文太が初めてその青年と顔を合わしたのは、まだ春浅い四月初旬の頃だった。
店仕舞いの途中、背後に人の気配を感じて振り返ると、背の高い青年が半分開いた引き戸に片手をかけて立っていた。息子よりもいくばくか年上に見える彼は、真っ直ぐに背骨を伸ばして一度文太と目を合わせてから、生真面目そうな様子で頭を下げた。
「はじめまして、高橋涼介と申します」
そんなまともな挨拶を聞くのは何年ぶりだろうかと、文太は少し可笑しくなった。
「拓海なら出掛けてるぞ」
「いいえ。藤原さんにご挨拶に参りました」
参りましたときたもんだ、そう腹の中でまた笑い、文太は入んな、と手招いた。涼介は軽く会釈をして敷居を跨いだ。そして改まった無表情を作ると書いたものを読むようにすらすらと言った。
「しばらくの間、拓海くんとハチロクをお借りしたいと思っています。そのお許しをいただきに上がりました」
とうとう文太は吹き出した。首を傾げる涼介に手を振ってやる。
「お許しも何もねえ。プロジェクトなんたらとかいうヤツだろう? 拓海はすっかりやる気になってるからな、俺が止めたってやるだろうよ」
そうですか、と涼介は思案するように顎に指をおいた。白く、器用そうな長い指だった。深爪と言っていいくらいに短く爪が切り整えられているが、絵に描いたように綺麗な形をしている。こんな男の指は初めて見たかもしれない、そう思っていると、涼介はまた顔を上げて文太とまともに視線を合わせた。
「安全は保障できません」
「はっきり言いやがる」
くっくと喉で笑い、文太は腕を組んだ。
「殺していいとまでは言わねえ。あれでも可愛い息子だ。だがな、走り屋ってのはそういうもんだってのは俺もよく知ってる。覚悟はしておく」
涼介は無言でまた頭を下げた。
「あんたなら、そうそうヘマはさせないだろうがな」
「最善を尽くします。それと、ハチロクに手を入れることになりますが……」
「好きにしな。速くするんだろう?」
「……おそらくは」
なるほどな、と文太は細い目を更に細めた。これはなかなかわかっている。文太は一つ頷いた。
「ハチロクは拓海にやってもいいと思ってる。しょっちゅうあいつが持っていっちまうからな、俺専用を探しているところだ」
「ご迷惑を、」
「あんたのせいじゃねえ」
胸ポケットを探ってタバコを取り出し、文太は笑った。
「ここいらは一人一台ってえ土地がらだ。そもそもあいつが走り屋になるように仕向けたのは俺だしな、こうなって当然だ。あんたが気にすることじゃねえよ」
「ありがとうございます」
涼介は少し口角を上げた。ぽかりと煙を吐きながら、男前だなあとぼんやり文太は思う。話すことが無くなった二人は向かい合ったまましばし土間に突っ立っていたが、思い出したように涼介が下げていた紙袋を目の前に掲げた。
「これをどうぞ」
なんだと受け取って中を見ると、地元の銘酒が入っている。
「いいのか?」
「手ぶらではご挨拶も何もないので」
「そういうもんか? くれるってんならありがたくもらうけどな」
「はい。それでは、これで失礼します」
お邪魔しましたと一礼すると、涼介は来た時と同じように引き戸に手を掛けて出て行った。少したって大きなエンジン音が聞こえ、文太は紙袋を持ったまま表を覗いた。白い車のテールが角を曲がるのがちらりと見える。
「もうけたな」
息子を持つのも悪くねえ、酒の袋を揺らして文太は呟いた。
「戻ったか」
そろそろ寝るかと茶の間でタバコを吹かしていた文太は首を回した。エンジン音が店の前で止まった。拓海は仕事の後用事があると言って徒歩で出掛けたから、誰かに送られてきたのだろう。文太は腰を上げると茶の間横の六畳間に入り、押し入れから布団を出した。拓海は勝手口の鍵を持っている。開けて入って来るのを窺っていたが、なかなかその音が聞こえない。違ったか、と部屋から顔を出して店のすり硝子を眺めた時、人影が前を横切った。
「ごめんください」
