オーランが初めてその屋敷を訪れた時、馬を引いた一人の青年とすれ違った。青年というよりは少年に近い年齢の不機嫌そうな彼は、オーランをちらりと見て何かを呟いた。
「なんだい?」
振り返った時には彼は馬小屋に入るところだった。案内の者を待たせる訳にも行かず、仕方なくオーランは歩幅を広めて大きな屋敷の扉を潜った。
青年の言葉は、お気の毒さま、と聞こえたのだ。
「ご足労感謝する、オーラン・デュライ・オルランドゥ殿」
通された客間で、オーランはこの家の当主に向き合った。
「お久しぶりです、ダイスダーグ殿。先日は父の誕生祝のパーティーにいらして下さいましてありがとうございました」
「ああ、君の挨拶は立派なものだった。お父上もご安泰だろう」
その男は威風堂々、という言葉が正に的確な、威厳ある出で立ちだった。握手を交わしながら、恐ろしくもある鋭い眼差しで爪先から頭までを検分されて、オーランは軽く足踏みをした。眼光、というものの圧力を感じた気がしたのだ。
「わざわざ来ていただいたのは他でも無い、当家三男のラムザについて相談があるのだ」
「ラムザ、くん、ですか」
ベオルブ家でも何度か催されたパーティーで、オーランは遠目にその少年を見たことがあった。繊細そうな目を俯かせた少年で、言葉を交わすのが躊躇われた程、華奢に見えたものだ。
「君にあれの家庭教師をお願いしたいのだ」
「ええ、そのように父から聞いていますが……」
ダイスダーグはオーランに椅子を勧め、そのタイミングを見計らったかのようにお茶が運ばれてきた。オーランがミルクを入れてかき回している間に、ダイスダーグは熱い紅茶をほぼ一息で飲み干し、自分で二杯目を注いだ。慌てる使用人に手を振って下がらせ、二杯目を一口飲み、溜息のような息を吐いた。
「君のような立場の人間に家庭教師を頼むなど、非常識も甚だしいとは分かっている。しかし、もう他に思い浮かぶ者がいないのだ」
「いえ、私には良いお話です。父は当分家督を譲る気はないらしいですから時間はありますし。それを見抜いているのか、次から次へと見合い話が来るのに閉口していたところです」
オーランは苦笑して紅茶を口に運ぶ。ダイスダーグも独身主義者らしい皮肉な笑みを浮かべて同意する。
「君の年ならそうだな、後七、八年は肖像画の山が消えないだろう」
「……そんなにですか」
がっかりして肩を落とすオーランにダイスダーグは低く笑う。
「諦めたまえ。私にも未だ、年に何度かは話がくるのだからな」
「……お察しします」
「痛み入る」
笑ってダイスダーグは席を立った。ゆっくりと窓に寄り、眼下の庭を見下ろすようだった。
「ラムザのことだが……」
おや、とオーランは思ってダイスダーグを見た。オルランドゥ家と古くから親交のあるベオルブ家についてはオーランもある程度の知識はあった。先代が身罷り新しく当主となったダイスダーグは、家を継ぐ前から常に自信溢れる男、という印象があった。しかし目の前の彼は、威厳はあってもどこか疲れ、強いて言えば助けを求めている様に見えた。
「随分と年が離れているためか、私にはあれの考えることが分からん」
彼は固い印象の髭を撫で、こつ、と窓に指先を当てた。
「せめて反抗してくれれば良いのだが、それも無い。至って従順に見える。しかし、就ける家庭教師はどれもこれも、あっという間に辞めてしまうのだ」
「……家庭教師にいやがらせでも?」
「彼らは全員、自分の力が及ばなかった、と言う。脅してみてもさっぱり理由を言わんのだ」
「はあ……」
「そして家庭教師が去るとあれは家を抜け出し、何処かに通うのだ。何度も跡をつけさせたが簡単に捲かれてしまった。それなりに訓練を受けた騎士見習いですら、ラムザが川を越えた、という所までしか追えなかった」
「武勲で音に聞こえるベオルブ家としては、立派なことだと言えるのではないですかね」
「ある意味ではそうかもしれんが」
ダイスダーグは苦笑してオーランを振り返った。
「私の目の届かない場所で可笑しな真似をしているのでは、と思うとな」
「ラムザくんは聡明で正直な気性だとか。杞憂だと思いますがね」
「そうであってくれれば良いのだが……あれはまもなく十七になる」
「十七、ですか」
しばし無言で目を合わせる。
「……身を持て余す年頃ですねえ」
「うむ。自らを省みれば、何一つ説教は出来んな」
「そうですか? あなたは若い時から真面目な方だったとお聞きしていますよ」
「誰からお聞きになったかな?」
「エルムドア家にメスドラーマ殿のご結婚お祝いにうかがった時のことですよ。ローファル・ウォドリング殿やウィーグラフ・フォルズ殿も、往時を懐かしんでおいででした」
「ならば、私をそう評するだろう。彼らに遊び方を教えたのは私だからな」
「ははは、なるほど」
「私とて、ラーグ公やヴォルマルフ殿について聞かれれば、真面目な方だった、と言うしかないだろうよ」
