闇と眠る 7

 ぼんやりと白く、視界が滲む。
 死んだか、そう感じたのは、全身の感覚が失われていたからだった。しかし瞬きを繰り返す間に背中に触れる柔らかさを感知し、やがて自分がベッドの上にいることを理解した。
 自分が未だ存在していることを不思議に思いながら、イルカは暗い天井を見上げた。日の出前の静寂に包まれた部屋の中、水の底からぽつりぽつりと泡が上ってくるように、昨夜の記憶が蘇ってくる。体を丸めて寝返りを打ち、イルカは頭を抱えた。
 どうなった、俺は。
 混乱する感情の手綱を探しながら、イルカはしばらく丸まっていた。しかし、唇をきつく噛んで起きあがると、手足をじっくりと観察し始めた。途切れがちな記憶も探る。
 ただ犯されただけとは思えない。
 何か、残されているはずだ。どこかに、何かが。自分は子供ではない。操られようとも、里を害することなどあってはならないのだ。
 イルカはベッドを降り、立ち上がった。膝が崩れそうになり、体の中心が重く痛む。シャワーを浴びたい、全て洗い流したい。
 しかし任務服を身に着けるとイルカは自宅の扉を走り出た。明けの空のどこかで鋭く鳥が鳴き、イルカは思わず目を閉じた。



 五代目火影は執務室にいた。イルカが訪問を告げるとシズネが扉を開け、窓の外を見ていたらしい綱手がぐるりと椅子を回してイルカに向き直った。
「酷い顔色だ」
 いきなりそう言われ、イルカは反射的に首を竦めた。
「なんだ、悪戯でもしたのか」
 苦笑する五代目の顔を見れば、人のことなど言えぬほどに青白い。眠っていないのだろう。
「五代目」
 イルカは一つ息を吐き、そして顔を上げた。
「私の体を調べて下さい」

 忍としての誇りも意地も失った昨夜の醜態を語るのは、実際の出来事を語るよりもイルカを傷つけた。しかし、語る内に怒りとも悔しさともつかない激情が溢れ、叫ぶようにしてイルカは締め括った。
「ということですので! 私の体をもうどうとでも外も中もそれこそ細胞レベルで調べて弄り回してお役に立てて下さい! お願い致します!」
「イルカ」
 手で制し、綱手は目の辺りを手で覆った。まずかったか、と怯むイルカの前で、彼女の肩がぶるぶると震えた。
「私におまえを解剖しろっていうのかい」
 くく、と喉を鳴らして笑い、綱手は立ち上がった。首を傾げるイルカの横で、シズネも苦笑で肩を竦める。
「え? いえ、別に構いませんが……」
「馬鹿者。貴重な資料をバラしてどうする」
 おいで、と綱手は指先でイルカを呼んだ。自分が座っていた椅子を指差すので、イルカは遠慮がちにそれに腰を降ろした。
「頭を探らせてもらう。記憶の隅々を洗うからきついよ?」
「はい! 望むところです!」
「分かった分かった」
 ぽんぽんとイルカの頭を叩きながら綱手は背後に回った。こめかみに両手を添えて一呼吸置くと、静かに言った。
「力を抜いて目を閉じろ、イルカ。聞いたことは全て内緒にしてやるから、全部吐くんだよ」
「はは……ご遠慮なくどうぞ」
 そう答えた途端、イルカは前のめりに傾いだ。綱手の目線に答えてシズネが前からイルカの肩を押さえる。
「さて、始めるか。鍵は掛けたね?」
 頷くシズネにイルカの体を任せ、綱手は両手を組み長い印を切った。仄かに光り始めた手のひらを再度イルカのこめかみに押し当て、綱手もまた目を閉じた。
「……イルカ。おまえは今、どこにいる?」
 かくん、と首を右肩に倒し、イルカはゆっくりと口を開いた。
「家、に……います」



