闇と眠る 2

 暗闇の中、イルカは天幕の中で何度目か分からない寝返りを打った。
 通常ならば五、六人の雑魚寝の天幕が宛われるのだが、今イルカに与えられているのは一人用の医療用の天幕だ。医療忍者が考案した特殊な布を使っており、傷の治りが早くなる。昨夜から大人しく横になっているため、イルカはほぼ全快していた。
 任務は中盤に差し掛かっており、明日は大掛かりな捕り物になるだろう。回復した体に安堵しながら、イルカは天幕の隙間から差し込む月の光を見つめた。あの男の髪の色に似ている。
 明日の作戦には、近隣で任務を終えた暗部が参加してくれるかもしれない、そう部隊長は言っていた。彼だろうか。彼であって欲しい。もう一度会い、礼を言いたい。
「申し訳無いこと、言ったもんなあ……」
 あの若い暗部はぶっきらぼうだったが、純粋にイルカを助けようとしてくれた。それを、体目的だと見なして失礼な態度を取った。そもそも自分の体は私刑はともかく、人を誘うようなものではない。思い出すにつけて、焦れるような自己嫌悪が腹辺りから沸き上がり、眠りは訪れてくれなかった。
 暗部の素顔は一般の忍には知れないから、おそらくこの先会うことは叶わないだろう。望みがあるとすれば明日だけだ。作戦よりも気になってしまい、イルカの目は一層冴えていく。
「ああもう、眠れよ俺……。これ以上無様は晒せないぞ」
 私刑の痛みを思い出して身震いをした時だった。
「……? なんだ」
 説明の付かない気配が低く流れている。イルカは息を潜めて起きあがった。仲間の声が聞こえる。緊迫していながら、笑っているようにも聞こえるその声に首を傾げ、イルカはそっと天幕の布を左右に分け、指一本分の隙間から表を窺った。
「……ません、よく分からなくて」
「気にするような者じゃ……」
 灯りを落とした天幕が集まったこの窪地は暗い。イルカは目を凝らして声のする方向を見つめた。
「……じゃないよ、いいから出せ」
 彼だ。あの暗部の声だ。
 しかし、男の気配は一昨日とはまるで異なっていた。イルカの天幕まで流れてくる明らかな殺気。ざわ、と仲間達のチャクラが揺れた。
「なんだ、どうした」
 太く割って入るのは総部隊長だ。ほっとしたような気配が流れる。目を凝らして天幕の隙間に顔をくっつけると、暗い塊とそれを囲む数人の仲間、そして大きな部隊長の影が見えた。
「明日、合流する前に掃除に来た」
 威嚇するような低い声で彼は言った。
「掃除? 間に合ってるが」
「どこが?」
 獣のうなりに似た声に、仲間達が徐々に後ずさりしている。
 イルカは逆に天幕から抜け出た。近付く度に男の威圧が強まっていく。
「任務途中で私刑、その挙げ句に仲間の尻に泥ねじ込んで捨ててくる。俺は、そういうバカとは組めないんだーよ」
「……なるほどな」
「出しなよ、そいつら」
「残念だが、俺は知らん」
「じゃあ、あの子呼んで」
「寝ている。明日の先発隊だからな」
「……俺、明日は参加しない」
 ぬるり、と影の柱が地から突き出るような動きで、暗部は低い姿勢から立ち上がった。
「勘弁してくれよ、おまえがいないと苦戦は必至だ」
「苦戦だろうが負けなきゃいい。あんたなら出来るよ」
 彼は吐き捨てるように言い、背を向けた。待て、と部隊長が手を伸ばした時には木々の間に溶けるように消えた。
「全く、ややこしいことに……」
 額に手をやって部隊長は天を仰いだ。

 参った。
 イルカも嘆息し、そっと辺りを見回しながらその場を離れた。暗部が語ったものは、あの沼での出来事だとすぐに分かった。もう大丈夫だからと割って入るつもりだったが、彼と、彼に引きずられるように殺気を纏う部隊長の気配は重く、別の天幕の影でイルカはじっと固まっていただけだった。
 しかし、このまま怯えて済ますわけにはいかない。せっかくの暗部参戦を、自分のために潰してはならない。無駄と知りながら彼の姿を木立に間に探してイルカは忙しなく視線を動かした。
 あの、棘を脳で感じるならそうなるだろうという、厳しいチャクラ。僅かにでも漏れれば見逃しはしない。生温い風にじっとりと汗が滲むまでイルカは暗部を探したが、結局彼のチャクラはイルカの神経にぴくりとも触れなかった。忘れがたい激烈な気配を一瞬で身に沈めて去った男にある意味敬服しながら、イルカはしおしおと元の天幕に戻り体を横たえた。
「……ふう」
 思い切り溜息を吐きながらも、イルカはどこか喜んでいる自分の心に苦笑した。彼の言葉が嬉しかった。自分のために怒ってくれたからではなく、自分が彼の立場なら、きっと同じように激怒しただろうと思うからだ。確かに自分はミスをした。しかし、ぎりぎりの人数で遂行中の任務において、いなくても良い、という程無能な忍ではない。下手をすれば敗血症を起こして死にかねない私刑など、里でやれば良いのだ。
 客観的に振り返りながらも、身に迫っていたらしい死を感じて体を震わせた時だった。

