艶やかな呪縛 2



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 そんなこと、誰だって嫌だ。
 カカシが思ったのはそれだけだった。


 完全な裏方を要求される任務だった。
 敵は、突然姿を現した奇妙な集団。複数の者から、戦況や敵味方と無関係に忍が惨殺されている、という報告を受けて調査した結果、浮かんだのが『流水』と自称する忍達だった。定住せず小集団で移動を続ける彼らは、戦場にふらりと現れては忍を殺していく。
 彼らの目的を探りリーダーを捕獲するため、他里を含んだ幾つかの戦場に暗部が配属された。カカシが向かったのは、抜け忍が中心となった大規模な盗賊団と交戦中の草隠れの里だった。地の利を生かした盗賊団の戦法に長期の戦いを強いられている草隠れからの要請を受け、同盟を結んだばかりの木の葉からもフォーマンセルが五隊送られていた。
『決して姿を現さず、流水の手の内を探れ』
 そう厳命された暗部達は、助けを求めてうめく忍達を目に映しながら、手を差し伸べずに闇に紛れていた。木の葉だけに通じるのろしを焚いて助けを呼んでやる程度の助力は許されていたが、三日四日と経過するごとに重傷者を見捨てる場面が増えていく。六日を過ぎる頃には暗部らしい順応が始まり、やがて皮膚までがしんと冷えるような、抑揚の無い精神状態に支配されていった。

 そんな中で、カカシはようやくターゲットに行き当たった。
 始めは獣が潜んでいるのかと思った。しかし、耳をそばだてると人語が混じっている。そろりと立ち木の上から近寄ったカカシは露出した左目をすっと細めた。
 眼下には、既に全身に殴打と切り傷を浴びて朦朧としている若い木の葉の忍がいた。その周りを数人の男が囲んでいる。思い思いの服装だが、共通の印を刻んだ額当てをしている。頭と腰と、両方に額当てを付けているのは抜け忍か。腰の印は見えない。
 ――これが、『流水』。
 印を深く記憶し、カカシは事態を眺めることに徹した。男達は時折笑い声さえ漏らしながら、ぐったりとした忍を更に足蹴にして何事かを話し合っている。
「もう殺るか。こいつは使えねえ」
 一人が言った。地を掻きながらも彼らを睨み上げる青年の顔には、一筋の白い傷がある。
「ああ、土産にはならんな」
 やはり、とカカシは胸の中で呟く。選別だ。彼らは自分達と対等に渡り合えるような使い手を探している。
 惨殺されたと報告のあった忍の中には、遺体が見つかっていない者が含まれていた。現場に残った血痕などから死んだとされているが、実際には連れ去られ、洗脳でもされて『流水』の一味に加わっているのだろう。洗脳というものは、コツさえ押さえれば意外なほどに簡単だと、拷問隊長が言った言葉を思い出す。
「吊れ」
 鼻筋の真ん中辺りに印象的な横傷のある青年を、二人の男が引き起こす。青年は泥に塗れた顔を力なく左右に振って最後の抵抗を試みているが、なにほどの効果も無い。
「なあ、使っちゃいかんか」
 一番の大男が言った。またかよ、と誰かが笑う。
「いいだろ。もう吊っちまうだけだろうが」
「構わねえけど。そんなにいいのかよ」
「悪かねえよ。おまえもやってみるか?」
「冗談じゃねえよ」
 肩を竦めた男は手近の木の枝から垂れる蔦を引き寄せた。むなしく抵抗する首に蔦が巻きつけられていき、大男が青年のベルトを外してずるりと下半身を曝した。
「死に際が最高にシマるんだ」
「わかったわかった、勝手にやれよ」
 ぐい、と蔦が引かれる。獣じみた唸りが青年の口から漏れ、地面を探して両足が激しく暴れた。

