その夜、綱手の召集がかかった。しかし、アカデミー前に呼び出された教師を中心とした忍の前に現れたのはイビキだった。不安を腹の底に押し込め、イルカは背筋を伸ばした。
「ご苦労だった。おかげで多数のサンプルが集まった」
笑み一つなく、彼等には解術を施して家に帰したとイビキは告げる。
「そこで分かったことがある。全ての徘徊者が子供と関わりのある仕事をしていたこと、そして徘徊を始める直前に、鳥あるいは虫の声を聞いていたこと、この二点だ」
「そ、それは……」
「やはり『黒い鳥』か!」
厳しい視線でざわめく者達を見回し、イビキは一つ手を打った。再び静まった中、低く声が流れた。
「鳥や虫の声に似た、暗示を与える音が存在する。苦痛を与えない音を長く聞かせ、ゆっくりと催眠状態へと移行させる、そういうものだろう。我々尋問部隊も使う方法だ。そして彼らは、侵入者に協力させられたのだ」
五代目とご意見番の見つけ出した古術を淡々と説明していくイビキの言葉に、周りの者の緊張が一気に高まっていく。イルカは自分の体の奥にも、何かが潜んでいる錯覚に襲われた。真っ黒の粘いものが喉に貼りつくようで、叫びだしたい気持ちを必死に抑える。
「……以上だ。くれぐれも言っておく。鳥、虫はもちろん、全ての音に注意を払え。相手はご意見番も経験の無い古術の使い手だ、いつ、暗示をかけられるか分からん。また、不審な行動を見掛けた場合、相手が誰であっても躊躇せずに火影様の御前に引っ張って来い。疑い合えとは言わないが、今はもう非常事態に突入しているも同然なのだ」
教師達がてんでに頭を振り、苦痛の表情を浮かべる様を見回し、イビキもまた溜息を吐いたようだった。
「今から緊急配備『特』の配置を取る。各自心してかかれ。そして最後に、」
言葉を続けようとしたイビキが、真っ先に空を見上げた。つられるように皆が顔を仰向ける。月の無い夜空には、薄絹を流したように星の川が横切っている。
「何か、来る?」
誰かが言った。
「ひ……!」
新人教師が頭を抱えて地に伏せた。
「あ、うあ、」
「来る、来る!」
「うわあああ!」
悲鳴が合図となり、ばたばたと身を伏せる者、得物を抜く者、一瞬の内に混乱が広がっていく。ビリビリと空気を震わせて何かが近づいて来る。『それ』が泡立てる激しい感情は恐怖、イルカの隣にいた女性教師は地面に膝を突き呆然と空を見上げ、また目の前の受付専門の男は忍刀を抜いたものの、それを抱きしめて身を丸めている。
「落ち着け! 『特』配置だ、立て!」
しかし、地を踏みしめているのはイビキを含め数名、誰もが恐慌状態に陥っている。立っていられる自分に驚きながら、イルカはイビキの側に走った。空気ごと押しつぶされる圧迫感に足の感覚がおかしい。身を伏せて涙を流している新人の頭を飛び越えた瞬間、津波を思わせる巨大な気配が天に被さった。これにはイルカも膝を崩し、地面に体を投げるしかなかった。恐怖、その偉大なほどの圧力。しかし、ふくらはぎに痙攣を起こしながらイルカは立ち上がった。目の前のイビキは大きな体を真っ直ぐにそびえさせるように立っているのだ。
「イビキさん!」
「イルカか! 丁度良い、俺の側にいろ!」
はい、と答えて天を仰ぐ。星の川が光を失っていく。無限と思える星粒が一つずつ消える。
「寒い……」
恐怖感が直接肌を凍らせる。有り得ない、感覚。
「ここまでとはな」
「これが、あの『黒い鳥』の主たる者……」
両肩を擦ってイルカは震えた。叫び、伏せていた者達まで、顔を上げて消えゆく銀河を見上げている。
「……最後に、五代目の言葉を伝える」
一歩を踏み出しながらイビキは言った。
