもりのなかった窓を渋々下ろす。
「なんだ、」
 ぐっと乗り入れてきた頭がぶつかるように迫った。シャワーを浴びてから大して時間も経っていないというのにしんと冷えた唇が、文太のそれに押し付けられる。そして文太が反応する前に彼はするりと身を引き、耳元で囁いた。
「セックスする時、してくれないから」
 おやすみなさい、そう言って涼介はアスファルトを渡って家並みの間に消えた。文太はただ深く息を吐き、アクセルペダルを踏んだ。

 家に帰ると拓海が暇そうに駐車スペースにしゃがんでいた。
「何してんだ」
 窓から声をかけると、ヘッドライトに照らされ眩しそうな顔で拓海はのろのろと場所を空けた。入れ違いに車を止めて表に出ると、鍵忘れた、と相変わらずぼんやりしている顔が言う。
「んなとこにぼーっとしてねえで、どっか行ってりゃいいだろう」
 勝手口の鍵を突きつけると更にスローなテンポで返事が返った。
「車の鍵も持ってねーもん。イツキも家にいなかったし。なんかもー眠くてさー」
 建て付けの悪いアルミ枠のドアを開け、狭い間口に靴を並べて台所に上がる。
「飯は?」
「食ってねえ」
「じゃー俺なんか作る」
 一歩戻って冷蔵庫のドアを握った拓海は、ん、と首を傾げた。
「あれ、なんか……」
「なんだ」
「なんかニオう。石鹸?」
 う、と一瞬動きを止めたが、知らねえよと開いたドアの中からビール缶を引っ掴む。その肩口に顔を寄せ、やっぱり、と拓海は呟いた。
「なんか違う臭いする。外で風呂入ったんか?」
「それがどーした」
「……まさかオンナできたんじゃ、」
「できねえよ!」
 いきなり怒鳴られ、掴みかけたキュウリをぼとりと落として拓海は首を竦めた。
「な、なんだよ、怒鳴んなよ……」
「何がオンナだ、んなもんできるか!」
 ぶりぶり怒りながら茶の間に入るとテレビの電源を入れ、どすんと座布団の上に座る。なんなんだよ、と拓海のぼやく声を聞きながら、文太はぶわっと煙を吐いた。










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