夜という奴はどうしようもねえ。
受付に向かいながらアスマは遠くの月を見た。
――ああどうしようもねえ。
朝が来ない夜は無いとは言っても、明けぬ夜は確かにある。むしろ、朝など思いつかぬ程に深い夜が恋しい時もある。
今、その只中にある者が日向の笑顔で過ごしているとしても、明けぬ夜はそこにある。
冬一番の寒さ、煙草の煙が凍らないのが腹立たしいくらいの寒風の中で新しいものを求めて懐を探る。が、もう切れた。いじましくぎりぎりまで吸いきり、アスマは自販機を探した。確かあの小間物屋の横に、と目をやるとぼうっと光る四角い窓が見える。しかし、その表示は全て赤いランプになっていた。
「……時間外、か」
忍の里だというのに、煙草の自販機は国に定められた時間に仕事を終えるのだ。
――馬鹿馬鹿しい。ああ、なんて馬鹿馬鹿しいのか。
自販機を蹴飛ばし綺麗な足型のへこみを付けた。気が立つのは任務で女を殺したからだ。好きな男を思ってなびかぬ女を、ならば殺してしまえと言った金持ちがいたからだ。そして、惚れられた男が女を置いて逃げたからだ。
――いいんです。
女は笑っていた。
――いいんです、これで。私の人生はこうなるためだけのものだったのでしょう。
細い首は手応えすらほとんど無かった。一閃で落として依頼者へと届けたその首は、一瞥されただけで火にくべられた。
どこに、何が、あったのか。
女の中にだけ、それはあった。
ぞっとした。舌打ち、飽き足らずに唾を吐く。
受付に二人分の気配があった。固いものと柔らかいもの。
――面倒くせえ。馬鹿馬鹿しい。
扉をがらっと開ける。振り返りもしない二人が目に入った。深夜の受付に一人座るイルカの前で、甘ったれた声を出すカカシが何かを机に置く。
「あなたの物ですから」
「ですから、もう要りません。全部処分して下さいって言ったでしょう」
「でも、あなたのです」
「違います」
「違わないでしょ、俺が買ってあげたんだから」
「あなたが買っただけで、俺の物じゃあないです」
「酷いなあ」
一本の紐を真ん中に、へらへらと笑うカカシと能面のような一定の微笑みに凍りついたイルカが対峙している。くそう、とアスマは報告書を握り潰す。
「引越し準備って大変なんですよ。なのに見つけて持ってきてあげたんだから」
「それはどうも。でも要りません。捨てて下さい」
「あなたのなんだから、あなたが捨てたらいいんです」
ほら、そこのゴミ箱に。言いながらカカシはイルカの手を取って無理やり紐を押し付けた。電流を流されたかのようにイルカが髪を逆立てて硬直する。
「持って、持って帰って下さい!」
カカシにそれを投げつけ、イルカは叫んだ。
「要りません、そんなもの、要りません!」
「酷いなあ。あんなに喜んでくれたのに」
胸に当たってぼとりと落ちたそれを、カカシはまた机に置く。
「あなたの、です」
違います、イルカは立ち上がって言った。ぶるぶる震えている。未だ忍化粧を施しているイルカの顔は、それを超えて青く見えた。
「いい加減にしやがれ!」
語気荒く分け入り紐を取り上げたアスマにカカシが馬鹿面を傾げた。
「なーに、おかんむり?」
「おまえは帰って荷造りしてろ!」
アスマはイルカの腕を掴んで引っ張った。足のもつれるイルカが机を派手に転がす。
「ちょっと、イルカさんの紐なのに」
気味が悪いほど笑顔のカカシが言う。またハメやがったか、そう思うが止まらず、よろめくイルカを肩に担いだ。
そのままカカシを放って受付を出て職員室を覗く。一人、ぼんやり雑誌を見ている教師がいた。彼は、担ぎ上げられたイルカがぴくりとも動かないのを見て仰天して手足をじたばたさせた。
「病院に連れて行く。受付を代わってやれや」
無言で頷く教師を確認し、アスマは足音高くアカデミーを出た。こんなにやかましく生活音を立てたのはどれくらいぶりだろうかと自嘲しながらイルカの家に向かう。肩の上、冷え切ったイルカは動かない。仕方なく鍵をこじ開けて入った。
「おい」
ベッドに横たえてやる。ぐにゃりと転がるイルカは無感動な目を天井に向けた。
「イルカ」
