俺には一人、風変わりな親友がいる。そいつと出会ったのは中学の入学式の日だった。
俺の家は自営業で両親共働いていたから、俺は一人で葉の目立った桜の木の下を通って三年間通うことになった学校の門を潜った。判で押したように白っぽいスーツの母親と黒っぽいスーツの父親に挟まれている子供達の中、着慣れない制服の袖が長過ぎるのを気にしながら俺は体育館に向かい、クラス毎の五十音順と推測される折り畳み椅子の決められた席に座った。
式次第はつつがなく進み、新入生代表の挨拶という段になって名前を呼ばれて立ち上がったのは、俺の斜め前に座っていた色の白い生徒だった。新入生代表というのは大概入試で一番を取った奴だと決まっている。いかにもガリ勉君というひょろ長い後姿に俺は少し笑い、しかし彼が壇上に立った瞬間違う意味で吹き出しそうになった。俺だけではなく父兄席までがざわめいたことをよく覚えている。身につけていたのは確かに男子用の制服なのだが、それを疑いたくなる程の『美貌』がそこにあった。ちなみに俺が美貌などという単語を真実味を持って脳裏に思い浮かべたのは、幸か不幸かそれが初めてである。
それが、高橋涼介と俺との出会いだった。
顔が良くてもあるいはスポーツ万能でも頭はからっきしであるとか、逆に成績だけだとか、それら全部が揃っていたとしてもごくありふれたサラリーマンの家庭の子供であるとか、涼介がそういう学生だったのなら俺と奴との関係はもう少し違ったものになっただろうと今更ながらに思う。
桜から落ちるのが毛虫だけになった頃、俺と涼介は良く話しをするようになっていた。単に、席が隣同士だったからだ。実のところ、涼介は若干クラスの中で浮いていた。成績、容姿の良さはすぐにわかることだが、学生生活が進むにつれて彼が相当運動神経に優れていることが明らかになった。更には県外にまで知られた総合病院の跡継ぎであると判明するに至って、さすがに無邪気な中学生一年生達も一歩彼から距離を取るようになっていた。わかりやすく言えば、完璧過ぎるが故に『ヒいた』のだ。おそらくは親が適当に選んで持たせていたのだろうが、ハンカチ一つにしてもブランドロゴが付いている、そういう同級生というものは意味も無く付き合い辛く見えるものだ。良い悪いではなく、別の世界の生き物と言ったところだ。
俺はと言えば、何もかもが中の中。隣の白い顔が、真面目な顔で授業を受けながら、高級ボールペンの芯を入れ替えている姿を、何してんだろうと思いながら見ていたものだ。俺にとってボールペンというものは、オヤジが幾らでも持っている、薬会社の社名が入った使い捨てのプラスチック以外の何物でもなかったからだ。
当時から、涼介は自分を取り巻く者達の反応をあまり意識していなかったようだった。その辺りの妙な茫洋さが、決定的には涼介をクラスから孤立させる状況にはさせなかったように思う。彼が寛容で世間ずれしていることは誰の目にも明らかで、時にやっかみを言う者がいてもそれが周りに伝染することはなかった。むしろ、委員や代表などを押し付けても文句一つ言うでない涼介を、便利に思っていた者が多かっただろう。既に物事を采配することに慣れていた涼介は、そういった雑事の扱いが実際上手かった。そして俺の唯一の才能である、どこでもいつでも面倒事を両手に持つ破目になるという摩訶不思議な能力が目覚め始めたのもこの頃で、いつの間にか俺と涼介は日暮れる教室で二人きり、大量のプリントを刷ってはホッチキスで留めたり文化祭の出し物に頭を悩ませたりと、忙しい毎日を共に過ごすようになっていた。
それでも当時の俺にとって涼介は、親友と呼ぶにはまだ他人だった。それが一変したのは中学二年最初の期末考査の後だった。
間もなく夏休みを控えたある日、やはり俺達は教室に残ってなにやら作業をしていたように思う。それを良く覚えていないのは、あまりにも衝撃的な告白を涼介がしたからだ。
確か、生徒会関係の仕事ではさみを使っていた。せっせと同じ作業を繰り返しながらふと、涼介が目を上げた。奴はいきなり泣いていた。驚くなんてものじゃなく、俺は口を開けっぱなしてごしごしと袖で顔を拭う涼介を見ていた。
「とても怖かったんだ、昨日」
そう言って涼介ははさみを置いた。
「ど、ど、どうしたんだよ……」
他に言えることもなく、俺の心臓の音がどんどん大きくなる。
「弟に、家庭教師がついたんだ」
「お、弟、ああ、啓介、だったっけ」
「そう。その家庭教師が家の前にいた」
それでまた涼介は顔を歪めて恐怖と戦うように身を縮め、しかし話すことは止めなかった。それを要約するとこうだ。