「この木の葉で、おまえ達に叱られず愛されず支えられずして忍になった者はいない。一人も、だ」
顔を見合わせながら、教師達はイビキの声を聞く。
「今回はおまえ達の怒りに期待している。火影と同じくこの里を育てたおまえ達こそが、最も強く或る者だと信じている」
「……はい」
小さく、しかし決意を込めてイルカは答えた。あちこちで同じように声が上がる。意地が悔しさが、教師達を速やかに立ち直らせていく。
「以上だ! 散!」
イビキの号令に皆が地を蹴る。立ち上がれない者を抱え、ふらつく足を叩き、皆が気力だけで散っていく。カノコを支えたハツセが遠くからイルカに手を振った。それに頷き、イルカはイビキの後に付く。
「お、私は何をお手伝い出来ますか!」
「悪いなイルカ、手一杯でおまえに暗部を付けられんのだ」
民家の屋根を越えていくイビキの言葉にイルカは息を詰まらせ、しかしにやりと笑った。
「尋問部隊隊長自らの監視とは、光栄です」
「よく言った」
夜空は半ば消えかけていた。演習場に入り木々の枝を跳びながら、イビキは巻物を投げて寄越した。
「五代目が隅々まで調べたとは聞いている。しかし、今回ばかりは何も信用ならないからな。おまえが大駒かもしれんと俺は思っている」
「……はい」
イビキが目指しているのは、丘を孕んだ第二十二演習場だと目測を付け、イルカは巻物を懐に入れた。
「その巻物は、」
「分かっています。起爆札十枚分の威力がある、消滅用の巻物ですね」
「使うなよ。持ち帰るために持っていろ」
「はい、お預かりします」
「……よし。では、俺の持分を説明しておく。配置は第二十二演習場、そこに敵を追い込む。敵が現れ次第、ご意見番と五代目がやつらをおびき寄せる餌を撒き始めると決めてある。今ごろは暗部も合流して大掛かりな罠が仕掛けられているだろう」
「罠、ですか」
「これまでの出方を見れば、奴らに人間としての小賢しさが感じられないことは明白だ。それを利用し、奴らの本能を弄くってやるんだ」
「具体的には」
「子供を集めた」
一気にイルカの全身に鳥肌が立った。
「冗談じゃねえ!」
足を止めて荒々しく枝に止まってイルカは吼えた。こめかみが脈打っている。脳が沸騰するようだ。
「俺は加担しないぞ、絶対にしない!」
「落ち着け、イルカ」
既にイビキはイルカを羽交い絞めにしていた。耳元でイビキは低く笑った。
「全て大人の変化だ。ご意見番がチャクラの質も操って、退行術に近い変化を施した暗部達だよ。心配するな、里中の子供は別の場所に集めて守っている」
「……本当ですか」
「ああ、俺の命を掛けてやる」
「分かりました……」
力を抜くイルカを放し、再びイビキは枝を蹴る。
「これだから教師は参る」
「……失礼しました。でもそれが教師ですから。で、子供を餌にして、奴らが食いつく保証はあるんですか?」
まだチャクラを波打たせているイルカにイビキは苦笑する。
「自分の目で見ろ。……アレだ」
イビキの言葉と共に、森が終わり平原に二人は飛び出した。
「子供だ……」
第二十二演習場は、森の切れ端と丘から成っている。その丘の裾で、十四、五人の子供が手を繋ぎ合って輪を作っている。十歳に満たない容姿の子供達だ。彼らは、笑顔すら見せて何かを口ずさんでいる。
「……歌?」
「例の徘徊者の文言だ」
古語に近いその文言は、イルカにはほとんど理解出来なかった。童歌に似たそれを何度も何度も繰り返し、子供達は回っている。
「徘徊者は、街中の道を強化した。いくら操られているとはいえ、見張りの立っている演習場には、一般の里人は入れんからな、必ずその道はどこかで途切れる。途切れは何箇所にも及んでいるが、徘徊者の出没地域を結んだ結果、道の途切れが最も狭いと考えられるのがここだ」
