闇と眠る 11

「大丈夫ですか」
 カカシは僅かに頷き、素直にイルカに体重を預けた。軽い、そう思うと喉の辺りに熱い塊が沸き起こった。この軽い体があの圧倒する殺気でもって戦い、巨大な恐怖を払拭した。畏れに近い気持ちで彼を支え、イルカはそろそろと丘を降りる。大きな亀裂を避けながら、ゆっくりと滑らぬように草を踏む。
「イルカ先生」
 掠れた声だった。
「はい」
 ぬるい体温と僅かな体臭。あの小さな天幕で感じたものと同じだった。分かっていたこととは言え、イルカは感動とも衝撃ともつかない波立った気持ちでちらりとカカシの顔を見た。彼も、イルカを見ていた。軽く目を細めたその顔からは、カカシの感情が想像できない。
「イルカ先生、俺は、」
 カカシが口を開きかけたところに、大きな声が聞こえた。
「イルカ先生! カカシ先生!」
 夜空に星が戻っている。白み始めた地平を背負うように、サクラがこちらに駆けて来た。また伸ばし始めたらしい髪が、綱手を真似るように束ねられて肩で跳ねている。
「おう、サクラ!」
 どこかほっとしながらイルカはサクラに手を上げた。カカシはいつの間にやら面布を上げ、ひらひらと手首を回している。
「どうした、まさか戦闘に参加してたんじゃ、」
「アカデミーに子供を集めて、暗部の人達と警護してたの」
「そうか……。ありがとうなあ。おまえも子供みたいなもんなのになあ」
「いやあね、イルカ先生ったら。私だって木の葉の忍だもの。あ、カカシ先生、手当てするわ!」
「あー、ただのチャクラ切れだから平気だよ」
 カカシがやんわりと断りながらイルカの左手を掴んだ。あれ、切れてる、と慌てるイルカに構わずサクラに差し出す。
「これだけ、やってあげて」
 ハイ! と両手をかざすサクラは真剣だ。
「いいって、サクラ、もっと重傷者にチャクラを使えよ」
 イルカは止血が終わると治療を固辞した。
「ありがとうな、サクラ」
「ちゃんと病院で診てもらってね、きっとよ」
「ああ。……それにしても、たった一年で随分医療忍術が上達したなあ」
「まだまだです。でも今日は少しだけ役に立てそう」
 緊張した面持ちでありながら、己のやるべきことを見つけた者の確かな視線で、サクラはイルカとカカシを見上げている。空いた右手をぬっと伸ばし、カカシがサクラの頭を撫でた。
「がんばれよ、サクラ」
 はい、と笑顔を見せサクラは丘を見上げた。
「師匠のところに行きます。本当に大丈夫ね? カカシ先生」
「うん、行ってあげな」
 じゃあ、と手を振ってサクラは駆けて行った。逞しくなりゆく背中を見送り、イルカは頬を緩ませた。
「イルカ先生」
 う、と心中でびくつきながら、イルカは再びカカシに顔を向けた。なぜかまた、面布が下がっている。身長があまり変わらない分視線が近く、初めて見る顔に緊張が高まった。妙に整った面立ち故に、白い頬を汚している土を払ってやりたい衝動がイルカを襲った。
「……ごめんなさい」
 不意打ちだった。足を止める。怪我人を肩に担いだイビキが二人を追い抜いて行った。
「……」
「ごめんね、イルカ先生」
「何の、話、ですか」
 ぎくしゃくと足を動かしてイルカは歩き出す。
「ヤっちゃったこと」
 顔に血を上らせ、答える言葉を探せずにイルカは黙々と草原を行く。カカシもしばらく黙っていたが、一つ大きな溜息を吐き、静かに言った。
「カジカに取り込まれかけていたんだ」
「カジカ……」
 『手』の中にいた女だよ、とカカシは呟く。
「時々何にも考えられなくなったり、衝動的に破壊欲が沸いた。限界だったんだ、闇に呑まれかけてた。もう最後だ、そう思ったらただ怖がらせるだけじゃ我慢出来なくなった」
「怖がらせる?」
「ちゃんと聞いてもらえますか?」
 今度はカカシが足を止めた。イルカは唇を噛み、そして頷いた。



