「なんてことだ……」
ゴオウの治療を終え、門周辺を調査した報告書を読んだ綱手が漏らした第一声を聞いたのはシズネだった。
「綱手様……」
目を片手で覆い、綱手は執務室の椅子にどさりと座り込む。長い髪をいらいらと纏めては投げ、シズネが差し出す茶を手に取るが、口に運ぶことなくじっと見つめる。
「術の痕跡は無かったと、医療班は報告していたのですが」
「ああ、あれじゃあ見つからないよ」
「どういうものだったのですか」
ふう、と溜息が湯飲みから立ち上る湯気を揺らす。
「術じゃない、暗示だ」
「暗示……」
「発動のきっかけは音や特定の物体を見ること、何でもいい。里に入らずとも、門の側にそれを仕掛けておけば済む。……チトセは忍の子だった。おそらくは催眠術によって、もうすぐ父親が任務を終えて戻ると吐かされたのだろう。それを利用し、門まで迎えに行くように、更には起爆系の印を切るように仕込んだのだろうな」
「……酷い、あんな小さい子に」
「だからだよ」
ぎ、と椅子を鳴らして綱手は立ち上がった。窓から里を眺め、目を眇める。
「大人の誘拐ならば、尋問部が深い催眠導術を使ってあらゆる角度から何を吐かされたかを調査する。しかし子供の持っている里の情報など気にするほどのものではない。そこを突かれた」
綱手の握る窓の桟が、ぎしりと音を立てた。労わるようにシズネが寄り添う。
「皆、よくやってくれた。あの騒動に紛れた侵入者はいなかった。もっとも、風ばかりで何の気配も無かったようだが」
「では、なぜ門を?」
「分からないね。直接襲うつもりはない、ということか」
「……なぜでしょうか、今ぞっとしました、私」
「私もだ」
綱手は睨むように窓の外を凝視している。
その夜、何かが里を『通り抜けた』。
音も無く静かに、しかし、強烈な波動が里の中央を一閃したのだ。目撃したのは子供、大人の証言は無かった。
黒い鳥の群れ。
子供は一様にそう言った。あらゆる警備を強化した中での出来事に、火影は柳眉を歪めて唇を噛んだ。
「必ず、尻尾を掴んでやる……!」
何かを探すように月の輝く空を見上げる綱手に、声を掛けられる者はいなかった。
門の破壊から十日程経ち、里は一見平穏を保っていた。が、五代目は執務室に篭って受付所に顔を見せなくなった。空いた席を横目に、イルカは両手を顎の下で組んで午後の受付所を眺める。
あの破壊の直後、処理班と暗部が門の周囲を徹底的に洗った。その結果見つかったものは、チトセの小さな指をしっかりと掴んだ、ササギの右腕だけだった。チトセが発動させた術は単なる爆破を目的とするものでは無く、術者そのものを爆薬に変える珍しい禁術であったため、二人の遺品はそれ以外には見つからなかった。
惨い。
イルカは瞠目し、胸の奥に押し込めた重いしこりを意識する。イルカだけではない。教師達は誰もが激怒し、感情と戦いながら過ごしていた。
もちろん、火影の行動は素早かった。キンカとオウギ、連れ去りの現場にいたヒカリとナナセは医療班によって再度の検査を受けた。子供には過酷な催眠導術が慎重に施され、目撃した物と自白の全てが明らかになった。しかし、視覚的な記憶は案の定幻術によって操作されており、自白の内容も普段の生活を問われただけで、新しい情報は一切出てこなかった。
繊細なキンカは、自分も爆発するのではと夜も眠れずに怯えていると聞く。進展の無さ、四人の子に残された心の傷、そして不安を訴えるアカデミーの生徒達。教師達はぎりぎりと歯噛みしながら、必死の笑顔で勤めを続けている。
「時間よ、イルカ」