イビキに腕を引かれ、イルカは草原に身を伏せた。
「奴らは子供に執着している。単に扱いやすいからだろうと思われていたが、どうもそれだけではなさそうだ。五代目はこれに賭けてみる、と」
消えていく星空の下で、子供達が輪になって歌う。空は黒く、地もまた黒い。子供達の影が絡まりながら草の上に糸引くように落ちる。幻想的な光景を見ながら、イルカは眉を寄せた。暗部の変化と知っても、本物の子供としか思えない。退行術というものは詳しくは知らないが、暗示によって精神まで子供に戻されているようにイルカは思った。
文言の間に笑い声が漏れてくる。
――かわいそうに。
黒に覆われていく空の下、訳も分からず歌わされている姿は、元がどうであれイルカにとっては『子供』だ。止めてくれ、と言い兼ねない唇を強く噛み、イルカはイビキの左で息を殺した。
「……こういう賭けには強いお人だ」
「あ、」
刹那、草が一斉に同じ方向になびいた。一本残らず地に伏せた草は恐怖に震えるように細かく揺れ、乾いた音を聞かせ始める。
「こ、れ、は、」
「くそ……っ!」
イビキさえもが立ち上がれない。不自然な草鳴りが地に満ちる。ぶぶぶぶと虫の羽音に似た音が神経を圧迫していく。
「まさか、暗示が」
「分からん……分からんが、解術の印を切れ……っ」
がくがくと痙攣する指を叱咤し、印を結ぶ。しかし、何も起こらない。ただ、近づいてくる者の気配が当たりに満ちる。
子供達は、機械のように笑み歌っている。ぶうんぶうんと草の波がそれを包むように鳴る。
きのねことのはやまくだり
しずんだははこ うかんだややこ
ここじゃここじゃこのいけじゃ
きのねことのはやまくだり
かじかくわえてあわをうむ
突然子供達の歌を理解し、イルカは全身に鳥肌を立てた。それも足りずに髪の根を立ち上げ、どろどろと背中から腹へと汗を滴らせてイルカは耐えた。一秒でも気を抜けば失神するだろう、今耐えている自分が信じられない。
「く、る、」
イビキが絞り出す声に目を上げれば、空は一気に星を失い闇が天を覆っていた。あの夜、見えないはずなのに『視た』闇の色。
「時越心、解術!」
光、そう感じた。このどろりとした闇の夜に走った眩い声。
「う、お、お」
イビキが全身の骨を鳴らしながら立ち上がっていく。子供達の歌が止まった。
「ああ!」
イルカの視線の先で子供達ががくりと膝を突き、ばたばたと倒れる。同時に彼らの体から煙が立ち昇り、変化が解けた。腹這いに天を見上げる者達は確かに暗部、彼らもまたうめきながら立ち上がろうとあがいていた。
その彼らの前に小さな影がある。まだ解けぬ者がいるのか、イルカは思わず這いずって手を伸ばし、はっと目を見開いた。
「コハル様!」
小さな体は力強く立っている。
「底意地を見せい!」
彼女が一喝をくれると倒れ伏した暗部が膝を立て、頭を上げていく。
地を踏みしめる黒装束の、腕に光る『殺人小手』。その輝きを美しいと思ったのは初めてだった。頭を振り手足を叩き、生まれたての生き物のように危うく立ち上がりながら、暗部に気力が満ちていくのが伝わってくる。白々とした面が、一つ二つと闇を裂いて走り出す。
「丘の上に来る! 皆私の前に来い!」
イルカの目の前に、また一つ雄々しい影がそびえた。白い衣も長い髪も風に乱し、しかし堂々と立っているのはくのいちの長。
「コハル様、お戻り下さい!」
はっと見上げればイビキが足を引きずるようにして丘の裾に向かっている。溺れる者のように空気を掻き、全身を使ってコハルを抱きかかえると、再びこちらへ歩いて来る。それだけで噴出している彼の汗に、イルカは顔を歪ませた。
――立て、立て、イルカ!
