金属を摺り合わせたような断末魔と重い衝撃音、視界が黒で覆われる。ぴんと張った紙に刃物を突き立てたような細い破裂音が後を追い、やがて数枚の羽を散らしながら黒い塊は落ちて行った。
夕刻、職員室の自席を立ち窓辺に寄ったイルカは、そこで何度か目を瞬いた。一羽の烏が、窓ガラスに映った景色を帰るべき森と見間違えたのだ。一呼吸置き、彼はゆっくりと烏の痕跡の前に立つ。薄い泥で描いたような翼と分かる跡と、小さな亀裂がそこにはあった。すぐ脇の開いた窓から眼下を覗く。しん、と動かない小さな黒い塊が、花壇の隅に落ちている。
「ほんの少しだけ、右に寄っていれば助かったのにな」
呟き、イルカは窓を閉めた。
汗を抑える努力を放棄し、じくじくと滲むままにイルカは家路を辿った。
子供達が飽きもせずに投げ交わす『暑い』という言葉を笑うため、夏場の教師は一日中薄膜のようなチャクラを纏う。それは、単に汗を止めて呼気から排出するだけの術であるから、暑さを忘れる訳ではない。規範たれ、とは言えども教師とて人の子、暑いものは暑い。汗まみれで跳ね回る子供達に一日中付き合えば、体の芯に通している忍耐というつっかえ棒も緩んでしまう。
イルカはうんざりと夕日を眺めた。今日は殊の外長く地上に留まるつもりらしい橙色の太陽は、彼自身が暑さに辟易しているように山際で潤んでいる。
「お互い、因果な商売だよなあ」
笑い、路地を曲がった。町並みは揃って朱に染まり、看板毎に小さな太陽が光っている。ああ暑い、と吐く溜息さえ火遁のようだ。
こんな夏の夕暮れに。
地面から立ち上る水蒸気がそのまま不快感となって身を包んでいる。こんな刺激によっても、記憶が蘇ることがあるものなのだなと思いながら、自宅の扉に鍵を差し込む。
あの戦場にも黒い鳥がいた。
上がりかまちを跨げば、額当てを伝って汗がぽとりと足の間に落ちた。出迎えてくれたのは、ここのところ居座り続けている籠った熱気、そろそろ帰ってくれよと窓を開け、未だおぼろに地平に浮かぶ太陽にイルカは目を細めた。
あの日もまた、夕暮れは長かったのだ。
どうしよう。
それだけしか意識にならない。
どうしよう、どうすれば。
イルカは湿地の真ん中に突っ立って途方に暮れていた。下を向き、自分の周りに散らばっている物どもに視線を彷徨わせながら途方に暮れていた。
ベストはある。これは無事だ。無事とはいえ半分泥に埋まっているのだが、水に潜らせればすぐにも着られるだろう。しかし、それ以外は無惨に引きちぎられてしまい、拾っても身につけることは叶わない。
額当て、と不意に思い出してイルカは慌てた。目の届くところには落ちていないようだ。額当て、呟いて視線を走らせる。額当て、どうしよう、このままでは陣営に戻れない。サンダルとベストだけを着けて戻るなんて出来ない。
必死で目を動かしながら、突然イルカは気が付いた。体が動かない。目だけしか動かない。いや、動くことは出来るだろう、しかし、一歩踏み出した途端に倒れるに違いない。そう悟った途端、すぐ目の前の泥の中から僅かに顔を出して光っている物体を認めた。額当て、拾わないと、手を伸ばし、しかし、そこで固まる。動けない。どうしよう、どうすれば。
「手伝おうか?」
低く、抑揚のない声がどこかから聞こえた。ぎくり、と硬直してそちらに目を動かす。
夕闇が迫る橙と青の混じった光の中、黒い外套で全身を覆った男が近づいて来ていた。泥の溜まりから僅かに足裏を浮かせて音無く進む男は、外套の裾にすら一点の汚れも付けない。
「中忍?」
イルカがぼんやり頷くと、男も頷き返した。顔に被った狐とも犬ともつかない白い面が、炎を纏って燃えているように見える。イルカはただ、暗部、とだけ思った。彼は黒い布からするりと片手を伸ばし、泥だらけのベストを拾った。暗部独特の『殺人小手』が鋭く光る。
「歩ける?」
彼は聞き、イルカは急いで頷いた。
「そう。じゃあおいで」
男は言って背を向けた。それで彼の面が燃えているように見えた訳が知れた。夕日を映した銀色の髪が、面を縁取っていたからだった。イルカは男の言葉に従って踏み出し、踏み出しながら、しまったと思った。案の定、体は重力に逆らうことなく顔から泥の中に倒れた。びしゃり、と派手な音に男が振り返る。
「駄目なら言えばいいのに」
責めるでなく呟き、男は屈んだ。
「あ」
イルカは泥から顔を上げ、左右に振った。
「駄目です」
「何もしない」
静かに言い、男は手を伸ばした。イルカは僅かに身じろいでまた頭を振る。
「あなたが汚れます」
側に来たことで、男の体から血臭がした。しかし、面も外套もおそらくはその下も、返り血は浴びていない。血臭が纏わり付く程に殺しながら汚れずにいられる、そんな忍を自分のために泥にまみれさせたくは無かった。
「あんたと一緒に洗うから構わない」
