恐ろしい夢をみた、みたのだろう。よくは覚えていない。
目が覚めた瞬間、上も下も分からず両手で何かを掴んだ。きつく握り締めて頭を振ってもまぶたの裏に真っ白な苦痛が焼き付いて瞬くだけ、足の裏側に痙攣が走った。
それしかこの世には無いように、手の中のものを頼って力の限りに握って額を擦りつけた。音が聞こえる。自分の声だと思う。低く、掠れて醜い。
突っ伏して背を丸める。普段かからないような緊張による力が、全身に痛みを引き起こす。
ああ。
それだけを思った。ああ、と。
真っ暗な石の牢屋、手首で鳴る鎖、体が燃え、報いを受けている。
ああ。
強い力が背を叩いている。鞭打たれているのかもしれない。自分には似合いの処罰、ある種の満足を感じて唇がかすかに笑った。
「……い、おいラムザ! 起きろって!」
は、と目を明け、ラムザは目の前のものを見つめた。
「大丈夫か?」
強く握り締めていたのは他人の左手だった。その手を辿って視線を上げると、眉をしかめたムスタディオが善良な心配を目の中に浮かべてラムザを見下ろしている。ぽんぽんと、空いた手でラムザの背を叩きながら、彼は苦笑した。
「相変わらずすごい握力だな」
「まあね……あ、」
手を開くと、ムスタディオの腕にはくっきりと自分の指の痕が残っていた。爪痕の一つからは血が滲んでさえいて、ラムザはどうしようかと細い糸のような血を眺めていた。
「メシの臭いがする」
ムスタディオはどうでも良い事を言って伸びをした。そして、傷に気付いてぺろり、と舐めた。
「……ごめん」
「や、気にすんな。いつもの事だし」
それは本当だ。体が触れるような眠り方をする時、ラムザは隣りの者の体にきつく縋る事がある。多くは目覚める直前の出来事で、ラムザ自身は覚えてはいないが目覚め間際の夢がそうさせるのだろう。ムスタディオは、慣れた今でも子供にするようにラムザを慰めてしまうが、ラッドはむくりと起きるとラムザを吊り下げて振り回して腕やら足やらを取り返し、起きろと怒鳴って蹴っ飛ばす。
「腹減ったな」
「うん」
ほの明るいテントの中でごそごそと身支度を整え、二人は前後して表に出た。
「水!」
ラムザの顔を見るなり、アグネスが最高潮の不機嫌な声を投げつけた。同時に皮の水汲み袋も飛んできて、ラムザは顔を背けて受け止めた。
「どうしたんだよアグネス。朝から機嫌悪いなー」
真正面からのムスタディオの問いに、アグネスは、うっと言葉を途切らせたが、
「なんでもないよ」
と一音ずつゆっくりと発声してラムザを睨んだ。はー、と小さく溜息を吐いてラムザは大人しく水汲みに向かい、ムスタディオは首を傾げながら薪を火にくべ始めた。
野営の食事は手早く済ませるのが常だが、アルマが加わってから少々時間が延びていた。彼女の言葉数が多いからだ。そういえばオヴェリアがいた時と似ているな、とラムザは思いながら最後のパンの欠片を口に放った。今もアルマはどこか一生懸命といった風情でアグリアスと話込んでいる。
「そうなの、あんな柔らかい葉で指を切るなんて、びっくりしちゃって」
「確かにオヴェリア様は肌が弱くていらっしゃった」
「それから草笛が禁止になっちゃった。だからあんまり教えてあげられなかったの」
「エルディラ殿が禁止に?」
「ううん、シモン先生がダメって」
「なるほど。あの方は少々過保護だった。エルディラ殿なら止めはしないでしょうね」
微笑んでアグリアスは空を見上げた。スープを飲み終わったラッドが二人の話に加わる。
「誰だよ、エルディラって」
「アグリアスさんの前の前、かしら、護衛長だった人。オヴェリア様がいた前の修道院から一緒にオーボンヌに来たの。アグリアスさんの友達だったのよね。アグリアスさんが何かの用事でオーボンヌに来た時に仲良さそうだったもの」
ねえ、アルマは瞳を大きく見開いてアグリアスに笑った。頷き、アグリアスが微かに眉を寄せる。
「以前から親交がありました。共に勤めた事は無かったのですが、よく信頼して下さって伝令などのお手伝いをしておりましたよ」
