美しい夢 1

 お父様、お願いです。
 堪えておくれ。
 いやです、わたくしは良い子にしています。どうしてなのですか。
 私にはどうにもできないのだよ。
 嘘です、お父様はなんでもおできになります、お願い、お父様、お願いです。
 逝ってしまったのだよ、もう逝ってしまったのだ。
 いやです、いやです、お父様、アグリアスは良い子です、いやです、いやです……。





 ああ、母上が亡くなられた時の夢か。

 ここは、何処だろう。苦しい。息が出来ない。起きているはずなのに体が動かない。頭が下がって……。私の指、ああ、息が、出来ない。口に何か入って、息が、何処だ、吐き気がする、息が、ここは、

 がば、とアグリアスは顔を上げた。川に頭を突っ込んだまま気を失ったらしいと思い至る。途端、激しくむせ胃が収縮する感覚に俯くがもう、吐くものは水だけと知っている。
 垂らす胃液を唾で吐き捨てて立ち上がる。髪から垂れた水が体に纏い付き、少しばかり意識がはっきりする。それでも足の感覚が無い。歩いているのは気のせいなのか。太陽が高い、暑い。初秋のはずなのに。木々は立ち廻り、頭上には小さな小さな太陽、こちらで良いのかも分からない。港、港。ウォージリスの港へ。舟を使えばゴーグへは陸路より一日早い。それだけのために足を動かしている。剣、剣を探す。その探る手に握られている。杖では無かったかと最後の苦笑。決してこんな風に土を噛ませることなど無かった剣を、今アグリアスは杖にしている。第一重くて上がらなかった。
 背後に気配を感じる。ずっと見ている。時折矢を掠らせ、薄い魔法を当てる者ども。せせら笑い。奴等は待っている、隊長が後は任せた、と言う瞬間を。今は近くには来ない。時間は幾らでもあるのだろう。
 吐き気がする。もう吐くものは無くても体を折る。熱く胃が縮んでいる。吐きたい。何も無い。汗が目に入る。進路が見えない。ここはどこだろう、ふと足を止めて顔を動かす。目が捉えるのは黒い森と光る谷川。下へと続いているから谷川だと思う。バリアスの谷のはず。呆ける。谷を通るのが一番早い道だと知っているが、呆ける。なんと遠い彼方に霞む谷。


 霞む、谷。港へ、港へ。ゴーグへ。走れ、駄目だ、ケアル。かからない。何も残っていない。剣を離すな、走れ、起きろ、せせら笑い。谷川、ここは何処だ。殴られた場所が悪かったのか? 矢が! 霞む。抜け、抜くんだ。左腕。右でなくて良かった、歩け、歩け。せせら笑い。吐き気がする。ラヴィアン、アリシア……。どうなった、酷い事、されていなければ、よいが。……有り得ない。聞いた。好きにしろ。だが使うな、女を使うな、口を使え、経典を破るな。列が出来ていた、次々と。髪を引かれる、喉を上げた、飲み込む。何度も。焼ける、喉が、胃が、吐き気がする。ラヴィアン、アリシア。牢には鍵が掛かっていなかった。剣も側に。立ち上がる。地下から逃げた。道が出来ていた、そこから行けと。ラヴィアン、アリシア。オヴェリア様! 吐いた。吐いたものが何か、見られなかった。歩く、走る。追われている。離れない、近づかない。緩慢な攻撃。七人。長がいる。見張っている。谷が近づく。命令は港まで? 谷、まだ。飽きる、長は飽きる。帰りたがる。後は任せると。息が、吐き気がする。吐きたい。もう、何も……


 また混濁。意識を失っていたのか? 確かに立って歩いている。しかし足元は浮き草のように沈み、また上がる。それに嘔吐を催す中、白昼夢。ここは、何処だ。谷。体を起こせ。剣を持て。歩け。せせら笑い。大きくなる。黒い影が。