事務的に言い、男はイルカを泥から引き剥がして膝立ちにさせた。そして拾ったベストをイルカに持たせ、赤ん坊にやるように尻の下に腕を置き背中を支えて抱え上げた。ずきり、と走る痛みを感じたが、男の外套にべっとりと灰緑の土塊が付着したことの方がイルカには気になった。そうして彼の肩の上に顔を置いてから思い出した。
「あの」
控えめに言うと男が顔を傾ける。
「額当てが」
泥から僅かに角を突き出している額当てを指さす。
「ああ、分かった」
男は頷いて立ち上がり、途端、イルカは目を見開いて強く男にしがみついた。激痛がきた。
「大丈夫?」
男はゆっくりと滑るように歩くが、僅かな振動にも体中が軋むような痛みが生まれる。彼が少し身を屈めてイルカの額当てを拾った時には脳天まで激痛が駆け上がり、イルカは唇を噛み締めた。痛みは、下腹部から生じているようだった。
「もうちょっとだから」
男は言い、イルカは男の体に一層しがみ付く仕草で答えた。
男が向かったのは、湿地を横切った先にある小さな泉だった。言った通りにイルカを抱えたまま泉に入り、中程まで来たところでそっと腕の力を緩めた。冷たい水の感触に痛みが和らいだように感じてイルカも体の力を抜くと、足の裏が柔らかい泉の底に着いた。
「洗うよ」
予告し、イルカの腕を自分の腰に回させると、男は無遠慮と言っていい手付きで尻の間に指を潜らせた。
「い……っ」
「我慢して」
三人の男に散々嬲られた体腔が押し広げられる。どっと額に汗をかいてイルカは男にしがみ付いた。ここまでしてもらうつもりはなかったが、これだけの痛みがある場所を自分で手当出来るとは思えない。羞恥と申し訳なさとで汗を増やしながら、イルカはじっと男の指に耐えた。
「酷くされたね。いつも?」
「……いいえ。今日は俺がヘマをして」
痛みを堪えて囁くように答える。
「私刑、か。次は殺されるよ」
「まさか……」
終わった、と男は手を離した。途端に膝が崩れてイルカは水の中に沈んだが、すぐに男の両腕が伸びて引き上げる。何度か咳き込むイルカを抱えて男は泉から上がり、柔らかい草の上に横たえた。
「あ、りがとう、ございました」
身を丸めながらイルカは辛うじてそう言った。泥を落としたことで軽減されてはいたが、疼痛がずきずきと体を舐めている。目を強く閉じて耐えていると、男の手が足を掴んだ。ゆっくりと左右に開かれ膝を曲げさせられて、イルカは安堵が絶望に変わる手触りに息を詰めた。
「……すみません、そこは、許して、下さい」
熱く涙が滲んでくる目を一層きつく瞑って哀願する。そうであって欲しくはなかった。が、タダで中忍を洗うような暗部などいないとも思っていた。
「口で、しますから」
しかし男は大きく溜息を吐き、そっけなく言った。
「薬を塗るだけ」
同時に冷たいものが腫れた粘膜に触れた。ひ、と身を縮めるイルカの内部を手荒いと言って良い動きで指が撫でる。イルカが泣き声に近いうめきを漏らした時、それは中から出て行った。
「すぐに痛みは引く。それまで横になっているといい」
何かが体に掛けられた。細く目を開けると、涙で歪んだ視界に黒いものが見えた。男の黒い外套だった。先程まで濡れそぼっていたはずの外套はすっかり乾いており、柔らかくイルカの肌を覆う。
「……ごめんなさい」
「寝てなさいよ」
立ち去るつもりは無いらしく、男はイルカの側であぐらをかいている。沈みかけた夕日が沼地の方向に赤々と浮かび、背後から見る男の髪を燃え立たせていた。僅かに身じろいで振り返る男の、首筋から顎へのラインは若い者のそれだ。
「俺が見張っているから大丈夫」
手甲から覗く白い指先が、ほんの少しだけイルカの頬を触った。小さく頷き、イルカは目を閉じた。
「え」
目を覚まして最初に見たものは、暗い砂色の布だった。
「気が付いたか」
振り返ったのは、壮年の総部隊長だった。
「あの……俺は、」
「暗部が運んで来たらしい。俺は会わなかったが」
起きあがろうとするイルカを手で制し、部隊長は簡易照明を点ける。
「災難だったな、イルカ」
「いえ……。手を煩わせてしまって申し訳ありません」
横になったまま頭を下げると、体の中心に違和感があった。眉を顰めながら溜息を吐く。彼が言った通りにあの激しい痛みは消え去っている。
「予備の服はあるのか?」
「あ、はい」
あの時、眠ると言うよりは気を失ってしまった。それきり目を覚まさなかったのだろう。ろくな礼も出来なかった自分が情けなく、イルカは身を覆っている毛布を強く握った。子細を尋ねることは出来ないが、戦いに赴くあの男の武運を祈って別れたかった。
「今夜と明日は休んでいろ。誰かに食事を運ばせる。明後日からはこき使うからな、治しておけ」
小さな薬包を幾つか置き、部隊長は天幕を出て行った。
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