当分は屋敷に滞在するはずだったザルバッグが慌ただしく出立したのは、年を越す準備も極まる十二月の半ばを過ぎた頃だった。
やはり予定が変わって王城に向かったダイスダーグの代わりにラムザが次兄を見送った。北西の砦に向かうザルバッグはいつものように笑顔を見せ、屋敷は任せたと弟の肩を叩いて馬に鞭を入れたのだった。
オーランがベオルブの屋敷に着いた時、ラムザは屋敷の前でぼうっと前方を眺めていた。彼の脇を執事や何人かの使用人が通って屋敷に入っていく。彼の視線を追うと、道の彼方に小さな砂埃が見えた。
「ラムザ」
呼びかけると、鈍い仕草でラムザはこちらを向いた。
「ああ……。もうそんな時間ですか」
「あれはザルバッグかい? 入れ違ったか」
目を眇めて遠方を眺める。もう何も見えなかった。
「北の砦を視察に行かれるそうです」
「ふうん」
スターから降りるとすぐにディリータが駆け寄って来た。手綱を渡すと二人を比べるようにして眺め、そして会釈して去った。その背中を今度はラムザが眺める。
「急な出立で」
ディリータを見ながらの呟くような声にオーランは首を傾げる。
「どうしたんだい、元気がないね」
「そんなこと」
不安げな声に顔を覗き込む。それで、やっとラムザは夢から覚めたようにオーランを見つめた。
「あ、ごめんなさい」
「いや、謝ることはないがね」
冷えるよ、と薄着の肩を押す。本当に冷えていた。
「珍しい、と思っただけなんです」
苦笑してオーランを見上げるラムザは屋敷の扉の前で歩を止めた。
「ザルバッグ兄さんも、昨日城に向かったダイスダーグ兄さんも、二人とも馬車を使わなくて」
「随分急いだもんだな。……武装はしていなかったんだろう?」
「ええ、でも……」
「心配ないさ」
俯くラムザの首筋に淡い冬の陽光が当たっていた。そのきらめく肌に顔を寄せ、オーランは低い声で囁いた。
「俺には君の気持ちが分かるよ」
え、とまた見上げる水色の目。
「君の『秘密』がそうさせるんだ。隠しことの罪悪感が、ちょっとした変化にも刺激される」
ラムザは片方の眉を微かにひそめた。
「だから全部吐いちまえ。今度は何をしたんだ!」
大きな声にぎょっと身を引くラムザの耳がぐいっと掴まれる。わ、とその手を掴み返してラムザはじたばたと身を捩った。
「何も、何もしてないです!」
悪戯小僧にやるように耳を吊りながら、オーランは怖い顔をしてラムザに迫る。
「嘘つけ、絶対また何かやったろう、この悪ガキめ!」
「してません、してません、ああもうオーラン! 離してったら!」
最後の方は笑い混じりになった。さあ尋問の時間だ、とそのまま玄関を潜り階段を上る。離して離してと笑うラムザを使用人達が驚いて眺めていた。
「さて、これが今日のおみやげだ」
課題を片づけた後、オーランは懐から小さな本を取り出した。途端にラムザの目が生きている者のそれになる。唇を緩めるオーランの手にある本には、青い表紙に「民主主義−空中庭園の虚美−」と記されていた。
「反民主主義論ですか?」
受け取り、ぱらぱらと捲りながらラムザは聞いた。
「一見はね。しかし、これは否定論者には書けないよ。読み進めれば分かるが、今までのどの本よりも詳細に突き詰めている。その上であえて王制を支持しているんだ」
「そういう人もいるんだ……」
「君の思想に近いかもしれないね」
思想だなんて、とラムザは笑った。
「僕のは遊びです。机上の論理もいいところですよ」
「この国の人間で、民主主義を体感した者なんてそうはいないさ。机の上だって立派な実験室だ」
定位置となった窓の脇に立ち、枯れた丘を見ながらオーランは言う。
「いつの時代でも世界は変わり続けた。抗おうとも逆らえない力がそうさせる。今も、何かが変わりつつあるに違いない。その何かを探すという行為は罪悪ではないよ」
「そうなのかな……」
ああそうさ、とオーランは明るく言った。自信なげな様子のラムザは、目を瞬いてからオーランに合わせるようにぎこちなく笑った。
「で、居留地は変わりないかい?」
「ええ、年越しの準備が大変そうですけど」
「やっぱりしょっちゅう行ってるんだな……」
「え、あの、そんなには!」
びくっとラムザが背筋を伸ばして両耳を押さえた。
「ははは! もうしないよ」
オーランはラムザを指先で呼んだ。不審げにそろそろと近寄るラムザに窓の下を指す。
「ディリータが行くよ。俺が帰るのを待てないくらいの用事かな?」
「う、馬番は他にもいますから……」
