「ねえな……」
乾物を乗せている棚から金属製の箱を取り上げ、振り回しながら文太は呟いた。財布を掴んで店を出る。
「ここんとこ、やけにぐずぐずしてやがる」
降ったり止んだりの天気で客足は伸びない。灰色の空は五月らしくもなく濁り、空気は湿って蒸している。空を見上げてうんざりと頭を振ると、文太は三軒隣りの乾物屋の前に立った。
「なんだ、じいさん腰痛か?」
臨時休業の張り紙を見て顎に指を当て、仕方なく通り越して八百屋に向かった。相変わらず退屈そうに座っている幼馴染に手を上げる。
「しいたけくれよ」
「トマトも買ってよー余っちまう」
「ったく……しょうがねえなあ」
「もう梅雨かねえ。困った困った」
「おまえ、観光客呼んで来いよ。あいつら勝手に路地もんだのなんだのって勘違いして買ってってくれるぜ」
そうねえ、看板背負って温泉街回ってこようかしらと奥さんが笑う。どの店にも客の姿はまばらだった。今日は客足のピークが無いまま一日が終わるのだろう。最近できたスーパーに負けちまってるなあとぼやきながら、予定以上に重くなったビニール袋を提げて文太は店に戻った。
「がんも作るのも飽きたな……。肉屋にコロッケでも作らせるか」
野菜の入った袋を水場に置き、ボールに水を張ってひじきを放り込む。そしてその場に屈んで、足元のプラスチック容器の中で同じく水に漬かっている大豆の具合を確認した時だった。ひどく遠い印象の、小さな音がした。どこかで聞いた覚えがある、硝子同士が触れ合う涼しい響きだ。かろんかろんと繰り返す密やかな響きを探して立ち上がり、文太は一つ小さな溜息を吐いた。
「……またあんたか」
薄暗い場所に溶けるように座っていた青年が、ひっそりと会釈をした。
「お邪魔しています」
店の奥、板張りの上がりかまちに腰を掛ける涼介は、両手で守るように緑色の硝子瓶を持っている。作りこまれた面を研ぎ澄ますように、彼はうっすら笑った。
「鍵をかけないと無用心ですよ」
「盗られるもんなんかねえよ」
文太は健康サンダルの踵を土間に擦りつけた。だらりと歩く姿を見上げ、涼介は板の上に置いたもう一つの瓶を持ち上げた。汗をかいた瓶の底から水滴が滴る。
「どうぞ」
「どうした」
「そこの駄菓子屋で」
受け取った古臭い昔のままの容器の中で、泡にまみれたビー玉がゆるりと回る。
「拓海はいねえぞ」
「そうでしょうね」
答える涼介はまた密やかに笑みを浮かべた。何か意味があるように思える、左右非対称の唇の動きを見ながら、文太は彼の隣に座った。
「じゃあ何しに来た」
「……ラムネを飲みに」
「嘘つけ。暇なんだな、あんた。学生か?」
うらやましいこったと冷たい瓶を口に当てた。甘い炭酸がアルコールに慣れた喉をくすぐりながら下っていく。少しだけ気温が下がったように思い、子供騙しもたまには悪くねえなと目をやると、なぜか涼介は驚いた様子で目を瞬いていた。
「なんだ?」
「いえ……。その通りです。暇なんです」
「いい身分だなあ、おい」
「はい」
言いながら涼介は喉の奥で笑っている。
「どうしたよ」
涼介は肩を竦めただけだった。
かろんかろんとビー玉の転がる音だけが静かな店の中に繰り返す。店の一面に広く取った窓から陽の落ちる時間に向かって青を帯びていく弱い光が差し込む中、ゆっくりと中身を空けた文太は瓶を置こうとして手を止めた。俯いて手の中の空の瓶を見つめる涼介の、半分眠ったような、逆にひどく思いつめてもいるようにも見える陰影の深い表情の中で、ほんのかすかに唇が動いたからだった。しかし、何の音も聞こえはしなかった。
「少ねえな、中身」
わざと大きな音を立てて瓶を板の上に置き、文太は言った。目を覚ましたように顔の角度を上げ、そうですね、と涼介は聞いていない者の顔で言い、そして何を思ったのか瓶を逆さにし、緩く振った。
「何してんだ」
「入れたものなら取れるんじゃないかと思って」
狭い口に小指の先を入れている涼介は真剣な顔付きをしていた。