ダイスダーグは和らいだ笑みを見せ、オーランも微笑む。オーランの遊び仲間には、まだ落ち着くには早い年齢であるウィーグラフの名も挙がるのだ。なにより、ダイスダーグのすぐ下の弟、ザルバッグ・ベオルブは、今のところオーランの最も親しい友人だ。遊びの最中に見るザルバッグの絶妙な大胆さを、オーランは尊敬すらしている。おそらくそれも、ダイスダーグと同じ種類の質故なのだろう。
ダイスダーグはふっと笑みを消すと視線を窓に戻し、溜息混じりに言った。
「長年ラーグ公、延いては王家をお守りする立場に身を置けば、おいそれと甘い顔は出来ない様になる。習い性と言えば聞こえは良いが、ラムザには辛い兄だろう。私にも小言を言った記憶しか無い」
「それはあなたが当主としての責任を果たしてきたという証でしょう」
「……ふ」
ダイスダーグは俯くような仕草で庭を見下ろした。
「嫌な商売だな、貴族というものは」
「全くです」
ダイスダーグはオーランを見つめた。
「頼めるだろうか」
「承知致しました」
「心から感謝する」
ダイスダーグは軽く頭を下げた。オーランは慌てて、止めて下さい、と手を振る。
「君の時間を拝借するからには代価が必要だ。報酬、などと言えば失礼になるやも知れんが、良い馬を差し上げたい。受け取ってもらえるだろうか?」
「はは、ありがたく頂戴します。今の馬は愛着があるんですが、もう年なもので思い切り駆けると息切れするのが可哀相だと思っていたところです」
「それは良かった。そうだな、ついでにザルバッグも無期限で貸し出そう。存分に連れ廻してくれ」
オーランは肩を竦めて笑う。
「お見通し、ですね」
「才能がありながら家を継げぬザルバッグも複雑な立場だ。気晴らしになれば良いと思っている。飼い殺し、などにはしたくはないのだが」
「騎士団長としてご立派じゃないですか。いずれご自分の力で、あるべき場所を見つけられることでしょう」
「そう言ってくれるか」
「エルムドア殿と同じですよ。せいぜい持ち上げておかないと」
はは、賢明だ、とダイスダーグは笑い、オーランはその姿に少し驚いた。若くして家督を継いで王家のために奔走し、しかも、二人の弟を気に掛けるねばならない父親の役目をも荷っているダイスダーグは、ただ厳しいだけの男ではなかった。心配性の兄の一面に安堵と好感を覚え、オーランも声を出して笑った。
「さて、どうするかな」
ダイスダーグ自ら案内してくれたラムザの部屋の外、オーランはひとりごちた。初対面ではない二人だが、初日は同席しようかとのダイスダーグの申し出をオーランは丁重に断り、一人上等なオーク材の床上に残った。
「まあ、顔を合わせて考えるか」
基本的に楽観思考であるオーランらしく、何も考えずにノックのためにドアに手をやった。
「おっ……と」
叩こうとしたその時、扉が、きい、と開いたのだ。
「どうぞ」
薄い色の金髪が視界に飛び込み、オーランはぱちぱちと目を瞬いた。細身で神経質そうな水色の目線をオーランに向けて、ラムザがドアの隙間からこちらを覗いていた。病的に肌の色が白かった。
「なかなか入ってこられないので……。オーラン殿ですね、兄から聞いています。僕がラムザです」
「ああ、それなら話は早いね。じゃあ失礼するよ」
ドアから離れてラムザはオーランのために道を開けた。自分の後ろでばたん、と扉が閉まる音を聞いて、オーランは少々後悔した。それは、その部屋を見た、素直な反応だった。
「じっくり話すのは初めてだね」
「ええ、パーティーで何度かお会いしましたが。あなたにはご友人が多くて近づけませんでした」
ラムザは自然にほころばせるようにして唇を笑みの形にした。大層、他人行儀に見えた。
「何も無いですけど、座って下さい」
指し示された小さめのソファに腰掛け、オーランは両手を組んで膝に乗せる。
「……本当に、何も無いね……」
「恥ずかしながら、無趣味なもので」
部屋は、暖かい雰囲気の明るい色の木材が使われた心地よい造りだった。絨毯はオリエンタルな織りで模様が施されたオリーブグリーンで、同じ色のカーテンが窓に掛かっていた。ソファの張り地とラムザが座った一人掛けの椅子には、清々しい森の一部のような柄が染め抜かれた布が使われている。それに机と本棚、家具はそれだけだった。
これ位の年の少年ならば、少しくらいは散らかしもするものだ、とオーランは微かに眉を寄せる。いい年のオーランの部屋でさえ、長年仕えている乳母しか掃除をしてくれない程度には散かっている。しかしラムザの部屋には今日一日で物を動かした形跡は何一つ無かった。机の上にはランプとインク壷と羽ペンが一本、何枚かの紙がきれいに揃えてあるきりだ。
床から天井まである大きな本棚は、二段ばかり埋まっているだけですかすかだった。それも、騎士の心得や剣技の指南書、イヴァリース国の歴史書など、教科書のようなものばかりが仕方なさそうに斜めになっている。その他の棚はすっぽりと空いており、埃すら溜まっていない。一番上の棚に、キラキラと光る鉱石らしいかたまりが置いてあり、それだけがラムザのなんらかの意志を見せている、そんな部屋だった。