「忘れ物」

 ひ、と振り返った目の前に、しゃがんだ格好であの男がいた。ぬっと突き出された手を思い切り避け、イルカは天幕の端まで跳び下がった。
「……元気そーね」 
 跳ね上がった鼓動を手で胸の上から押さえ付けながら起きあがれば、男は持った物を軽く振り、笑う気配を漏らした。
「アンタ戦忍に向いてなさそう」
「あの、えっ?」
「コレ。要るんでしょ」
 乱れた息を整えながら、イルカは男が差し出す物を見つめた。
「あっ」
 額当てだった。慌てて膝でにじって男に近寄る。
「す、すみません、すっかり忘れて……」
「拾ってあげたのに」
「すみません!」
「洗ってあげたのに」
「うわあすみませんすみません!」
 両手で受け取り、恐る恐る男を見た。今夜も黒い布で体を覆う彼は、暗い天幕の中で夜と同化していた。その澱むような暗さの中に白々と浮かぶ面。
「体は? 明日戦える?」
 面を少し傾けて、まだ笑っているらしい息遣いで男は言った。
「は、はい、おかげさまで……。あの、あの時は本当にありがとうございました!」
 勢いよく頭を下げると、男は少し顔を仰け反らせた。
「んー、アンタ元気良いタイプ? ふうん」
 なんとも答え難い言葉を漏らし、面越しの視線がじっとイルカを見つめる。
「ええと? あの、そうだ、あの時、失礼なことを言ってしまって……」
「俺、そろそろ行かないと」
 唐突に会話を切り、男はするりとイルカから離れた。先ほど表で見た時と同じく、地から滑り出るような動きだった。
「あっ、あの、明日、」
「まあがんばって」
「待って下さい!」
 闇雲に両手を伸ばしてすがった。ちょっと、と男は呟き、イルカは彼のどこかを掴みながら狭い天幕の床に転がった。
「……なんなの」
「お願いします!」
 男にしがみついてイルカは言った。
「明日、俺達に助力を……!」
 頬に冷たい小手が当たっている。特殊な形状のそれは、防具よりも武器に近い。少し彼が力を入れれば簡単に肉が裂けるだろう。イルカはあえてその冷たさを顔に受けた。
「……」
「お願いします、中忍が多いんです。出来るヤツとそうでないヤツの差が大きくて……。どっちにしろ待機時間が長かったせいで皆いらついています。どんなヘマをやらかすか分からない。でも、暗部がついてくれると分かれば心強くなれるはずです」
「……」
「お願いします!」
 僅か、男が身じろぎした。小手に顔を伏せたまま、イルカは男の言葉を待った。
「アンタさ」
 襟足をぐいっと掴まれ、そのまま床に投げられる。顔を上げようとすると、ひたり、と喉に手が置かれた。手甲の硬い感触が正確に急所の上に乗り、イルカは静かに唾を飲み込んだ。
「馬鹿? ね、馬鹿なんでしょアンタ」
「よ、よく、言われます……」
「だよね」
 そのまま男は固まったようにイルカを見下ろしている。白い面の上、血を刷いたような筋が朧に見える。男の人差し指が動き、イルカの声帯をくるりとなぞった。
「俺は、仲間をぞんざいに扱う奴が嫌いなんだよ」
 男は言い、イルカは瞬きで答える。
「全く」
 イルカの顔の真横にあった、男の右手が動いた。こめかみから耳の後ろへと流れた指はうなじで止まり、ひっつめてある髪束をちりりと引っ掻いた。
「ヤラれた本人が言うかね」
 ちりちりと髪を鳴らしながら、指がうなじを行き来する。時折髪の中に潜っては、くすぐるように曲がり地肌を引っ掻く。男に殺気は無く、ほぼ真逆の気配が指先から伝わってきた。
「……あの」
 面に空いた穴から僅かに光って見える男の目を見つめ、イルカはぎこちなく唇を動かした。
「します、か? 俺と」
「ん?」
「それで機嫌直してもらえるなら……いいです」
 く、と男は息を漏らし、イルカの上から身を引いた。皮膚から離れる瞬間、指は粘着質にイルカの声帯を押していった。
「馬鹿にも程がある」
「……すみません」
 するりと闇ごと動き、男は天幕の布に手を掛けた。
 勝つ見込みのない博打に案の定負けた。イルカは起き上がり、笑おうとして失敗した。
「じゃあね」
 男が天幕の布を捲る。引き裂かれたような細い隙間から、糸のように月光がイルカの頬を射した。暗さに慣れた目を瞬くと、男もまた長い指を目の辺りに翳して俯くような仕草をした。
「……ご武運を」
 振り返った男の、月に照らされた耳の形が割れたガラスを思わせた。温度を視覚で感じさせるような、『忍』というものを体現しきった形として、男は存在しているのだ。イルカは不躾なまでに男を見つめた。目を奪われる、という言葉の意味を知ったように思った。
「どーも」
 そして前触れも無く彼は消えた。微かな風が天幕の中で回り、イルカの頬を撫でた。






NARUTO TOP・・・3へ