アグネス達に話すのではなかった。随分とラムザが迷惑を被っているようだ。
まだ冷たい夜の川で体を洗ったアグリアスは、服を着ながら反省していた。しかし、話さずにはいられなかったとも思う。出血した体への漠然とした不安が切先を下げているような気がしていたからだ。
重々内密に、と主にアグネスに対して念を押したのだが、むしろジャッキーが話の内容に憤慨してしまってその視線は鋭い。それぞれに過去があるのは当然だが、殊にジャッキーには文字通り痛い話になってしまったようだった。
夜風は生ぬるい。春の盛り、森のざわめきには冬に聞いた冴え渡る孤独感が薄れ、無数の何かが蠢くような別種の疎外感が混じっている。一人の孤独と埋没する孤独は似たようなものだとアグリアスは空を見上げた。見える星々は近くに位置するように見えてもとても離れているのだと、誰かが言った言葉を思い出した。そこら中に存在すると知っても、孤独に慣れるのは難しいと、苦笑して頭を振った。
「……ラムザ、か?」
無意識に剣の柄に指を伸ばしながら、アグリアスは前方に目を眇めた。人影は、少しの間止まって様子を伺うようであったが、すぐに歩みを続ける。
「無防備」
単語を投げつけ、ラムザはアグリアスのすぐ目の前に立った。
「そうかな」
気まずく視線を逸らしてアグリアスは髪を触った。濡れたままきつく結わえたので少しこめかみがひきつれている。
「……アルマには、ベオルブに戻った時の心構えを話しておいたよ」
「やはり、オーボンヌで別れるつもりなんだな」
「それがいいんだよ」
ラムザはアグリアスと顔を合わせずにゆっくりその周りを歩き始めた。一周すると、背後に立つ。
「……別にいいんだけど。アグネス達に何か言ったね?」
アグリアスはわずかに肩を揺らし、図星だと知らせる。
「だから、いいんだって」
「……すまない。彼女達があからさまな視線を向けているから、謝ろうと思っていた」
「構わないんだって。いつものことだから」
僕が悪いんだし、とラムザは付け加えてまた、アグリアスの周りを一周した。おそらく、身の置き場がないのだろうとアグリアスは思う。
「僕は知らない振りを続けるから、気にしないで」
その言葉に落胆を感じてアグリアスは振り返った。それならわざわざ言わなくてもいい。無かった事にしたいと強調されたように思え、それに強かに傷ついた自分が疎ましかった。あの日、「治してみせる」と言ったくせに。ラムザの背に残る傷跡と、彼が全てを捨てた記憶を癒してみせると誓ったくせに、傷つく余地がまだあったことが疎ましかった。
「ラムザ、私は」
嫌そうに視線をかいくぐってラムザは顔を横向ける。
「後悔はしていない」
そんな言葉を吐いたとて、何か変わるとは思わなかったが。
「ああそう」
そっけなく言われてアグリアスは二の句を飲んだ。
「……もう、痛まないよね?」
きっとこれは、戦力としての自分を気遣う言葉だと女々しく思う。それでいいのだと、大丈夫なのだと言わねばならないのに、言うことが出来ずにアグリアスは唇を強く閉じた。
アグリアスが黙っているので、ラムザはちらりと横目で窺った。彼女は、背筋を伸ばして自分を見つめていた。途方にくれたようなその瞳は暗く、色が分からない。本当に困らせてやろうかと思った。悪戯心、と呼ぶには少々意地が悪いと自覚があったが、ラムザは一歩近寄ってアグリアスに囁いた。
「僕が、確かめてあげようか?」
言うと、気持ちに弾みがついた。さっと両手を捕まえて顔を寄せ、かすかに避けようとするアグリアスの首筋に唇を寄せた。吸えば、誰でもそうなる様なごく軽い硬直を感じたが、それを拒絶と思い込んでわざと気持ちを荒げ、痛いくらいの痕を残す。
「……大丈夫、だから」
普段の彼女と比べれば、か細いと言っていい声が聞こえた。アグリアスは両手を取り戻そうと顔を背けて後ずさり、追って迫るラムザの顔に肩を押し付けた。これはここから先へのはっきりとした拒絶、そう思った途端にラムザはいきなり本気になった。
「そんなの、分からないよ」
「ラムザ、私は、」
言い終わらせずにアグリアスの足を払う。簡単に転んだ。掴んだままの手に引きずられるようにしてその場に縺れながら倒れ、どうしてこの女はと、苛立ちが目を覚ます。戦士らしい反射的な争いがわずかにあって後、アグリアスはぐったりと力を抜いた。
