別離 1

 それにラムザが気が付いたのは、ルザリアからオーボンヌに向かい始めてからの事だった。攻撃的な視線はアグネスの常だが、ジャッキーまでもが同じように半目を寄越すのは珍しい。
 何かをひそひそとやっている、二人のそんな目線が斜め前辺りから刺さるのはさすがにうっとおしく、ラムザが野営の火から離れる時間は増えた。

「見回り?」
 呼びかけられて溜息とともに振り返る。
「いないと思ったら……。一人で歩き回るんじゃない」
「じゃあ、兄さんが一緒なら大丈夫だわ」
 たっと飛び込むようにアルマがラムザの左側にくっ付いた。ぴっちり組まれた腕に思わず笑ってしまう。
「全く……」
「こんなの、すっごく久しぶり!」
 屈託無く笑っていながらも、少しだけ寂しそうな声音にラムザは腕を解くのをやめた。
「あれから二年か……」
「ねえ兄さん、考えてみれば私達が一番長く一緒に暮らしたのは、覚えていないくらいの小さい頃なのね。その次が、父さまのご病気が重くなって、私が呼び戻された時かしら。あの後、兄さんはすぐにアカデミーの寄宿舎に行ってしまったけれど」
 ラムザとアルマがベオルブ家と修道院とに別れて暮らすことになったのは、それぞれ五歳と四歳の頃だった。あまりにも幼く、それ以前の具体的な記憶は無いが、匂いを覚えているような、不確かだが抗えない思慕を互いに持っていた。だから、幼い頃は二人は座っていても歩いていても、必ずどこかを触れ合わせていた。会える事が稀であったから、という理由もあるが、なによりも二人でいる時には、遠い記憶の中で霞がかった母の姿が鮮明になるのが嬉しく寂しかったのだ。いつの頃からかそういった仕草をベオルブの者らしからぬ、とダイスダーグに咎められるようになったが、二人きりの時間にはよくこうして腕を組み手を繋いだものだった。
 思い出すまでもなく、目の裏に刻まれた記憶を認めてラムザは足を止めた。
「アルマは僕を責めないんだね」
「兄さん?」
「あんなに突然姿を消したのに」
 兄の目に見惚れながらアルマは首を振った。水色の湖面のようだ、と今でも素直に思う。
「いいの、私だって出来るものならどこかに行ってしまいたかったもの」
「思うだけと、実際に逃げてしまうのとは違うよ」
 感情のこもらない声でラムザは言い、それにアルマは笑った。
「兄さんが連絡をくれていたら迷わず一緒に逃げたわ。だから同じよ」
「それを責めていいんだよ。僕が黙って一人で逃げた事を」
「……ティータを、待っていたかったの」
 きゅ、と腕に力が入りアルマは俯く。それを見下ろして、『見下ろした』事に気付いて、ラムザはわずかに顔を背けた。イグーロスで最後に会った時、発育が悪かった自分は見下ろすまでの身長ではなかったはず。急に、アルマがとても小さく見えた。
「だから、いいのよ。これでいいのよ」
「よくない……」
 置いて逃げた間に、これだけの時間が経ってしまった。あの屋敷にたった一人、置き去りにした間に。
「僕を一番責めるべきなのはアルマだ。ティータの分まで、責めていいんだ……」

