二人の兄 1

 紫の強い光が消えた。彼の消えた方角など分からない、それでもラムザの足は闇雲に走り出そうとする。しかしなぜかラムザの体は斜めに傾き、足の裏が柔らかく歪んだ。
「ラムザ、様、」
 その時背後で、誰かが溜息のように言った。濡れた足音に振り返ると、施した応急処置も虚しく法衣の裾までを赤く染めたシモンが崩れ落ちるところだった。
「シモン先生……!」
 駆け寄っているはずなのに、いやにシモンは遠い。混乱した思考の中では血の色だけが鮮明だ。
「しっかり、しっかりして下さい!」
 シモンは既に生の限界を超えていた。焦点の合わない目がラムザの顔を何度かかすめて懺悔をし、そして閉じられた。
「こんな……」
 老人の軽い体を横たえて、ラムザは立ち上がる。
「ゾディアック……」
 手の中に残されたのはただ一冊の本。
「アルマ!」
 その名を呼ぶ自分の声に打ちのめされてラムザは地に膝を付く。それだけでは身を支えられずに本を抱えながら体を丸めた。寒い。
「……ザ、ラムザ!」
 誰かが呼んでいる。寒い。
「ポーションは無いのか!?」
 暖かい光が体を包む。ケアルにわずかに和らぐ冷たさ。では自分は傷を負っているに違いない。それも新しい、チャクラで回復したものが流れてしまうくらいの傷を。いつ自分は斬られたのだろうかと考え、しかし、唇は一つの名だけを呼んだ。
「アル、マ」
 それを最後にラムザは真っ黒な視界に自ら飛び込むように落ち込んだ。とても遠くでケアルよりも暖かい声が自分を呼んでいたが、それも今はどうでも良かった。



 うららかな朝だった。アルマはそわそわと何度も荷物の中身を出しては仕舞っている。
「シモン先生、覚えてくれているかしら」
 今更そんな事を言い始める妹に苦笑し、ラムザは装備を整える手を止めた。
「最後にお会いしたのは三年前だ。一目で分かってくれるよ」
 そうかしら、とアルマは小さく抵抗している。

 旅に連れてゆく時に決めた事とはいえ、アルマは兄と離れたくないという気配を濃厚に見せている。昨日の昼には気まずさを利用して別れの辛さが軽くなるかと思えたが、一夜が明けるとアルマはすっかり元の笑顔を見せるようになっていた。ラッドによれば、アグリアスを囲んで女達が話し込んでいたという。アルマの気持ちの変化に何が関係していたのかラムザはおぼろげにだが理解をし、気恥ずかしさと共に安堵を感じていた。
 この先、自分は異端者として生きていく。僅かな間にその決意は固めた。ここで別れれば二度と会えないかもしれないただ一人の妹に、愚かな自分ではない何かを覚えてもらえた事が嬉しかった。変わり果てた自分を責める言葉を一つも出さなかった優しい心を、踏みにじるだけに終わらなかった事に感謝をしたい。そして概ねそれはアグリアスに捧げるべきだろう。
「ラムザ」
 意味ありげな視線をくれて、アグネスが指先を曲げて呼んだ。
「戻って来ないようだね。行く?」
 彼らはオーボンヌ修道院にほど近い森の中に身を潜めていた。ジャッキーとラッドは既に斥候として修道院に向かっていた。異端者狩りの警備の有無を確認して、危険があるようならどちらかが戻って来る手筈となっている。
 うん、と答えてラムザは遠い地平に目を細めた。あたし達には見えないよ、とアグネスは笑い、背負った荷を一つ揺すった。その中には、昨夜ラムザが丁寧に踏みこんで柔らかくした縄が入っている。修道院に突入する時に、アルマを人質に見せかけるために縛り上げるための縄だった。
「行こうか」
 ラムザも救命用品の入った荷物と剣を腰に帯びる。それを眺めていたアルマは、きゅっと唇を噛んでからラムザの側に寄った。
「兄さん、手を繋いで」
「え?」
 アルマは強引にラムザの空いた手を握った。
「どうしても私を置いて行ってしまうのでしょう?」
 ラムザは無言で妹の顔を見下ろした。決して譲らぬ態度でついて行くと言ったはずのアルマは、辛そうに俯いて繋いだ手を見つめている。何を言っても本当には聞こえないだろうと思え、ラムザはその手をそっと握り返した。