どうしてこの女はこうも無防備なのか。
服を剥ぐのも容易い。容易いと、あの時も何度思ったか。こんなに容易い女にどうして自分は乱暴な真似をするのか。そして、それでも尚、彼女が変わらないのは何故なのか。
もう、気にもしない背中の傷を「治してやる」と言われた。自分に欠けてしまった無数のものを、与え直してやると言われたように思った。
アグリアスは変わらない。一番欲しく、一番疎ましい言葉を当たり前の予定のように語る。例え、必ず間違うように仕向けたとしても彼女は見抜き、見抜いたことにすら気付かずに、胸に重く沈む矢のような言葉を吐くだろう。
それが、嫌だ。
容易いのはアグリアスではない。彼女の前にいる時の自分だ。おなかがすいた、と訴える子供程にも単純な存在になってしまう自分だ。今も、同じ場所まで堕ちて欲しいと、アルマには似合わない森の奥で出会った人に、同じ場所まで堕ちてきて欲しいと餓える様を、隠しておく事が出来ない。
長く、何も求めなかった心の奥にやっと生まれた灯りは醜かったのだと、見抜かれたくないのに。
体の無事を確かめもせず、ラムザは手早くアグリアスを犯した。目を閉じ、何の抵抗も無くアグリアスはされるがままになっていた。時折苦しげな声を聞くと、ラムザは自分が酷いことをしているのだなと考えた。本当にまだ痛むのかもしれない、いや、こんな小石混じりの土の上で犯されれば苦しくて当然だろうと、そんなことを考えた。やはり、それらしい快感はラムザには無かった。
吐き捨てる、という言葉を頭の中に回しながらラムザは立ち上がり、振り返りもせずに野営の火を目指した。これもまた、自分に似合う姿なのだと思いながら。
茂みの中、アルマは震えながら両手で自分の肩を抱いていた。
森に戻って行った兄があまりに寂しそうだったと思った。まだ寒い夜にせめてショールを貸したいと思い、うつらうつらするムスタディオを残して追ったが、遠ざかる兄は予想を越える速さで小さくなっていった。つい先ほど並んで歩いた時は、随分と手加減をしてくれたのだと気付いて走ろうとしたが、土音を立てるのは獣に対して危険だと教えられたことを思い出し、精一杯の早足に留めた。
やがて兄が止まりほっとした時に、その向こうにもう一つ影が見えた。すらりとした様子と長い髪にアグリアスだと分かって、アルマは無邪気なことを考えた。二人を驚かせてやろうと思ったのだ。
これは、オヴェリアと二人でしばしばやった遊びだ。アグリアスら近衛兵は、危険には奇跡の様に敏感だったが、単なる人の気配には意外なくらい気付かない。柱の影から飛び出してアグリアスを硬直させた記憶に微笑み、アルマは靴を脱いで両手に持ち、何事かを話す二人の側まで茂みの後ろをかがんで歩いた。靴を履き直しながら、一番効果的な登場の仕方を思案し始めた時だった。
月明かりが届かない暗い場所で、影のように暗く沈んで見える兄が、アグリアスの両手を掴んだのだ。
アルマは一瞬喜んだ。兄の態度が、アグリアスにだけ違っているようだと思うともなく感じていたから、兄の『弱み』を握れるのだと思った。表情を変えなくなった兄に『弱み』が存在することを、アルマは喜んだのだ。
しかし、続く事態にアルマは言葉も感情も失った。嫌がるように身を引く陰影だけの姿、それに襲い掛かるやはり暗い者。二つの影は地面の上でわずかに争い、覆い被さった者の意図は、布が裂ける音で知れた。声を出して止めようにも舌すら動かず、その内に足からも力が抜けて、アルマはその場にうずくまった。動くことが出来ないのなら居ない者になるしかなく、両手で頭を抱えて目を閉じた。
アルマには、随分と長い時間に感じた。風に紛れるような小さな、苦しそうな声が何度か流れ、やがて、土をにじる音が収まった。恐る恐る顔を上げた時、一つの影が立ち上がった。それは立ち上がるなり、背を向けて行ってしまい、一度も振り返らなかった。
いつの間にか全身を震わせていたアルマの前で、アグリアスが身を起こした。彼女は目が見えない者のように、髪を触り、散らばった衣服を触り、どうしたらいいのか、といった様子でしばらく地面に座っていた。そして、ゆっくりとした動作で落ちている物を拾い集めて抱えると、深い溜息の音と共に立ち上がった。一度大きくよろけ、しかしその後は毅然とした足取りでアルマの反対側に向かった。茂みだと思ったそこは短い坂になっていて、アグリアスの姿は消えてすぐに水音が聞こえた。
