ラムザの元に相次いで二通の手紙が届いたのは、年明け間もない七日の午後だった。最初にやってきたのはオルランドゥ家からのもので、雑用に忙しく当分そちらには行けそうにないというオーランからの謝罪の手紙だった。ラムザが玄関ホール側のベンチでそれを読んでいるとまた扉がノックされた。対応に出た執事が常にはない丁寧な礼を取る姿を見て近寄れば、そこには王家からの使者が立っていた。
真白い封筒の表には間違いなく自分の名が記されており、緑色の封緘に押された王家の紋章にラムザは何度も目を瞬いた。次兄の代理、という立場ではあったが、領地を任されているという現実を手のひらに乗せ、使者の去ったホールでラムザはしばしためらった。
中には、やはり王家の紋章を四隅にあしらった白い便せんが一枚入っていた。内容はわずかに五行。正式なラムザの名に続いてそこに記されていたものは、隣国ロマンダとの開戦を知らせ、現在の戦況を告げる簡素な文章だった。領民に備えを与え、領地を死守せよとの言葉で結ばれた文の下には、有事の際に王の名に加えて冠されるはずの『イヴァリース軍総指揮』の文字が、王弟のサインに並んでいた。
イヴァリースの現王は長く病床にある。時折国民に向けた言葉が伝わってくるものの、実権のほとんどは王弟にゆだねられていた。だが、『軍総指揮』の肩書きだけは、王が死するまでその名に付帯するものと決まっている。
「崩、御」
このサインの意味に気付かない者は、貴族の中にはいないだろう。この通知は単なる開戦の布告ではなく、王弟が新たな王として立ったことを貴族達に告げるものだ。ラムザは呆然と、文字の連なりに何度も視線を走らせた。王が死んだ。しかしそれは、間の悪すぎる開戦故に、明らかな形で周知してはならないのだ。
ラムザは唇を噛んだ。稀に見る優れた王が死んだのだ。何度となく繰り返されてきたロマンダからの攻撃を卓越した外交手腕でいなして正式な開戦には至らせず、病床にあってなお威光を奮った王の死。それと相次いでの宣戦布告は、若い王弟には苛烈な仕打ちとなったことだろう。
「兄上……」
王弟は決して暗愚ではない。が、成人したばかりという若さだった。初老に達してからの再婚の結果生まれた彼は、崩御した腹違いの兄とは二十近くも年が離れている。王弟の若さと王位の継承についてダイスダーグ達が話す時、彼らの口調に強い親近感が含まれることにラムザは気付いていた。二十代半ばで実質ベオルブの名を継ぐことになったダイスダーグと、それを補佐してきたザルバッグには、王弟の胸中が痛いほど察せられたのだろう。
早馬のごとく城へ向かった兄達を思い出し、ラムザはきつく眉を寄せた。あらゆる雑事を済ませ、きっと二人はもう戦場に立っている。若い王のため、ベオルブ領地の北限、最もロマンダとの国境に近い雪の舞うジークデンに。
「どうかご無事で……!」
前線の二人のために祈り、そしてラムザは顔を上げた。
「アントンとベネットをここに」
通りかかったメイドに執事とメイド頭を呼ぶように頼み、ラムザは手紙を懐に仕舞った。指先で摘めるほど薄い紙片は、鉛のように重かった。
領民への布告を指示し、備蓄の確認など雑多な作業を済ませた頃には日が沈みかけていた。手抜かり無く済ませた自信はあったが、自室で休む気にはなれず、かといってメイド達が気遣って用意したお茶もろくには飲めず、ラムザは足下を見つめながらいつまでも屋敷の中を歩き回っていた。
やがてラムザは、兄達が愛用するスモーキングルームに辿り着いた。ソファに座り、ジークデンの地図を頭の中に広げて陣を組んでは崩す。ダイスダーグの好む渋みと甘みのある葉の匂いが染みついたソファはひどく柔らかく、頭まで沈みながら最良の手を決定した時、いきなりラムザは気がついた。自分の懐には、二通の手紙が入っているのだ。
「オーラン……!」
手紙を引っ張り出して呟く。彼もまた、出征するのだ。
ラムザは眉間に力を入れながら薄青い封筒を見つめた。本当ならば、自分も訓練兵として軍に召集され、後方の守りに付く年齢なのだ。
――行くな。
最後に会ったあの雪の日。オーランはそう言った。
「そのあなたが……」
胸に手紙を押し付けてラムザは耐えようとした。非常時、なのだ。
「あっ失礼を……」
