水に半身を浸したアグリアスは、何事も無かったように腰を緩やかに捩るとラムザに背を向けた。そして、何か目的でもあるように真っ直ぐ川上へと向かって歩いて行く。
ラムザはその後ろ姿を見つめてその場から動かなかった。彼女の金髪の先が、時折流れに押し出されるように水面近くで動く様子を見つめていた。
ただ眺めていたのではない。どうすればいいのかが彼には分からなかった。彼女が逃げて行ったなら追っただろうし、その場で留まっていれば自分が逃げただろう。しかしアグリアスは遠くには行ってしまわず、あまりにも程よい距離を保った。そして、背を向けたまま編んだ髪を括った皮紐を解き、長い髪を洗い始めた。
アグリアスは茶色い木の実を握っている。砕いて水に溶かしながら髪に擦り付けて丁寧に梳かした。それは、旅の間に使う石鹸代わりのものだ。髪が済むと体に移り、首や手を擦った。
本格的に沈み始めた太陽の光は彼女を赤く、そして水面の影を紫に染めていた。髪を濯ぐためだろう、アグリアスはその場に座るようにして水に潜った。さあっと浮かび上がる髪が太陽の反射に混じって川面を流れる。大雑把な作法で流し終えたアグリアスが再び体を見せた時、ラムザはゆっくりと彼女に向かって歩み始めた。
彼女の位置は先ほどから変わっていなかった。深くなる夕暮れの光の中で、輪郭は薄くぼやけて随分と遠くに見える。手の届かない場所のような、薄幕の向こうを見るような、そんな幻想がラムザの視界にあった。だから、近づけたのかもしれない。
気付かぬはずはない距離に迫り、しかしアグリアスは特に反応はせずに髪を纏めて絞っている。そしてその髪の束を右肩にまとめて乗せた。その彫刻のような背には、染みのような痕が幾つか刻まれていた。
「アグリアスさん」
ラムザは自分の声に唇を噛んだ。惨めな、掠れた声だった。
「アグリアスさん」
二度目は少しはまともな声が出ただろうか。
アグリアスは何か返事をしたらしかった。しかし、その声は川音に紛れてよく聞こえなかった。それ以前に、ラムザが彼女の左腕を掴んだために飲み込まれてしまったのかもしれない。
「動かないで」
空いた手で、ラムザは背中の傷を触った。赤い夕暮れに照らされた塞がりかけた小さな傷を、一つ一つラムザは触った。
「……!」
アグリアスが背中を緊張させた。同時にラムザも指の腹に異物を感じる。頭を見せている固いものを摘むと、ぽろりと何かが指先に残った。アグリアスは、なんだ、と言うように顔だけで振り返った。
二人の目線の先にあるのは、砂よりは大きく、小石と呼ぶにはずっと小さい欠片だった。それを皮膚に埋め込むほどの力を彼女が受けた、その事実がラムザの指先に固く触れていた。
それは、昨夜自分が付けたものなのだ。
「ごめん!」
咳き込むようにラムザは強く囁いた。
「ごめんなさい」
子供のように呟いて、ラムザは少し大きくなった傷に唇を寄せた。かすかに血の臭いがした。
「……ラムザ?」
戸惑い、アグリアスは不思議そうに名を呼んだ。
「ごめんなさい」
首に絡まった髪の上に額を置いてラムザは震えた。自分が受けたそれよりも何倍ものむごさでアグリアスの傷が血に塗れているように見えた、夕日がそう見せていた。
ラムザは、くらり、と揺れる。無数の場面が迫り、まるで今朝の夢の続きのようだった。奪うために傷つけた記憶、奪われるために傷つけられた記憶、どれもが交じり合って判別がつかない。項垂れた醜い自分が映る水面に飛び散っている光と影と同じに。
なぜ、アグリアスは。
身の震えを自覚しながらラムザはアグリアスの背に縋った。ラムザの濡れた服にアグリアスの冷えた肌が張り付き、呼吸のために動いているのが伝わる。