 カカシが古い封印を見つけたのは、任務が終わった帰り道でのことだった。既に効力を失い、中に封じられていたモノは抜けていた。破られたのはつい今しがた、といったところだろう、カカシは僅かな気配を追った。
 探し当てたのは、予想を上回る存在だった。生身の人間がそのまま怨霊のように思念化したもので、まずいと思った時には何かに絡められていた。
 それは女だった。どこかに帰ろうとしていた。積極的に害を成そうという意思は無かったが、既にヒトとは異なる存在に成り果て、かつて戦闘が行われた場所を目敏く嗅ぎ当てては骨と化した死体からも思念を汲み上げた。カカシと同様に異変を感じて近づく生者すら飲み込み、自己と同化しながら膨れ上がっていく。
 会得しかけていた目の力で――詳しいことは話せないとカカシは言った――女から辛うじて分離していたカカシは、女の進む先に木の葉の里があると確信した。なんとかしたい、しなければ、女の意思に任せて進みながら、カカシは焦る気持ちを抑えて丁寧に乖離の術を自分にかけ続けた。チャクラが減る心配は無かった。元々強大な力を持っていた女が、取り込んだ者にそれを分け与え続けていたからだろう。
 未練、説明するならその一言。打ち捨てられた死者が等しく持つその強い思念を吸い込み肥大し、女はやがて禍々しさだけを増長させて『手』の形を取るようになった。死にゆきながら帰りたいと伸ばす、最期の形だ。
 やがて、かつて忍だった者達が、子供をさらい大門をこじ開け内部を通り抜けた。里の結界は強く清浄で、女の本体が帰るためには女と同じ『闇の力』で汚さねばならなかったのだ。
 『自分ではないもの』に対して女は攻撃的だった。カカシは里に警戒を発するため様々な方法を模索したが、成人には近寄るだけで激しい苦痛に襲われた。それは、女自身の苦痛だったのかもしれない。それ故に、他者とは同化せざるを得ない、ということだったのか。しかし、女は子供には寛容だった。門を開けるために子供を使ったのは、逆に、子供でなければ接触できなかったからだ。
 道を作ろうとする女に従うふりでカカシは子供に姿を見せた。どこかに、自分に気付く聡い子供はいないかと、里中を探し回った。そうしている間にも精神は刻々と歪んでいった。

 帰りたい。
 カカシにとっても里は帰るべき場所だ。居場所なぞ無いがそれでも帰りたい。誰か気付いてくれ、この女を止めてくれ。ただ帰ればいいのか、探しに来たのか、もう、自分が何をしたいのか分からなくなっているこの女を。
 カカシの意思はいつしか女の思念と通じ始めていた。古い、古い時代に生きたまま封じられ、時の止まった封印の中で百年以上も足掻き続けた女と。敵の存在を仲間に知らせたい。夫に、友に、何よりも子に会いたい。帰るべき場所に、あの小さな村に帰りたい、帰りたい、帰りたい帰りたい!
 帰してくれ帰してくれ、俺を、あの里に!
 カカシは里に居ながら、帰る場所を求めて半ば狂ったように徘徊した。そして、イルカを見つけた。