聞き覚えのある声がし、硝子戸の端が叩かれた。どうしたものかと土間に下りてスクリュー錠を捻った。がらりと開いた戸から、二人がかりで肩を支えられた拓海がだらっと頭を下げているのが見え、酒の臭いがした。
「申し訳ありません」
難しい顔をした涼介が軽く頭を下げた。もう一方は初めて見る顔だった。
「だらしねえなあ、酔っ払いめ」
酔ってねえもんと怪しい発音で拓海が言い、やれやれと文太は涼介から息子を引き受けた。
「すみません。乾杯のビールだけだったんですが」
もう一人が頭を掻いて困った顔をしている。
「弱えんだよ、こいつ。自分でもわかってんだけどな。いきがって飲んじまったんだろ」
二人で茶の間に拓海を転がした。しきりに謝る青年の肩を叩いてから、文太は隣の部屋から掛け布団を持ち込み、ちゃぶ台の下に頭を突っ込んで眠り始めた拓海の体にぼそりと被せた。
「未成年なのに、本当に、」
「手の掛からねえガキだ、たまには世話するのもいいさ」
彼の言葉を遮って背中を押して土間に下りる。恐縮する二人を店の前まで促し、文太はふうんと声を上げた。
「いいクルマだな」
横付けされたロータリー車を眺めて文太は腕を組んだ。はあ、とまだ眉を顰めている涼介が答える。
「あんたら、運転は大丈夫なのか」
「俺は飲んでいませんから」
「ならいい。面倒かけたな」
いいえ、と涼介は言って文太を見つめた。人形に入っている硝子玉みたいな目だ、そう思いながら何か言いたげな顔を見て待ってみたが、彼はふいっと視線を外すと運転席の横に立った。
「申し訳ありませんでした。二度と無いようにします」
きっちりと頭を下げる涼介に合わせるように、助手席側に回った青年も慌ててつむじを見せる。
「おっさん臭いな、あんたら。政治家と秘書ってところか」
「は?」
「なんでもねえ」
笑って手を振り、文太はタバコを探してポケットに指を入れた。ちゃぶ台の上に置いたままだと思い出したところで、涼介がどこか気の抜けたように視線を下げて言った。
「では……。失礼します」
「ああ。気をつけて帰んな」
ドアが閉まり、エンジンが低く唸る。最後に目礼をし、涼介はするりと車を発進させた。文太は戸袋から雨戸をがたがた出しながらそれを見送った。雨戸に落とし金をして振り向くと、ちゃぶ台の脇で拓海があぐらをかいて座っている。
「起きたか、バカたれ」
「……ここ、どこ?」
オヤジの顔も忘れたか、と頭を小突いてやるといつも以上にぼんやりした顔で茶の間を見渡し、一つあくびをするとまたその場にひっくり返った。
「おい、部屋で寝ろ、おい拓海!」
うーと抗議の声を上げ、拓海は布団を抱きしめて丸まった。
「……仕方ねえな」
拓海を跨いで茶の間の電気をぱちりと消し、文太は六畳間に入って押入れからもう一枚掛け布団を引っ張り出した。
グラインダーで潰す作業を何度か繰り返した大豆を巨大なプラスチック容器に満たし、釜に水を張って火を点けると文太は腰を叩きながら顔を上げた。エプロンを外して水場に置き、硝子戸を開けてタバコを取り出す。
商店街はちらほらと明かりが点いている。魚屋が仕入れた魚を店に運びこむ様子を眺めながら、文太はゆっくりタバコを灰にした。湯が沸く音に、さて始めるかと灰皿を足元に置いて店先の椅子から立ち上がり、しかし妙なものが目の端に映って、なんだと首を伸ばした。
「……変わったヤツだな」
肉屋の角から、商店街には似合わない人物が歩いて来る。少し緩めてはいるようだが、ネクタイを締めスーツを着込んだ涼介だった。まさかウチに用か、いや他になんもねえだろうと首を傾げている間に彼は長い足で近付いて来る。丁度シャッターを開けた斜め向かいのパン屋のおかみが、目の前を通り過ぎる長身にあらまあと変な声を出した。
「おはようございます」
会釈をする涼介におうよと返事をしながら、文太は濃紺のスーツを足首から襟元までじろじろと見上げた。それは彼に恐ろしいほど似合っており、数段男ぶりが上がっているように思える。パン屋のおかみがずっと同じ姿勢で、なにやら頬を赤らめてこちらを凝視しているのも無理もない。こういう服を着こなせる男というのが周りにいないせいか、物珍しさ以上に場違い感が強く思わず文太は言った。