はあ、と気の抜けた声でイルカは答えた。それに僅かに安堵してアスマは台所に行って水を汲む。イルカを引き起こして背中を支えコップを突き出す。
「飲め」
「はあ」
「いいから、飲め」
一口飲んでイルカは渋い顔をした。
「酒じゃない……」
「あほう」
どさり、とベッドに座ってアスマは頭を落とした。疲れた。酷く、疲れた。
「すみません、お疲れのところ……あの、報告にいらしたんでしょう? 戻って下さい」
「すっとぼけた事言ってんじゃねえよ」
報告書はあの場に投げ捨てて来た。今ごろ処理されているだろう。運が良ければ。
「じゃあ、何て言えば良いんでしょうね……」
「何も言うな、とりあえず」
とりあえず、ですか、とイルカは笑った。笑うんじゃねえとアスマは口を塞ぐ。半端に壊れた様子で嬉しそうにイルカは体を揺らし、手にもったコップから零れた水が二人の膝を濡らした。
やがてコップは床に転がり、その上に二人分の服が放られ灯りが消えた。
上忍待機所でぼんやり日を浴びていたアスマは、入ってきた者を無視するべく誰かが忘れていった雑誌を手に取った。
「アースマー」
カカシは異様なほどの上機嫌だった。
「イルカ先生といい感じらしーいねえ。いやー、良かった良かった」
唇を歪め、笑うでもなく怒るでもなくアスマはカカシを見る。
「力一杯祝福するよー。とりあえず、俺の残飯とか言ってる奴らをシメとくね」
「いらん!」
吼えるアスマにカカシは首を傾げる。
「なんでー? バレないよーにボコるからさ」
「なんでもいいから止めろ」
ふう、と溜息を吐く。薄ら白い冬の曇天のような息が流れ、おっと、と言いながらカカシはそれを避けた。カカシの髪もまた、その煙に溶けるような褪せた白だった。
「ふうん」
面白そうに言い、カカシはアスマの隣にどっかりと腰を降ろした。
「ま、おまえが良いなら放っておくけど」
「そうしてもらえるとありがたいもんだ」
「ぐふ」
カカシはおかしな音を発して体を曲げた。
「てゆーかー。蔭で何言われたって平気なくらい、上手くいってるって訳?」
アスマは雑誌を置いた。まじまじとカカシの顔を見る。
「カカシ」
「なーに」
「おまえ、そういう奴だったんだな」
「はあ? 何いってんの、俺は俺だよ」
踊りだしそうなほどに上機嫌のカカシは両足をどんどん踏み鳴らしながら手甲を取った。
「じゃーん! 見て見て、俺もすごいの!」
左手の薬指に金色の指輪があった。
「なんかさー、どーしてもー、つけろってー言われてさー」
あはは、と笑ってカカシはきらきらする指輪をアスマの顔の前に持ち上げる。アスマは引き続き、カカシの顔をじっと見つめた。
「ソクバクっていうの? なんか堪んないよね!」
「そーか」
アスマは腰を上げた。それを追ってカカシは目を上げる。上機嫌に弓なりになった目を、アスマは無感動に見下ろした。
「来週引っ越すんだ、俺」
カカシは女との所帯を里の外に持つ事になっている。女の実家が里とも深く関わる豪商の縁続きという事で、そういう無理が通ったらしい。全て口伝えに耳にした話であるが、アスマは本人に問い正したいとは思わなかった。この姿を見て、これ以上聞きたい事は何もない。
楽しみだなあ、とカカシは指輪に唇を寄せ、また丁寧に手甲で覆った。
「そーか」
「アスマもお幸せにねー」
カカシは手甲を着けた上からも指輪を大事そうに撫でている。
「そーか」
気の無いアスマにやっと気付いてカカシが目を細める。
「なんだよ、アスマ」
「いや、良く分かった」
片手を上げ、アスマは戸口に向かう。
「おまえに正気の神経ってもんがねえって事がな」
うふうふと笑ってカカシはその背に手を振った。そんなもの、初めから無いよと指輪を撫でる。
「アスマさん」
アカデミーの門で待っていると、イルカが慌てたように走って来た。
「伝言、さっき聞いたんです、すみません」
「あー。俺も今来たところだ」
「あなたが忍でなかったら、それが嘘だっていくらでも証明出来るんですけどねえ」
白い息を吐き出しながらイルカは笑う。
「吸殻がいっぱい散らばっていたり、体が凍えていたりとか」