「ごめん!」
スモーキングルームからぶつかる勢いで跳び出してきたラムザは、メイドの目の前で方向を変え、玄関扉に取り付いた。
「ラムザ様どちらへ? まもなくお食事が、」
「すぐ戻るから!」
赤い陽光に照らされた顔は、ちらりと振り返っただけで扉の向こうに消えた。
オルランドゥ家の玄関ホールの天井は、細かな色硝子に彩られたアーチ状になっている。これは、亡くなった夫人がゴーグ地方で見て気に入り自宅に作らせたもので、今となっては彼女の形見だ。
頼りない冬の夕暮れの光が色硝子を通って色を変え、宝石を散らしたように大理石の床を照らしている。その色取り取りの光を浴びながら、オーランはゆっくりと玄関扉に向かった。白金色の地金をいぶした鎧は思いの外強く反射光を走らせ、わずかに目を細めながらオーランは黒檀の取っ手を握った。
見送りは、老執事とその妻を含めた、数名のメイドだけだった。父シドルファスは王城に詰め、オーランが出撃すれば屋敷には守るべき主人はいなくなる。その不在はいつまで続くか分からない。全ての使用人に開戦と屋敷の現状を告げて暇を出したところ、行く宛てが無いと笑って屋敷に残ってくれた古なじみの者達が、今オーランを見送るために屋敷の前に集っていた。彼らに軽く頷いて見せ、オーランはスターの手綱を受け取った。常とは出で立ちの違う主の姿故か、いつになく落ち着きの無い馬の首を軽く叩いて宥める。
「どうした。おまえも戦いは嫌か?」
わずかに使用人達が悲しげな気配を漏らす。それを横目で見ながらオーランは笑った。
「俺も嫌なんだよ。だから一緒に行って、いざって時には連れて逃げてくれ」
苦笑が広がり、やがてそれはご武運を、と呟く声になる。うん、と短く答えてオーランはスターの背に跨った。
「オーラン!」
驚いて視線をやると、裸馬にかじりついたラムザが全力で屋敷の門をくぐるところだった。年の終わりに見た様子と同じに、細い足を折らんばかりに突っ張ってアーモンド色の雌馬はスターの鼻先で急停止した。止まると同時にラムザが飛び降りてくる。
「ああ、間に合った……!」
ひどく傷ついたような顔で、ラムザはオーランの足を触った。
「……悪いね、急で」
いいえ、とラムザはオーランを見上げる。
「年明けの挨拶くらいはしたかった。来てくれて嬉しいよ」
「オーラン」
大人びているはずのラムザが小さな子供のように見え、オーランはわずかに視線を逸らした。兄達がいない今、彼は多くの仕事を抱えているはずだ。こんなことをしている場合ではないだろうに。
「領地に、開戦の触れは出したか?」
「はい」
「備蓄を確認し、足りない者に与えたか?」
「手配は済ませました」
「屋敷の守りは固めたか?」
「……いいえ」
眉を上げるオーランに、ラムザははかないような笑顔を見せた。
「皆に暇を出すつもりです。執事とメイド頭は残りたいと言ってくれていますから大丈夫です」
「全く……」
「相手は大軍隊での正攻法を好むロマンダです。ジークデンで敗北を喫してイグーロス地方まで侵入されるような事態となる時は、国家存亡の危機と言っても過言ではありません。そうなったら一個人の屋敷なんて、どう守っても意味はありませんから」
「……そういうことは言うな」
「……はい」
スターが軽く嘶き、オーランは目を眇めた。太陽は地平を照らして夜を呼んでいる。
「俺みたいな大人になってしまうぞ」
笑い、オーランは手綱を引いた。雌馬の首に顔をすり寄せていたスターが嫌そうに従う。
「いよいよ危なくなって隠れる場所が無くなったら、皆でこの屋敷に来ると良い。ザルバッグがうらやましがっている、なかなか立派な地下室があるんだ」
「ありがとうございます。……ご武運をお祈りしています、オーラン」
生真面目そうな瞳を真っ直ぐに向け、その印象とは真逆の幼い仕草で、ラムザは手を伸ばした。手綱を握るオーランの指に冷たい指先が触れ、帰ってきて下さいと小さな声がした。一瞬目をきつく閉じ、オーランはその声を強く脳裏に刻んだ。そして離れようとする肌を握り返して身を屈めた。
「ラムザ」
青い目がオーランを射た。ああ、空だなとオーランは思う。限りなく広がる朝の澄んだ空と同じ色をした瞳が、真っ直ぐにオーランを見ていた。