「こんなところでなんて格好してんだ、おまえさん」
「学会に出席するので」
がっかい、なんだそりゃと言う文太に苦笑し、涼介は手に持ったビニール袋をがさりと差し出した。
「なんだい」
「鮎です」
「あゆぅ?」
ビニールの中には、新聞に包まれた塊が入っている。
「先日はご迷惑をかけました。藤原……拓海くんと食べて下さい」
「そりゃどうも、ってなんでスッと鮎が出てくんだ」
呆れる文太に涼介は肩を竦めて見せる。
「知人が釣り好きで。家族では食べきれないほどもらってしまったんです」
差し出したままじっとしているので、やむなく受け取った。
「こんな気をつかってもらうほどのガキじゃないがな」
ぶつぶつと中を覗いて言う。銀色の尾が濡れた新聞紙の破れ目からちらりと見えていた。
「お嫌いですか?」
「お嫌いもナニもねえよ」
わからなかったのか、首を傾ける様子にふうっと溜息を吐いて文太は涼介を見つめた。相変わらず、考えていることがさっぱりわからない硝子玉が光っていた。
「拓海にはもったいねえが、もらっとくよ。で、あんたアシは?」
涼介は少し振り返るようにした。
「うるさい車ですから、商店街の外に止めました」
「そうかい。今からがっかいとやらに行くのか?」
「一度大学に行ってから、現地に向かいます」
「そうか。悪いな、こんな早くに」
「いえ。では」
淡々とした口調で涼介は言い、しかしすぐには踵を返さなかった。拓海を送って来た夜と同じ、まだ何かあるかのような視線をしばらく向けていたが、結局少し開いた唇は言葉を継ぐこと無く彼は目礼をすると背を向けた。ライン上を歩くように真っ直ぐ小さくなる背中を追えば、文太と同じようにパン屋のおかみも首を動かしていた。
「で、何で涼介さんがサカナくれんだよ」
「テメエが潰れて帰ってきたからだろうが」
「だから、何で俺が酔っ払ったからって、涼介さんがサカナくれんだって」
「わかんねえヤツだな、責任感じてんだろ」
「飲んだの俺じゃん。なんで涼介さんが責任感じんだよ」
「俺に聞くな!」
「オヤジが涼介さんになんか変なこと言ったんじゃねえの」
「言わねえよ! オウムみてえに涼介さん涼介さん言ってねえでさっさと食え! いらねえなら俺が食う!」
四角い皿を持ち上げ、文太の手から塩焼きの鮎を守って拓海は唇を尖らせる。
「クソオヤジ……」
「かーっ、わからねえガキだな!」
ごちっと頭を殴られ、拓海はいってえと頬を膨らました。
普段なら黙々と食うだけの食卓が今夜は騒がしい。元々拓海は己を語らない質だから、息子とはいえ文太はその友人関係についてはほとんど知らない。知っているのは、イツキや池谷のような馴染みの人間と、去年、家に来た女の子くらいのものだ。だから鮎の出どころをめぐって、これだけ拓海が突っ込んでくるとは思ってもいなかった。どうやら『涼介さん』は拓海には相当の重要人物であるようだ。コイツの顔を立てるためにも今度来たら茶くらい出してやらねえとな、と一応親らしいことを思って文太は鮎を齧る。
「まだ五匹残ってるな。傷まねえ内に甘露煮にするか」
「これって高いサカナ?」
「この大きさの天然モノは、時期によっちゃ千円越すぞ」
「高っけえ……」
「そこらで売ってるもんでなし、しっかり味わえよ」
ばりばりと鮎を平らげ、男二人の夕食は終了した。皿を下げながら、拓海が台所でぼそりと言う。
「甘露煮ってどうやんの」
「おまえがやるか?」
「うん」
拓海は子供の頃から料理だけは嫌がらない。文太が作ると、食べ飽きた豆腐がメインディッシュになるからだろう。冷蔵庫から鮎を取り出し、尻尾を摘んで眺めている拓海に大雑把に作り方を教え、文太は茶の間に引き返してタバコを咥えた。
「あら、降ってきたわ」
常連の奥さんが慌てて店から出て行く。
「傘、持ってくか?」
「いいわよ、近いし」