確かに吸殻は灰も残さず燃やしてしまえるし、上忍にとっての体温調節など、小指を動かすほどのチャクラもいらない。アスマは苦笑してさっさと歩き出す。
「待ってねーよ」
イルカは歩幅を広め、独特な揺れ方でどんどん進むアスマの肩を追う。
「今晩、おでんです」
腰で跳ねる鞄を押さえながらイルカはアスマを見上げて言った。その顔には随分と子供っぽい真摯さが浮かび、とにかくも忍らしくは無かった。アスマの胸の内がざわざわと痒くなる顔だ。
「ほー、凝った料理を作るもんだ」
ぎゅっと煙草を摘む。その言葉にイルカは気持ちよさそうに、ははは、と笑った。
「凝ってなんかいませんって。ぶち込んで煮るだけですから簡単です」
「スジ、入ってるか」
「もちろん」
イルカはぶらついているアスマの右手を握る。
「やっぱり、あったかいですね」
そう言うイルカの手も暖かい。アスマは少し握り返し、そして離した。
「無理すんな。おまえは適当にしてりゃあいい」
適当、ですか、と呟きが返る。
「それがそもそも無理なんですよ、俺。適当ってどうやったらいいのか良く分からない」
そうかよ、とアスマは煙草を吹かす。ゆっくりと辿る家路はいつもイルカの希望で遠回りになる。誰かと帰った道をなぞらないための、遠回り。
「寒いですねえ」
「ああ、寒いな」
本当は寒さなど大して堪えてもいないが話す事が無いのだ。まだ、二人の共通点は忍である事と教師である事くらいだった。現在アスマが上忍師として教えている子供達はイルカの元生徒ではなかったから、食事と季節の話題をなぞり、禁忌である『カカシ』を除くともう言葉は終わる。
「灯油、まだあったかな」
「この間買っといたぜ」
「あ。いつもすみません」
『紐の件』から一ケ月ほどが経っている。外では口さがない者達の視線がわずらわしいため、会うのはもっぱら互いの家だ。アスマは自分の家にイルカを入れてまず、手洗いの場所を教えた。そして食事の後にイルカがそこに駆け込んでも何も言わずに放っておいた。ただ、酒だけは過ごさないように止める。やがて冬が終わろうとする最近になってやっと、イルカは食事をまともに取れるようになっていた。
「うう、さむ」
玄関でイルカはぶるっと震えた。イルカの住むアパートはこの時期殊更冷える。表よりも寒いのではないかという狭い廊下を走って居間に飛び込み、イルカはストーブに火を入れた。その間にアスマはおでんを探して台所に入る。
「……これか?」
見慣れない物体があった。どうやら毛布の塊のようだ。そっと剥がすと、内側に新聞紙が覗く。暖かみが紙越しに伝わり、そして最後に深鍋が顔を出した。
「ほー」
「こうしたら、火から降ろした後もしばらく煮込みが進むんです」
イルカが横から手を出す。嬉しそうに鍋を触って暖かさを楽しむようだった。
「あっため直すんだろ?」
「あ、俺、見てますから風呂行って下さい」
アスマから鍋を奪ってガスレンジに向かい、イルカは鼻歌を聞かせて鍋の蓋を開けた。おー出来てる出来てる、と言いながら何かを摘んで口に入れる。アスマが顔を突き出すと、ぬるいちくわがぎゅっと口に入った。
二人はゆっくり食事を取る。それはイルカの胃のためにそうなったのだが、今では食事の後の気まずさを思って二人共の箸の速度が落ちていた。実際二人の付き合いは友人と変わらない。あれきり寝てはいなかった。いないが、毎日のようにイルカを待つアスマを知っている世間はそんな事を信じはしない。それならいっそヤリまくりましょうか、と本気とも冗談とも取れる笑いでイルカは言うが、二人の距離はまだ帰り道の遠回りと同じ分だけ離れていた。
「酒、いきましょう」
「ほどほどにな」
「明日休みなんです、俺。ちょっとくらい大丈夫」
「休みか? 俺もだ」
では、とイルカは押入れを探る。互いの休暇すら把握していない『最近噂のカップル』は、押入れから引きずり出された一升瓶を真ん中に、にっと笑い合った。
酌み交わすと、何も無くただ少しばかり濃い知り合いだったかつての関係が戻ってくる。イルカは舐めるようにちびちびと飲みアスマは漬物を噛み、そうやって、ようやくくだらない世間話が二人の間に落ちた。
