高校での学生生活は良い意味で単調なものだった。俺と涼介は車への興味を募らせながら勉強三昧の日々を送り、一年の終わりを迎えた。
当時T高では、某国の某宇宙開発集団で学生を研修させるという計画を進めていた。それには下準備が大層必要であり、生徒の自治を重んじるT高らしくその準備の一部も生徒に任されていた。もちろん実施は随分と先の話であり、また見ぬ後輩に向けてのボランティアのようなものだ。その準備委員に選出されたのが涼介だった。
若干軟派な気質のある我が母校では、生徒会役員は概ね人気投票で決まると言っていい。生徒会長の高田と副会長の杉岡がそうして選ばれ、手綱を持つ人間も必要だろうとありがたくも俺が書記に決まった。中学時代と違い、こういう時に涼介は上手く逃げるようになっていた。彼がどうしても医者にならねばならないという事情を、周囲が考慮していた節もある。しかし、海外とのやり取りを含む準備委員ともなると成り手は限られ、教師からの推薦もあって渋々と涼介はそれを引き受けることになったのだ。
この研修計画には複数の高校の生徒が参加することになっており、その中でT高とT女子高が最も多くの学生を送ることになっていた。そういう理由で、準備委員会には各校から一名を出すところ、この二校からは二名ずつを出す取り決めとなった。そして奴の口八丁が炸裂した結果、生徒会兼任で俺が残りの枠を埋める破目になった。どちらにしろ生徒会役員は準備委員会の会合に参加しなければならないので、俺はさっさと諦め、日々送られてくる英文のメールをこねくり回していた。
その年最初の会合がT女子高で行われることになり、進捗情況をプリントした紙の束を持って俺達四人はバスに乗った。そこでとんでもないことが起こるとは予想だにせず。
自己紹介から始まった会合は涼介の的確な議事で滞りなく進み、各校の役割分担を確認し合ってお開きとなった。三々五々帰っていく学生を見送りながら、俺達は持ち込んだOHPシートやパソコンの後始末をしていた。主催であるT女子高の生徒会長村野可奈子と涼介が、昨日届き、俺が訳すことができなかったメールの解釈について議論をしているのを横目に、腹減ったななどと俺は考えていた。意見の一致をみたらしい二人がメールを閉じてパソコンの電源を落とし、片付けも終わったことだから帰ろうと俺が言いかけた時、唐突にそれは起こった。
「村野さん」
会議室の鍵を手に持った村野を涼介が呼び止めた。村野は、T女でも飛び抜けて成績の良い学生だった。長い髪を何か複雑な編み方で二つに分けており、俺が言うのもおこがましいが実に地味で真面目そうな顔付きをしていた。カナ、と呼びかけるT女の副会長を手で制し、村野は涼介を見上げた。
「何?」
「突然なんだけど、俺と付き合ってもらえないかな」
とてつもない静寂が訪れた。俺の横で高田が、手に持ったノートパソコンを落としかけて必死で掴み直した。どうしたらいいのかわからないメンバーのただ中、村野は二、三度瞬きした。
「嫌よ」
迷いない一閃だった。涼介はかすかに顔を傾けたが、奴は奴で全く動じていなかった。
「どうしても?」
「どうしても」
「理由を聞いていい?」
「申し訳ないけど、高橋くんって私の好みじゃないの、全然」
ごめんなさいねと真顔で言って村野は会議室を出た。そして外から淡々と涼介に呼びかけた。
「早く出てくれる、高橋くん。六時までに鍵を返さなきゃならないから」
帰り道、高田も杉岡も異常に気を遣っていたように思う。しかし当の涼介は何も無かったように次の会合までの仕事の進め方を話していた。駅で二人と別れ、どう聞くべきか、もういっそ忘れるべきなのか迷っていたところ、涼介がふっと苦笑した。
「ふられた」
「そ、そうだな……」
正直俺は、涼介を袖にする女が存在するとは思ってもいなかった。おそらく涼介自身、言い寄られた女をふったことはあってもふられるのはこれが初めてだっただろう。
「まあ、次があるしな」
「つ、次、か」
「あれで諦めると思うのか?」
「さ、さあ」
好きにしろよと言えば、そうすると答えて涼介は楽しげに笑っていた。
だがそれも、十四回目までの話だった。
俺達は三年生になっていた。