「……行こう」
 二人を先頭に一行は歩き出した。

「あれ、ラッドだ」
 修道院の屋根が見える距離でムスタディオが言った。比較的目の良い彼の横でラムザとアグネスが目を細める。なぜか開け放された扉を覗き込んでいるラッドが彼らに気付いて振り返った。
「様子がおかしい!」
 ラッドの第一声はそれだった。
「荒らされてるぜ!」
「どういう事だ!」
 走り寄るラムザにラッドは首を振る。
「分からない、賊が力ずくで侵入した形跡があって扉は開かれている。何人か門兵が死んでいるんだ、どうする、行くか?」
「ジャッキーは?」
「中だ。俺達の他には誰もいない」
 生きてるヤツはな、と肩を竦めるラッドの前を抜け、飛び込むようにラムザは扉を潜った。点々と兵士らしき者達が倒れている。白い石の廊下には血痕が生々しい。死体を調べているジャッキーがラムザに手を上げた。
「どの人も一斬りで殺されているわ!」
「これは……!」
 アグリアスがラムザを追い抜いて中に入って行く。彼女もまた死体を調べ、緊張した表情になった。
「専門家の仕事だと思う」
 そう言い、何かに気付いて拾い上げ、目を大きく見開いた。
「何?」
 隣りにラムザが屈むと彼女はそれを差し出した。
「神殿騎士団の小刀だ。柄に紋章がある」
「神殿騎士団……」
 ウォージリスで見た、ディリータのブーツの金具に刻まれていたものと同じ模様だった。アグリアスは固い表情で立ち上がって背後に言った。
「身分を隠さず押し入り、同じ教会の者を始末するとなれば、これら全てを揉み消す事ができるだけの高位の者からの命令で動いていると判断すべきだろう。極めて危険だ」
 アグリアスはラムザを見つめ、そしてはっとしたように顔を上げた。入り口に強張った表情のアルマが立ち尽くしており、ムスタディオが彼女の視界を遮ろうと無駄な動きをしている。
「アルマ殿は内部には入らない方がよろしいでしょう」
「そうだね。ムスタディオ、アルマを、」
「階段はこっちよ」
 アルマはきっと顔を上げ、兄を見た。
「アルマ、」
「私が見た変わったクリスタルは地下に保存されているの。この修道院には隠された通路があるから、それを行けば少しは安全だと思うわ」
「アルマ!」
「行きましょう」
 アルマは並んだ部屋の一角に姿を消した。慌てて後を追うアグネスに続いてラムザが駆けて行く。
「アルマ、予定とは違ってしまったんだ、おまえはここまでだ」
 強い語勢で言うが、アルマはどんどん下っていく。そして、踊り場に立つと壁の一角を強く回し押した。ごろん、と何かが転がる音と共にその壁が回転扉のように回る。
 驚いてラムザが内部を覗くとアルマが言う。
「こういうのが修道院の色んな場所にあるのよ」
「教えてくれれば探して行くよ」
「一々説明なんて出来ないわ」
「じゃあ、ここまででいい、アルマは外で待つんだ」
「全部の壁を押して周るつもり? もっと複雑な仕掛けもあるのよ」
「アグリアスさんなら知っているはずだよ」
 全員が踊り場に集まっていた。ラムザの言葉に注目されたアグリアスは、気まずそうに顔を横に振る。
「残念ながら、私は初めて見た……」
「え、護衛の人が知らないの?」
 ジャッキーがラムザの後ろから中を窺って目を細める。
「おそらくは僧達のみが知る通路だと思う」
「じゃあなんでアルマが」
 睨むようなラムザの視線にアルマも睨み返す。
「オヴェリア様がこっそり教えてくれたのよ。オヴェリア様は大切なお体だからでしょうね、万が一の時にってシモン先生に聞いていたんですって。一人じゃ重くて開かない扉もあるから、私に協力してねって……」
 遊びみたいなものだったのに、とアルマは悔しそうに呟いた。
「しかしそれでは」
 アグリアスが苦い表情で言う。
「あの誘拐の時、これを使ってお逃げになれば良かったのに」
「その時、オヴェリア様はどこにいたの?」
「礼拝堂です」
 ああ、とアルマは眉を下げた。