そういう時間をアスマは酷く懐かしいと思う。今でも変わりはしないと認識してはいるのだが、意識のどこかに芝居をしているような感覚が深く刺さっているのだ。どちらも相手に見えないような努力をし、和やかな空気を作ろうとする。合うたびに繰り返されるこの作業はやがて、習い性のように二人にとって当たり前の事となっていた。
しかし、この夜のイルカは違った。酒の入った湯飲みをこたつの上に置き、両手の中でくるくると回して緊張をアスマに伝え、そして言ったのだった。
「もう、いいんですよ、アスマさん」
いつもイルカの方が演じる事に熱心であったから、急に変化した気配にどう反応してよいものかとアスマは迷った。呟くようにそう言ってからぱっと顔を上げたイルカは、黒目をアスマに固定して微笑んだ。アスマは黙って湯飲みを口に運ぶ。
「俺、もうちゃんと眠れるし食えますから。大丈夫」
あどけない風にも聞こえるイルカの発音にアスマは眉をひそめる。それはいつも、カカシを思う時に聞かせる声だった。
「そうか」
「はい」
イルカの目が黒々と光って細められる。そしてまた視線を下げ湯飲みを回し始めた。イルカの顔には微笑みが残って幸せそうだった。無理をして笑顔を貼り付けているようには見えなかったし、おそらくそれが正解だろうとアスマは思う。
「それがいいかもな」
「はい」
「大丈夫なんだな?」
「ご迷惑をおかけしました」
「謝んなよ。俺が勝手にやっていた事だ」
「はい……」
「じゃあ、そうするか」
「は、い、あれ?」
両脇にアスマの手のひらが入ってイルカを持ち上げていた。
「あの、アスマさん?」
ずんずんと畳を振動させてアスマはイルカを持ち運ぶ。
「あの、」
アスマはやたらな生活音を立てる男ではないと既にイルカは知っている。忍として身に付いたそれを敢えて捨てる様子に不安になって精一杯顎を上げれば、アスマの顔は無機質な蛍光灯の作る陰影に紛れて無表情にも不愉快そうにも見えた。
「アスマさ、わ、」
ベッドに放られてイルカは咄嗟に受身を取った。その間にアスマはイルカの脇に手を付き、逃げ場を奪う。えと、あの、と事態を理解していないイルカのベルトがしゅるりと外れ、引き出された上着の裾が視界をさっと滑り、すぽん、と襟が抜けた。
「アスマさん!」
大きくなった声に自分で驚き、イルカは口に手をやった。イルカの乱れた髪に手をやり、括り紐を外すアスマはやはり無表情だった。
「暴れんでくれ」
疲れたような声だった。
「もういいと言ったのはおまえだ。ではそうさせてもらう」
「何を、」
「カカシなどもういいだろう、俺がヤツの場所を奪ってもいいだろう?」
下着と靴下だけになったイルカが、その格好の間抜けさを上回る顔つきでアスマを見上げる。
「……無理、しなくていいんですけど」
「何が無理だ」
「アスマさん、別に男なんて好きじゃないでしょう」
「それがどうした」
「ですから、男に興味が無い人が、俺なんかをどうこうしたいはずないじゃないですか」
「勝手に決めるな」
一度だがちゃんとやったしな、とアスマは間抜けの根源である靴下をぱっぱと脱がせる。
「あれは……あの……」
「俺は同情や哀れみで欲情するタイプじゃねえ。そう思ってたんならとんだ見当違いだぜ」
下着の攻防になり、イルカは少し語気を強くした。
「そんなの、もっと困った人じゃないですか!」
はあ? とアスマは手を止めた。少し緩んでしまったサポーターに近い下着をイルカはしっかり押さえる。
「あの時俺は弱ってました。へろへろでした」
「それがなんだ」
「ですから、そういう俺に同情でも哀れみでもなく欲情したって事は、嗜虐趣味とかサド傾向が、」
「ねえよ!」
はあ、とアスマは溜息を吐いた。薄い煙を最後に吸殻を握り焼き尽くす。見慣れた仕草だったが、薄皮のような殺気を感じてイルカはベッドの上をにじって壁に背中を付けた。
「ふざけるなよ、イルカ」
「やめましょうよ、アスマさん」
覆い被さるアスマの胸を押してイルカは言った。自分の声の震えに怖さが湧き上がったのか、やめましょう、ねえ、アスマさんアスマさん、イルカは真剣に願った。しかし上忍の胸板はただ厚く強くイルカの上に留まる。