深夜番のカノコが悲しげな笑顔で入ってきた。彼女は年少くのいち組の担任で、チトセを最も良く知っていた教師だ。チトセの最後の叫びが『ごめんなさい』であったと生き残った門番に聞き、床に倒れて号泣した姿が未だイルカの目に焼き付いている。
「ああ……。日暮れが早くなったな」
「嘘みたいに暑さがひいたわね」
それは教師達だけの体感かもしれない。恨みたくなるほどに力強かった太陽は、今はおぼろに霞んで見える。
「変わったことは無かった。後を頼むな」
「うん。お疲れ様」
手を振り合って受付所を出る。彼女の重い溜息が閉まる扉の隙間から漏れ聞こえ、イルカもまた深い呼吸を繰り返した。
夕暮れの道は、橙に染まっていた。空にたなびく雲は紫に変じ、太陽の周りをたゆたっている。イルカの長い影が、若いすすきの影と混じり合いながら持ち主の先を行く。
――黒い、鳥。
その言葉が、常にイルカの思考に絡み付くようになったのはいつからだろう。もちろん、他の忍とて同様に頭を悩ませているのは知っている。里を抜けていった鳥の群れ。子供だけに見えた、不吉で不可解な現象。
――マントとかかもしんない。
ナナセの言葉が蘇る。
――サンダルはいてたし。
身震いをし、イルカは無意味に背後を振り返った。太陽は地平を舐め、山際が妙に白く光っている。
あの暗部 黒い外套 面を彩る 銀の光
馬鹿馬鹿しい。イルカは頭を振り、大股で歩き始めた。馬鹿馬鹿しい、あんな外套、暗部なら誰だって持っている。忍だけがサンダルを履くわけでもない。あの日、たまたま思い出していたから、記憶が被ってしまっただけだ。あの人は、身も心も大した忍だったじゃないか。二度も助けてもらったくせに、ずっと忘れられないくせに、疑うというのか?
それでも、イルカの胸の底に溜まった疑いにはある程度の根拠があった。禁術、巧妙な作戦、そして狙いは里への侵入。忍が絡んでいるのには間違いが無く、高等な術者―暗部―を容易に想像させる。そしてこの数ヶ月、猫背の男は受付に現れない。
「ふん、そんなこと、五代目だって予想済みだ。ちゃんと調べて下さっている」
声に出して言い、気持ち悪い思考を頭から追い払おうとする。怒ったようにがつがつと歩いて自宅に帰り着くと、真っ先に冷蔵庫を開けた。
「よし、食うぞ! いい加減な飯ばっかりだったから、体力落ちておかしいこと考えるんだ。そうだ、食って食って、明日っからも全開で働けイルカ!」
手に持ったトマトを潰しながら、イルカは勢いよく蛇口をひねった。
――風の音?
真夜中に目を覚ましたイルカが最初に思ったのは、窓を閉め忘れたのではないかということだった。野原を渡る風のような、遠い潮騒のような、聞き流してしまいそうになる心地良い雑音がどこからか聞こえる。
半覚醒の状態で、イルカはしばらくその音を聞いた。ざざざ、ざざあ、幾度となく繰り返される単調でいて飽きないそれは、幼い日の出来事がふっと甦りそうな、むずむずとした予感を駆り立てた。
ざざ、ざああ、再び眠りに引き込まれかけた時、ぱちりと小さな音がした。
家鳴り。これからの季節の音。
びくり、とイルカの爪先が突っ張った。
――違う、違う、あれは。
体が先に反応する。なぜこんなに意識が。まとまらない。潮騒、家鳴り。
「あ」
呼吸が止まった。イメージが全身を硬直させる。崖を踏み外して落下する、落ちる、落ちる! 空回る足、耳元までせり上がってくる鼓動。
「――!」
ばっと上半身を起こし、イルカは叫びの形に口を開けた。しかし声は出ない。いや、起きたという感覚だけで目に映っているのは薄暗い天井だ。天井? 違う、また違っている、何も見えない!