「美人か!?」
ばか、とジャッキーに肘を入れられてラッドが腹を押さえる。くすくすと笑ってアルマは両手を組み、遠くを見つめて目を細めた。
「見かけは迫力があって少し怖かったけど、青い目が優しくて綺麗な人だったわ。背が高くて長い黒髪とそれに合わせた黒い鎧が素敵だった。声が通る人で、護衛の人達と訓練をする掛け声が部屋まではっきりと聞こえたのよ」
懐かしそうにほうっとアルマが息を吐いた時、
「エルディラ……あの頬傷の人?」
ラムザがぽつりと漏らした。
「知っているのか?」
アグリアスがちらりとラムザを見る。視線を合わせずラムザは頷く。
「修道院に戻るアルマの迎えの馬車には、大概あの人が乗って来たからね」
ラムザの知るその人はいつも馬車のドアの前でアルマを待っており、ラムザとは挨拶を交わす程度の付き合いだった。生きてきた全ての努力がそのまま形になったような、群衆の中からでも容易に探し出せる強い視線を持つ女だった。何よりも、その頬に赤く残る太刀傷はむしろ彼女の美しさを主張するようでラムザの印象に深かった。
「エルディラさんはお元気? 急に配置換えになったきり会ってないわ」
アルマの微笑みに、一瞬アグリアスは体を固めた。
「……出征した後、消息が途絶えたとの事です」
え、とアルマが口元を押さえ、アグリアスは穏やかに彼女を見つめた。
「私も、配置換えで王都に戻ると聞きました。しかし、実際は前線に志願したようです」
「志願……どうして!」
アルマは口を押さえたまま辛そうに聞いた。
「残念ながら、どうしてそんな事をしたのか私は知らないのです。当時は、デナムンダW世が崩御されて指揮系統が滅茶苦茶で。その上オルダリーアがゼラモニアを奪還すべく動き出した時でもあった。彼女は、ゼラモニアはくれてやって一旦引き、体勢を整える時期だと言っていました。少なくとも志願する事は有り得ないと今でも思うのですが……」
「そう……」
しゅんとしたアルマの肩をそっと触り、アグリアスは微笑んだ。
「何にせよ、我々はそうした者なのです。お気になさるな」
「アルマ」
「……なあに」
ボコの背に揺られるアルマはうつらうつらしていたようだが、ラムザの声にびくりと目を開いた。ラムザと一緒にボコの子供のジェリアが、濃紺の丸い目でアルマを見上げていた。彼女はふふと笑って黄色い頭を撫でた。随分大きくなったジェリアはラムザとほぼ同じ身長だ。ジェリアに手を甘噛みされてくすぐったそうに笑うアルマが、急に自分と目を合わせなくなったとラムザは気付いている。
「元気がないね」
「そんなことないわ」
アルマは仕方なさそうにラムザを見つめた。
「チョコボを占領して元気が無い、なんて申し訳ないでしょ」
「そういう事じゃないけど」
「大丈夫だったら。兄さんこそ元気がないみたいだけど?」
やや皮肉を込めた声の調子にラムザは眉だけで返事をした。アルマの中で何か起こったのかはラムザは知らず、明日を憂えているのだろうと思う。
それきり二人の会話は絶えてしまった。位置を下げたラムザにジェリアは付いてこず、アルマとボコに体を摺り寄せて甘えながら歩いている。アルマの笑顔もそろそろ見納めになりそうだ、そんな事を思いながらラムザはそれを眺めていた。
オーボンヌ修道院まで残り僅かの距離に来ていた。明日、明るい内に『訪問する』のだ。日が暮れかかると一行は無理をせずに歩を止めて野営の支度を始め、ラムザは皮袋を投げつけられる前に、と一人で川へ向かった。
穏やかな流れの川は、新しい緑の間を眠りかけたように流れている。雑木をかき分けたラムザは、小さな赤を目にして足を止めた。
春浅い季節に約束事のように実る、赤い小さな果実だった。その実がなる低木は、最後の雪が溶けると花を咲かせ、まだ寒い間に慌てて実をつける。ベオルブの敷地の一角に生えていたそれを、ラムザとアルマはとても大切にしていた。本来ならば刈られても良いような草に近い雑木であったが、甘く白い花が咲く様を毎日のように手を繋いで見に行く兄妹を認めた使用人が、邪魔にならない場所に植え替えて大事に育ててくれていたのだ。