戻らないと。
少しだけ震えが収まった足を叱りながら、アルマはよろよろと立ち上がった。さっき見たアグリアスよりもずっと危うい足取りで来た道を辿る。やがて火がはっきりと見えて、アルマは足を止めて眉を寄せた。
「おやおや、困った子だねえ」
不意の声にアルマは勢い良く顔を上げた。
にや、と笑ったアグネスが側の茂みを分けて出て来た。
「アグネスさん……」
「お兄ちゃんに怒られるよ」
「お願い、一緒にいた事にしてくれない!?」
アルマが必死に言う姿にアグネスはまた笑った。
「あの、ムスタディオさんがいたんだけど……。眠そうだったし……」
ああ、とアグネスは頷いて見せた。
「『お花摘み』だね」
「言いづらくて……」
「まあ、そうだろうねえ。いいよ、一緒に行ったことにしよう」
「ありがとう!」
そんな深刻ぶらなくてもいいよ、とアグネスは肩を叩いて慰め、先に立って行く。ごめんなさい、とその背に言いながらアルマは大人しく歩いた。
火が近づき、それを囲むものの顔がはっきりと見える頃合でアルマは一度、足を止めてぎゅっと唇を噛んだ。
「アグネスと一緒だったのか」
安堵の表情のラムザが立ち上がり、隣りのムスタディオがたっぷりとした溜息を吐いて笑う。
「あー良かった!」
「良かった、じゃないよ」
ラムザに叱られ、ごめん、と肩を竦めるムスタディオに、アルマは慌てて謝った。
「わ、私こそごめんなさい、何も言わずに離れてしまって……」
「あたしが戻って来た時にアルマがそわそわしてたんだよ。まあ、女同士の方が都合が良かったのさ」
アグネスの言葉に察して、ラムザとムスタディオは苦笑して顔を見合わせた。事実ではなかったが、思わずアルマは顔を赤らめる。
「確かにそういうのは不都合だね。考えておくよ」
ラムザが思案顔で言い、アグネスは笑ってアルマの背中をぽんと叩いた。
「さ、もう寝なさい。明日も早いよ」
「はい」
素直にアルマは頷き、三人を振り返った。
「おやすみ」
微笑んで見つめてくる兄に、おやすみなさい、と早口で答えて急いでテントに潜った。その音に目覚めて、ジャッキーが身を起こす。
「あ、起こしちゃった……」
「んー、いいのよー、交代の時間だわあー」
寝ぼけながらジャッキーは上着を持って、おやすみ、と言って表に出て行った。
温かみの残る毛布を被ってアルマは体を丸めた。表では、アグネスとジャッキーが穏やかに何かを話している。ラムザとムスタディオは隣りのテントに潜ったらしい。
どうしよう。
兄の顔を、まともに見られない。
事情はどうあれ、あんなことをしていいとは思わないし、アグリアスが心配でならなかった。
そしてなにより。
アルマは顔まで毛布を引き上げ、ぶるりと大きく震えた。
初めて兄が『男』に見えた。頬に火を映し、何も無かったように微笑む姿を恐ろしいと思った。何か知らない生き物のようだった。
眠れずにアルマが寝返りを繰り返していると、誰かが静かにテントに入って来た。そっと毛布の端から見上げると、結わえた金髪が視界に入る。細く開いたテントの入り口から漏れる野営の灯りが、彼女をひっそりと照らしていた。
アグリアスはアルマに背を向け、上着を脱いだ。上着はなんともないように見えたが、その下のシャツは袖口や襟元が破れているようだった。アグリアスがシャツを脱ぐと、その背中に傷が見えてアルマは息を止めた。
古く薄い傷の他に比較的新しい赤い傷があり、更にはもっと赤い、まだ血が滲んだ擦り傷が幾つもあった。アグリアスはそれらに気付いていないのか気にしていないのか、新しいシャツに袖を通すと破れてしまった方を荷物の奥に押し込んだ。そしてアルマに背を向けたまま毛布を被った。
表からはもう話し声は聞こえなかった。誰かが一人で番をしているのだろう。
テントの中にはアグリアスの寝息だけが聞こえていたが、アルマの頭の中には自分の鼓動が鳴り響いていた。傷ついた人の眠りを妨げるのではないかと心配するほどに、その音は大きかった。
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