「へへ、姉ちゃんよ。やっと遊べるぜ。隊長は戻っちまったよ、これでわかりゃしねえ」
「谷を出るまで追いたてろって命令だ。もうちょっとで抜けるぜ。その前に少し休めよ」
「疲れたろ。可愛がってやるぜ」
「ずっと上の口だけだったからな。下も使ってやらねえと不公平だよな」
「ケツの穴も埋めてやろうぜ」

 神よ。これがあなたの兵隊ですか。これが私が所属する場所ですか。これがあなたの望む私の末路なのですか。
 怒り。目の前が赤くなる。気力だけが最後の持ち物、とうに荷物は捨てた。だから立ち上がれ。

「……それでも教会の騎士か」
 せせら笑い。
「それでも騎士か! それが騎士というものか、説明しろ!」
 せせら笑い。
「存在が神を愚弄する……。貴様達は、騎士ではない!」
 剣を構えろ、気力を。
「……まだ元気一杯じゃねえかよ」
「へへ、いいねえ、暴れる女は特にいいぜ」
「どうする?」
「薬があるぜ。飲ませればただのメスだ」
「もったいねえ、泣き叫ばすのが面白れぇんじゃねえか」

 踏みしめる足に滑る土。あと一回は撃てる。それで二人。残りは三人、斬れるか、斬るんだ、港へ! ゴーグへ!

 どうしてなのか自分でもわからなかった。ただ一人しか思わなかった。夢で父を呼んでも、思うのはまだ少年と言っていいその名。ゴーグにいるだろう乾いた少年だけが自分を助けると、神を思うように信じた。どうしてなのか自分でもわからない。例えば彼が私の死体を見つけた時に、戦って死んだのだと思ってくれるよう今、立ち上がる。

 じりじりと近づく男達は笑っていた。アグリアスは片膝をようやく土から離す。いつもの数倍は重く感じる剣は切っ先が下がっている。
 ラムザ達が去って三日後、呆れるしかない理由で謀反の罪状を突きつけられてオヴェリアから引き離された。それから毎夜、篭められた独房から引きずり出され、自白のための拷問と称して十数人の男の相手をさせられた。僧院に等しいドラクロワの城の地下、建前だけはグレバドスの戒律を守ったオーラルセックスの強要。何か言いたくとも自白する暇もなく、アグリアスを囲み並ぶ男達のものが口に詰め込まれ続けた。首の後ろを通して両奥歯に噛ませるU字型の轡(くつわ)と手枷だけが身に着けるもの、明けの声を聞くまでそれは続いた。
 身を捩って抵抗する度に容赦なく殴られ、蹴り上げられる中、一人だけ参加しない男がいた。戒律の監視者だろう。どんな淫らな姿勢を取らせようとも黙って見ていたが、アグリアスの性器に触れることを許さなかった。女を使うなと、その軽蔑的な声をアグリアスは意識の底に記憶した。
 白む朝に目を覚ますと元の独房、側に一塊の黒いもの。目を瞬いて見るとそれは剣と馴染んだ官服。なぜ、と思って前を見れば、僅かに開いた鉄格子。
 罠だと思った。間違いなく、これで最悪の方向に進むのだろう。しかし他に道は無かった。文字通りに。
 扉を抜けた。足が重かった。剣はもっと重かった。三日の間ほとんど眠っていない。それ以上に虐げられた体の疲労。全身に痣が出来ているのを知っている。体を動かすと、関節から悲鳴、そこここから雄の臭い。光のまぶしさに急に吐き気を催してその場に吐いた。目を瞑り、吐しゃ物を見ずにやり過ごす。この三日、食事をした記憶はない。十分「食わせて」やってるよなあ、と男達の笑い声が脳裏に蘇るから何を吐いたのかは見ずとも分かる。胃が酷く痛む。ぎりぎりと絞られ、まだ吐きたい、と言っている。背中が引き攣れて肩まで固まったようだ。この上最悪の道に進むなど自殺行為としか言えない。よく分かっている、それでも行かねばならない。ライオネルからはウォージリスの港を介する方がゴーグに早い。
 どうしてゴーグ?
 地下牢から延びていたのは長い長い一本道だった。少しだけ覚醒した頭で自問する。
 何故、ゴーグへ?
 問う自分を笑う。ずっと思っていただろう、最初の男が口内に垂らした瞬間から、ただラムザの名だけを思っていただろう。
 出口の明かり、その先は既に森。ライオネル城からバリアス地域に至る抜け道だった。森の中、川を下れば谷に辿り付くと踏んでアグリアスは川沿いを選んだ。そして。