「礼拝堂の隠し扉は一番古くて歪んでしまって開かないの……。なんとかしないとってシモン先生も言ってらしたみたい。でも、とても珍しい仕組みだから修理は職人さんに頼まないと駄目で、そうすると外部に漏れてしまうから……」
 あの日オヴェリアを抱えて去って行ったディリータの背が脳裏に浮かんでラムザは顔を背けた。何から逃れたいのか、今もって分からないが。
「とにかく、まだ私が必要でしょう? 階段はここだけだから、待ち伏せされているかもしれないし」
「……」
 ラムザはぎゅっと目を閉じ、そして自分が着けていた指輪を外してアルマの指にはめた。
「これは魔法を寄せ付けないリングだよ。決して外さないようにね」
「……分かったわ」
 アルマは大きく頷き、ラムザに続いて扉の内部に入った。その後をぴったりアグリアスが守る。残りの者も全て入るとアルマは頓着なくその扉を閉めた。途端に、真っ暗だと思われた通路全体がぼんやりと光りだした。
「こういう、石なんですって」
 よくは知らないの、とアルマは肩を竦めて兄の前方を指差した。
「あっちよ」

 幾つかの扉を経て、ラムザ達は地下書庫の扉の前に辿り着いた。書庫の扉は既に扉ではなく、木っ端となって散らばっており内部に滴る血の赤が、暗いランプの灯りの中に光っていた。剣を抜いたアグリアスが本棚の暗がりに飛び込むようにして安全を確保する。
「シモン先生!」
 矢の様に真っ直ぐ駆けるアルマを追い越しながらラムザは周囲に目を配る。しかし部屋の惨状から、全ては終わっていると思われた。法衣を覚えているのだろう、アルマは倒れている幾人もの僧の中から正確にシモンを探し当てて跪いた。しかし、触る事が出来ずに両手で顔を覆う。
「先生、しっかりして下さい!」
 ラムザもまた跪き、アルマの代わりにシモンを抱き起した。ポーションを傷に振り掛けケアルを与えたが、体の下に溜まっている血はあまりに多い。
「シモン先生……」
 覗き込むアルマの顔に朦朧とした視線が漂い、シモンはかすかに声を漏らした。
「アルマ、様……? なぜここに……」
「一体どうしたんですか、何があったのですか」
「こ、ここは、危険です……早くお逃げなさい」
 やつらが聖石を、聖石ヴァルゴを奪いに、とシモンは譫言のように繰り返す。
「やはり聖石なのですね、アルマから聞きました」
 ラムザを認識していない様子でシモンはぶつぶつと言う。
「あの聖石は、王家に伝わる、秘宝の……一つ。オヴェリア様、を、こちらにお迎えした折に、王女の証としてお預かり、し、」
「奴ら、聖石を狙う奴らとは何者ですか?」
 あなたは、とシモンはラムザに視線を向けた。ああ、あの小さな騎士が、とかすかに笑ったようだった。
「アルマ様の、兄上……ラムザ、様……」
 頷き、ラムザはまたケアルを与えた。シモンは苦しげにうめき、少し血を吐いた。
「これ以上……彼らに、関わるのはお止めなさい……。命を失う事になる……異端者として……」
 その時、傭兵達がすっと本棚の影に身を潜めた。ムスタディオが引きずられていき、ラムザはアルマを背に隠して伏せさせた。
 聖石は、探せ、ここから地下に、と男達の怒声が階段の方向から聞こえてきた。アルマによると階段はこの書庫までで途絶えており、やはり隠し扉によって更に地下にまで下りられるという。それを見つけたらしい。
 男達の声が遠ざかるのを確認し、ラムザは低く囁いた。
「ご存知でしょう、僕は既に『異端者』の汚名を着せられています」
 ああ、とシモンは溜息のように深く息を吐いた。ラムザは彼をそっと横たえた。
「この汚名も僕の持つ聖石のためなのですか? 教えて下さい、彼らは一体何者なんですか」
 シモンは苦痛に喘ぎながらも躊躇い、ラムザをじっと見つめた。
「教えて下さい、僕は戦わねばならないのです」
 シモンはゆるゆると首を横に振った。それは、ひどく悲しげに見えた。
「……教皇フューネラル、と、その一派です」
 彼は端的に言った。ムスタディオらしき、え、という小声が落ちる。
「戦乱により人心が離れ……失われた教会の威信を取り戻すため……民からの信望を、取り戻すため、です」