「ガキみてえなこと言いやがって。欲しいのか?」
「はあ、まあ」
残った透明な液体が数滴手首まで垂れ、涼介は腕を持ち上げると当り前のようにそれを舐めた。その瞬間、文太は反射的に自分の空けた瓶を掴んで立ち上がった。
「しかたねえな!」
自分でも理由はわからない。必要以上に大声で言い、水場まで行くとしゃがんで工具箱を取り出して金槌を握った。
「あ」
涼介の呟きに重なり、ごちん、と鈍い音がした。割れた瓶から淡い緑色の硝子玉を拾い上げ、ざっと洗ってから文太は戻った。
「ほらよ」
濡れたビー玉を突き出すと、唖然とした様子で手のひらが差し出される。
「ビー玉入れてから口つぼめて瓶の形にすんだよ。割らなきゃ取れねえようになってる」
「……そうなんですか」
手のひらで何度か転がしてから、涼介は硝子玉を指先に挟んで光に透かした。滲んだ深海色の光が白い頬にぶれながら映る。ああ、こいつと似た目をしてるのかと文太が思った時、涼介は内側に光を閉じ込めたような丸い硝子を己の薄赤い唇の間に滑り込ませた。
「食うなよ……」
思わず言えば、わずかに顔を傾けた涼介がまた左右非対称に口元だけで笑った。そしてゆっくりと舌が硝子玉を押し出し、指先に戻す。唾液に濡れた硝子がちかりと光り、その上で同じ瞬きが二つ、刺すように文太に向かったその時だった。
――これ、と、目を合わせてはならない。
唐突に、それまでの不明だったざわつきが形になり、文太の額辺りに突き立った。だがその警告に反応するよりも先、涼介が体重を感じさせないしなやかな動作で立ち上がった。二人の腕がかすかに触れ、掬い上げるような視線が文太の目に絡みつく。
「甘いかと……」
近くで見るほどに長い睫の向こう、企みを感じさせる黒々とした目があった。
「子供の頃から、甘いかもしれないと」
唇の先に笑みを作り、囁きよりもかすかな音が耳元に流れる。
「そう、思っていました」
近寄る顔を見据え、文太は指一本動かさなかった。いや、動けなかった。合った以上、離してはならない視線にきつく眉を寄せる。
「……前から言いたかったんだが、あんた」
完全に『他人の距離』を越えていた。それを更に縮め、鋭利な面が鼻先が触れるほど近付く。
「俺は何もやれねえ。そんなもの欲しそうな目をされてもな」
最後の距離を飲み込むように涼介は一つ呼吸をした。
「もの欲しそう、ですか」
「他にどう言えってんだ」
唸るような文太の言葉は、半分が涼介の唇に呑まれた。
狡猾そうな目が素早く閉じ、軽く尖った唇が荒れた下唇を挟む。凍ったように動かない胸元辺り、白い作業着を握って涼介は笑い、口の端から顎へと滑らせるように唇を移動させると文太の肩に額を置いた。
どちらもが息を潜め、何かを待つように互いの呼吸を聞いていた。温い春の陽が紫に窓を照らし、少しずつ足元の影が濃さを増す。
ちりりん、と店の外で自転車のベルが鳴った。小さく体を揺らし、同時に呪いが解けでもしたように動くようになった右手を上げた文太は強く涼介の肩を押した。容易く離れた体は柔らかいものでも踏んだかのように不自然に揺れ、上目になった視線が文太の顔をさっと掠める。そして、引き結んだ唇を綺麗な笑みの形にした涼介はするりと文太に背を向けた。足音はしなかった。
「また来ます」
耐え切れず、文太は勢いよく振り返った。硝子戸に手を掛け、涼介も振り返っていた。
「また、来ます」
もう一度言い、細身の体はがたりと開いた戸の隙間から抜け出て行った。
次に彼がやってきたのは、梅雨前の短い晴天が続いていた週末の夜だった。
商店街が寝静まろうとする時刻、文太は腕を組んでホテル仕様の豆腐の入った木箱を見下ろしていた。妙な予感に振り返ると、蒸気を逃がすために開けた硝子戸の端を風の密やかさで丸まった指先がこつこつと叩き、帰宅が遅れた中学生のようにしおらしく、俯いた長身が土間に滑り込んだ。
「こんばんは」
両手を腰の後ろで組んだ涼介は壁にもたれた。彼の影が文太の足元まで伸びてくる。