 数時間に渡る睡眠導術が終わった。ぐったりと座り込むイルカと腕組みをして窓の外を眺める綱手にシズネが茶を運んでくる。それを飲み干してもまだ、誰も口を開こうとしなかった。
 導術の間、イルカは遠くぼんやりとした風景を眺めるようにではあったが、何が起こっているかを理解していた。わんわんと鳴り響く木霊のような綱手の声に答えながら、昨夜の感覚を追体験し、恐怖に叫びもした。綱手の手のひらに慰めるように頬を撫でられ、少し泣いた。
 結論として、イルカが『体験した』と記憶している以上のものは出てこなかった。術の痕跡も暗示をかけられた疑いも無い。
「イルカ」
 いつも通りの迷いない声音が響き、イルカは湯飲みを置いた。里を見渡す綱手は険しい横顔を見せている。
「ともかくは、良かったな。無罪放免だ」
「はい……」
 確かにそうだが、漠然とした不安がイルカの喉を締める。
「アカデミーには連絡しておいた。今日は休みな。おまえの自宅には当分暗部を配備して警護にあたらせる。安心してヘソ出して寝るといい」
「いえ、そこまでして頂くのは、」
「うるさい、黙って守られていろ。これから先何があるか分からん状況なんだ。初めて出た成人の目撃者を失ってたまるか」
 里長の言葉にはっとしてイルカは顔を上げた。
「なぜ、俺だったんでしょうか」
「さあてね。通り魔みたいなものか……。敵は『群れ』ている。一匹二匹が軌道を外れたとしてもおかしくはないよ」
「はい……」
「あるいは、もっと原始的な……本能だけのものどもなのかもしれん」
「原始的、ですか」
「ああ。例えば、おまえにこびりついた子供の臭いに引き寄せられた、そういうことじゃないかと私は思っている」
「子供……」
「好むだろう、やつらは」
 不愉快さに眉を寄せ、しかしイルカは頷かざるを得なかった。子供を攫い、子供にだけ見える不可解なもの……。
「五代目、アカデミーにも警備の増強をお願い致します」
「なめるな。おまえの家に送るのはその余りだよ」
 ほっと肩の力を抜くイルカを振り返り、綱手は机に両手を突いた。
「アカデミーを閉鎖し、子供を表に出さないよう通告することも考えていた。が、おまえの話で考えが変わった」
「五代目」
「アレはおまえが張った結界をあっさり解いて侵入し、元通りに直して出て行ったんだろう、一度は。忍の家がそれじゃあ、一般の家庭に安全など求めようが無い。むしろ、忍が集まっているアカデミーはまだマシだと思わないかい?」
「……そうですね」
「おまえを襲ったということは、やつらは門をこじ開けただ里を通り抜けたかったのではない。まだ、いる。どこかに潜んで何かを待っているのか……。ともかく、すっきりしないのはおまえも私も同じだ。各方面に命じた調査もそろそろ終わる頃合だ、いつ何が起こっても対応出来るように心しておけ」
「はい……」
「声が小さいぞ、最初の勢いはどうしたんだい」
 からかう綱手に頭を掻き、イルカは執務室を後にした。行きよりも重くなった足を引きずるようにして自宅に戻り、ベッドに倒れこんだ。 
 ――どうすればいい……。
 足を重くさせていたのは疲労ではなかった。
 ――あれは、あの人だ……!
 今は確信が持てる。昨夜も恐怖と嫌悪のただ中で、イルカは見知った気配を感じていたのだ。それは随分と儚いもので、印象的に通りすがっただけの相手や大昔の記憶かもしれなかった。しかし、確かに知った気配をイルカは感じた。
 昨夜一度きりなら、おそらく思い出すことは無かっただろう。しかし、二度体験し記憶を揺さぶられたことで、イルカの脳は細い気配と人物を手繰り寄せ合致させた。
 何度、綱手の元に戻ろうと思っただろう。だが、憶測はいけないことだ、間違いなく大事になる。確証無しで言えるような性質の問題じゃない、そう自分を説得しながら家に戻り、ベッドに顔をうつ伏せる段になって確信していると気付いた。
 ――ああどうしよう、やっぱりあの人だ。
 涙が出てくる。綱手の前で泣いてしまったせいで涙腺が緩んでしまったのかもしれない。
「やだよ、信じられないよ」
 ――違う。信じたくないんだ。あの人が、あんな恐ろしいものに成り果てたと、俺が、信じたくないだけだ。
 枕でごしごしと顔を拭き、イルカは風呂場に向かった。乱暴に服を脱いで思い切り蛇口を開ける。痛いくらいのシャワーを浴びながらイルカはその場にしゃがみ込んだ。思い出したように腰に疼痛が走り、またイルカは泣いた。





 事態が転がり始めたのは、それから一週間ほど経った朝のことだった。
 アカデミーに出勤した途端、イルカは他の教師達と共に里全体の調査を命じられた。
「一般の里人に、異変が生じている」
 ざわめく教師達の前に立つのは、暗部尋問部隊のイビキだ。
「奇妙な言葉を口走りながら、夜通し徘徊するらしい。言っておくが、老若男女問わずだ」
「それは一体……」
 教師の一人が思わず呟く。
「分からん。昼間は何も変わりない様子らしい。ともかく、里を片端から洗って、徘徊している者を集めてくれ。決して害さないと家族に約束し、火影様の元へ連れて来い」
 確約するために渡せ、とイビキが机の上に乗せた大量の火影自筆のサインが入った誓約書をそれぞれ掴み、イルカ達は街へと散った。