 肉体ではなく心の痛みに顔を歪めてシモンは続ける。彼の中の苦悩を示すように、皮肉にも声に力が戻ってきていた。
「ラーグ、ゴルターナ両公を争わせ……軍事力を削ぎ落とし……最終的には王家の威信を傷つける。そうすれは、人心を取り戻せると……」
「まさか……聖石を集めてゾディアックブレイブを復活させると?」
 ラムザの言葉にシモンは頷く。アグリアスが踵を鳴らさずに忍び寄り、シモンの側に膝を着いた。おお、とシモンはアグリアスに手を差し伸べアルマとアグリアスは同時に彼の手を握った。静かなアグリアスの横顔に、彼女にも既に手遅れだと分かっているのだと知り、ラムザは瞠目した。
「シモン先生……信じていただけるかどうか、あなた次第ですがお話します」
 視線だけでラムザに応えるシモンにラムザは抑揚の無い声で告げる。
「ライオネルで僕らが虐殺したとされているドラクロワ枢機卿の事です。彼は怪物になっていました。あれは、自分の事をルカヴィだと、人間を超越した存在だと言っていました……」
 シモンは目を大きく見開いた。そして、そうか、とだけ声が聞こえる。
「あれが聖石の力なのですか。恐ろしい軍事力に成り得るものに見えた、あの醜悪なものを教皇が欲していると?」
「あなたは違う……」
 え、とラムザが聞き返すとシモンは穏やかに笑った。
「あなたは兄上達とは違っておられる……バルバネス様に、お父上によく似て……」
「シモン先生?」
「あなたなら、彼らの野望を砕く事が出来るのかもしれぬ……」
 シモンはそれきり目を閉じ、荒い呼吸を聞かせた。ラムザはその額に手を置いて汗を拭い、そして立ち上がった。
「僕は彼らの後を追うよ。アルマはここに残って」
「嫌よ! 私も一緒に、」
「足手まといだ」
 きっぱりと言い、ラムザは腰の剣に手を掛けて引き抜いた。
「これを持って振り回してみなさい。出来るならば連れて行く」
 暗いランプの光を照り返す剣に、アルマは手を伸べなかった。立ち上がりかけた姿ですがるように兄を見上げ、ほろりと涙を落とした。
「……シモン殿を頼むよ。ここはもう用は無いと見なされているだろうから隠れていなさい」
「はい……分かりました……」
 剣を鞘に収めるとラムザはもう一度膝を突き、座り込んでいるアルマの肩を強く掴んで額に一つキスをした。
「……ラムザ兄さん、気をつけて」
「うん」
 ラムザは立ち上がり掛けてしかし留まり、腰周りに着けているポーチから光る塊を二つ取り出した。アルマの手を取ってそれをしっかりと握らせる。
「もしもの時のためにこれを預けておくよ」
「嫌、受け取らない……」
 目を見開き、アルマは唇を震わせた。ラムザはゆっくりと首を横に振る。
「僕が戻って来なかったらこれをバグロスの海に捨てて欲しい。あの海域は海流が特殊だから、一度沈んだ物が岸に流れ着く事はないと思う」
「……」
「いいね?」
 間近で光る兄の目は優しく、アルマはもう一筋涙を流していやいやと頭を振り、しかし、言った。
「……分かった」
「ありがとう」
 立ち上がり、ラムザは周りを見渡した。彼の仲間もラムザに習って立ち上がる。
「行こう」
「兄さん……!」
 アルマはシモンの側に両手を着いて、ラムザを見上げて微笑んだ。
「こんな時に何も出来ないのね、私」
「アルマ、」
「悔しい……。私も男に生まれたかった……!」
 笑いながらアルマは涙を零していた。淡いランプか浮かび上がらせるその顔はおぼろげな記憶の母と重なり、美しくラムザの目の裏に焼き付いた。
「……アルマ、肉親の中で僕はおまえにだけ心を許せるんだ」
 ラムザも微笑んでいた。
「他の誰にそんな事が出来る? アルマが生きているというだけで、僕は一人ではないんだよ」
「兄さん……!」
「シモン先生を頼んだよ」
 アルマがしっかりと頷く様子を見つめて一呼吸、ラムザは背を向けて部屋を出た。それを、長く後悔する事になるとは思いもせずに、一度も振り返る事はしなかった。






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