十五回目に村野にふられた日の帰り、涼介は停まっている車にぶつかって尻餅をついた。これはいかんと手近のファーストフード店に連れ込み、コーヒーを持たせてから俺はチーズバーガーの包みを開いた。涼介は、落ち込むというよりは途方に暮れていた。ぽつりと、村野はどういう男が好きなんだろうと言い、何を言っていいのかわからなかった俺は、食べるのを止めて黙って向かい合った。涼介は視線を当てていた俺の食べかけのチーズバーガーを手に取るともそもそと食べ、ポテトも全部平らげて、じゃあなと帰って行った。
後になって聞いたのだが、夏休み前に予定されていた、俺達の代の最後の会合まで涼介ががんばったなら、付き合おうと村野は思っていたそうだ。以前に顔の良い男に手ひどいからかわれ方をしたせいで、涼介の真意を慎重に測っていたらしい。それにしても時間をかけたものだなと俺は感心すらした。そういう気質が涼介のお気に召したのかもしれない。
会合の裏でも地道に努力していたのが効いたのか、それとも村野曰く、高橋くんがストーカーになって逮捕されてしまっては目覚めが悪いから、というのが真実なのか、ともかく十六回目の告白で涼介はめでたく村野の彼氏の座に納まった。オーケーが出たんだと報告する嬉しげな電話の声と、自転車の後ろに村野を乗せてどこかへ行く涼介の姿が印象深く俺の記憶に残っている。
家に寄り付かなくなっていた啓介が村野に懐いたのもこの頃だ。悪い仲間の影が露骨に見え隠れするようになり脱色した髪が板につき始めていた啓介が、村野が来ている時だけは大人しくしていると涼介に聞いて俺は見物に行った。何がこの兄弟をこれほど惹きつけるのか俺には結局わからなかったが、とにかく村野の前では二人ともが妙に穏やかに兄弟らしい会話なんぞを交わしているので、俺は笑いを噛み殺すのに必死だった。その程度には、涼介と啓介の間には溝ができていた、とも言えるのだが。
やがて卒業が近付き、村野一人が東京に出ると知った時、俺は少なからず驚いた。もう走り屋の端っこ辺りにいた涼介にとって、確かに東京は面白みの無い場所だ。しかし、T大確実と言われていた上に村野が上京するというのに、奴が地元に残る理由がさっぱりわからなかった。遠距離恋愛は辛いらしいぜと脅してもみたが、車があればなんということもないと涼介だけでなく村野ものほほんとしていたので、そんなものかと首を傾げながら卒業し、俺は涼介と同じ大学に進んだ。その入学式でも、新入生代表の挨拶をしたのは言うまでもなく俺の親友だった。
その報せを受けたのは、俺が大学一年の夏休みが明けてすぐのことだった。残暑と呼ばれる時期を過ぎてもヤケクソのように暑く、涼介と違って一般教養のコマ数も課題量も少ない俺は、大学よりもバイト先のファミレスにせっせと通ってクーラーに当たっていた。
昼の混雑がひと段落した午後二時ごろだった。休憩時間をもらった俺は、その日発売の車雑誌を買うべくロッカールームに財布を取りに行った。すると手に入れたばかりの携帯電話に『着信あり』の表示があった。伝言は残っていなかった。俺は財布と携帯を持ってすぐ近くのコンビニで目的の雑誌を買い、それを読みながら駐車場で着信記録の最上段に電話をかけた。しかし最初のコール十回では相手は出なかった。太陽がじりじりと照りつけるアスファルトは溶けそうに熱を持ち、立ち木の影に隠れながら俺はもう一度発信ボタンを押した。今度はコール二度目で繋がった。
「どうした涼介」
『俺はしばらく東京にいる』
唐突にそう言う涼介に俺は苦笑した。理由は一つしか思い浮かばなかった。
「村野だな」
『ああ』
「授業はどうすんだ」
『<数学理論>の代返、頼めるか』
「いいけど、いつ帰ってくるんだ?」
『わからん』
「わからん、じゃないだろ。おまえ来週、いろは坂のなんとかいう奴とバトルするんだろうが」
『そんなこともあったな。断っておく』
「おいおい……何やらかしてんだよ、おまえは」
『今からやる。何年食らうかわからねえが、おまえとの友情は忘れない』
「はあ?」
『それと来年、啓介に車を教えてやってくれ。たぶんハマるよ、あいつは』
「涼介?」
『ひき逃げされたんだ、村野が』