「イルカー」
 振り返ると、ハツセが手を振っている。
「おう、どうだ?」
「四人集めた。家族も困ってるみたいでさ、火影様はご立派なお医者様だからどうぞよろしくってなもんよ」
「俺は三人。子供はかわいそうだったな」
「そうか……。でも、今回は大人が中心だな。どうなってるんだか。気味が悪くて仕方ない」
 こきこきと首を回し、ハツセは人ごみの中に消えた。彼の背を見送り、イルカもまた里人の間に埋没する。
 イビキの命が下って三日、徘徊する者達を集めるために里に降ろされる忍は日に日に増える。今日も、任務服が視界を横切るのを何度も見た。本来、下忍に与えられるような仕事であるが、子供への害を疑う綱手によって抑えがかかっている。
「あの、もし」
 思案するイルカの横に、腰の曲がった老婆が立っていた。
「忍の方が、夢遊病を探しておられると聞きましたがの」
「ああ、はい」
 自分も腰を曲げて老婆と目線を合わせ、イルカは頷いた。里人の多くは、この現象を夢遊病と考えているのだ。
「うちのせがれがアレでしてな。来ていただけますかのう」
「はい、是非」
 老婆のゆっくりとした歩みに合わせて細い路地を曲がり、屋根を重ねる住宅街に入る。緑色の、魚を模したような瓦を葺いた屋根を乗せた家を指差し、ここですわ、と老婆は言った。その指先に、四十絡みの男が見えた。
「母ちゃん、どこ行ってたんだ」
 男が走り寄って来た。隆々とした筋肉に覆われた肩に、土汚れの目立つタオルが掛けられている。
「忍の方に来ていただいたよ」
「止せって言ったじゃねえかよ」
 困ったように老母を見下ろし、男は人の好さそうな顔に苦笑を浮かべた。
「すいませんねえ、母ちゃん心配症で」
「いえ……。良かったらお話を聞かせて下さい」
 笑顔を返し、イルカは男を見た。健康そうな働き者に見える。
「なんでもないですよ。たぶんオレ、寝ぼけてたんでさあ」
「何言ってるんだい、昨日も一昨日も、一晩中いなかったよ。このままじゃあ、寝ぼけていつ足場から落っこちるかって心配でアタシまで眠れないわね」
 息子のズボンを掴んで揺する母親を好ましく眺め、イルカは少しだけ羨ましく思う。自分がこの『奇病』にかかったとして、気付いてくれる人はいないかもしれない。
「大工が足場っから落ちるわきゃあねえよ、母ちゃんは家で山芋でも煮て待ってろって」
「この馬鹿助が。なんとか言ってやって下さいな、忍の方」
 気を取り戻し、イルカは男に向き直った。
「『夢遊病』での徘徊は、本人は覚えていないんですよ。ご家族からの情報が全てなんです。お母さんが、あなたが夜出かけてしまうとおっしゃるなら、確かでしょう」
 いやあ、しかしなあ、と男はがりがりと頭を掻く。本人の説得が一番の難事業、イルカはやむなく懐から火影の誓約書を出した。
「お母さんを安心させてあげましょう。少しの時間で済みます、火影様に診ていただいて、何もなければそれで良し、ですよ」
 男は誓約書を難しい顔をして読み、母親に渡す。火影印を見つけ、彼女は紙をうやうやしく額辺りに捧げ持った。
「お頼み致します、忍の方。亭主亡くしてこの子まで取られたら、アタシャどうにもなりゃしません」
 苦い顔をしていた男も、母親の言葉に溜息を吐いてイルカに頭を下げた。
「そんじゃあ、お世話になります」
 はい、と明るく答えてイルカは誓約書に自分の名も書き込んだ。火影様に失礼が無いように、と手を振る老母を残し、二人は住宅街を出た。
「それにしても、まだ信じられねえなあ」
 しきりに首を傾げる男に笑い、イルカも口を合わす。
「ええ、俺にもあなたが病人だなんて思えません。それが今回流行っている『夢遊病』の特徴なんですよ」
「うーん……。近所のじいさんに聞いたら、心に重荷があると病気になって、夜あっちこっちほっつき歩くことがあるって言うんですわ。でもねえ、オレにゃあこれといった悩みもないんすよ。毎日楽しく暮らせるってのが、オレのイイところでね。今も幼稚園を改修してるんだが、子供らがここで遊ぶと思えばなんだか俺までわくわくしちまって」
「それはなかなか出来ないことですよ」
 そうかな、と男は少し嬉しそうにした。忍に褒められたと後で自慢するのかもしれないな、イルカはそう思って唇を緩める。
「そういやあ」
 火影の屋敷が見えてきたところで、男は立ち止まって腕組みをした。
「母ちゃんが、オレが夜っぴて出歩くようになったって言い始めた前の晩だったかなあ。まあその辺りなんですがね。夜中に鳥がうるさかったんですよ」
「鳥、ですか」
 イルカは慎重に男を観察しながら気軽そうに言った。
「おかしいでしょう、夜中に鳥なんざ。だから覚えてるんで。始めは虫か蛙かって思ってたんですがね。窓から黒い、カラスみてえなのが何羽か見えてね。カナカナっていうかキチキチっていうか、長く鳴いてましたわ」
「そうですか」
「ホラ、忍の方ってのは、動物をお使いになるって言うからね、そういうもんだったんですかねえ?」
「かもしれませんね。我々が使う動物は、本能を曲げて働いてくれるんです。夜に飛ぶ鳥もいるでしょう」
 ははあ、大したもんだと男は感心している。動悸を感じながら、イルカは火影宅の門番に男を渡し、『黒い鳥』を知っているかもしれないと耳打ちした。男は機嫌良さげにイルカに手を振り、屋敷の中に入って行った。