「丁度良い頃合に来るもんだ」
豆腐には重しをしたところで、拓海は明日仕事が休みだと言って樹の家に泊まりに行っている。そして自分はあれからずっと、気分が悪くなるほど腹を立てていた。
「それとも、全部計算してるか?」
「さあ」
涼介は俯いたまま肩を揺らして笑った。その鼻先に影が落ち、すっと上がった顔が一瞬無表情に固まる。額に巻いた手拭いを土間に叩き付け、文太は白いシャツから覗く血色の悪い腕を掴み締めた。動物的な動きで逃げようと身を捩る涼介を肩が抜けるほど振り回して店の奥へと引きずり、上がりかまちに突き飛ばす。即座に起き上がろうとする足を両手で掴んで、開けっ放しの襖から六畳間に投げ入れた。脱げた革靴が乾いた音を立てて畳に転がる。
ばつ、と激しい音を立てて襖が閉まり、体を起こそうとした涼介の肩が畳に打ち付けられた。
「藤、」
「黙ってろ」
圧し掛かる文太の下で涼介は呼吸を止めた。
「やりてえんだろう? 今更嫌だとは言わせねえ」
間近の喉が引き攣るように唾液を飲むのがわかった。わずか、溜飲が下がって文太は薄く笑った。
「男に加減はしねえ」
乱暴にシャツを脱がすと鈍い音でボタンが跳んだ。震える指が腕に這い、殊更冷徹に肌を打って払い除けた文太は顔を上げたところで息を呑んだ。
「望むところ、です」
襖の隙間から漏れる光が横切る涼介の顔は、いびつな、しかし満面の笑みになっていた。夜にだけ咲く花を思わせるぞっとする気配を振り撒き白い腕が背中に縋る。壮絶な笑みを唖然と見下ろす文太に、恐怖ではなく歓喜に震える体が耐えられないとばかりにきつく絡まり性器が張り詰めていることがはっきり伝わる。
「あなたと、したかった……」
欲情を垂れ流した声がくらりと意識を奪う。丸裸にして泣き出したら許してやろうと決めていた。冗談じゃねえ、と腹で叫んで絡まる腕を無理やり解き、ベルトを抜いて細いジーンズを下ろした。それだけの刺激で達しそうになって身を縮めて堪える体は下着を付けていなかった。
――おかしい、どうかしている、こいつも、俺も。
完全に勃起した男性器を見て、文太は自分に呆れた。正気に戻るどころか煽られている。そんなものでどうにかなる日がくるとは想像すらしていなかった。
「藤原さん」
じれるような囁きと共に唇が押し付けられる。食むような口付けに文太はびくりと背を伸ばした。反射的に涼介の体を引き剥がして畳に投げ、喉元を押さえ付ける。
「随分とやる気じゃねえか」
誰への言葉か、もうわからない。下腹に溜まった熱にきりきりと怒りを沸かせ、荒い呼吸を吐く体をうつ伏せに転がし腰を高く上げた姿勢を取らせた。
「足を閉じるな」
涼介はぎこちなく振り返った。喘ぐ喉を両手で押さえ、文太を見上げる。
「はい……」
濡れた唇がうっとりとそう言い、左右非対称に歪む。
――どうしちまったんだ、俺は。
これほど従順であるというのに、悲鳴を上げるまで捻り上げてやりたくなる。長くもないが短くもないこれまでの人生、相手はいつも当り前に女だったがこれほど衝動的に、そして暴力的に抱こうとしたことは無い。
――正気に戻れ、今なら冗談で済む。
思った時には指を唾液で湿らせていた。
「あ……っ!」
押し入れた途端、ばたばたと体液が畳に滴った。うう、と泣き声に近いうめきを漏らして涼介は全身をひくつかせている。波打つ白い背中を見つめ、文太ははっきりと思った。
こいつの中に入りたい。喘がせ泣かせ、中に吐き出したい。
欲求のままに根元まで中指を捻じ込めば、がくっと頭が揺れる。
「痛いか」
そんなはずはないと確信しながら唾液を足す。ぬるみが薄れない間にとすぐに指を増やしたが想像よりもきつくない。一切の抵抗を伝えてこない涼介の中を抉り、文太は自分が入る場所を作るためだけに指を動かした。
「も、いい」
掠れた声に顔を見やると、入れて下さいと卑猥に唇が動いた。
「黙ってろ。加減はしねえが壊すつもりもねえよ」
「してる、から」