その時になって初めて、俺は涼介が激怒していることに気がついた。いや、正確にはそう感じた。これほど怒っている奴と接したことがなかったから、ほとんど勘のような形でそう確信した。
「……容態は」
『ICUだ』
「落ち着け、無理かもしれないけど落ち着け、涼介」
『ああ無理だよ。さっき加害者を見つけた』
「わ、わかった、俺もそっち行くから!」
『来なくていい』
「行くっつってんだろ!」
『来たら共犯にされるぜ?』
「おい!」
『じゃあな』
ぶつりと電話は切れた。涼介自身がキレる音に聞こえた。それ以降、何度かけても繋がらず、奴の親父さんを通してさえ連絡を取ることはできなかった。
俺はその後のバイトをすっぽかして東京に向かった。
事態は間一髪だった。ボンネットをへこませた幅広のセダンが飲酒検問に引っかかったのは、涼介の目の前だったらしい。あの時、俺の電話を取るために車を止めなければ、あいつは本当に何年か食らっただろう。それが涼介にとって幸運だったのかそうでなかったのか、未だに俺にはわからないが。
やっと電話に出た涼介はそれでもまだパトカーの跡を付けていた。この際黒白の車ごと、などと言い出す馬鹿を全力で説得して病院に向かわせ、俺もそこへと急いだ。
辿り着いた白い建物の中、ICUと廊下を仕切る自動ドアの前に三つの人影があった。半透明のガラスから漏れるうすぼんやりした灯りを浴びた村野の両親と涼介は、無機物のように動かなかった。俺は立ったままの涼介の腕を掴んで据え置きのソファに座らせた。
どれほど経ったのか、ICUから出てきた看護師の一人が村野の両親に話しかけ、二人はよろよろとのガラスの向こうへと消えて行った。しかしすぐに戻ってくると力尽きたようにソファに座ってうな垂れた。更に時間が経ってから、開いた自動ドアからキャスター付きのベッドが現れると俺達四人は一斉に立ち上がった。母親はすぐさまベッドに駆け寄ったが、素早く動いた父親は、娘ではなく涼介の前に立って奴の肩を両手で掴むと壁に顔を向かわせた。
「見ないで、やってくれ」
その震える声に、俺も反射的に村野から背を向けた。されるがまま立ち尽くす涼介の背を一つ叩いてから、村野の父親は俺達から離れていった。
その日から、涼介の生活は大学と東京との往復に費やされることになった。村野の意識は三日後に戻り、それからの回復は順調だという話だった。だが、涼介は一度として村野に会えてはいなかった。講義が終わると東京へ向かい、面会を断られて病院の駐車場に止めた車の中で課題をこなしてまた群馬へ戻る、そんな生活が一月以上も続いた。
その年はいつまでも暑かった。
十月の声を聞いても、昼間に動くと汗をかいた。そんな疎ましい秋の週末、じりじりとボディを焼く太陽を感じながら、俺は自分の車に涼介を乗せて東京へと向かっていた。涼介の代わりに村野に会うためだ。何をしても、言葉だけは交わすつもりだった。
病院の中に入ると、涼介は寒いと訴えてエアコンと温暖化について話し始めた。患者ですら、クーラーの効きが悪いと文句を言いながら額にハンカチを当てている中、俺は時折ぐらりと左右に振れる涼介の背中を支えてエレベーターに乗り込んだ。そこから降りるとナースステーションの真ん前で、一人の看護師が涼介を見て悲しそうな顔をした。まだ何か言っている友人を待ち合いのソファに座らせ先ほどの看護師を探すと、彼女は心得たように寄って来て涼介の隣に座った。俺は四角いプレートに村野の名を探しながら奥へと歩いて行った。
見つけた個室のドアを叩いた時、俺は幾らか腹を立てていたように思う。村野に対してだ。だがそれも長くは続かなかった。細く開いた隙間から覗いた村野の母親の顔は、一月半の間に十も老け込んだように見えた。外に出てきた彼女をできる限り傷つけないように、俺は自分と村野と涼介の関係を説明してから、このままでは涼介までが倒れてしまう、一目で良いから村野と会わせてやって欲しいと訴えた。俺の努力もむなしく、村野の母親は苦悩する様子を見せながら病室の中に戻って行った。
村野の母親はがんばってくれたのだと思う。かなり時間をかけてからドアを開けた彼女は目尻に涙を溜めていた。
「左手だけでいいなら、会ってもいいと言っています」