「はは、止めとけよ、姉ちゃん。もう後がないぜ」
「死にたいなら後で犯り殺してやるから心配すんなよ」
「おら、おまえら姉ちゃん剥くぞ、手伝え」
 後方から付いて来ていた女達が姿を見せた。彼女達も笑っている。何故、笑えるのかアグリアスには分からない。分からないアグリアスを、低い笑いが囲む。

「貴様達にはこの命、やらん」

 足下は崖。その下は岩肌。通常ならなんとか無事に済む高さ、現状では、不明。

「神が死ねと言われているのだとしても」

 彼らは飛ぶ訳が無いと思い、アグリアスには飛ばない理由は無かった。顔色を変えて手を伸ばす男より一瞬早く、アグリアスは身を躍らせた。当然生きるため、ゴーグへ向かうために頭と利き手と守り、剣を抱えて左肩から落ちた。岩盤は、熱かった。
「ぐっ……!」
 アグリアスは一言のうめきの後即座に体を起す。足が折れているかもしれない、肩の間接が潰れているかもしれない、しかしあの高さでは彼らは逡巡しても飛び降りる。
「おい! 降りるぜ、おら、いいから飛び降りろ!」
 若い者を先に飛ばせて安全か否かを見ようとする声が聞こえている。
 ――立て!
 自分を激しく叱咤する。立てる、折れていない。剣も胸にある。着地の衝撃で刃が滑って腕を切ったが今すぐ死ぬ血の量ではない。まだ、残っている、私には残っている。
 走り出す。痛みを与えたことでひと時かもしれないが完全に覚醒した。走れる。まだ、走れる。残っている、一筋の希望。
 谷を抜ける! そしてゴーグへ!
「どこにいる! どこに逃げても無駄だぜ!」
 威嚇の声。追って来ている。自分の足を信じてアグリアスは走る。駿馬のようだと言われた足を信じる。
 開けた場所に出た。谷の底だろう。足場を選んで駆け抜ける。谷の終わりが見えた。ウォージリスからどれ位の距離か到底分からないが、谷向こうは深い森と山。迷い死にする危険と同じくして逃げ切れる可能性を抱えたその懐。
「こんなところにいたか!」
 ぞくり、として背後を一瞬振り返る。速い。平常でも危ういその致命的な速度。剣を強く握る。爪先に力を篭めて土を蹴る。