 ざわざわと梢が鳴り、月は低く見通しは悪い。野営の火は遠くなっていた。アルマはラムザの腕を胸に抱き、頭を肩にもたせ掛けている。
「ねえ兄さん。ここは、私達のいる場所だわ」
 アルマは小さく笑って言った。何、とラムザが首を傾げるとアルマは赤く瞬く小さな火を指した。
「ほら、あれが家なの」
「アルマ?」
「ベオルブのお家よ。周りは暗いのに、一つだけ見える火から背を向けて歩いて来ちゃった。せめて月が高かったら照らしてくれるのにそれもないわ。……どうしてなの?」
 はっとラムザは肩の上から見つめてくるアルマと視線を合わせた。明るい青の瞳は闇の中、人に知られない深海のように穏やかだった。何よりも大切な妹が、ベオルブとの別離を完全に受け入れている事をラムザは知った。
「……ごめん」
 他に何が言えただろう。宝石箱に隠しておきたいような存在を、この世で最も醜い自分と同じ道に引き入れてしまいそうな今、他に何が言えただろう。
「ううん、違うの」
 しかしアルマは、虹彩の大きな目を驚いたように開いた。
「家に帰れなくて辛い、なんて思ってないのよ。私は兄さんと一緒にいられて嬉しいんだから気にするのはやめてね。私が聞きたいのはザルバッグ兄さんのこと」
 アルマはラムザの腕を離して首を傾げながら微笑んだ。眉が下がって困ったような顔だった。 
「この間は言い過ぎたかしらと思って言うのを止めたけど、やっぱり言うわね」
 そう言って彼女は一、二歩大きく足を上げながら歩いて見せた。
「私、やっぱりザルバッグ兄さんは、ラムザ兄さんを説得出来なければ排除しようって決めていたんだと思う」
 振り返ってアルマは、兄を見上げた。昔とは違う、柔和であってもどこか硬質な彼は無表情だった。それでも、あの『事件』の後に屋敷に戻って来た時に見せていた、捕まってはならないものに囚われてしまった亡霊のような笑顔よりもずっと良いと思った。
「……そうでなければ、お城の中で襲われたりしないわ」
 ふう、とラムザが大きく息を吐いた。それが溜息ではなく、人には見せない絶望を緩めるためになされたものだとなぜかアルマには信じられた。
「ね、そんな話はしなかった? 脅すくらいはされたでしょう」
「ザルバッグ兄さんは確かに、ベオルブに残らないのなら考えがある、そんな事を言ったよ……」
 そう、とアルマは俯いた。ラムザが音を立てない歩き方で寄って来て、そっと肩を抱いた。その手に指を重ねてアルマは目を閉じた。
「私達が小さい頃から、ザルバッグ兄さんは本当に優しくしてくれたわよね……。どうしてそんなに怒ってしまったの? どうしてザルバッグ兄さんから逃げなきゃならなくなってしまったの?」
「……僕が自分の考えで動くことが気に入らなかったんだよ」
「どうして気に入らないの、私、分からないわ」
「どうしてって……。僕が僕の意志でやっている事が、ベオルブにとっては不名誉な事だったからだ。貴族は『大儀』の前ではそういう我がままを言わないものなんだ」
「『大儀』って何? ベオルブが戦って守ろうとしているもの? それなら、ラーグ公が権力を持つって事だわ。そんなにラーグ公は、イヴァリースを治めるに相応しい人物なの?」
 驚いてラムザは妹の顔を見つめた。アルマはラムザに向き直り、悔しそうに片手を握った。
「おかしいわ。今、ベオルブは何も判断していないんじゃないの、本当は。誰も深く考えずに、目の前にある戦いをこなしているだけじゃないの? 国を失う危険があった五十年戦争ならそんな単純な形でも良かったのかもしれない。でも、同じ国の中で戦う理由が『昔なじみを守る』だけでいいの? それが貴族のやるべき事なの? そんな理由で弟を異端者にしてしまえるのが貴族というものなの?」
「アルマ……。そんな事を考えていたのか」
「嫁入り修行ばかりの学校はつまらないものなのよ。それにティータもいないし……。色々考えちゃった」
 照れたように笑いながらしゃがみ、アルマは足元の草を撫でた。
「ねえそれじゃあ、ザルバッグ兄さんが気に入らなかったのは、ラムザ兄さんが自分の望み通りにならなかったから?」
「ザルバッグ兄さんの望みというよりは、ベオルブの、つまりはダイスダーグ兄さんの計画とか指示とか、そういうものに対してだろうと思う」
 ラムザもアルマの側にかがみ、風に乱された前髪を梳いてやる。アルマは眩しそうに兄を見上げ、ゆるく頷いた。
「自分よりもうんと小さくて、頼ってくる者ならば可愛いでしょうね……。子供ならなおさらよね。そんな弱いものに反抗されるなんて思ってもいなかったんだわ、ザルバッグ兄さんは。そして、従順ではないものを守ろうと思う程、親切じゃなかったのね」
「残念ながら、そういう事だったみたいだ」
 激昂した次兄の顔。ラムザが冷静になればなる程、ザルバッグの怒りは増していった。あの雪の砦で自分はティータを殺されてベオルブを恨み、ザルバッグもまた、何かを恨み始めたのだろうとラムザは思う。それが何についての恨みかは、ラムザには分からなかった。ただ、自分が従順でなかった事だけが理由ではないはずだと思う。しかしそれをアルマに言っても詮無いだけだろう。
「ねえアルマ」
 座りこんでしまった妹に苦労して笑いかけた。
「どちらの兄さんが扱いやすいと思う?」
 あぐらをかいて自分の前に座った兄の言葉にアルマは首を傾げた。
「なあに、何のこと? よく分からないわ」
「僕は……」
 ラムザはアルマの手を取った。
「ダイスダーグ兄さんの方がマシだと思うんだ。会いに行くにしたって、絶対に僕を逃がさないように手を打っていると予想できるし、捕まったら確実に恐ろしいことになると信じられるから」
 脅えた光を宿す目に笑いかける。
「それはね、決して会ってはならないということだ。悩むまでもないから、扱い易いとも言える。でも、ザルバッグ兄さんは違う」
 しっかりと手を握り合って兄妹は温かみを与え合った。
「どうなるか、どう転ぶか分からなかった。それは、希望が残っている分、予期せぬ不運もはらむということだ。ダイスダーグ兄さんのような徹底したものが無いからなんとか今回は切り抜けられたけど。それをアルマはどう思う?」
「どう……って」
「家名や望みのための徹底した残忍さと、良心を残した詰めの甘い陰湿さと、どっちを選びたい?」
「……」
「僕は、今でもダイスダーグ兄さんを尊敬しているよ。あの人は恐ろしい人だけど何もかもを自分で背負っている。形はどうあれ、自分の手を汚せる人だと思う。そしてそれを完璧に隠すか、見せつけることで封じ込めるだけの力を持っている」
「ザルバッグ兄さんは……ずっと見せ掛けだけの優しさだったって言うの……?」
「ずっと、だなんて言わないよ。例え一時でも『兄さん』だと本気で思ったのはザルバッグ兄さんの方だ。でも、こんな風になるなら始めから憎んでくれた方が気楽だったかな、と思っている」
「こんな風になるなら……。そうね、ティータまで死んでしまうなんて……」
 ふと、ラムザは言ってしまおうと思った。この先、ザルバッグに頼らざるを得ないのならば、知っておく必要がアルマにはあった。そして、それを受け入れられるだけの強さと賢さを、いつの間にかアルマは身に付けているのだ。
「城ではきちんと話さなかったね。……ティータは射られて死んだ。その、命を下したのはザルバッグ兄さんだった。あの子が人質に捕られて動きが取れなかった時に、勝利を優先したんだ」
 アルマは悲鳴とも泣き声ともつかない音を発してラムザの胸に顔を埋めた。
「指揮官として、それを選択する可能性はあったんだ。酷いことを言うようだけど、戦場では決して異常な選択ではないんだよ。でも、ザルバッグ兄さんがまさかそうするとは、僕もディリータも思っていなかった……」
 ザルバッグがアルガスに後を頼んで去ったのは、ウィーグラフを追いたかったのではなく、ラムザ達の運命を他人に任せたかったからだ。それを情と呼ぶのか卑怯と呼ぶのか、ラムザには分からない。
 ただ、今のラムザには、徹底した残酷さは時に、親切な結果を生むのではないかと思える。ザルバッグではなくダイスダーグがあの場にいたならば、自ら剣を持ってラムザとディリータを討ったか二人を捕縛して洗脳しただろう。そうなっていたならば、二人がこれほどまでに苦しみ続けることはなかっただろう。
 もちろん、そうなれば良かったなどとは思わないけれど。
「ティータが死ななければ、私達は何も気付かずにいたのかもしれないわね……」
 くぐもった声が胸の中で聞こえる。震える体を抱き締めてラムザは頷く。
「そう、僕らは教えてもらった。だから忘れてはいけない。あの子の死を無駄にしないために」
 互いに支えるようにして立ち上がった。
「だから僕は戦っていくよ。それが僕に出来る唯一のことだからね。おまえは違う方法を考えてごらん」
「兄さん……」
 ラムザはアルマの額にキスを落とした。
「僕よりアルマの方が大人みたいだ。きっとアルマなら正しいことが出来るよ」
「私に出来ること……」
 二人は、仲間の待つ小さな炎に爪先を向ける。
「こうなった以上、一緒に来るのも仕方がない。でもね、ベオルブの力で、戦いではない事をしてくれれば嬉しいとも思っているんだ」