「彼が持っている大きな包みは何だろう?」
「修道院に……何か届けるんです、きっと」
「君はいいのか? 妹に会いたいだろう? ああ、この後行くのかな」
「ア、アルマは、新年だけはここに戻ってくるから、僕は……」
いいさ、とオーランはにやにや笑った。溜息を吐いてラムザはオリーブ色のカーテンに顔を隠してしまった。
「ディリータがこの家を出ても問題はない」
え、とラムザは目だけを出してオーランを見上げる。子供だなあ、と額辺りを小突くと今度はすっぽりとカーテンに身を隠す。喉の奥で笑ってオーランは遠くなるディリータと馬を見つめた。
「何度かあの村を見に行ったんだ。遠くからこっそりとね。ディリータは必ずダブルの子と一緒だったよ。何やら二人で空き家を手入れしている様子だった」
カーテンの奥は静まっている。
「村が認めるなら所帯を持てるんだろう? そういう文化だと聞いている。それに、彼の人生は彼が決めていい」
「……いやなひとだ」
「ははは、今頃気が付いたのか」
「ディリータは本気なんです」
「いいんだよ、君が、帰ってくるのなら」
「……」
カーテンに巻き込まれながら、ラムザもディリータの背を見送っているようだった。
「ああ、降り出したか」
窓の外をひとひらの雪が流れた。空には重そうな雲が集まってきている。
「吹雪になる前に帰るよ。君も無理をするなよ」
ラムザから受け取ったレポートを抱え、しかし考え直したようにオーランは紙の束を机に置き椅子に座った。
「ラムザ」
「……はい」
緑色の向こうから声だけが答える。
「君はまだ、十六だな?」
「え? ええ……」
渋々といった様子でラムザはカーテンを剥がして姿を見せた。
「年明けに十七になりますけど……」
「そうだったね」
頬杖を突いてオーランはラムザの顔を眺めた。ラムザは、なんだろう、という疑問の表情を隠さずにオーランの次の行動を待っている。
「随分進歩したなあ」
は? とラムザは首を傾げる。それに笑って首を横に振り、レポートを再び持ち上げてオーランは椅子を引いた。
「じゃあまた。風邪をひかないようにね」
と、立ち上がった表紙にオーランの首からするりと光る物が落ちた。ラムザが屈み、絨毯の毛足の間に埋まった物を拾い上げる。
「ああ、鎖が弱っていたか。ここで落ちて良かった」
「ペンダント、ですか?」
差し出すラムザの手のひらから、オーランは丸い銀色のロケットを摘み上げた。
「ありがとう。うん、これには母の肖像画が入っているんだ」
「え」
「俺の柄じゃないって?」
そういう訳じゃ、と言いながら、ラムザはオーランの指先に見入っているようだった。中を見るかい、とオーランが丸い蓋をぱちりと開けるとラムザは素直に覗き込んでくる。そこには女性が静かに微笑む絵が収まっていた。
「ああ、いいな……」
思わずという風情でラムザはそう呟いた。
「いいだろう」
うん、と頷き、そしてやっとラムザは失態に気付いて自分の口を押さえた。
「でもやらないよ」
にっと笑うオーランを悲しげに見上げ、笑うことに失敗したラムザは靴先を見つめた。
「君もこういう物を持っているだろう?」
ペンダントを内ポケットに仕舞いながら軽い調子でオーランは言った。凍ったようにその場に立っているラムザは唇を僅かに開き、しかし何も音の無いまま閉じる。参ったな、と心中で呟きながらオーランは彼から目を逸らした。まるで自分が虐めたようではないか。
声の掛け方も忘れてオーランはしばし沈黙し、そして手のひらを金髪に置いた。
「じゃあ来年に」
そっと撫でると、指の間を抜けていくか細い感覚にオーランまでが傷ついた気持ちになった。絡み無く離れた光の束に背を向け、ドアのノブを握る。
「オーラン」
絞り出すような声だった。振り返るとラムザは拳を握って見つめてくる。そして、とんでもない決断を下したかのような悲壮な顔つきになったかと思うと、さっと屈んで机の引き出しを開けた。そこには、物を溜め込まないラムザらしく、ぽつんと一つだけ布に包まれた何かが入っている。彼はその平たい物を出し、大事そうに机の上に置いて丁寧に布を解いた。
「……綺麗な人だ」
呟き、オーランは近寄ってその肖像画を見下ろした。
「母です」
言われなくとも分かった。髪は赤みが強いブロンドだが、ラムザによく似た面立ちに同じ色の瞳が輝いている。
「なぜ仕舞い込んでいるのか聞いてもいいかい?」
じっと絵を見つめるラムザは微かに頷き、ふうっと溜息を吐いた。