 ラムザ。
 神の名の代わりにそれを呼んだ。

「ここだよ」

 酷く無機質なその表情、どこか頼りなげな肩。白昼夢。

 踊り出たラムザの姿は一瞬で残像となってアグリアスの頭上を越えた。落下の力が加わった腕で男の頭に剣を叩き込む。兜ごと斬り割り、顎まで裂いて血の噴出、一歩も引かずに浴びた姿をアグリアスは振り返った。
「ラムザ……? なぜ、ここに?」
「オヴェリア様達を助けるために城の裏側から攻めようと思ってね」
 ラムザが血塗れた顔で戻って来た。何度も背後を振り返り、死んでいる男を睨みつける。そして視線をアグリアスの目に固定した。発光するような水色の視線は現実味が薄く、アグリアスは夢の中のような朧な音を聞く。ああ、これはやはり白昼夢。自分はもう死んでいるのかもしれない。
「あなたこそどうしてここに?」
「枢機卿が裏切った。いや……最初からラーグ公と内通していたようだ。我々に全ての罪を着せ、処刑してしまおうという腹だ」
「ラーグ公、とね」
「ああ。漏れ聞いた話だからあまり確信はないが……」
 陵辱の間、順番を待つ兵達の世間話で知ったこと。王女をこんな城に連れてきたのがそもそもの間違いだと、疲弊するアグリアスを眺めながら軽蔑の視線をくれた。
 記憶をさ迷う暗いアグリアスの目にラムザは腹を立てたように踵を返す。慌ててアグリアスはその背を追う。
 夢が、行ってしまう。あとひと時見ていたい。
「オヴェリア様が捕らえられている。なんとかお救いしたいがこの様、このままでは言われ無き罪科で処刑されてしまう……! 早くお救いしなければ!」
 必死でラムザの背に言い募る。まるで無力な片恋のように慈悲を請う。最期の夢にさえもこんなことしか言えないのか。もっと言いたいことがあるはず。ああ、顔を、見せて。
「まずはあいつらを殺してしまおうか」
 ラムザは背を向けたまま前方を剣で差した。その剣にひらめく真上の太陽光がアグリアスの目を焼き、激しい目眩を与える。ラムザの姿が白く滲む。アグリアスは左手を伸べてラムザの髪に触った。うとましそうにちら、と振り返るラムザの、その頬に指を滑らす。暖かい。
「触らないでよ。後にして」
 ラムザは足早に遠ざかって完全に滲んで消えた。木立から、追随の者が飛び出し、リーダー各の男の死体を見て怒声を上げる。おそらくそれだけが現実なのだろう。拒否された指を胸に当て溜息を一つ、アグリアスは剣を上げた。自分が少し微笑んでいるのを悟る。これで、いい。想いは遂げた。

「下がってて、アグリアスさん」
 穏やかな声が側で聞こえた。仰げば、そう、その瞬間に膝が崩れてしまい、仰いだ先の苦痛の混じる笑みは仕える主の束の間の親友。
「ええと、<清らかなる生命の風よ、失いし力とならん、ケアル>」
 懐から出した紙を見ながらムスタディオが棒読みの詠唱をし、アグリアスに淡い光が被さった。
「まだ覚えていないんだけど、上手くいった? 俺、今、ポーション持ってなくてさ」
 答える事も出来ずにいると背後から見知った顔が飛び出る。増えた追手を目指して騒がしく、ラッドとアグネスがアグリアスの横をなにやら怒鳴り合いながら駆け抜け、風を切る音に目を上げると後方からジャッキーが弓を放っている。それは確実に仲間を避け追手を射止め、ムスタディオは二度目の詠唱をやはり棒読みし、目の先では狂ったように死体に剣を打ち下ろしているラムザをアグネスが殴って止め、首根っこを捕まえて生きている敵の前に蹴り出している。
「……現実、か?」
 アグリアスがようやく声を出したので嬉しそうにムスタディオが見下ろす。二回目のケアルがアグリアスに降り注いで彼女は立ち上がった。剣が重くない。
「大変だったね……。俺がまずいことしちまってさ」
「何のことだ?」
 まだ茫然としている風のアグリアスと今度は視線を併せてムスタディオは微笑む。
「後でゆっくり。……ああ、終わったみたいだ」
 終わった?
 アグリアスは前方を見た。目を細める。眩しい。三人が戻って来ている。後方からはジャッキーの足音。
「終わった、のか?」
「ああ、片付いたよ。あんた、酷いカッコだねえ」
 言いながらアグネスがポーションをじゃばじゃばと降りかけてくる。ラムザはさっき見た『夢』と同じに頭から血を被り、恐ろしい目でアグリアスを見ている。
「姐さんなら指先くらいで片付けられただろうけどよ、まあ今回は俺達に花もたせてくれたってことで」
 ラッドがとても気を遣ったことを言い、ジャッキーがへえ、と感心しながらアグリアスに笑いかけた。
「大丈夫?」
 大丈夫。
 そう返す代わりに涙が出た。人前で泣くなどずっと無かった。でも、泣いた。
 自分は、独りで、とても、辛かった。
 その簡単なことを、アグリアスは黙って見守る仲間達の真ん中で泣きながら知った。






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