 そんなこと、誰だって嫌だ。

 カカシは自分の思考に忠実に従った。厳命よりも、その衝動の方が強かったのだ。ひらりと木の上から飛び降り一閃、『流水』達をなぎ倒す。円を描いた両腕から飛び散る血飛沫が下草を濡らす前に、蔦を切られた青年がどさりと地に倒れた。
「あ」
 返り血を浴びて意識を鮮明にした青年は、短く声を出すと同時に咳き込んで身を縮めた。
「落ち着いて」
 首を調べて脱臼していないことを確認し、衣服を着せ掛けてやる。ざっと検分したところ深手も負っていない。大丈夫だと言ってやると、青年はぶるぶると震えながらカカシの左胸辺りを手探り、固い胸当ての端をぎゅっと掴んだ。
「俺達、姿を見せちゃいけないことになってるんだよね」
 背中を支えて半身を起こし、気付け薬を含ませる。一度きつく目を瞑って辛さをやり過ごした青年は、軽い咳払いをしながらカカシの顔を、正確には暗部の面を見上げた。
「だからこのことは黙っててね。こいつらは俺が片付けておくから」
 青年は素直な様子で頷いた。その拍子に両目からぽろりと涙が溢れた。真っ黒な目が、恐怖と安堵に揺れている。
「……忍が泣くもんじゃないよ」
 ぽんぽんと背を叩くと、何度も頷きながら青年はしゃくりあげる。その姿をカカシは不思議な気持ちで見つめた。自分と大して変わらない年恰好だ。普段なら、その軟弱さに皮肉の一つも言いたくなるはずなのに、なぜかそんな気分にはならなかった。赤子のように自分の胸元を握って泣く姿に、小動物を見た時のような庇護欲をそそられたようだ。頭を一つ振り、カカシは彼を引っ張って立たせた。
「一人で戻れる?」
「……はい」
 枯れた声で答え、彼は思ったよりもしっかりした表情を見せた。そしてよろめく足を踏みしめて頭を深く下げ、ありがとうございましたと声を絞り出した。
「いいんだ」
 行って、と指で前方を示すと青年はまだ涙に濡れている顔を向け、もう一度礼を言ってから危なっかしい様子で走り出した。その姿が見えなくなるまで見送り、カカシはゆっくりと腕組みをした。
「一人くらい生かしておけよ、俺……」
 でもそれじゃバレちゃうもんなと呟き、折り重なった死体を見下ろした。なんとかしてこれらから情報を取り、次に繋げなければならない。この戦場にはもう『流水』は出没しないだろうから。
 カカシは暗部を呼ぶために小さく指笛を鳴らした。全くもって自分らしくない。頭を掻いて胸元に手を置いた。
 そこは少しだけ濡れていた。青年が握っていた場所にはかすかに体温が残っている。それがとても大事なものである気がしてそっと撫でてから、カカシは吹き出すように苦笑した。
 まるで恋をしたようだと、思ったからだった。
 

 運の良いことに、カカシが作った死体の中に木の葉の抜け忍が含まれており、それを辿ることで『流水』のリーダーが割り出された。それなりに派手な捕り物にはなったが、洗脳されていた何人かの忍も取り戻すことができ、無事解決となった。
 カカシはその任務を最後に暗部を辞めた。事実上、辞めたことになっていると言うのが正しいのかもしれない。厳命よりも感情を優先したと素直に三代目に報告したところ、しばらく休めと言われ、休み明けからは上忍としての任務を与えられたのだ。いつかは戻るのだろうとカカシは思っていたが、結局その後暗部任務の依頼がくることはなかった。


 カカシがあの青年と再び会ったのは、任務を再開してすぐのことだった。何気なく並んだ受付所の列の先に間違いようのない傷があり、妙に心臓を跳ねさせながらカカシは報告書を差し出した。もちろん彼はカカシには気付かず、ごくあたりまえに処理をした。
 それだけのやりとりが何度か続いたある日のこと、やはり報告書を出すためにカカシは受付を訪れた。最後に出て行った者が開けっ放しにした扉から一歩を踏み入れると、青年が一人で座っているのが見えた。
「痛ってえな……」
 彼が首を回して眉を顰めた瞬間、カカシは大きく踏み出した。上忍を見つけて慌てて背筋を伸ばそうとした青年が目を見開いて固まったのがわかったが、あの時と同じ、不可思議な衝動がカカシを思考のままに動かしていた。
 真っ直ぐ彼の首筋に指先を向け、顎をくいっと上げさせた。あの時、一瞬だが体重が全て首にかかったせいで喉の周りにひどい擦り傷が出来ていたのを覚えている。肌は健康的な蜂蜜色を取り戻していたが、それでもほんの僅か、染みのように残った痕を見つけてカカシは舌打ちした。
「痛い?」
 かすかな赤い痕を撫でる。
「……あの、く、首がこっただけ、です」
 困っているらしい発音を聞き、はっと手を引っ込めた。
「すみません」
 また、やってしまった。自分の行動に困惑しながらカカシは急いでポケットから報告書を引きずり出した。随分と皺になっている紙を何度か引っ張って伸ばして渡すと、青年は数秒カカシを見つめた後、丁寧に両手で受け取った。
「……はい、結構ですよ。お疲れ様でした」
 彼は穏やかに笑って報告書を処理済みの箱に入れた。どうも、と会釈をしてカカシは背を向けた。早く彼の視界から消えたい。
「あのっ!」
 扉から出る寸前、椅子を引きずる音と一緒に呼びかけられた。カカシは叱られたように首を竦めて足を止め、そろそろと振り返った。
「はたけカカシさん」
 机に手を突き、彼は大きく目を開けていた。
「あの……」
 ぱちぱちと瞬きを繰り返す目が、あの時涙を零した濡れた瞳と重なった。
「俺、うみのイルカといいます」
 カカシは胸の中でその名前を呼んだ。うみの、イルカ。イルカ、という人なのか。
「あなたを探してました」
 イルカは泣き出しそうに声を震わせた。その唇を歪ませた顔を見た瞬間、一気にカカシの胸の中が暴れ出した。あの衝動、抱きしめて慰めてやりたい、そして零れた涙を唇で拭って……。
「俺、お礼をしたくてずっと、」
「いいから、そんなの」
 慌ててそう言い捨て、カカシは走って逃げた。
 ――何考えてんの、俺!
 イルカが何かを叫んでいるのがわかったが、みっともなくばたばと音を立てる足を止めることはしなかった。


