闇と眠る 4

 抜け忍の討伐と捕虜の確保が完了し、任務はほぼ終了した。翌日には嘘のように毒が抜けたイルカは、抜け忍達が残した数多のトラップを処理するため、しばらく戦闘地域だった森に留まっていた。
 二度臥せってしまったことで、また何らかの嫌がらせがあるかもしれないと覚悟したイルカだったが、倒したハクトが抜け忍集団のサブリーダーだったと調査班が知らせてきたためか、何事も起こらなかった。
 森を徘徊し起爆札や透明な糸を処理しながら数日を過ごした。撤収の命を受けたのは夜、少し迷ったが無理はしない方がいいと野営を決めた。 小さな天幕を古木の根元に張り、味気ない干し肉と固めて乾燥させた蒸し米を齧って藍色の空を眺めた。
「色々あったなあ……」
 思わず声になった。
「二回も助けられちまったな」
 本当に命を救われた。あの、とてつもない忍に。
 あの時、頭上を通り過ぎて行ったのは、あの暗部だ。その前日に感じ取った棘のようなチャクラとは異なる、全てを奪い去るような気配。
 ――自分が動物だって、思い知った……
 生き物の本能を揺さ振り恐怖を引き摺り出す、そんなチャクラだった。忍なら、彼を心底恐れながらも憧れずにはいられないだろう。火を消し、天幕に潜り込みながらイルカはあの白い面を思った。
 きっとあれは犬ではなく、狐だ。
 九尾を連想させる忌むべきものとされる狐。それを模した面を堂々と顔に乗せ、彼は戦っている。闇そのもののようなチャクラを纏って。
「あの人らしい、のかもなあ」
 人となりを知っているわけでもないのに、なぜか納得が胸に落ちる。ふっと笑い、イルカは引き攣れている腕の傷を触った。また、礼が言えなかった。

「アレ、有効?」

 ひい、と息を止め、イルカは硬直した。
「アンタさ、いつでも無防備に寝てるよね」
 今度は跳び退る広さなど無い。ましてや、いきなり腹の上に座られれば。
「あっ! あああ、あの?」
「コンバンハ」
 こここんばんは、と答えるだけで精一杯、イルカは硬直したまま男を見上げた。
「丈夫だね。ちょっと前に死にかけてたとは思えない」
「そ、それだけがとりえです」
 ふーんと言い、白い面が近づく。
「アレ、有効?」
 最初の言葉を繰り返す男にぎこちなく首を傾げる。
「ど、どれですか」
「させてくれるって言ったでしょ」
 は、とイルカは目を見開いた。そう言えば、必死の余りに可笑しな賭けに出たような……。
「まさか……」
「そう、それそれ」
「したいんですか、俺と!」
「そんな大声出さなくても」
 くっく、と喉の奥で笑い、彼は手を伸ばした。ぎょっとするイルカの顔の横を通り、何かを掴んで戻ってくる。
「かわいそうだから、見えなくしてあげる」
 彼が拾ってくれた額当てが迫ってくる。何か象徴的に感じて反応が遅れ、あっという間に視界は塞がれた。ころん、と軽い音が耳の側で聞こえ、面を外したと悟って急にイルカは焦った。
「あの、あの!」
「嫌? だったら止める」
「え? 嫌、かな? じゃなくて!」
「はは、嫌じゃないんだ?」
 楽しげに笑う男の手が、ぐいっと腹に潜り込んで服をずり上げる。胸が外気に触れ、イルカはびくりと体を揺らした。長い指と手のひらが、筋肉を押し上げるようにして胸を滑っていく。
「うわ、本気ですか!」
「本気本気」
「信じられねえ、なんでこんな違うんだよ!」
 あわあわと抵抗して腕を振るが、簡単に捕まえられて頭上に留め置かれる。
「違うって? 何が?」
「え」
 するり、と指先がイルカの頬を撫でた。存外に優しい感触に言葉を失っていると、するっとベルトが抜かれた。
「うわーうわーうわー!」
「嫌じゃないっぽいからヤっちゃうよ」
「嫌って言えば止めてくれるんですか!」
「うん。言いなよ?」
 臍に指が触れ、くすぐるようにくぼみを押してから下っていく。生え際をいじる軽い感触に身を縮め、イルカは迷った。迷い、何も言わないことにした。 嫌だと言って、止めてくれなかったら悲しいじゃないか。
「大人しくなっちゃった」
 どうしたの、と面白そうに呟いて指を下らせていく男の気配に意識を凝らし、イルカはそっと溜息を吐いた。あの、壮絶なチャクラはどこにいったのだろう。べったりと腹の上に座っているにも関わらずこんなにも軽い体の中になんて、そもそも入っていないんじゃないか。……性格も軽そうだし。
「ん? 何かショック受けてる?」
 根元に絡もうとしていた指が離れた。
「ごめーんね。冗談」
 静かに彼はイルカの上から体を退けた。あれ、とイルカが言えば、また楽しげに笑った。
「俺、任務終わりなのよ。明日にも里に帰れるのに、骨っぽい男の中忍抱くわけないって」
「……骨っぽくてすいませんね」
 むっとしながらイルカはごそごそと衣服を直した。
「別に骨でもいいけどね」
 再び面を付けたらしく、ほんの少しくぐもった声が耳の側で聞こえた。
「ま、二度も死にかけた中忍くんが、気配垂れ流しで一人寝なんて、絡みたくもなるってこと」
 う、と口を噤み、イルカは顔に血を上らせた。確かに恥ずかしいことだった。
「とは言え、俺も疲れた」
 ふーと大仰に息の音を聞かせ、彼は横になった。
「少しだけ、ここで寝かせて」
 あ、はい、とイルカは目を覆っている額当てを外して身を起こした。彼は本当に疲れている。体温が以前より高い。
「俺、外に出ています」
「平気だよ、何か来たら起きるから」
「見張りじゃないです、こんな狭いところじゃ、」
「いいよこのままで」
 同時に腕が腹に絡んだ。うわあ、と情けない声を上げるイルカを無理やり抱き込み、男は体の力を抜いた。
「おやすみ」
 見事というべきか、それから数呼吸ほどで彼は眠ってしまった。神経を研ぎ澄ませている忍が戦場で眠るには、それなりの技術が必要だ。この男は、眠るために他人を側に置く必要があるのだろうか。彼の、暗部としての生き様をまざまざと教えられたように感じて、イルカは眉を下げた。
「本当に、ありがとうございました……」
 腹に巻きついている手をそっと両手で包み、イルカは目を閉じた。そして案の定、目覚めた時には男の姿はなかった。
 またまともに礼を言えなかったことが心残りだが、そういうやり方が彼には似合う、イルカはそう思った。

