闇と眠る 9

 目を瞑って体当たりする。途端、あの夜と寸分狂わない恐怖と嫌悪が全神経を鷲掴みにした。内部はやはり闇、のっぺりとした布に巻かれたようにイルカはもがいた。
「うう、うううああ!」
 噴出す汗、引き攣る呼吸、無我夢中で忍刀を突き出す。
 ――避けた……!
 いる、人だ、武器を避ける者がいる、それを実感した途端に、いきなり呼吸が楽になった。なによりこれは、イルカにとって未知の恐怖ではない。知っているということが、今のイルカを支える強い防具となった。
「ヤラれ得、ってもんだあ!」
 目を見開く。僅かに白く何かが身を引いた。
「そこだ!」
 見極めれば簡単だった。僅か一振りで鳥は解けるように散って、青白い肌の男がイルカの足元に倒れた。
「弱い……」
 男が死んでいることを確認し、イルカは呟いた。闇が与える恐怖と嫌悪に頼りすぎた結果なのだろうか。くないを握っているのだから忍だろうが、あまりにも弱すぎる。
「中身はちょろいもんだろ?」
 アスマが隣に立っていた。彼がずぶぬれに見え、イルカは苦笑した。
「すごい汗ですよ」
「ああ、こんなに垂れ流すのは上忍になって初めてだ」
 目に入る汗を拭い、アスマはイルカに手を上げた。そのまま再び鳥に飛び掛っていく。次はイルカも恐れることはなかった。恐怖は飛び込んでから味わえばいい。長く尾を引くように闇を纏って頭上を越して行こうとするものに飛び付き、忍刀を振り回す。好きなだけ嫌悪を叫び恐怖に粟立ちながら、最後に中身を切り捨てる。くずおれたのは女、留めをくれて立ち上がった。
「やるじゃない、イルカ!」
 どん、と背中を叩かれてたたらを踏んだ。着崩した服を更に乱し、髪から汗を滴らせたアンコが笑っていた。
「アンコさん! お怪我は!」
「こーんな弱っちいのにやられるもんか」
 ひひ、とアンコは顎をしゃくる。
「五代目もやるわねえ」
 振り返れば、最初に立った場所に五代目は踏み留まっていた。両手を眼前に突き出し、静かな表情で何かを呟いている。それとは対照的に、彼女の足下にしゃがみ印を結び続けているシズネは苦悶の表情だ。
「守って下さっている……」
 綱手のチャクラをシズネがコントロールしている。その余裕分で、綱手は光輝のような気迫を練り上げて巨大な『手』を丘に押し止めていた。『手』の纏う闇はどの鳥よりも濃く長く、それが木の葉の忍達に触れぬように里の長は全霊で戦っている。
「アレに絡まったら、ショック死確実ってとこね」
 アンコはにやりと笑い、辺りを見回した。
「ねえイルカ。立ってるの、少なくなってきたよねえ」
 はっと見回せば、視界を横切るのは暗部の小手と数名の上忍ばかり、ほとんどの中忍は草の上に転がっていた。恐慌状態のまま鳥に突っ込んだのだろう、多くは深手を負っていた。鳥であった者も倒れてはいるが、未だ『手』の周りを守るごとく固めている黒い影が幾つも見える。
「五代目のチャクラは無限じゃない。そろそろお手々にお仕置きしないとね。アタシは行くけど、あんたはどうする?」
 え、と視線を合わす。にやにやとアンコは笑っているが、その目の底には深い諦念が見えた。
「……はい!」
「よし来い!」
 兎のようにアンコが跳躍した。彼女の汗が光りながら目の前を飛ぶ。落ちるようにして襲ってくる鳥をかわし、イルカは彼女の背を追って全力で走った。
「どいたどいたあ! アンコが行くよおお!」
 ぎょっとした様子で仲間達が道を譲る。最後の鳥を際どく避け、イルカはアンコと共に丘を駆け上がった。羽虫が飛び交うような、不快な低音が鼓膜を汚す。視界を占領していく『手』の巨大さに、イルカは戦慄した。丘の一番高い部分を掴み締め、二人に手首の内側を見せているその、醜悪さ。
「気持ち悪……。何出してんの、この『手』」
 そびえる『手』の末端は、天を覆うどす黒い渦に飲み込まれていた。それは水のように『手』を伝い巻き降りて指先から揺らめいている。鳥達に纏わり付く闇はここから与えられたものだろう。
 仁王立ちのアンコの横で、イルカは嘔吐感をこらえながら巨大な『手』を睨み上げた。霞がかかったように視界が歪む。これだけの存在を恐怖によって主張しながら、視線を厭うように『手』は歪む。
「……来やがった」
 ぶぶぶ、と低く空気を震わせながら、『手』はゆっくりと回転して二人に爪を向けていく。
「支えなよ、イルカ。私の武器も『手』だからね、アンタに印を任せるわ」
 押し殺した声で告げ、アンコは両手を胸の前に突き出した。
「はい!」
 イルカが羽交い絞めにアンコに組み付いた瞬間、彼女の袖口からずるりと何かが現れ、同時に『手』の爪の先から闇が放たれた。回転しながら伸びる黒い影の速さに目が追いつかない。
「気ィ失っても離れるなあ!」
 吼え、男一人を背に負ってアンコは疾走した。草を滑って影の下をくぐり、横っ飛びに回転して指先の真ん前に飛び出した。
「ア、アンコさん、下!」
 目まぐるしく角度を変える視界を必死で読み取りながら叫ぶ。ぶうん、と空気が震え、影の数がどっと増えて二人の足元から伸びあがる。
「うっざいわねえ!」
 ぎりぎりの距離を闇が千切れるように流れていく。アンコの腕に絡みついた二匹の蛇が、鞭のように迫ってくる闇を次々に食い千切っていた。時に頬を掠めようとする残骸を避け、イルカはようやくアンコの胸の前で両手を組んだ。
「イルカ! 瀑布球!」
「はい!」
 拳大の水球が大量に現れて二人の周りを包む。一瞬、闇が怯むように後退し、その隙を見逃さずにアンコは両手を組んだ。二匹の蛇が舌を鳴らしながら水球を飲み込み肥大する。鎌首をもたげた蛇がイルカの目の前に伸び上がり口を開いた。
「蛇手影水!」
 刃物のように薄く平坦に圧縮された水が、幾重にも折り畳まれて吐き出された。凄まじい速度で噴出する水の刃物が生む突風に、イルカは力の限りアンコの肩を抱えた。
「よし!」
 切り裂かれた闇が空気に解けるように散り、前方が開ける。『手』は近い。跳躍するアンコに必死にしがみ付きながら、イルカは懐の中の巻物を意識した。
 ――突っ込む!
 しかし、『手』は恐ろしい速さで後退した。奇怪な生き物のように五本の指を目まぐるしく動かす様にアンコの舌打ちが聞こえる。
「近寄らせない気だわ!」
くそ、と身構えるアンコの前に、再び無数にも見える影の触手が揺らめく。
「……きりがない」
 星を消すほどの量の闇が、天に渦巻いているのだ。空を覆い尽くす呪詛と悪意に、イルカの意識は空転して絶望が眩暈のように脳を揺さぶる。
「イルカ」
 痛そうに首の左辺りをしきりに擦りながら、アンコがばさりと長い上着をはためかした。脂汗を拭いながらイルカが顔を向けると、上着の裏地一面に起爆札が貼り付いているのが見えた。
「コレを揃って発動させたら結構イケると思わない? 衝撃に弱いよね、あいつ」
 にやりと笑って振り返るアンコにイルカも引き攣った唇の端を上げる。
「俺のポケットに、消滅用の巻物もありますよ」
「そっか。アレの指の一本くらいはいただけそうだね」
 幾人かが加勢に駆けつける気配がする。自分達が闇を吹き飛ばせばきっと本体が姿を見せる、後は皆がやってくれる。
 歪んだ笑みで頷き合い、二人は体を離した。間合いを計るようにゆらゆらと揺れている影に一歩を踏み出す。
「お先に!」
 巻物を取り出して、イルカは跳躍した。ほぼ同時にアンコも飛び出す。止めろ、と誰かが叫ぶ声が聞こえたような気がした。五代目の、焔のようなチャクラを肌近くに感じた。
 ――来い! 捕まえろ、俺を飲み込め!
 印を結びながら全力で走り、闇の鞭に突っ込んだ。
「ああああああ!」
 脳と脊髄に太い針を打ち込まれ掻き混ぜられるようだった。鳥達とは比べ物にならないほどの濃く渦巻く恐怖と呪詛、思考は崩壊し全身が痙攣するように勝手に震える。
 コワイイタイコワイイタイコワイイタイコワイ!
「くそお!」
 叫び、熱を帯びる巻物を握り締めた。印は結び終わった、少しでも前へ、あの蠢く『手』の近くへ!