膝を崩しかけながら涼介は何度も頭を振り、切れ切れに喘ぐ。
「じ、ぶんで、いつも、してるか、ら、ああ、あっ」
はやく、と回らない舌で言い、涼介は両腕で頭を抱えて更に腰を上げた。確かに体は開いている。
「おねが……しま、す……」
懇願に舌打ちをした。まだ迷っている。迷っているというのに肉の薄い骨ばった腰を痕がつくほど掴み締めている。その手にぶるぶると震える手が重なり、きつく閉じていた目が薄く開いた。
「平気です、から、す、好きなように……」
青黒い部屋の中、焦点の合わない目が文太を探していた。きり、と爪が手の甲に食い込む。搾り出すように呼吸を繰り返し、苦痛に近い声でお願いしますと涼介は繰り返した。細く畳を這う明かりをちかちかと反射する目にまた衝動が駆け抜け、ひ、と押し潰した声が上がるのを遠く聞きながら、文太は萎えないままの涼介の性器を扱いて粘液を手のひらに移し自分に塗りつけた。
「力抜け」
その言葉に忠実に従い、欲情のあまりに強張っていた体が急に脱力する。開きながら押し当てるとあっさりと先端が潜った。
――やり損だ。
馬鹿馬鹿しいと胸の中で吐き捨て、わずかな肉の抵抗を感じながら深くへと沈む。涼介の呼吸は異常なまでに速く、吐き散らされる喘ぎに文太は動きを止めた。
――綺麗な顔をして清潔そうな服を着て、その実この体。この年になって頭のおかしい子供に引っ掛かっちまった。
「あ、うっ、ふう、あ!」
腰を前後させるとぎょっとするほど大きな声が上がる。硬く尖っている乳首を捻り上げ、途端に痙攣するように全身で跳ねる涼介の細い顎を睨み下ろした。
「お言葉に甘えるとするか……」
――好きにやらせてもらう。
掴むものを探して畳を荒らす爪を見下ろしながら、文太は思考を手放し腰を握る指に力を入れた。
「なんだ……」
呟き、文太は瞬いた。ぼんやりと目の前を見つめ、見慣れた座敷の暗い天井だと理解する。どうやら眠ってしまったらしい。
畳の感触を手のひらに感じながらあぐらをかく。下半身に何かが被さっている。暗さの中で目を凝らすと押入れの襖が半分空いており、そこから引っ張り出したらしいタオルケットが体に掛かっていた。
「まだいたのか」
同じタオルケットの端を申し訳程度に腰に引っ掛け、涼介は服も着ずにうつ伏せていた。几帳面に、はい、と答えたが、目の下で何かをいじって文太の方は見なかった。
「もう帰りな。気は済んだだろ」
彼は熱心にビー玉を触っていた。透明な硝子玉を指先で畳縁に沿わせて転がしこつりと箪笥に当てる、それを何度も繰り返している。魂の抜けたような背中にタオルケットを投げ、文太は脱げかけた作業着を着こんで洗面所に向かった。顔を洗って体を起こすと、鏡に映った面に我ながら老けたもんだと思う。
六畳間を通らずに店に降りた。電気を点けたままの土間はあられもなく白々として、訳もなく文太は顔を顰めた。
仕事の続きを始める気にはなれなかった。タバコを探してうろつき、落としたきりの手拭いを蹴飛ばしてから、流しの横で見つけた皺の寄った紙箱を掴む。ひどく餓えた気持ちで乱暴に引き出して急いで煙を胸に満たし、中毒者らしく助かった気分になって時計を見上げた。一時間も経ってはいなかった。
すっと襖が開いた。文太は足元に視線を落とした。革靴が近付き戸口に向かう。しかしそれは目の端で角度を変え、近付いてきた。
「下さい」
冷たい指先がかすかに文太の手に触れ、吸いかけの紙巻を奪った。受け渡される指の間を通って一塊の灰がほそりと落ち、土間に散った。
「ありがとうございました」
涼介が頭を下げたのかどうかは、流し台の上に立てかけたまな板を凝視していた文太にはわからなかった。
店から彼の気配が消え、記憶にあるエギゾーストノートが距離のある音で響く。
「いい絞り加減だなア、おい」
豆腐の入った木箱を触り、文太はひどく苦い味のする溜息を吐いた。
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