「あなたを見つけた時、何かが切れました。もちろん、考えていたこともあったんです。アカデミーの教師なら近づけるのではないかと。子供と長く過ごしている者には、あまり苦痛を感じずにいられたからです。道を作る時も、そういう者を選びましたからね。……しかし、俺はあの女に同化し過ぎていた。迫ってくる危機を、人語をもって冷静に伝えるなど、とても出来なかったんです」
 壮絶な告白を聞きながらイルカはただ目を見開いていた。
「間もなくカジカは里に降りる。そうなれば火影は必ず戦う。だが、カジカはまともなモノではなくなっている。未練や苦悩を吸い上げ膨れ、百年分の怨念で凝り固まって恐怖そのものに成ってしまっている。俺自身が禍々しい何かになろうとしていたからね、予想は出来た。カジカと戦うためには、まずこの恐怖を克服せねばならない。だから」
 二人は森を目の前にした草の上に座り込んでいた。カカシは俯き、淡々と言葉を紡ぐ。拳を握ったイルカは、息すら潜めてカカシの声を聞いていた。
「俺が側に寄るだけで、あなたには益になると思った。こういうモノが来るのだと、教えたかった。生き残って欲しかった」
 青白い頬がひくひくと震えていた。カカシの乾いた唇から細く溜息が漏れる。
「……二度も死にかけた戦場で、気配を垂れ流して一人寝する中忍ですからね」
 イルカの言葉にカカシは素早く顔を上げた。やはり表情は薄く、何を考えているのか分からない。
「また、助けてもらったんですね。……確かに、とても役に立ちました。あなたを知っていたから俺は、『鳥』や『手』と戦いながらも立っていられた」
「うん。良かった」
 短い返事だからこその本心を感じ、イルカはいたたまれずに顔を背ける。
「……どうやって、あの『手』から抜け出して、戦うことが出来るようになったんですか」
 背けた視線の先、森の奥に医療班の一団が見えた。
「丘に降りた時、カジカの力が緩まったのを感じました。偶然なのかカジカの誤解なのか、それは分かりません。でも確かに、あの丘に降りたことで彼女は満足したんです。自分はここに住んでいたんだと」
 え、とイルカはカカシを見た。彼はきつく眉を寄せ、深い溜息を漏らした。
「誰も来なければ、あそこでカジカは消えました。しかし、カジカを呼んだ子供達が暗部の姿に戻った時、彼女は激怒しました。封印された時と記憶が重なったのでしょう。カジカは、怪我をした子供を見つけて介抱しようとして封印されたからです。その子は、封印された穴の中でカジカが殺しました。時の止まった場所で、瀕死の苦しみが続いていたからです」
「じゃあ……俺達のしたことは……」
 唖然と言うイルカにカカシは頭を振る。
「あれ以外に方法はありませんでしたよ。木の葉も五代目も正しく戦った。そもそも、ああして呼ばなければ、カジカは降りることが出来ずに延々と里の空をさ迷い続けたはずです。恐怖を振りまきながら、何年でも、ね」
 ぐっとイルカの喉は詰まる。
「五代目に、あの丘に葬ってやってくれと頼んでおきました。……また封印されてしまいましたが」
「哀れだ……」
「たぶん、彼女の魂は解放されたはずです。ただ、怨念は残る。古い時代の忍の精神力は、俺達とはケタ違いだからね」
 真実がイルカの胸を深く抉った。この戦いで最も苦しんだであろうカカシが、女を許していることが哀しかった。
「……ここでいいですよ、イルカ先生。後は医療班に頼んで下さい。自分では正常なつもりですが、カジカが俺に何を残しているか分からないから」
 微笑みのままカカシはじっとイルカを見つめた。
「イルカ先生」
 唇を開き、閉じ、たっぷりと逡巡しながら血が滴るような赤い目がイルカを見ている。
「あの戦場で、俺はあなたと会った」
 ぼそりとカカシは言った。その瞬間、暑い夕暮れと青白い天幕の中の闇が蘇った。彼の持つ怒りと力、そして孤独を知った短い時間。くらり、と眩暈を起こすようにイルカは頷いた。
「はい」
「あれはあなたの恥だろうと。俺を含めて忘れるのがいいと思っていました」
「……」
「でも、俺は」
 しかし、カカシはそれ以上続けなかった。よろよろと立ち上がる彼にイルカはまた肩を貸す。感情の読めない表情に戻ったカカシは、駆けて来る医療班に手を振った。
「カカシさん」
「ごめんね、イルカ先生」
 暗部の小手を思わせる髪が、夜明けの光に照らされて輝いている。イルカは一瞬見とれ、慌てて言った。
「もういいんです」
「違うよ」
 なんですか、とカカシに顔を向けると異常に視線が近い。あ、と思った時には口付けられていた。柔らかい唇が食むように触れ、最後に舌先がちろりとイルカの唇を舐めた。
「相変わらず、無防備」
 えっ、とイルカが言った時には、カカシは医療班に向かって歩き出していた。
「じゃあね」
 追いすがる間もなくカカシは医療班に抱えられ、消えた。
呆然と立ち竦むイルカを眩しい朝日が照らしていた。