「良いことを教えよう。この間、言いそびれてしまったことだ」
手を盗られたまま、背伸びするラムザはかすかに首を傾げた。
「ダイスダーグ殿もザルバッグも、君が夏生まれだと知っている。知っていて、君はまだ十六なのだと皆に触れ回っている」
息を止めるラムザににやりと笑い、オーランは白い手を離した。
「ラムザ、その意味を考えろ」
言葉を失っているラムザを見下ろし、オーランは深い笑みを作った。そして使用人達に軽く手を振り、スターの腹を蹴った。
「皆、後を頼む!」
明日にでも帰るような穏やかな笑顔を残し、オーランは王城の方向へと駆け去った。ザルバッグを見送った時と同じく、ラムザは長くその背を見つめていた。そうするしかない自分を恥じながら、そしてオーランの言葉を反芻しながら。
十日ほど、つつがないと言うべき日々が過ぎた。オーランに予告した通りに使用人には暇を出したが、実際に屋敷を後にした者は数名、領民もさして警戒した様子を見せてはいない。
――イヴァリースの民はロマンダの侵攻に慣れ過ぎている。
ラムザはベッドの中で、何度目か分からぬ寝返りをうちながら溜息を吐いた。
――単なる侵攻と開戦は違うものだと、彼らは分かっていない。この四十年余り、開戦のふれが出ていないという事実を忘れているのだろうか。……いや、前王が偉大過ぎたのか。
前線を思っても、ただ飽きるほど寝返りを繰り返すしかない。何の変化もない日々は却ってラムザに不安を与え、眠りを浅くしていた。再びうつぶせて枕を抱こうとしたラムザは、ふと動きを止めた。
「……馬?」
窓に駆け寄ってカーテンの隙間から表を覗くが、門扉を報せる常夜灯は落としている。耳を澄ますと確かに乾いた蹄の音が近寄ってきている。黒い石を積んだ正門の前はただ暗く、ラムザは胸を押さえながら窓から門を睨んだ。やがて音はやみ、人と馬と判別できる影がゆっくりと門の前まで歩み、止まった。ラムザは上着を羽織ると部屋を出た。
不測の事態に備えて衣服を着たまま休んでいて良かった、そう思いながら階段を下りていくと、執事が玄関扉に向かう姿が見えた。彼もまた、寝間着は着ていない。
「ラムザ様」
若い主の姿を認め、執事は階段を見上げて片手を上げた。彼の持つ燭台だけがその場の灯りだった。ラムザの足下を照らすべく階段下に歩み寄る彼は、常の無表情とは違って緊張し唇を強く結んでいる。
「早馬かな」
「こんな時間に来るものでしょうか」
「確かめる。一緒に来て、アントン」
ラムザは残りの階段を駆け下りて炊事場に向かう。食料保管室に入ると表門からは見えない扉から庭に出る。執事が燭台の火を吹き消そうとするのを止め、石の扉が重く下りた表門に急いだ。そして執事を数歩下がらせると門の装飾の一部を外し、そっと表を窺った。
扉の前には疲れ果てた様子の茶色の馬が一頭と、そこから降りようとしている者が、雲間から現れた月に照らされていた。きっちりと纏った甲冑を覆うマントには、ベオルブの紋章が染め抜かれている。
「ベオルブのマントを着けている」
執事を振り返るが、彼はゆるやかに首を横に振る。いつの間にか、ナイトキャップを被ったままのメイド頭がガウンを胸の前でかき合わせながら並んでいた。
「死体から奪うこともできます」
「……うん」
ラムザが唇を噛んだ時、思いがけない声が聞こえた。
「どなたかおいででしょうか。夜分に申し訳ございません。ラムザ殿に面会を願います」
「え」
女性の声だった。再び覗き穴に目を寄せると、彼女はそれを分かっている様子で兜を外し、真っ直ぐ扉に向き直った。勝ち気そうな目付きが印象的な、若い女だった。一つにくくった薄茶の髪を揺らしながら、女はもう一度よく通る声で穏やかに告げた。
「私はバルマウフラ・ラナンドゥ、ザルバッグ様の直属部隊の者です。早暁にジークデンを立ち、書面をお渡しすべく駆け参じました。どうぞ弟君に面会をお許し下さい」
ラムザは執事と顔を見合わせた。
「なまりが無いね。少なくともロマンダの人間ではなさそうだけど。アントンはどう思う?」
執事は目を閉じて数秒考え、一つ頷いた。
「私もそのように考えます」
「うん」
メイド頭と執事が共にラムザの背後にぴたりと体を寄せる。緊張に頬を震わせながらもう一度覗き穴から女を見ると、彼女は鎧を鳴らしながら膝を突こうとしていた。
