丘の上では、飛びかかる寸前の猛獣のように、手のひらを見せ指を蠢かせる『手』が、瘴気のように闇を撒き散らしていた。その前にいるのは『手』の仲間であるはずの、闇を纏った『鳥』が一つ。
「な、んだ、この気は」
それだけで人を殺せるのではないかという激烈な殺気を放ちながら、二体の異形は睨み合っているようだった。
「仲間割れ、なのか?」
振り返ると受付で良く見る教師が近寄って来ていた。彼も起こりのように身震いを繰り返している。
「そんな馬鹿な……。あの鳥は『手』から力をもらっているだけの雑魚じゃないか、反逆なんてありえない」
次々に木の葉の忍が集まってくる。イルカは主に対峙する闇の鳥を見上げて眉を寄せた。纏う闇の間に、白いものが見えたような気がした。
びくり、とアンコが揺れた。目を見開いて何かを凝視している。彼女にも見えているのだ。
「手だ……」
思わず呟いた。手甲を付けた白い手だ。動体視力が追いつかない速度で印を切り続けている。
「引け!」
誰かが叫んだ。知った声に思える。誰だ、そうだ、日向家の当主の声だ、来ていたのか、そう、『視る』ならば、彼だ。
アンコさん、と声を出そうとした時に地が揺れた。突き上げるように一つ揺れ、続いて氷のような冷たい殺気が丘から吹き降り体勢を崩すイルカの目に一筋の光が映った。鳥が、鳥で無くなっていく、闇が千切れ彼から抜け去りその足元から光輝の輪が広がっていく。
「た、退避」
アンコが呆然と呟いた。しかし次の瞬間に形相を歪め、彼女はイルカの鼓膜を突き破るほどの音量で叫んだ。
「退避、退避ぃ、下がれさがれえええ!」
襟を鷲掴みにされてイルカはたたらを踏む。
「倒れてるの拾って下がれ、下がれって言ってんの、聞こえないのアンタら!」
アンコの剣幕に仲間のチャクラが揺れ、どっと皆が走り出す。
「下がれ! 五代目の後ろまで下がるんだ!」
ヒアシの声も飛ぶ。半ばパニックになりながら、皆が支え合い走る。イルカをぶん投げるようにアンコの手が離れた。
「イルカ、拾え、何人でもいいから拾って!」
慌てて踏ん張り、目に写った仲間に取り付く。放心したように座り込んでいた二人を抱えて綱手を目指す。アンコも同じように両脇に女を抱えて前方を行く。
「皆さん、早く!」
シズネが呼ぶ。五代目がかっと目を見開いて指を咥えるのが遠くに見え、背後から大波のように光が迫ってイルカの背骨がきいんと冷えた。丘の上を仰げば、光の輪から湧き上がった水が巨大な水球となって『手』を包み込み、押し潰す様に縮まっていく。圧力が肌をひりひりと刺した。
――破裂する! 間に合わない!
「口寄せの術!」
朗々と綱手の声が響いた。地響きと共に出現した巨体が見る間に瓦解して散らばる。
「カツユの影に伏せろ!」
背後にどしんと着地した大きなナメクジに体当たりするように身を寄せ仲間二人に被さった瞬間、ど、と丘全体が揺れた。破裂した水球は天を突く滝となって吹き上げ、その飛沫が無数の炎の塊となって降り注ぐ。火球は『手』を貫き勢い余って丘の裾へと乱れ飛び、カツユの分身に飲み込まれては崩壊する。イルカを守る分身にも火の玉が激突し、ややあって分身はぼんと煙となって消えた。
「今だ、ここまで来い!」
凛と通る声に引っ張られるようにイルカは仲間を抱えて起き上がる。無我夢中で足を動かした。
――火影様!
