艶やかな呪縛 1

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「お願いです、イルカ先生!」
 腰回りに縋り付いてもイルカは眉を寄せて面倒そうに見下ろすだけだ。彼の何度目かわからない嘆息を聞きながら、カカシはもう一度、お願いしますと哀願した。
「カカシさん、いい加減に離して下さい」
「嫌ですっ」
 ぎゅうっと腕に力を入れると、止めて下さい味噌汁が出ます、と殴られた。
「聞いて、聞いて下さいイルカ先生!」
「もう出勤の時間なんですって」
「話し合いましょう! 俺、こんなんじゃ納得できない!」
 必死の形相で見上げる上忍に半目を向け、イルカは重い男を腰にくっ付けたままずるずると玄関に向かう。
「ああっ、待って、待って!」
「途中まで一緒ですから、話しながら行きましょう」
 よいしょと声を出してカカシごとドアを出て鍵を閉めてからイルカは、立ちなさいと教師の声を出した。よろよろと長い体を起こしたカカシは間近の肩を両手で引き寄せた。
「考え直して。俺、もっと良い恋人になりますから!」
 イルカの表情は困ったようにも呆れたようにも見える。大きく瞬きする黒い目に見つめられ、カカシは反射的に顔を寄せた。
「ナニするんですか、こんなところで」
 がしっと顔を掴まれ、カカシは哀れっぽい声を出した。
「アナタが誘うから」
「誘ってません」
 遅刻しますよ、とあっさり向けられた背にとぼとぼと従い、カカシはイルカの腰のポーチに指を引っ掛けた。
「寒くなったなー。そろそろ雪降りそうだなあ」
「イルカせんせい……」
「妙な声を出さない!」
 流れてくる白い息がそのままイルカの心のように思え、カカシの頭はどんどんうな垂れていく。
「だって」
「いい大人がだってとか言わない!」
「……」
 不安がる子供のようにポーチを引きながら、カカシは足の裏を引きずるようにして歩く。目の前で揺れる髪に噛み付くと、何してんですかと冷たい声が飛んだ。
「話しましょうよ」
「そうでしたね、ハイどうぞ」
「……だから、考え直して? ね、お願い」
「さっきから何の話しですか」
「そんな……。イルカ先生が言ったんじゃない」
 だから何、とイルカはちらりと振り返った。
「顔、曝してていいんですか?」
「あ、忘れてた」
 口布を上げながら髪束を見つめていると、イルカがこきこきと首を鳴らすのと一緒に左右に揺れる。それに微笑みかけたところで聞こえた深い溜息の音とわっと広がる白い吐息。カカシは唇を噛んだ。
「そんなに俺が、うっとおしいですか」
 視線を落として呟き、くいっとポーチを引っ張る。
「そんなこと言ってません」
「言ったじゃない」
「言ってませんって」
「言った」

 ――あなた、うっとおしいんです。役立たずが部屋にいられると邪魔だし暑苦しいし、もう来ないで下さい。

 昨夜の言葉が頭の中に響き、カカシは身震いした。恋人であるはずのイルカは鼻の付け根に皺を寄せてそう言い、野良犬を追い払うように手を振った。
「俺、邪魔しないから」
 ポーチから手を離し、ベストの裾を握る。イルカはその手を払いはしなかったが振り向きもしなかった。
「カカシさんはいつも大人しいですよ」
「もっとちゃんとするから」
「そうですねえ。ああ、窓から入って来られるのはちょっと困るかも」
「もうしないから」
「じゃあそういうことで」
 話は終わりですね、とイルカは首を傾げながら足を止めた。カカシが向かうべき上忍待機所と、アカデミーとの分かれ道だった。
「終わりって……。何も終わってない」
「まだ気がすまないんですか?」
「俺、またイルカ先生に会いに行っていい?」
 ベストの裾に、何重にも皺が寄る。イルカは白くなったカカシの爪に手を触れ、ゆっくりと指を開かせていく。
「カカシさん」
「家のこと、俺がする」
 ぽろりと布が指から離れ、それと同時にカカシはイルカの手首を掴んだ。
「全部する。食事作って掃除も洗濯もする。嫌なことはすぐ言って? もう失敗しないから、絶対ちゃんとするから」
 額当ての下で、じわっと左目が熱くなった。持ち主と同じにいつまでも涙もろい。
「お願い、します」
 風に乱された髪をイルカの胸に押し当て、カカシは俯いた。罪を裁かれ罰を待つように。
「カカシさん」
 ぽん、と後頭部を優しく叩かれ、いよいよ左目が熱くなる。昨夜もそうだった。いつも通りにイルカは朗らかで、食事が済むとぴったり体を寄せて耳元にキスをしてくれた。小さく笑い合いながら体を重ねた狭いベッドの中は暖かで、二人ともが確かに幸せだった。なのに身を寄せ合って眠ろうとした時、彼は豹変したのだ。
 こういうことは初めてではない。今までも何度かあった。幸せで楽しかった時間の最後、イルカは急に冷たい目でカカシを見つめて出て行けと言う。
「カカシさん、よく聞いて下さい」
 それでも、どんなに気まぐれに邪険にされても、カカシはイルカから離れられない。出逢った瞬間に愛し始めるなんて、信じられない事実をくれたただ一人の人。留めるためなら何度だって縋り付く。どんなことだってする。側にいたい、それだけがカカシの願いだった。
「邪魔しない、本当に、俺、」
「それ、夢です」
 え、と顔を上げ、言葉の意味がわかぬままカカシは目を見開き動きを止めた。
 だからね、とイルカは掴まれた手を上下に揺らす。
「あなた、夢をみたんですよ、昨日の夜」
 夢、と鸚鵡返しに言うカカシに黒い目が柔らかく視線を注いで頷いた。
「落ち着いて思い出して下さい。一月前くらいにもあったでしょう? 俺に出てけって蹴っ飛ばされたとかなんとか言って、やっぱりあなた、朝からものすごく動揺してました」
 俺、信用ないんだなあと眉を寄せる顔が悲しげだ。イルカ先生、と呟くと少し荒れた唇が緩やかに口角を上げる。
「もうねえ、俺、どうすればいいんだか」
 イルカは握られたままの腕を上げ、手のひらでカカシの頬を挟んだ。
「カカシさん。夢の中で俺が何を言ったか知りませんが、俺はあなたが好きですよ」
 手首からぽとりと手を落とし、カカシはぼうっとイルカを見つめた。
「何もしなくていいんです。今日も明日もこの先もずっと、俺の家に来て下さい。一緒に飯食いましょう?」
 わかりますか、と言われて呆然とカカシは頷いた。大丈夫かなあとイルカは呟き、カカシの頬から手を引いた。
「じゃあ俺、行きますよ?」
「えっ」
「仕事なんですってば。今日は定時で上がる予定ですから俺の家で待ってて下さい。あなたが納得するまでちゃんと話を聞きますから」
「イルカ先生……」
「そんな顔しない! しゃんとする!」
「は、はい」
 無理やり背中を伸ばすとイルカはうんうんと頷いた。
「ちゃんと仕事するんですよ」
「はい……。あの」
 まだ何かあるのかと振り返るイルカに、恐る恐るカカシは声をかけた。
「待ってます、から」
 手のひらに爪が食い込む。
「はい、待ってて下さい」
 カカシの必死な言葉を流すようににこりと笑い、イルカはきっぱりと背を向けた。
「イルカ先生……」
 夢、だなんて。
 また、誤魔化された。いつもいつも、あなたは何もなかったように好きだなんて言う。やっぱりやめたって明日には言うんじゃないの? 
 どんな言葉だって結局俺は、信じてしまうんだけど。