じゃあねと駆け出す姿と空を見比べ、文太は片手でひさしを作った。この天気ではもう客も来ないだろう。少し早いが店仕舞いにするかと『準備中』の札を硝子戸の格子に打った釘に引っ掛け、店の中に戻ってポケットからがさがさとタバコを取り出す。
しとしとと雨の音が、屋根を伝って聞こえてくる。余った豆腐をがんもどきにする算段をし、灰皿にタバコを押し付ける。
「ニンジン、なかったな」
傘を持って店を出た。雨脚は強まり、地面に出来た水溜りを大股で避けながら人がまばらになった商店街を上がって行く。商店街の端に近い八百屋は、ビニールの軒を伸ばしてまだがんばっていた。
「よう、文さん」
幼馴染の店主が退屈そうな顔を上げて店の奥で立ち上がった。
「ニンジン、くれ」
「キャベツ買ってよ。余っちまう」
「余ってんならタダにしろよ」
「ヤダよ。まけとくからさ」
無理やり白いビニール袋にキャベツとニンジンを詰められ、三百円、と手を出された。
「仕方ねえなあ。ほらよ」
小銭を渡し、すみませんねえと苦笑する奥さんに手を振り、来た道を戻った。僅かの距離だったがズボンの裾が大げさなくらいに濡れ、気持ちわりいと言いながら目を上げたところで文太は立ち止まった。
「……あんた、何してんだ」
店の前に涼介が立っていた。ずぶ濡れで、コバルトブルーのシャツも生成りのチノパンも体にぴったりと張り付いている。文太の声に顔を上げた彼の顔には髪から行く筋も水が流れ落ちていた。ぼつぼつと傘に落ちる雨の音がいきなり大きくなったような気がして、文太は慌てて店の戸を開けた。
「入れ」
言って背中を押した。しかし、涼介は動かなかった。
「濡れていますから」
「だから入れっつってんだろ」
傘を畳んで先に入り振り返ると、涼介は頭を横に振った。
「近くまで来たので寄っただけです」
「何言ってんだ、いいから入れ」
呆れて腕を引いた。少し抵抗したが、涼介は溜息を吐きながら土間に体を入れた。
「なんか拭くもん持ってくるから待ってな」
「もう帰ります」
「バカ言え。待てよ、待ってろよ?」
鼻先に指を突きつけて言ってからどすどすと家の中に入り、タオルを持って引き返す。
「ほら拭け」
放られたタオルを握り、涼介は困惑した顔で上がりかまちに立った文太を見上げた。
「いいから拭け」
はあ、とよくわかっていなさそうな声で言ってから、涼介はおざなりにタオルで顔を押さえた。
「あんた、車は」
「家にあります」
またなんで、と一人ごちながら文太は健康サンダルを履いて土間に下りた。
「拓海はいねえぞ」
「そうですか」
どうでも良さそうにそう言い、涼介はタオルを見つめている。肘やシャツの裾から垂れている水にじれったくなった文太はタオルを取り上げ、長い体を無理やり丸椅子に座らせるとがしがしと髪を拭いた。しかし肩を拭くところまでいかず、洗濯をし過ぎて薄くなったタオルは役立たずになった。
「これじゃ間に合わねえな。着替えてけ」
は、と顔を上げて乱れた髪の間から、涼介は顎をしゃくる文太を見上げた。
「来い。拓海のダチに風邪ひかせられねえ」
腕を引っ張って立たせ、家の中に向かって押す。土間にくっきりと水の染みを流し、涼介はやはり動かなかった。
「いえ、帰ります」
「訳わからんな、あんたは。だったら始めから来んじゃねえよ」
「……そうですね」
失礼しました、と涼介はくるりと体を反した。唐突な動きに慌てて文太は腕を伸ばしたが、彼は猫科の動物のようにぎりぎりのラインでそれをかわすと本降りの中に躊躇なく踏み出した。
「おい!」
べしゃり、と鳴る靴音がそれに答える。
「傘!」
一歩踏み出し、おっとと店の中に飛び戻った文太は透明なビニール傘を持った腕を濡らして涼介の背中に怒鳴った。しかし、売り物を抱えて往生している店員以外は姿の見えない土砂降りの中、明るい水色のシャツはひどく浮きながら豆腐屋から遠ざかって行った。
「なんだ、ありゃあ……」
額に垂れた雨を払いながら、文太は傘を店の隅に放り投げた。
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