 イルカが狐面の暗部を見たのは、それが最後となった。






 いや、違う。
 イルカは視線を遠く漂わせながら、窓縁に頬杖を突いた。あの暗部のことを思い出す時、必ず浮かぶもう一つの顔がある。
 今は里を離れている教え子を通し、知り合った男。声、会話の間合い、髪の色、分からぬはずはない。しかし彼は、イルカが過去に触れようとする度に無機質な目を向ける。無言でイルカを諌めるのだ、何も言うな、と。
 なのに、同じことをした。二月ほど前、偶然道端で出会い世間話をした時に、ゴミが、とイルカの髪を触った。耳の後ろを撫で、束ねた髪をちりりと弾いてイルカの顔を覗き込んだのだ。
 ありがとうございます、そう言って笑うしかなかったイルカに目を細め、去って行った男の僅かに曲がった背中。
 どうしろと、言うのか。



 どんどんと扉を叩く音に我に帰り、イルカは慌てて戸口に走った。
「すぐにアカデミーに来い!」
 教師仲間の男だった。息を切らしている。彼の背後に、断末魔の悲鳴のような長い雲を従えて、夕日が赤々と燃えていた。
「どうしたんだ、直接来るなんて珍しいな」
「探してたんだよ、そんで近くを通ったから」
「探してたって、何を?」
「チトセとキンカ、オウギだ」
 一番小さいアカデミー生の名前を聞き、イルカは唇を引き締めた。
「午後の授業の後、すぐに帰らせたよな」
「ああ、でも戻らないって親から連絡があった。どうやらヤバイことになったらしい」
「ヤバイって……」
「黒い鳥が連れて行ったって言い出した子がいるんだ」
「何だよそれ」
 笑おうとするイルカを、同僚の真剣な顔が止める。
「とにかくアカデミーに行ってくれ! 俺はこの辺の教師何人かに声をかける!」
 言うなり跳躍して消えた男の立っていた場所をしばし見つめ、イルカはざわつく胸を押さえながら部屋の中に駆け込んだ。
 ――ナルトの時と、似ている。
 幾つかの忍具を身に付け、汗で緩んだ額当てをきつく締め直すと、イルカもまた跳躍した。







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