「まあ、必要無いものは持っていても仕方ないだろうしね」
「そうですね」
とはいえ、家族からの贈り物や、遊び仲間にもらったような他愛無いものがあってもいい、とオーランは思う。そう、そして。
「絵くらいは、置いてもいいかとは思うけどね。少し淋しいよ、この部屋は」
ベオルブ家の先代は、最初の妻が無くなって十年後に再婚した。今から約十七年前のことで、それがラムザの母だ。彼女は不幸にも結婚後僅か七年で亡くなった。その母親の肖像画が部屋にあるべきではないか、とオーランは思ったのだ。
「……絵は、嫌いなんです」
ふうん、とオーランはラムザを見た。それまでの慇懃無礼さとは違い、ラムザが感情を滲ませて躊躇したことに大いに興味を持った、が、今日それを追跡するのは止すことにする。おいおい引き出せばいい。
「さて、それじゃ勉強に入るとするか」
あっさり引き下がるオーランにほっとした気配を示してラムザは頷いた。よしよし、とオーランも頷きながら言う。
「私は君の学力については何も聞いていないんだ。今日は初日だからね、軽く歴史やベオルブ家の領土について、インタヴューをしていいかな」
「ええ、どうぞ」
ベオルブ家を去る際に、オーランは待ち構えていたダイスダーグに引き止められた。
「ラムザの印象はどうだっただろうか」
憮然とした表情は変わらないが、その目には不安が見え隠れする。オーランは柔らかく笑い、手を広げて見せた。
「彼はとても賢い少年です。ベオルブ家の成り立ちもその一員として行うべき仕事も、正確に理解しています。あの年なら早熟と言っていいんじゃないでしょうか」
「ふむ……」
どこか誇らしげに見えるダイスダーグに苦笑しつつ、オーランは続ける。
「喜ぶのは早いですよ」
「……なんだろうか」
「そつが無さ過ぎます。不自然で、個性が無い」
ダイスダーグは眉を寄せた。ショックだったのだろう。
「職業としての家庭教師なら、大喜びするような生徒でしょう。大人が期待する返答を完璧に寄越してくる。素直で教え易い」
「ふうむ……」
「が、私には物足りないですね。おそらく、非常に注意深く自分を隠しているのだと思いますよ」
「では、やはり今日限りに……」
「今後何が出てくるか、楽しみです」
「やってくれるか!」
明らかなダイスダーグの安堵を見て、オーランは笑う。
「あまり期待はなさいませんように。もしかすると、とんでもない放蕩少年を引き出してしまうかもしれませんから」
「いや……何でも良いのだ。あれが、心を押し殺していることには私も気が付いていたのだ」
ダイスダーグは強くオーランの手を握った。
「よろしく、頼む」
「出来る限りのことはさせていただきます」
肩を叩いて送り出すダイスダーグに会釈をし、オーランは邸宅の扉を開ける執事に礼を言って表に出た。
ベオルブ家の前庭は典型的なイヴァリース式に整えられ、花壇には白と青を基調にした花が咲いていた。白い置石を点々と乗せた芝生の緑を小鳥の鳴く声が彩る美しい庭だった。初冬にこれだけの花を咲かせることが出来る庭師はそうはいないだろうと感心しながらオーランは待った。
やがて使用人が馬を引いて来た。その姿には見覚えがある。
「君は……」
来た時に見かけた少年だ。黒に近い茶色の髪をうなじでさっぱりと切り整え、同じ色の聡明そうな瞳でオーランと目を合わせる。
「どうぞ」
彼は無表情にオーランに手綱を手渡した。
「さっきも会ったね。私に何か言ったようだったけど」
「お聞き違いでしょう」
「お気の毒さま、と聞こえたよ」
それでも少年は何も言わなかった。
「……また今度話そう。馬をありがとう」
少年は不思議そうにオーランを見上げた。それはオーランにとって見慣れた反応だ。彼にはとても自然なことだったが、通常貴族は他家の使用人とは言葉を交わさないものだ。礼を言われるなど、彼には滅多にないことなのだろう。
オーランは微笑み、馬の背に跨るとゆっくりと彼から離れた。ぽこぽこと歩く年老いた愛馬の首を慰めるように叩いた時、背後から小さく声が聞こえた。
「……ラムザ、様、は、変わらないと思います」
独り言の様に、少年が言ったのだ。
「変えるつもりはないよ」
オーランは朗らかに振り返る。
「むしろ、彼らしくあって欲しい。逃げる必要はないと教えたい」
少年は、はっとしたように顔を上げた。
「君の名前は?」
「……ディリータ・ハイラル」
「私はオーランだ。ディリータ、またラムザのことを教えてくれよ」
そう言い、返答を待たずにオーランは駆け去った。
小さくなるオーランを見つめるディリータの頭上、僅かに開いたオリーブ色のカーテンが、さっと閉められた。
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