「動くな」
たった一言にイルカは戦慄した。止めようがない恐怖が冷水のように肌を冷やす。パニックのあまりにもがくことも出来ず、イルカは硬直した。
「死にたくなければ、動くな」
ひたひたと部屋に広がる闇が、イルカの上に乗り上げていた。ずるりとその一部が移動し、見えない何かが眼前に迫るのを『視る』。それは喉の辺りに留まり、イルカの抵抗の全てを封じた。
「な、に」
ゆっくりとシャツが捲れ上がる。露出する肌に何かが這う。冷たくも温かくも無い、触感だけを与えるもの。
「ひ、」
死ぬ。確信し、イルカは恐怖した。『これ』に殺される、今、俺は死ぬ! 確信した途端、火花が散るほどの速さで思考が回り始めた。
そうだ、あれは家鳴りではない、結界が切れた音だ。窓と扉に仕掛けておいた。この状況下で窓を開け放して眠るほど自分は愚かではない。視覚の不明瞭さも異常な『これ』の感触も幻術だ。
忍がいる。この部屋に忍がいて、俺を殺そうとしているのだ。恐怖を突き抜けたところにある、異様な冷静さが命じるままに目を閉じた。指一本動かない体を受け入れ、一カ所だけに集中する。ゆっくりと唇を犬歯の下に引き寄せる。じりじりと顎骨に力を込め、最後は気力で歯を噛み合わせた。
「か、い」
切れた唇から滲む血を言霊の後ろ盾とし、イルカはからからの喉を辛うじて震わせた。瞬間、ざざざ、とあの音が体の周りから沸き上がり、同時に視力が戻ってきた。ひくり、と指先に力が戻り、渾身の力で両手を合わる。
「解……!」
印と共にイルカは見えない闇を凝視した。引き潮の音が部屋に充満し、喉を押さえ付けていた何かがずるりと闇に戻る。
「何者、だ……!」
痺れる腕を懸命に突っ張る。闇が逃げていく、闇が。がく、と再び落下の感覚が襲い、イルカは目を見開いた。
「あ……?」
しんと静まった部屋は、見知った穏やかな夜に包まれている。全身に汗をかき、イルカは左右に顔を動かした。
「何、だったんだ……」
気配のかけらも残ってはいなかった。そろり、と足を動かせばベッドが小さく鳴る。まだ動悸が続いている胸を押さえながら、イルカはベッドから降りた。
――確かに何かがいた。
一歩一歩、自分の居所を確かめるように、慎重な動きで窓に近づいた。
「……切れていない」
結界は無事だった。クリーム色のカーテンを開け、表を窺う。いつもと変わりない夜だ。切り落とした爪のような細い月が、自信なげに輝いている。
「夢、だった、のか?」
カーテンを握りイルカは眉を寄せた。背中を汗が伝っていく。何度か深く呼吸をしてからイルカは結界を解き、窓を開けた。
澱んだ空気が風にかき回され、イルカの髪を撫でる。神経過敏になっているのかもしれない。戦場ならばともかく、守るべき、そして穏やかであるべき里が、終わりの見えない緊張状態に陥っているのだから。
ぽつぽつと見え隠れする宵っ張りの灯りを眺め、イルカは首筋に張り付いた髪を両手でまとめた。水でも浴びるかと窓を閉めようとした時、何かが視界の端に引っかかった。向かいの民家の屋根に、一羽の鳥がいるように見えた。
――鳥? こんな真夜中に。
違和感を感じて窓を開け直した。しかし、見えたように思った鳥は、屋根のどこにもいない。やはり過敏になっている、苦笑して俯いた視線の先、重なり合った民家の屋根の影が、ごそりと動いた。
理解するよりも早く、全身が総毛立つ。影はイルカに向き直って屋根から舞い上がった。
――黒い、鳥。
浮かんだ思考はそれだけ、イルカは呆然と『それ』を見た。いや、黒ではない。周りの色を吸い込み尽くしたその色は、闇。後退ったイルカの前に『それ』は音無く着地した。
――やはりあれは、夢ではなかった……!