「父母の結婚は春です。お披露目もせずに書面だけで済ませたそうです」
ん? といきなりの話にオーランは首を傾げた。
「僕はその年の夏に生まれました、本当は」
「……そういうことか。じゃあ、本当はもう十七なのか」
はい、とラムザは小声で答え、母の顔を見る。触れるか触れないかという優しい動きで、流れるように描かれた髪に指を滑らせた。
「体が大きい子だと誤魔化しが通じる年頃まで、田舎で隠して育てられたそうです。母に静養が必要だと嘘で固めて」
「いや、ちょっと待ってくれ」
オーランはラムザに手のひらを向けて話を遮った。
「それは、確かに当人にとっては多少気恥ずかしいことだとは思うよ。でもそこまで隠す必要は、」
「母はずっと昔から父の愛人だったんです先妻の奥様がいらっしゃる頃からの!」
一気にそう言い、ラムザはまたオーランから顔を背けてしまった。いかにも軽そうな髪がぱらぱらと頬に掛かって表情を隠す。オーランは言葉を飲み込んだ。
「詳しいことは僕にも分かりません。誰も教えてくれないから。でも、たぶん……そういう立場だったからこそ、余計にきちんとしなくてはならなかったんじゃないかな。愛人の子ではなく、正式に父の子供だと認めさせるために」
「……確かに、それでは誤魔化す必要があるのかもしれないな」」
「第一、先妻の奥様が亡くなってからも、母は愛人のままでした。十年近くも。それがどういうことなのか、僕は……」
「手続き上、時間がかかったんだと思うぜ」
急いでオーランは言った。
「おそらく、君の母上をそれなりの身分にするための根回しが必要だったんだ。確かウォージリスの男爵家の養女でいらしたな、うん、そうだよきっと、そういう事情を汲んだ上で養子縁組してくれるような家を探して、体面を整えて、ああそれに再婚もそんなに慌ててするもんでもなし、ほとぼりを冷ますというか、いや言葉が悪いな、そう、時期を計って! だから、」
「ダイスダーグ兄さんが成人するのを待っていたんでしょう」
う、と言葉を詰まらせたオーランを、聡い目でラムザは振り仰いだ。
「そしてすぐに兄さんに家督を継がせた。それが、父上の出来る精一杯だったんじゃないかな。兄さんに対して、じゃない。亡くなった奥様に対する精一杯の謝罪として……」
「ラムザ……」
「きっと皆、知ってる。兄上達も古くから仕えている使用人も。先妻の奥様だって、気付かなかったはずがないよ。父上は本当にしょっちゅう母さんと過ごしていたんだから。僕は見てたもの、あの田舎の家にはちゃんと、父上のための椅子もパイプもあって、すごく使い込まれてた!」
小さく、しかし胸の中身を吐き出すような苦しい声だった。唇を引き結び、ラムザは再び肖像画を引き出しの中に押し込んでしまった。
「ラムザ、」
「だから、僕はこんな絵を飾っちゃいけないんです」
「こんな、なんて言うもんじゃない」
少し厳しい声を出したが、ラムザは強く首を横に振った。
「いけないんだ!」
身を翻してラムザは窓に駆け寄った。手のひらを頬を、ガラスに貼り付け、自分を守るようにカーテンに半分体を隠す。
「ラムザ」
もしかして、とオーランは眉を寄せた。ラムザは今までもずっと、あのカーテンにくるまって遠くを眺めることで癒されていたのかもしれない。肖像画の中で彼の母が纏っているドレスと同じ色のカーテンに、不安と悲しみを聞かせながら。
「ラムザ、俺は知ってる」
窓の外をひらひらと雪が舞っている。聞こえていないように、ラムザは顔を上げて天を仰いだ。灰色の雲からぽたぽたと落ちてくる、大粒の雪を。
「皆、君がまだ、」
言いかけ、オーランは言葉も踏み出した足も止めた。雲の切れ間から差し込んだ陽がさあっと地を滑って窓まで駆けたのだ。
淡い冬の日差しに清々しく包まれ、ラムザは目を細めてその光を、光の中を乱舞する雪を見ている。輝く髪が顔の輪郭を滲ませ、そこから霞んだ光が全身に届いて一瞬彼の姿が揺らいだ。
そう思えて、オーランはぐっと息を飲み込んだ。
「空に、行きたいのか」
枯れた声に、え、とラムザが振り返る。
「……まさか」
「君が」
オーランは、止まるべき場所を通り過ぎた。体の向きを変えきれていないラムザの肩をぎゅっと両腕で包み、首筋に鼻先を埋める。
「君が、雪の代わりに空に上がっていくような気がした」
「僕はどこにも、」
「行くな」
「……」
「行くな」
「……うん」
ラムザはその腕を暖かいと、オーランはその肩を冷たいと。
思いながら、それ以上は何も言わなかった。
FFT TOP・・・5