シズネが印を結んでいる。再び背後に気が満ちる。一番距離があったイルカとアンコが最後に飛び込むように綱手の足元に伏せると、目の前に半透明の壁が出現した。
「全員入ったか!」
「大丈夫です!」
綱手とシズネが叫び合う。しかし安堵をする暇は無かった。
「来る、伏せてな!」
何が、と問う間を与えず、引き摺られるほどの陰圧が丘から発生した。地表の草が一斉に丘に向かって倒れ、低く空気が鳴る。ばたばたと倒れる者、踏ん張る者、おお、と声を漏らす仲間につられてイルカは膝を突いて目を凝らした。巨大な竜巻が『手』を巻き込んで闇を散らしている。
「ああ、闇が!」
飛び散る闇が弾丸のようにシズネの作った壁を叩く。
「チャクラを貸して下さい! 壁を守って!」
ぜいぜいと息を上げるシズネが叫ぶ。暗部が真っ先に壁に駆け寄る。イルカも低い姿勢で壁に気力を注ぐ。
「あ、弾く!」
「あの竜巻を。なんという怪物だ!」
『手』が竜巻を握り崩しながら姿を現し丘に爪を立てた。激しい振動、毟り取られた草が風に乱れ飛ばされ、忍達のざわめきは地響きの轟音に掻き消された。今度は立っていられる者はいなかった。真横で身を屈める暗部と体を支え合うイルカの鼓膜を悲鳴が焼いた。
「綱手様あ!」
それでも、たった一人立つ者がいた。
綱手は、地を蹴って丘へと突進していた。壁から離れられないシズネの悲痛な声が二度三度と響き、五代目、火影様と口々に忍達が叫ぶ。深く丘をえぐる爪から斬り割るような亀裂が走り、それを飛び越える綱手が印を結ぶのが見えた。どおん、どおん、二度の破裂音と粉塵、千切れた草が風に混じり、何かが亀裂の中から吹き上がった。
「また口寄せを!」
大量のカツユの分身が踊るように地から飛び出し『手』に降り掛かっては取り付く。綱手の姿もあの『鳥』の姿もそれに紛れて見えない。
「……犬が混じってる?」
誰かが呟く。明らかに色の違うものが、カツユと共に『手』を襲っている。身震いを繰り返しのたうつ『手』は、闇をほとんど失って青白く、大きな犬が小指を噛み締めていた。あの犬、と暗部が漏らした時だった。
「鳥!」
「気をつけろ、操られるな!」
忍達が次々と耳を押さえる。脳を掻き回されるような鳥の鳴き声がどこからか聞こえていた。チチチチチと途切れることのないそれは次第に数を増し、やがて大音響となって鼓膜に突き刺さってきた。『手』の最後の足掻きか、暗示を受けぬように皆が印を結び始め、イルカも両手を組んだ。しかし。
「千鳥、か?」
唖然としたように隣の暗部が言った。
「千鳥……!」
まさか、まさか。イルカは印を結ぶのを忘れて吹き上がり続けているカツユの間を探した。チチチチチ、聴力が麻痺しかけている。世界中の鳥が怒り持って集ったようだ。苦痛に視界が狭まっていく。
「あ!」
光が見えた。この色を知っている。希望とも絶望ともつかない畏怖すべき色。
――まさか、こんな。
顔に血が上っていくのを感じながらイルカは唇を震わせた。発光が強まり、一斉にカツユが身を引いた空間の中央に一人の男が立っていた。右手に稲妻を従えて、その霊光に髪を輝かせている男が。
「おおおおお!」
綱手が鬨の声を上げて跳躍するのが見えた。同時に男も動いた。二人は交差するように『手』に踊り込み、圧力を感じるほどの光が辺り一面に放たれた。強く目を閉じそれを更に腕で庇い、イルカは地に伏せた。
――帰る――
そんな声を聞いた気がした。微かな振動が丘から伝わり、最後に女の断末魔の声が高く絞るように響いて消えた。
「綱手様!」
真っ先にシズネが駆け出した。壁は消えている。イルカがそろそろと顔を上げると、周りの者も同じように戸惑っていた。
「終わったんだ」
誰かが言った。それを中心に波紋のように溜息が広がり、やがてそれは勝利の声に変わって忍達の雄叫びが草原に轟いた。
「イルカ!」
疲れ果てた様子だが、笑ってハツセが駆けて来た。
「何かやってたろ、おまえ。ひやひやしたぞ」
「はは、アンコさんの手伝いだよ」
肩を叩き合って喜び合う仲間を見渡し、二人は安堵の溜息を吐いた。カノコが声を上げて泣いている。
「……これで心から弔ってやれるな」
「ああ」
立って残っている者に中忍は少なかったが、そのほとんどは顔見知りの教師だった。意地を通した同僚達に誇りと共感を募らせながら、イルカは丘を指差した。
「行こう、五代目が心配だ」
既に暗部の姿は無い。一人二人と駆け出して深い亀裂を残した丘を登って行く。五代目の姿が近付くにつれ、イルカの心音は速まった。彼女から少し離れた場所に、うずくまる男がいる。
「火影様!」
「皆、無事か!」
地に両手をかざしながら綱手が振り返った。彼女の足元には干からびた死体が転がっていた。それはあちこちが朽ち果て、辛うじて人としての形を保っている。
「よくやってくれた。最後の始末だ、動ける者は怪我人を病院に運んでくれ。医療班が来るまで、重傷者の応急処置も頼むぞ」
暗部と共に死体を囲む綱手は封印術を施しているようだった。
「イルカ」
目敏くイルカを認めて綱手は顎をしゃくった。
「こいつを病院へ連れて行ってくれ。浅からぬ因縁だろうからな、頼んだよ」
は、と答え、綱手が視線を落とす男を見た。採掘場のように掘り返され荒れた丘に座り込む男は、木の葉でも暗部でもない黒装束を纏って俯いている。
「カカシ、さん」
千鳥の光を見た時に予想はしていた。なのに近寄ることが出来ない。イルカは足踏みを繰り返し、綱手はにやりと笑った。
「チャクラを使い果たしたようだ。肩を貸してやれ」
「こんばんは、イルカ先生」
黒装束の男に名前を呼ばれ、イルカはびくりと反応した。
「……こんばんは、カカシさん」
カカシは全身をどろと汗で汚し、髪の色まで変わっている。いつも顔の大半を隠している面布は無く、額当てが上がってぎらぎらと輝く写輪眼が露出している。酷く気を荒らしている印象を受けた。応急処置をしていた暗部がそっと離れ、仕方なくイルカはしゃがむと、カカシの顔を見ないようにして肩を貸した。
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