なぜ、ここまで何もかもを暴き立てるのか。全てを身に収めて自分の前に現れるのか。
柔らかい何かが頬に触れ、髪を撫でた。アグリアスの右手だった。触れられると自分が震えているのが分かり、ラムザはその指に擦り寄った。昨夜と同じに、自分の存在の単純さを身の中に知る。
「ラムザ」
「ごめんなさい」
ラムザはむずがる子供のように首を横に振った。感情に堪えきれなくなって両手を回してアグリアスを抱き締めた。鍛えられているはずの腹部の感触は意外な程に柔らかかった。この柔らかいものに縋る事だけが、自分に許されているのだと震える手に力を込める。
「謝らせて」
「どうしたんだ、ラムザ」
「謝らせて。そして、許してよ」
濡れた髪がぞろりと動く。アグリアスは顎を上げたようだった。
「お願いだから」
立っていられない程に震え始めたラムザの腕は緩み、ぎこちない動きでアグリアスは反回転した。
濡れた長めの前髪の間でラムザは目を閉じ、疲れ果てたという顔で俯いている。張り付いた髪をそっと払い、アグリアスはラムザの背を抱いた。
「……分かった」
アグリアスのその言葉でラムザの目が開く。
「許して」
「許しているから」
同じ位置で目線を絡ませる。赤味を失いゆっくりと紺を混ぜていく視界では互いの目の色は分からない。それを確かめようとするように顔を近づけていくと唇が重なった。
二人は長く動かなかった。軽く触れ合った唇が、互いの吐息で温められていくのを感じていた。やがてラムザの震えが収まり、一度、強くアグリアスの背を抱き締めた。同じ強さでアグリアスが抱き返し、そして二人は照れたように苦笑しながら唇を離した。言葉が出ないままに互いの背を撫でているとアグリアスが小さくくしゃみをした。
「風邪をひくね」
重い金属を吐きだすようにラムザはぎこちなく言い、アグリアスの手を握って歩き出す。裸で水に浸かっていたためにかじかんでいたらしく、アグリアスはその急な動きでよろけた。
「ラムザ!」
小さく抵抗する体を両腕に抱え、ラムザは水を分けて行った。現実味のある重みが心地よく、岸に上がっても抱えたまま歩く。やがて白っぽい塊を見つけて寄って行くと案の定アグリアスの服で、言われる前にアグリアスの足を地面に降ろしてやった。
そうして視線を降ろしたところに、小さな色があった。アルマのために摘んだ木の実だ。元いた場所に戻って来たらしい。木の実の間に白い花をみつけてラムザはその場にしゃがんだ。ぽつんと一つだけ、咲き遅れた花が薄い花弁を風に揺らしている。
「何だ?」
上着のボタンを留めながらアグリアスも屈んでくる。ラムザは何も言わずに実を取ってアグリアスの口に入れた。素直に噛み潰すアグリアスに苦笑していると、彼女は少し驚いた様子で言った。
「懐かしいな」
「知ってる?」
「子供の頃に食べた記憶がある」
「ほら、花も残ってるよ」
「こんな花だったのか……」
アグリアスはまじまじとその花を見つめ、彼女の横顔を見つめながらラムザも一粒口に入れた。アグリアスの頬に落ちる影は夜を帯び、視線を上げれば縞状の雲が灰色と紫に染め抜かれて流れていた。
「ラムザ」
しゃがんだ姿勢のまま、アグリアスはラムザの手を取った。
「話をしよう」
穏やかに微笑み、アグリアスは子供に言い含めるようにゆっくりと言った。
「私達はもっと話をしよう。こんな風に」
そしてラムザの手を掴んだまま立ち上がった。
「先に、戻っている」
微笑みを崩さぬままアグリアスは呟き、指先でラムザの手の甲を撫でるように触ってから手を離して背を向けた。
ラムザは一人、適当に時間を潰してから皆の元に戻った。