出来るはずだ、チトセを思い出せ、あの夜の屈辱を思い出せ、イルカは胸の中で叫びながら両手を突っ張った。地に接着されたかのようだった胸を上げれば、立てると確信する。
「ううお、くっそー!」
最後に吼え、イルカは立ち上がった。勢いに任せて背に負った忍刀を抜く。このところ、ずっとこれを背に暖めていた。
「五代目! 敵は今どこに!」
イルカをちらりと振り返った綱手は笑んでいた。般若が笑えばかくも、という壮絶な顔にイルカもまた笑み返す。
「よく立ったイルカ! ヤツはもう来ている、丘に降りる間合いを計っている!」
「降りる」
反射的に見上げる。見えぬのに『視える』闇が、天一杯に広がっている、いや、集まろうとしている、丘を中心として。
「火影様!」
ぎりり、と音が鳴りそうな首を回して振り返る。
「猿飛アスマ、夕日紅、ただいま参りました!」
脂汗を流す二人の上忍が、それぞれ得物を手にイルカの横を通り過ぎる。
「よし、私の前に立て!」
「みたらしアンコ参上ォ!」
同じく空気を鳴らして黒髪がイルカを追い抜いて行く。
やがて草原には忍が群れ始めた。最低限の配備を残して、集められるだけを集めたようだ。恐怖に疲弊し、洟をすすっている者すらいる。しかし、全てが五代目の前に歩み出て行く。イルカもまた、一歩を踏み出した。
「来た」
来た、来た、波のように呟きが伝わっていく。天は巨大に膨らみ闇を孕み、丘の上にどろりと垂れた。
「来るぞ、気を保て!」
綱手が両手を突き出し、叫ぶ。その目線の先、轟々と風を鳴らし辺りの土くれをも巻き込みながら、何かが徐々に姿を現し始めた。
「……な、んだ、あれは」
「本当にアレなのか!」
忍達が唖然と立ち竦むのも無理はなかった。
天から降りてきたのは『手』だった。
巨大な塊から五本の指が蠢きながら突き出し、丘を掴み締めるように降りようとしていた。『手』を庇うように、人間よりもひと回りほど大きい鳥が地表近くを舞っている。その数はざっと四十、煙の塊のようにも見える。
「行け!」
綱手の怒号、狂ったように叫びながらの散開、流れる星のようにあちこちで光るのは暗部の小手。『手』を離れて飛び向かってくるものは、黒い吐息のようなものを羽のように纏っている、何かだ。鳥と思えば鳥、そうでないと思えば闇の切れ端が舞うように見える。
「気をつけろ、鳥は術ではない、人だ!」
誰かが叫ぶ。僅か、安堵の気配が漏れる。親玉は得体が知れない、しかしそれを守っているのは同じ人間。しかしそれも束の間、鳥に突っ込む者が次々に地を転がって悶絶する。
「う、あああああ!」
「ひい、いやだ、いやだああ!」
あちこちで悲鳴が上がる。
「しっかりしろ!」
倒れた者を支えて立たせても、すぐに草に突っ伏してしまう。戦意を喪失したのだ。
「立て、どうしたおい、立て!」
「無理だよ無理だよおお! 嫌だ、アレは嫌だあ!」
鳥は伏せていく者は無視し、向かってくる者に飛び掛る。また一人二人と絶叫が響く。
ふっとイルカの目の前をアスマがよぎり、手近の鳥に突っ込んだ。この阿鼻叫喚を見ての躊躇の無さ、上忍の意気にイルカも唇を引いて前方の鳥に狙いを定めた。
――やってやる、出来る!
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