「バルマウフラ殿」
呼びかけると彼女は顔を上げた。挑むような目を少し和らげて微笑み、なんでしょうかと答える。
「ザルバッグ・ベオルブが、どうしても食べられない物をご存じですか」
「は?」
「いかがですか?」
バルマウフラは首を傾げ、宙に視線を投げた。
「食べられないもの……。何でもお食べになる方ですが」
彼女は困った様子で何度も首を傾げ、やがて思い出したように目を上げた。
「もしや、クルミのスープ、でしょうか? 野外で取る食事ではよく出るものですが、馬の体に良いのだとおっしゃって必ず愛馬にやっておしまいになります。そう言えば昨夜も……」
彼女の言葉に、相変わらずだこと、とメイド頭が微笑んだ。緊張を解いた二人を振り返って頷いて見せ、ラムザは扉に手を掛けた。
「開けます」
重い心張り棒と掛け金を執事の手を借りて外す。ゆっくりと押す二枚の扉の間から、月に照らされた女の影が長く延びて差し込んできた。開いた扉の前で女は驚いた顔を一瞬見せたが、すぐに深く頭を下げた。高く結った長い髪が彼女の肩を流れ、白いうなじが露わになっている。儀礼というよりは敵意が無いことを示しているようだった。
「お待たせしました。どうぞお立ち下さい」
「ありがとうございます」
女は静かに立ち上がり、ラムザと視線を合わせた。淡い茶色の目はラムザの目よりやや高い位置にある。
「試すようなことをして申し訳ありませんでした」
「とんでもございません。大変良いお心掛けと存じます」
「お疲れでしょう。中へどうぞ」
「いいえ、ここで」
彼女はきっぱりと断り、腰にくくり付けた布袋に手を入れた。
「これをお持ちしました。お受け取り下さい」
差し出された封筒の表にはラムザの名がある。確かに、ザルバッグの筆跡だった。
「兄に、何か……」
開封をためらってラムザはバルマウフラを見つめた。彼女は小さく首を振る。
「勇猛果敢に戦っておいでです。これは、おそらく最初で最後の戦況の報せとなる、とのお言葉です」
「最初で最後……」
「そう言えば、弟君にはお分かりになると」
「……北ガリランドの沼地まで、敵の侵攻を許すおつもりなのですね」
バルマウフラは驚きを隠さず、目を見開いた。
「ベオルブは、以前からその作戦を取るとお決めだったのですか」
「いえ、僕は何も知りません。こんな無理な早馬で報せを下さり、それが最初で最後。ならば、芳しくない。敵の戦力が甚大で、ジークデンは放棄するとお決めになったのではないかと思ったのです。大軍に侵攻された場合、砦を死守するよりも、沼地まで誘導して地の利を生かして戦う方が犠牲も少ないのではないですか」
「……その通りです。おそらく手紙にはそのことが書かれているものと」
今読め、と彼女の目が急かす。ラムザは封を切って中の紙片を広げた。
「……」
文字を見つめ、ラムザは一度唇を噛んだ。そして書かれた文字をそのまま声に出した。
「ジークデンは落ちる。屋敷は捨て、オーボンヌへ向かえ」
全員が言葉を無くした。扉から吹き込む風が、かさかさと手紙を鳴らした。
「……それだけ、でございますか?」
メイド頭が悲しげに呟く。
「うん」
「承知いたしました。すぐに準備を始めさせましょう」
淡々と言うのは執事、慌ててメイドが頷いて、使用人達の寝室に向かって行った。
「……全く」
呆れたようにバルマウフラが言い、ラムザは肩を竦めて見せた。
「ごめんなさい、これだけのために駆けていただいたなんて」
「そういう意味では」
手紙を睨む目を緩め、彼女は急いで言った。
「あんなに心配しているんだから、無事に逃げてくれ、くらいのことを書けばいいのにと思って」
首を傾げ、ラムザはバルマウフラを見上げた。あら、と口を押さえ、彼女は再び居住まいを改めた。
「もの足りないこととはお察ししますが、確かにお渡しいたしました」
「充分です。兄に、心おきなくお役目を果たして下さいと伝えていただけますか」
バルマウフラはラムザを見つめ、薄い唇を引き上げた。
「はい。この弟君なら大丈夫だと、私からもお慰めしましょう」
彼女は右手の手甲を外し、意外な程に華奢な指先を差し出した。それを握り返し、ラムザも微笑んだ。