 それからしばらく経った夜のことだった。
 イルカの自宅の窓を叩くものがいた。持ち帰ったテスト用紙を採点していたイルカが顔を上げると、一羽の鳥がこつこつと硝子を嘴で叩いている。
 鳥、というだけで警戒するようになったイルカだが、その小鳥は夜目にも美しい黄色の輝く羽を持っていた。
 火影の呼び出しの鳥とは違うようだが、危険な様子は感じられない。窓を開けてやると小さな足でちょんちょんと跳ね、採点用紙の上に飛び乗った。そして小鳥らしく何度か首を傾げ、たどたどしく人語を話した。
「オショクジシマセンカ。オトモダチカラ、オネガイシマス。カカシヨリ」
 イルカはぽかんと口を開けた。小鳥は返事を待つようにイルカを見上げている。
「は、ははは……」
 意味を理解した途端に笑いがこみ上げ、イルカは机に突っ伏してひとしきり笑った。目尻の涙を拭いながら顔を上げると、指先で小鳥の喉をくすぐってやる。
「……喜んで。イルカより」
「え、ホントですか!」
 ぼん、と小鳥が煙に変じ、代わりにでかい男が机の上にのしりと現れた。
「ぎゃー!」
「絶対ダメだと思ってたんですが!」
 あぐらの形でひっくり返ったイルカにのしかかり、カカシは面布を引き下げた。
「うわー! って、入院中でしょうカカシさん!」
「自主退院してきました」
 澄ました顔で額当てを放り投げるカカシはやはり無表情に見える。しかしその目の奥には喜色が輝き、よく見れば口角が僅かに上がっていた。
「今夜も無防備で嬉しいです、イルカ先生」
「うわーうわー信じられねえ、昔と違うって、しっとりした感じに育ったのかって思ってたのにー!」
「あれ以上育ちようがないです。と言うかこっちが地だから」
「やめて下さい、やめろー!」
「イルカ先生」
 カカシはぐっと顔を近づけてくる。真剣な赤い目から視線を外すことが出来ず、鼻が触れ合う距離で薄い唇が低く囁く。
「イルカ先生、『喜んで』って言ったでしょ。それとも、しっとりしてない俺は嫌い?」
 ぐっと文句を飲み込み、イルカはカカシと見つめあった。
「……いいえ。こんな現われ方をされれば、誰だってびっくりします」
「ホント? 嫌じゃない?」
「違いますよ」
 忘れられなかった。ずっと会いたかった。イルカの前に現れた彼は、いつも千鳥の光そのものだった。恐ろしくそして惹かれずにはいられない。落ちないはずがない。
 数日前の口付けが不意に思い出されて、イルカは顔を赤らめた。実はアレで、完全に落ちた。
「良かった」
 カカシはイルカの肩を大事そうに抱いた。
「俺はイルカ先生がとても好きだよ。間抜けなところも熱いところも全部」
「ま、間抜け……」
「間抜けだから放っておけない。アンタのそういうところが堪らなくいい」
 言葉とは反対に、カカシは真面目だった。
「かわいそうに見えたのにアンタは強かった。俺はね、ああいう強さが好きだ。放っておくはずが、アンタが不器用そうに頼むから、土遁まがいのへんてこな術をがんばってたりするから、堪らなくなったんだ」
「へ、へんてこ……」
「ねえ、お願いします」
 カカシはあくまでも真剣に、大真面目で口説いている。
「俺はアンタのところに帰りたい。今までそんなこと考えもしなかったけど、知った気持ちは消えない。アンタがいい」
 帰らせて。
 カカシはイルカの胸の上に頬を載せた。大胆な動きの中に僅か、小さな震えを認めてイルカは溜息を吐いた。背中を撫でてやると、カカシは子供のように首筋に頬を擦り寄せる。
「……俺、そういうの弱いんですよ。ずるいなあ」
「そうだと思ってたよ」
 顔を上げたカカシは笑っていた。無邪気な顔だった。それを見たらもうどうでもよくなってイルカは苦笑した。
「……ラーメンから、ならいいですよ」
 うん、と頷いてカカシは身を起こした。彼が差し出す手を握って体を起こしながら、イルカは小さな声で付け加えた。
「俺にも、帰りたいなって思うことがあるんです。時々家になってくれますか?」
 カカシはほとんど目を閉じるように細め、そして繋いだ手を強く握った。
「しっとりしてない俺で良ければ、いつでも」
 顔を見合わせ、二人は笑った。



 やがて扉が開き、ええーホントに一楽行くんですか、当然ですよと騒がしく出て行く二人の影が、長く道に落ちる。
 二つの影は優しく絡まりながら、穏やかな夜に淡く溶けていった。






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