そっと実の一粒を取って、ラムザは口に入れた。
「甘い……」
貧しい旅に慣れた舌には充分に喜べる味だった。かつてアルマと、時にはディリータやティータと一緒に、毎日一粒と決めて食べた頃は、もっと酸味がきついと思ったものだ。
ラムザは懐から紙を出して、その実をいくつか摘んで包んだ。機嫌を取りたい訳ではない、と自分に言い訳しながらも、それは確かにアルマへの贈り物だった。
「でもねえ」
「放っておきなよ、もう、処置無しだね」
頭の上から聞こえるのはジャッキーとアグネスの声だ。随分と近い場所を通って行ったが、向こうは雑木に埋没しているラムザに気付かなかった。
「だって。何かあったみたいでしょ、アグリアスったら今朝からまた歩き方がおかしいもの。また出血したのかもしれないわ」
「でも、今回はあたしらに話そうとは思っていないみたいだよ」
気にしない訳にはいかない名前を聞いて、ラムザはそのまま身を潜めた。二人は川に入ると大きな毛布を洗い始めた。
「私達、あんまり役に立たなかったから気を遣っているのかも」
「うーん」
「私はよく覚えてないし、アグネスは血が出なかったんだもの。助言出来る事なんてなかったわ」
「気まずかったねえ、あの時は」
二人は困ったようにくすくす笑った。
「でもねえ、よくもまあ、無事だったって感心したけどね」
「無事……そうね、ライオネルであんな目にあったのに」
「それだけじゃないよ。五十年戦争の終わりに前線近くで戦ったんだろう、アグリアスは。あの頃は兵の士気も落ちてそりゃあ悲惨な戦場だったらしいよ。あの美人とヤりたがる馬鹿は多かったと思うよ」
「お父さんと一緒だったんじゃないの?」
「ああ、そうかもしれない」
「きっと前線に、エルディラって人を探しに行ったのね」
「そうだね、そういう人だよ」
二人は水から毛布を引き上げてぎゅうぎゅう捩った。
「結局アグリアスは、自分の事だけは後先考えないんだよ」
「ラムザに処女をあげちゃうくらいだもの!」
「全く、これからどうなることやらだ」
それから二人は話題を変え、明日の装備を相談しながら戻って行った。二人の声が聞こえなくなるまでラムザは藪の中で座っていたが、うう、と一つ唸って立ち上がった。混乱した頭を振りながら、川べりにしゃがんで水を汲む。水を満たした皮袋をじっと睨み、そして大きく息を吐いた。
「なに、それ……」
漏れたのはそんな言葉だった。
「そんなの……知る訳ない」
有り得ない、というのが素直な感想だった。有り得ない、あんなにあっさりと奪われる事を承諾した女が。
しかし、あの日の出来事はアグネス達の言葉で補完すれば実にしっくりと胸に納まる。そんな事態を思いもしなかった自分が間抜けだったのかもしれない。そして、自分が酷く凶暴だった訳ではないと、むしろ安堵して良いとも思われた。
だが、川面に映る自分の顔は滑稽に歪んでいた。ラムザは水の袋を置くとざぶんと川に浸かった。
緩やかな流れに身を沈め、ラムザは小さな泡を吐き出した。その泡を追って水面を見上げると、夕刻の太陽が眩しくラムザの目を射た。ぐずぐずと燻る思考を溶かしだすように、ラムザは流れに逆らってゆるゆると水をかいた。川は、その中ほどまでもが緩やかな流れで、歪む視界を眺めながらラムザは水底に座った。
その時、二本の足が川の中に降りてきた。
白く、日に曝されていない女の足だった。少女のような無邪気な気配を纏い、しかし無駄の無い戦士の造形をしたそれは、ゆるゆると水をかいて川上を向かう。
そちらは少し深くなっているようで、背中の中央辺りまでが水に沈んでラムザの視界に入る。そして、束ねられた金髪の先が水の中にぽたりと落ちてきた。
ラムザは立ち上がって水から上がった。
すばやく背後を振り返ったアグリアスと、完全に目が合った。
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