「どうかご無事で、バルマウフラさん。戦いが終わったら、違う形でお目にかかる日もくるでしょうね」
「……本当に賢いこと。お会いできて良かったわ」
いずれまた、そう付け足して彼女は手を引き、自分の馬に足を向けた。
「このまま乗って帰れば、途中で潰れる」
馬の首を撫でながらディリータが二人の背後に立っていた。バルマウフラに彼を紹介しながら、ラムザは泡を噛んでいる馬を見上げた。
「そうだね……。戦場向きの馬、いる?」
「ああ、どういう訳だか残ってる」
「エリザベス?」
バルマウフラの言葉に二人は同時に顔を向けた。彼女は馬の腹をそっと撫で、首を竦めて苦笑した。
「実は、この子が潰れるようならエリザベスという馬に乗り替えて良いと言われていたのです。厚かましい話ですが、お貸し願えると助かります」
どうりで、とディリータは腕を組んで馬をを見つめる。
「早馬を寄越すことになると、予想して残して行かれたんだろう。おかしいと思ったんだ、こいつはさほど戦場向きじゃない」
「え、うちの馬だったの、これ」
「ああ、競馬に何度か出ているハリーだ。何かあるのかもしれないと思ったから、エリザベスは調整して滋養も取らせている。今すぐに出せるぜ」
「そう……。始めから戦況は芳しくなかったんだ……」
「いやになるわね、賢い子達」
バルマウフラは二人の顔を見比べて眉を上げて見せた。
「でもきっと大丈夫。ザルバッグ様自らが前線に立たれているから志気がとても高いの。それに間もなく、王城からダイスダーグ様が加勢を連れて参戦なさる。イヴァリースは負けないわ」
自分に言い聞かせるように言い、バルマウフラは地面に置いていた兜を手に取った。ディリータが頷いて厩に向かう。彼女と再び向き合ってやっと、甲冑のあちこちに月明かりに白く浮かぶ刃傷が散っていることにラムザは気がついた。この人は、今朝まで戦場にいたのだ。
「……このまま戻って、戦われるのですね」
「ええ。明日の昼には沼地に着けるはず」
眠る気など毛頭無いと暗に告げる強い彼女の視線に、ラムザは目を伏せた。『まだ十六歳』のラムザは本格的な軍事訓練を受けていない。それを済まさない限りは子女扱いとなり、足手まとい故に戦場に出ることは許されないのだ。既に訓練を複数回経験しているディリータは、この戦況ではいずれ後方支援として召集されるだろう。
「……ごめんなさい」
「ラムザ殿?」
甲高くいななく馬の声に二人は振り向いた。ディリータが、黒い体躯をつやつやと光らせた馬を引いていた。バルマウフラは兜を深く被ると手綱を受け取り、軽い身のこなしで馬の背に跨った。
「素晴らしい馬です。これなら、沼地まで駆けてそのまま参戦できるでしょう」
「お気をつけて」
眩しそうに目を細めてラムザは彼女を見上げた。
「はい。ラムザ殿も」
頷き合い、互いに小さく手を上げた。そして一呼吸の後に、バルマウフラは手綱を繰って背を向けた。
「何の報せだったんだ」
残された馬の手綱を拾いながらディリータが呟く。小さくなる人馬の背を暗い道に探しながら、ラムザは溜息を吐いた。執事が一礼し、明かりが灯り始めた屋敷の中に駆け戻って行く。
「準備が出来次第、オーボンヌに向かう。疎開だよ、ジークデンはもうだめらしい」
「……そうか。ついてるな、俺は」
何、とディリータの顔を見ると、彼は肩を竦めながらハリーの手綱を引っ張った。
「歩兵として三日後にはドーターに着いていなきゃならん。俺には馬がいるからな、ぎりぎりまで屋敷に残るつもりだったが、それならオーボンヌに寄ってティータの顔を見て行ける。ついてるだろ?」
ラムザは目を見開いてディリータの腕を掴んだ。
「もう徴集されるの!?」
「いや、志願した」
「どうして!」
「オーボンヌも居留地も、俺が守る」
ディリータは言い、少し笑った。唖然とするラムザの背をつつくように叩いてまた肩を上げてみせる。
「戦争が終わったらでいい、おまえはベオルブの領地を取り戻しておいてくれ。ティータやアルマが帰れる場所が必要だ」
頼んだぜ、とディリータはハリーを連れて馬小屋に入って行った。
開け放たれた扉を閉めることも忘れ、ラムザはその場に立ち尽くした。
領地はおろか、自分さえも一人では守れない現実を、闇の中に見つめながら。
FFT TOP・・・6