 黒い尻尾が完全に視界から消えるまで、カカシはその場に固まっていた。


                    2


 ――困ったな。
 授業が終わり、受付へと向かいながらイルカは足元の木目に視線を落としていた。
 ――どうすればいいんだろう。
 ぎしぎしと鳴る廊下は油の臭いが強い。先週塗り直したからだ。黒っぽい色を取り戻した木の板を踏みながら、イルカは深い溜息を吐いた。
 三代目は、おまえならわかってやれるじゃろうと言った。
 五代目は、あたしの知ったこっちゃないと目を伏せた。
 ――どうすれば……。
 受付所の扉を勢い良く開け、イルカは混雑した部屋を横切る。
「お待たせ」
「おお、頼んだぜ」
 同僚と肩を竦め合って席を代わる。
「お疲れ様です」
 笑っとけ、とばかりに全開の笑顔を向け、疲れ果てた様子で報告書を差し出す見知った中忍を見上げた。

 付き合って二年が経つカカシには困った癖があった。定期的に顔を出すそれに、イルカは最初本気で憤慨し、慣れるにつれて、今度はひどい心の痛みを与えられるようになっている。今朝の会話が、それだ。
 ――全然信用されてないのかな。
「はい、これで結構です。ゆっくり休んで下さいね」
 列を抜ける男を見送り、次のくのいちに笑いかける。
 ――嫌、だな。
 これまで何度も、まるで覚えもないことを言い募るカカシにイルカはずきずきと胸を痛ませてきた。捨てないで、もっとちゃんとする、いい恋人になるから。いつもカカシはそう縋ってくる。
「お疲れ。ちゃんと食って寝ろよ!」
 うん先生、と去年卒業した子供が手を振る。手を振り返しながら次の報告書を受け取る。身内を失った子供のため、おまえにも里で待つ者がいるのだよと教えるため、教師が受付をするようになってどれくらいになるのだろうか。九尾の後からの慣習だった、そう思い出した頃には、混み合った部屋は閑散としていた。
「はー。終わったなあ、ラッシュ」
 ぐったりと椅子の背に体を預ける同僚に同意の苦笑を向けながら、イルカも首を回した。単調な上下運動を繰り返した筋肉をほぐしつつ、処理済の箱に入った書類の点検を始める。
「そろそろ上がれよ、イルカ」
「……うーん。これやっちまうよ」
 帰りたくない。きっと家には、びくびくと怯える上忍が待っている。部屋は完璧に掃除され、風呂も沸いているに違いない。むしろどっとストレスが溜まりそうだ。 仕事というものは探せば探すだけ出てくるもの、一時間ほど受付所でぐずぐずとしてから、同僚に追い返されるようにしてイルカはアカデミーを出た。


「ううー、冷える……」
 白い息を吐きながら、イルカはゆっくりと家路を辿る。鳥が鳴き交わす声が鋭く空気を割り、反射的に見上げたイルカは立ち止まった。
 空には放り出されたように満月が浮かんでいた。星の姿は薄く、皓皓とした月の光を立ち木の葉がきらきらと浴びている。
 ――あの夜も、満月だった。
 うっそうとした森の木々の切れ目から、白々と月が見えていた。絶望の中で見上げたその光を切り裂くように、恐ろしくて美しいものが降りてきたのだ。
「……そっか」
 首が痛くなるまで月を追って天を仰ぎ、イルカはふっと笑った。
「カカシさん、待たせちまったな」
 遅くまで開いているスーパーを目指し、イルカは足を速めた。







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