既に夕食は終わっており、アグリアスだけがゆっくりとスープを飲んでいる。まだ濡れている彼女の髪は普段よりも鈍い色で輝いていた。ラッドとジャッキーは夜警に行っているらしく、スープの番をしているアルマと枝を折って火に入れているアグネスが振り返った。一応の言い訳に汲んだ水をアグネスに渡す。
「何、その格好」
むすっとそう言われ、
「足場が悪くて川に落ちたんだ」
と答えると
「笑えるね」
とアグネスはそっけなく言った。ぼんやりするなよー、とムスタディオが笑う。
「兄さん、着替えたら?」
「うん」
僅かに躊躇してからアルマを見ると、くるりと青い目を動かして彼女は小さく笑った。僅かな緊張はあったが笑顔にほっと息を吐き、ラムザは腰のポケットから濡れた紙の塊を引っ張り出した。中の実は無事のようだ。
「これ、覚えている?」
「なあに?」
首を傾げるアルマの手の上に紙を破って中身をあける。艶やかな赤い実にアルマが目を大きく開いた。それに微笑んでラムザはテントに入り、着替えを済まし火に戻る。側の木の枝に濡れた服を吊り下げながら盗み見れば、炎の赤に照らされて柔和な横顔を見せるアグリアスの隣で、アルマが嬉しそうに実を口に入れていた。
「それって美味いのか?」
ムスタディオが覗き込む。
「すごく美味しいって程でもないけれど、私は大好き」
一つあげるわ、とアルマがムスタディオの手に実を乗せる。口に放り込み、ああ、とムスタディオは何か名前を言った。しかしゴーグの方言だろうか、その名は誰も知らなかった。ラムザは彼らの向かい側に座り、カップにスープを入れた。
「アグリアスさんも食べる?」
手の平を見せながら機嫌良くアルマは言った。
「いえ、私はもう食べましたから」
「へー、アグリアスさんもこういうの食べるんだなあ」
確かに懐かしい味だよなーとムスタディオは目を細めて夜空を見上げる。
「すっぱいから懐かしいのかしら」
「すっぱい?」
ラムザとアグリアスが同時に言った。炎越しに目が合った。
「どちらかと言えばすっぱいわよ?」
とアルマは不思議そうに言う。
「僕には甘いよ。ああ、普段食べている物が違うから……」
ラムザの言葉に頷いてアグリアスが続ける。
「私も甘いと思った。違う木から摘んだのなら味が違うかもしれないが」
「それはあるかな。でもアルマが食べた実は僕らと同じ木のものだし」
「ではやはり口の差だろうな」
「あんた達、二人並んで食べたんだ? 可愛い事をするもんだねえ」
笑い含みでアグネスが言った。アルマがびっくりしたように顔を上げ、アグリアスは動きを止めて固まった。
郷愁にひたって聞いていなかったムスタディオがきょろきょろと見回す中、助けを求めるようにアグリアスはラムザを見つめ、ラムザはただ苦笑した。その様子にアグネスが更に口を開こうとした時、ジャッキーとラッドが戻って来た。
「じゃあ、僕らが交代するから」
行こう、とラムザが食べかけのカップを置いてムスタディオの腕を掴む。
「あ? え、ああ、うん」
しきりに首をひねりながらムスタディオは立ち上がり、さっさと歩き出したラムザの後を慌てて追って行った。
「逃げたね……」
アグネスが、にやりと笑ってアグリアスを上目で見つめる。
「では、私も少し休む事に、」
アグリアスはあらぬ方向を見ながら呟き、
「そ、その前に、一緒に散歩しない!?」
と、両手を胸の前で組んだアルマが、内緒にするから、とあまり意味の無い事を言いながらアグリアスの膝ににじり寄った。
ジャッキーも加わった密談の輪からつまみ出され、一人テントに放り込まれたラッドがすねながら眠ったのはそれから間もなくの事である。
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