「ご協力ありがとうございました」

 最後の『夢遊病患者』を送り出しながら、シズネは綱手を振り返った。里長は執務室の真ん中で顎に手を置き、押し黙っている。
「綱手様」
「ご意見番を」
 呟くような言葉に頷き、シズネは静かに部屋を出た。
「遅すぎた、かもしれない」
 目を閉じ、綱手は古老を待った。こういう時間は長い。じりじりと爪を噛む。
「珍しいな、我らを呼ぶなど」
 するりと現れた二人に目礼し、綱手は机の上から書面を取り上げコハルに手渡した。
「これは!」
「ご存知ですか」
 眼鏡に手をやりながらホムラが頷く。
「なんとまあ、死に果てたような古術……」
「ワシらとて、実際に目にしたことはないな」
 しきりに瞬きするホムラの横で、顔を歪めたコハルが綱手を見上げる。
「どうやって聞き出した? まさか一般の里人に導術を?」
「かつて忍を目指し、下忍になってすぐに引退した者がおりました。役に立てればと協力を申し出てくれましたので」
「そうか」
 二人が覗き込んでいる紙には、童歌に似た文言が書き留められていた。夜間徘徊する者達が、口ずさんでいるものだった。
「どういった術か、お分かりか」
「うむ……」
 腰の後ろで手を組み、コハルは爪先を見ながら言う。
「術者の思念のみを頼りに道を引き、それを塗り固めて消えぬようにした、と言えば良いかの」
「意味がよく……」
「無理もないな。今では忍と言えば術、術と言えば印。しかし、チャクラを印によって高め術を発動する、という技術が開発されたのは、それほど昔の話ではないのだ。初代が里を開く僅か前だろう、今の形の基礎が作られたのは」
「忍の原型は印を用いなかったという話は学んだ覚えがありますが」
「うむ。その忍の原型は、強い意志や思念をそのまま術とした。今で言うならば幻術が最も近かろう。印を用いないということは、チャクラをそのまま術とすること。それがどれほどの力を必要とするか、おまえなら分かるであろう。当時の術者が今の幻術を使いこなせたとしたならば、我らには想像もつかぬような強大な術を成すだろうな」
 頭を何度も横に振り、コハルは紙を机に置いた。眼鏡をきつく鼻に押し付けながら、ホムラが後を引き取る。
「この術は、結界に包まれた場所に侵入経路を作る術だ。通常は異常の無い空間であるが、術者が実際に通ることでチャクラに反応し道が出来る。そのために内部の者が気付きにくい。気付いたとて、術者がいなければ発動せぬから解除もならぬ」
「……具体的には?」
「一度、何らかの方法で術者が通り、臭いのように思念を残す。あの、門の破壊の際に、門ではなく他の場所から侵入したのではなかろうか。一瞬でも入って出れば、後に何度でも出入り可能な入り口が出来る。そして夜、通り抜けて道状に思念を残したのだ。里人は、そのままではいずれ消える思念を固定するために使われたのだろう。内部の者にこの文言を唱えさせながら何度も思念を辿らせて固定するのだ」
「では、里には今、道とやらが出来ていると?」
「そのようだ」
 しかし、と綱手は古老を振り返る。冷たい汗がこめかみをつたっていく。
「一般の里人を使って文言を唱えたところで彼らに力などない。大したものは出来ていないと見てよろしいか」
「ツナデ」
 コハルは俯いたまま、苦々しく溜息を吐いた。
「確かに一般の里人には何の力もない。しかし、中の者が外の者を招く、それが最も有効な結界崩壊術であろう?」
 ぐっと唇を噛む綱手の背中を叩き、ホムラが紙を焼く。白い灰がひらひらと舞い、綱手の青白い面を横切っていく。
「ヤツラは招かれた。近く、主たる者が来るぞ」
「主たる者……!」
 くそ、と吐き捨てて綱手は顔を上げた。
「シズネ! 残っている暗部を全て掻き集めろ!」






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