 ラムザには、オーボンヌでするべき事が二つあった。一つは聖石の情報を得る事、そしてもう一つは、シモンを証人に自分達がアルマをさらって無体を働いたと見せかける事だ。
 アルマ抜きでの話し合いの結果、彼らは一芝居うつ、と決めた。事前に知らせずアルマを縛りあげシモンに突きつけて「聖石を出せ」と言うのだ。シモンにはかつて異端審問官だった経歴があるから、それで事は上手く進むだろうとアグリアスも賛成した。
「……考えてみるわ、私に、出来ること」
 アルマは涙を拭って笑った。
「でも、兄さんと一緒に行く方が面白そう。聖石のこと、とっても興味があるの。何かするなら、秘密を調べた後でもいいと思わない?」
「……そうするってもう決めてるんじゃないか?」
「ふふ。ほら、ムスタディオさんの銃、あれなら私にもなんとか使えそうだと思うの。魔法も教えてもらうのよ。そうしたら自分の身は守れるわ」
「ムスタディオが先生か。大丈夫かな」
 心の中でアルマに謝りながらラムザも微笑んだ。

 今度こそ、大切なものは守ってみせる。
 泣かれ、恨まれてしまっても、それでも。



 火の番をしていたのはムスタディオで、思わず二人で笑った。そしてアルマを彼に預けると、ラムザは再び森の奥に足を向けた。
 それが自分には似合うと、思う。






FFT TOP……2へ