疲れ果てた顔で彼女は言った。俺は何と返していいかわからず、ただ頭を下げた。
それからのことは思い出したくない。思い出したくない。本当に思い出したくない。これを最後にしよう。
待ち合いで看護師に水か何かを飲まされていた涼介を連れ、俺は病室へと歩いた。ドアをノックしスライドさせて中へと入ると、ベッドの周りのカーテンはぴっちりと閉まっていた。カナ、と母親が呼びかけた。カーテンを押さえていてね、と聞き覚えのある賢そうな口調が答えた。そしてクリーム色の布地の間から細い手がするりと出てきた。母親が丸椅子を勧め、俺がそこに涼介を座らせた。
「お久しぶり、高橋くん」
痩せた手の上方で、母親はカーテンの繋ぎ目を両手で引き合わせていた。わずかな隙間もできないように、全身で押さえ付けているように見えた。
「何か言って」
涼介は俯き、全身を震わせながら彼女の手を握った。カナ、とつぶやくような声が漏れた。
「これきりよ」
「カナ」
「ごめんね」
「俺が治す」
「ごめんね」
「俺が治すから」
「ごめんね。さよなら」
村野の手は一度しっかりと涼介の手を握り返してから、カーテンの中に消えた。
その翌日、村野は転院した。リハビリのためだと看護師は言い、転院先は決して口にしなかった。
涼介は村野を探した。あらゆるつてを頼り、リハビリ科が有名な病院を片っ端から訪ねて回った。その熱意には鬼気迫るものがあり、俺は止めることができずに逆に協力したこともある。だが、更に一月が経っても村野の居所は掴めなかった。
それは、俺が知り得る中で最も悲惨な頭脳戦だった。村野は、涼介が決して探さない世界でただ一つの病院、すなわち高橋クリニックへと転院していたのだ。当然、涼介の両親は全てを把握していたらしいが、涼介のためではなく村野のためにさまざまな配慮をしていたようだ。それがわかった時には彼女はもう退院しており、村野の家もまた、もぬけの殻だった。
そして桜の咲く頃、俺の携帯がひそやかにある名前を表示した。
上手に話してね、そう村野は言った。
電話口の向こう、以前と変わらない賢そうな口調で彼女が言った通りのことを、彼女が望んだ通りのことを、俺はとても上手に涼介に伝えることができたと思う。
村野は全身が痺れるほどの酷い頭痛を後遺症の一つとして抱えていた。車椅子ながら一人で外出が可能になったある日、横断歩道の真ん中でそれが起こった。動けない彼女に突っ込んできたのは大型トラックだった。俺はそう、涼介に話した。
誰のためなのかなんて知ったことではない。俺は、ただ、村野の望んだ通りにしたのだ。
それからしばらくの間、俺の親友は完全に螺子が飛んでいた。
手当たり次第に女と関係し、会う度に違う女を連れていた。一度決めたら徹底的に行動する男だ、寝た女の数は三桁に達したかもしれない。その状況で、大学内と峠のギャラリーには手を出さなかったのは褒めてやるべきだろう。
それがふっと止んだのは、一年半ほどしてからのことだ。多少呆れていた俺は、女はどうした、とうとう病気でももらったかと聞いてやった。その言葉を笑い、啓介とカブってえらく面倒なことになったからだと奴は言っていた。たぶん嘘だろう。確認が終わったのだと俺は思っている。誰も村野の代わりにはなれないという、わかりきったことを確認するために、涼介にはそれだけの時間、そうすることが必要だったのだと思う。
そして俺の親友は今、俺の目の前でコーヒーを飲みながら盛大な嘘を吐いており、俺は後悔の代わりに忘れがたい景色を思い出すのだ。
生真面目そうな詰襟の高校生が、女の子を後ろに乗せて自転車を走らせている。
彼女はスタンドの接合部に革靴を乗せて立ち乗りし、ペダルをこぐ彼氏の肩をしっかり掴んでいる。
どこまでも澄んだ空の下、長く編んだ髪と箱ひだのスカートが風に翻り、彼らが行く土手は青々とススキが群れていた。
二人はどこかへ行こうとしていた。
笑いながら、どこかへ行こうとしていた。
俺には一人、風変わりな親友がいる。出会ったのは中学の入学式の日だ。
そいつがコーヒーを飲みながらぶち上げている嘘を、俺はただ見ていようと思う。
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