その夕方、涼介が家に帰ると門の前で啓介の家庭教師が待っていた。G大に通っている女子大生だ。連絡が行き届かなかったらしく、家政婦が帰ってしまって閉め出しをくらった彼女は誰かが帰ってくるのを家の前で待っており、涼介は当然彼女を家に入れた。リビングに通してコーヒーを出し、涼介は自分の部屋に引っ込もうとした。しかし、彼女は啓介が帰ってくるまで相手をしてくれと言った。その頃から啓介は鉄砲玉の気質を発揮しており、兄として涼介は、時間を守らない弟の始末をするつもりでしばらく話に付き合っていたらしい。だが、事態は徐々に妙な方向に進んだ。やたら体に触ってくるなとは涼介も思っていたらしい。そもそも苦手な部類の女だったこともあって不愉快に思っていた矢先、彼女が涼介に圧し掛かった。
さすがに涼介はそれからの具体的な話はしなかった。恐怖の記憶が多くを語らせなかったと言う方が正しいのかもしれない。とにかく迫力に圧倒されている間に色々と施され、気が付いたら服を剥かれて上に乗られていたと奴は言った。興奮して鼻の穴を膨らませ、みしみしとソファを鳴らして腰を振る姿が本当に恐ろしかった、と。
涼介の臨場感溢れる言葉に俺もまた恐怖した。そして俺達は、絶対に男子校に進学しようと誓い合った。全くお互い、純情なガキだった。
中学生としての生活が終わりに差し掛かると、俺達は受験に専念した。涼介の手助けもあって、その頃俺の成績は上の下辺りをさ迷っており、担任には止められたが模試でB判定の高校を受けるべく俺は勉強に夢中になっていた。自由登校になってからは自宅にこもり、涼介との連絡もしばし途絶えた。
やがて三月が近付き、今年度の俺達と来年度の生徒会役員とで引継ぎをするため一度登校する機会があり、久しぶりに涼介と会った。迷ったが、結局M高に願書を出したと涼介は言った。なにやら奴らしく難しい理由を言っていたが、おまえはと聞かれてT高だと答えると、しばし黙ってからそうかと呟いていた。受かるにしろ落ちるにしろ、別の高校に行くことになるとわかって寂しい気持ちになったが、それを口に出すのはなにやら照れ、結局卒業式で会おうとだけ告げてさっさと自宅に戻った。
全て終わった卒業式、代表はやはり涼介だった。答辞を読む顔を見ながら、俺はやはり寂しい気持ちになっていた。式が終わって気が付いたが、涼介は俺と同じく両親共が卒業式に来ていなかった。花を片手に二人で学校を後にして他愛も無い話をしながら駅へと歩き、もう改札だという時に前を向いたまま、受かったかと涼介が言った。そう言えば、俺は受験翌日から力尽きたようにインフルエンザで寝込み、合格発表も親に頼んで見てもらった。結果を聞いてまた発熱したので涼介に連絡するどころではなかったのだ。受かったと答えると涼介は笑い、良かったなと言った。それとほぼ同時に列車がホームに入って奴はあっさりと手を上げ、またなと言って背を向けた。もう二度と会えない訳でもあるまいし、そう思いながらも俺は取り残された思いで電車を見送った。
そして四月、俺は予定通りにまた一人でT高の門を潜った。高校ともなると親が同伴していない子供は多く、黒い制服の群れに混じって詰襟の硬さを感じながら俺は入学式会場へと足を踏み入れた。杓子定規に入学式は進み、新入生代表の挨拶が近付いた時、俺は三年前のことを思い出していた。我ながら女々しいと感じたが、側にいればいるほど完璧だと理解するのに何故か手を貸してやりたくなるあのひょろ長い背中が懐かしかった。自分がしていないことを棚に上げ、なんで連絡を寄越さないのかとしみったれたことを考えていた時だった。
「新入生代表、高橋涼介」
なんだって、とよく声に出さなかったものだ。目を剥いて見上げた壇上に、見間違えるはずもないあの背中が上がって行く。そしてそつのない挨拶文が読まれ、校長に手渡された。
そして振り返った直後、奴は俺と視線を合わせ、にやりと笑った。一瞬だったが確かに。
その後、式場を出た俺が最初にしたのは、涼介の尻に蹴りを入れることだった。
帰り道で聞いたところ、所定の手続き日に志願先変更と新しい出願手続きを行っただけだと澄ました顔で奴は言った。
俺は、人生において悔いを引きずらないことにしている。後悔はする。それはどんなに避けても誰しもがする。後悔したことがないと言う者は、嘘を吐いたことがないと言い切ることができる者と同じ種類の人間だ。
引きずるかそうでないか、そこだけが個人にコントロールできるのであって、だから俺は、確かに後悔したのだと認めることでそれを断ち切ることにしている。
ただ一つ、どうしても消せない悔恨がある。それは、校風がなんとなく気に入ったというだけの理由でT高を選んだことだ。
それは蜘蛛の糸のように細くしつこく、いつまでも俺に引っ掛かっている。おそらくはこの先も、ずっと。
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