                     4


「お、お帰りなさい」
 玄関扉を開けると、居間の入り口から顔だけを出したカカシが見えた。どうせほとんどを隠しているのだから堂々と出てくればいいのにと思いながら履物を脱ぎ、イルカはスーパーの袋を差し出した。
「遅くなってすみません。これで鍋、食いましょう」
「あ……あの……」
「そういう口じゃなかったですか?」
「い、いえ……」
 あれ、と指差されるちゃぶ台を見ると、綺麗に切られた野菜が皿に盛られ、昆布の入った土鍋がコンロに鎮座している。カカシの手にはやたら高級そうな肉がはみ出した包みが乗せられ、用意してしまいました、と落ち込んだ声が聞こえる。
「……豪華じゃないですか」
「す、すみませ、」
「ありがとうございます」
歯を見せて笑い、イルカは台所へとずいずい進む。
「すみません、せっかくイルカ先生が、」
「いいんですよ! こんなのいつだって食えます」
 繰り返される謝罪を遮って冷蔵庫に食材を放り込み、ざっと手を洗ってからイルカはちゃぶ台の前に座った。予想通りに部屋は大掃除でもしたかのように整えられており、洗濯物が物干しにきちんと皺を伸ばされて翻っている。おずおずと隣に座るカカシが何度も唾を呑み込む音を聞きながら、参ったな、とイルカは心中に零した。
「火、つけて下さい」
「は、はいっ」
 任務を遂行するように、カカシは慎重にマッチを擦ってコンロに火をつけた。
「しいたけ、先ですかねえ」
「あ、はい、はい!」
 菜箸を振り回して給仕を始めるカカシを横目に、白菜やニンジンを手掴みで放り込む。
「やっぱり冬は鍋の季節ですね。こうやって煮てるのを眺めてるだけで楽しいです」
 微笑んで視線を流すと、異常に真剣な目でアクを掬っている上忍が必死で頷いている。写輪眼を使っているんじゃないかと心配しながら、イルカは春菊を鍋に追加した。やがて肉が土鍋に収まる頃には二人共が疲労しており、くつくつと沸く出し汁を見つめて無言になっていた。
「……カカシさん」
 踏み出すのはいつもイルカだ。あの『再会』の後、勝手にそういう役割になっていた。


 なぜか顔を合わせる度に逃げ出すカカシをイルカは追った。話したかった、どうしてももう一度。なのに逃げるから追う、ただそれだけのことだったが、一月以上も続いた追いかけっこはアカデミーに出入りする者なら知らない者はいないほどに有名になってしまった。火影までが見物に訪れたことで、ようやくカカシはイルカの誘いを受けた。
 居酒屋のカウンターで、カカシがおろおろと箸を逆に持って突き出しを食べていたことをイルカはよく覚えている。酒を一合空けたところで思い切って、一目惚れって信じますかと言ってみた。すると、ばたりと徳利を倒したカカシは泣きそうな顔で、何で知ってるんですかと猪口を握り潰した。
 それが二人の始まりだった。