しかし、もう遅かった。煙るように闇を纏ったものがずるっと動く。背後で窓がゆっくりと閉じた。
――吐きそうだ……!
恐怖に続いてイルカを支配したものは、嫌悪だった。ずるずると這う闇を目にしているだけで、内臓を掻き回され脳を崩されるイメージに襲われる。幻術というレベルではなかった。眩暈がするほどの嫌悪に喘ぎ、しかし『それ』から目を逸らすことができない。
離れろ 逃げろ 離れろ 逃げろ
『それ』が里を害するものであろうとなかろうと、最早どうでもいいとすら思った。忍である誇りも里への忠誠も忘れ、本能の声だけがイルカの脳を支配する。離れろ、逃げろ、おまえが命あるものならばそれを嫌悪せよ!
動物に成り果てた無様な動きでイルカは『それ』から背を向けた。途端に膝が崩れて床に転がる。強張った足は使い物にならなくなっていた。
「あ、あ、」
イルカは芋虫のようにもがいた。泥の中を泳ぐようだった。進まない、どこにも行けない、絶望的な思考に涙が溢れてくる。
「あ、ああ!」
足首に何かが絡んだ。温かくも冷たくもない、ぬるりとした感触。声にならない潰れた悲鳴が喉を圧迫する。
「い、や、だ、」
ぬめったものは蔦のように絡まりながら、徐々にイルカの全身を覆っていく。服が剥ぎ取られ『それ』が肌に直接触れた瞬間、イルカは失神した。正気を守るための精神の抵抗だったが、それすら長くは続かない。本能がイルカの神経を揺さ振りねじり上げ、痙攣しながらイルカは意識を取り戻した。
「ひ、あ、あ、」
一枚の湿った布のように闇はイルカを覆った。恐怖と嫌悪に涙を流し、がくがくと震えるイルカの全身を包んだ闇は、愛撫するように波打つ。
「ああ、あ、あああ」
床に爪を立ててイルカは喘いだ。闇の一部が、闇そのものが、後腔からイルカの中に侵入しようとしていた。
「ぐ、あ……」
押し広げられる感触、イルカは断末魔のうめきを漏らした。ぐぶ、と肉の音が聞こえる。闇に粘膜をめくられ内臓を圧迫され、神経が焼き切れたようにイルカは脱力した。自分の呼吸音が酷く大きく聞こえる。
「はあ、はあ、ああ」
闇に犯されている。いや、これが『死』なのかもしれない。断続的な痙攣がイルカを襲う。粘膜の中で闇は身を捩り歓喜するように跳ねる。強烈な熱さを感じながら痙攣を繰り返し、やがてイルカは嬌声を漏らし始めた。圧倒的だった恐怖と嫌悪が急に遠くなり、快感が腹の底から沸き上がってきた。
最後の、精神の足掻きだった。
耐え難い絶望からイルカを救うため、全感覚が快楽を貪欲に感知する。粘膜の中で闇が動く度に射精感が襲い、強烈な光のように快感が全身を刺す。イルカは身悶えながら腰を揺らめかした。
「は、ああ、あ、ふ、ああっ!」
涙と混じりながら唾液が頬を伝う。粟だった肌は敏感になり、ぬめりながら絡まる闇の感触が完全に快感に変わる。
「は、はあ、ああう、ふう、あ、あっ! あ、い、」
びくりと大きく腰を揺らしてイルカは射精した。しかし闇の動きは止まらない。体内で暴れる凶暴な快感に新しい涙を流し、イルカの唇は笑みの形に歪んだ。連続して押し寄せる射精感に細い笑い声を漏らしながら、イルカは意識を失った。
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