「下がってて」


 声を聞いた、そう思った時にはイルカは丘を滑り落ちていた。弾かれたように感じたが、何が起こったのか分からないままイルカは目の前を流れる草を慌てて掴んだ。どこまで飛ばされたのかと顔を上げた途端、視界にアンコが飛び込んできた。避けきれずに絡まり、互いを引っ張りながら裾野まで転がった。
「いったああ!」
 頭を抱えてアンコが身を起こす。イルカも額を押さえる。どうやら頭同士でぶつけたらしい。きんきんと響く耳鳴りを堪えながらアンコの側にいざって行った。
「いてえ……。大丈夫ですか、アンコさん」
「誰よ! 馬鹿!」
 わめくアンコの上着の裾が捲れ、失効してくすぶっている起爆札が見えた。はっ、と自分の巻物のことを思い出したが手の中は空だ。
 ――爆発音も無かった。やはり失効したのか。
「一体誰が、あ、」
 ぶるりと身を震わせ、イルカは額から手を離した。とてつもなく重い殺気が丘の上から流れ落ちてくる。顔を上げられないほどの緊迫した空気、イルカは細かく震えながらアンコの顔を見た。
「ア、アンコさん、何が」
「……わかんない」
 目だけを動かしてイルカを見るアンコもまた、新しい冷や汗を浮かべている。
「……せーの、で」
「……そうね」
 せーの、と声を合わせて二人は同時に顔を仰向けた。そして口を開けた同じ表情で固まった。






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