「は、はははいっ」
 びくついた手から菜箸が飛ぶ。仕方なくそれを掴み取り、イルカはがんばって微笑んだ。
「そろそろ緊張するの、やめませんか。なんか俺、どうしたらいいのかわかりません」
「すすすすすみません!」
「謝らなくてもいいんですよ……」
 避けていた視線をかちりと合わせると、カカシは瞬時に硬直した。
「カカシさん」
 ゆっくりと、扇に小鳥を乗せてやるかのように繊細に、イルカは手を伸ばして銀髪に指を触れさせた。里一番の技師と呼ばれる男がびくりと震え、身を縮めた。
「カカシさん……」
 悲しい気持ちでイルカは恋人の顔を見つめた。
「俺はあなたが好きです」  優しく言う。途端に泣きそうな顔になる男は上忍にはとても見えない。
「不安にさせてすみません。俺が何をしたのか、俺はよくわからないんです」
 ここまでカカシが思いこんでいるなら、イルカがそれに合わせてやらねば話は終わらないのだ。
「すみません、カカシさん」
 全てはカカシの左側に収まっている、イルカの知らない人間からもたらされた能力のせいだ。カカシの中にいつまでもいつでもどこまでも横たわる、『置いていかれる』という恐怖を増長し、夢と現実とをきつくきつく結んで奇妙な勘違いを起こさせる深紅の目。本人でさえ真偽の見極めができない生々しい感情を伴い、最も恐れることを見せ付ける。その幻想は、火影にさえ拭ってやることは出来なかった。
「ごめんなさい、カカシさん。俺、あなたが好き過ぎて時々いじわるしたくなるのかも。機嫌直して笑って下さい」
「イ、 イルカ、先生」
 額当てを外してやると、妙に戦闘的な光を浮かべる左目が見つめてくる。いい加減にカカシさんのものになれよ、そう強く念じながら睨み返して口布を下げ、ごく軽い口付けをした。
「わかってくれましたか?」
「……はい……」
 う、と声を詰まらせるカカシの左手を握り、肉のアクを掬ってからイルカは顔を上げた。
「出来ましたね! 美味そうですよ」
「う、うん」
 握り返される手をそのままに、利き腕でない手で鍋を探る。
「あ、イルカ先生、肉だけじゃなくて野菜も」
「男は肉です!」
 かつて上忍師であった四代目の死を何度となく見せたという目は、それが現実になった途端に静まったと三代目に聞いた。そして十年が経ち、イルカと共に過ごすようになって再び、その力は暴走を始めた。
「酒、残ってたかな」
 イルカが膝を上げると、手を握ったままのカカシも一緒に立ち上がる。離すものかと幼子のように強く手のひらに掛かる力。負けないようにイルカも指を絡める。
 ――俺は、決して現実にはさせない。
「あったあった。これ、カカシさんがくれたんでしたっけ?」
「そうそう、岩の酒」
「燗します?」
「冷やでいいかな。鍋だし」
 ――失われないものもあるのだと教えたい。
「あっ、何そんなデカい湯飲み持ってんの!」
「いいからいいから」
「明日仕事でしょ」
「ざーんねん、俺は休みです」
 ちゃぶ台に酒瓶と湯のみを置いて、しかし座らずにイルカはカカシと両手を繋いだ。
「カカシさん」
 イルカは、首を傾けて嬉しそうに笑っている男を見つめた。彼は明日また、涙を溜めて縋ってくるのかもしれない。そしてイルカは心をえぐられながらもそれを否定する。
「大好きです」
 何度でも繰り返し、例え疲れ果てて嫌になってもこの手を離すことはない。傷だらけのくせに妙に色気のあるこの指先を絶対に離しはしない。あの夜、救ってくれたこの手を。
 風を斬って月の中から現れたこの手が描いた息が止まるほどに美しい弧、たどたどしく背中を擦って泣かせてくれた優しい温度。それは日々の喧騒に遠ざかり朧になるとも、夜がくれば必ず思い出せる、イルカだけの大切な記憶だった。
「……俺も、です」
 イルカ先生大好き、うっとりと言うカカシの頬を両手で触った。左目を割る傷跡を辿って行き着く赤い光は、嫌味なほど艶やかに輝く。
「あなたの側にいます」
 カカシを同じ場所に押し留める光に囁く。
「ずっと側に」
 ――俺はここにいる。どこにも行かない。
 たとえ、この人が生きるためには孤独と苦痛が必要なのだとしても、俺は決して離れてやらない。彼が悲しみに捕われる度に教えてやるのだ。どこにもいかないものがあるということを。決して失われないものがあるということを。
「イルカ先生……」
 酔ったような声で嬉しげに囁くカカシの背に腕を回し、イルカも恋人の名を呼んだ。

 鍋はぐつぐつと煮立っている。もう肉はすっかり硬くなってしまっただろう。
 合わさった胸は温かく、湯気を首筋に感じながら、二人は互いを支えに優しい沈黙の中にたゆたっている。


   (終)






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