「あなたは違います!」
「違わねえよ」
かすかに涙ぐむ顔から目を背けてアスマはイルカをシーツの上に固定する。
「アスマさ、」
「おまえが、アスマじゃねえ、と思ってるだけだ。俺とはここまでにして、カカシの事だけを考えて人生を無駄にしたいと思ってるだけだ」
アスマの言葉にイルカの目に悲嘆の光が射しかかる。
「……そうですね。俺、確かにあのひとを忘れたくないです」
「ふん」
「それが無駄だとは思わないんです」
イルカの体が柔らかくなった。止める気の無いアスマは最後の一枚を奪って自分の服に手を掛けた。
「構わねえよ、ヤツの事だけ考えてろ」
イルカは首を横に振る。何度も振る。
「俺は勝手にやらせてもらう。ヤツの場所を盗むと決めた、おまえが嫌だと言っても遅いぜ」
黒い目がきらきらと涙を溜める。好きに泣けばいい、そう事務的な響きで呟いてアスマはイルカの顎を大きな手で捕まえた。
「俺を見誤ったな」
無理やり顔を寄せる。以前抱き合った時にも最後の砦とばかりに避けていた口付けを、やはりイルカはほとんど嫌悪に近い気配で避けようと暴れた。ア、と言いかける唇を塞ぎ、アスマは遠慮なく舌を入れる。じたばたと見苦しい抵抗を押さえ付け、長く貪っているとやがて全ての動きが消えた。夢中になっているのではなく諦めに浸ってイルカは動かなくなった。そして唇が離れた途端にイルカの中の慟哭が、小さなしゃっくりの形で一つ喉から零れ出た。
つるつると、こめかみを伝う涙を見ながら、何の抵抗も示さない体をアスマは抱いた。子を犯すようだと思いながら殊更しつこく抱いた。
アスマは会えば必ずイルカを抱くようになったが、イルカは敢えてアスマを遠ざける事はしなかった。食事が終わるや被さってくるアスマに、その度律儀に信じられないと目を見開き、しかし体を投げ出すイルカは大人しい。その心中がどういうものなのかアスマには測りかねたが、カカシが居た場所を塗り替える作業を止めようとは思わなかった。
カカシが『味をつけておいた』と表現した通り、諦めの中でもイルカは甘く解れた。アスマは乱暴をせずまた焦らしもしなかったから、結局快感を得る事になったイルカは時に自分からゆるゆると腰を動かし背に手を回す。そして、互いの体液で汚れた体を分けると、イルカは大概焦点の合わない目を天井に投げた。イルカ、と呼べばその目はくるりと現実に戻ってアスマを捕らえ、ぼんやりと笑う顔が子供じみる。
痛々しい。
確かにそう思う。しかしそれは同時に腹の中に虫を飼うような痒みをアスマに覚えさせる。好ましい、愛惜しい、いじらしい、そういったあらゆる曖昧な言葉を集めて表現せざるを得ない感情が、アスマの手をイルカの肌に乗せるのだった。
――ハマっちまったかもな。
苦笑いが煙草のフィルターを噛み締めさせる。上忍待機所でイルカのシフトの終わりを待ちながら雑誌をめくるのが日課の一つとなっている。
――まんま、カカシだ。
かつてからかって笑った男と寸分狂わない姿で紙コップからコーヒーをすすり、アスマは時計を見上げた。そろそろ授業が終わる頃だ。最近は受付業務は少ないから定時の上がりが多い。そういう事を自然と把握するようになってどれくらいだろうか。冬は盛りであっても断末魔、カレンダーをめくれば花の季節だ。
そろそろ、と腰を上げた時、ものすごい勢いでドアが開いた。バシャンガシャンと嵌めこみガラスが割れる音が続く。
「……おいおい」
紅だった。恐ろしい形相をしている。
「気狂いよ!」
彼女は一言叫んで歯を剥いた。
「落ち着け、とりあえず座れ」
ソファを指差すとどしどし歩いてやってくる。しかし座らず、紅はアスマを見上げて大声で言った。高ぶった気が収まらないようだ。
「す、すぐに帰りなさい!」
「なんだよ、俺かよ……」
うんざりした声を出しながらも、アスマは背筋を伸ばした。紅は上忍になるだけの気概のある女だ。大抵の事は自分の脇を通して流してしまえる。むしろ、一般の男よりも冷静に事態を観察できるだけの余裕のある人間だった。それがこの荒れ様、アスマは真剣に紅を見下ろした。
「どうした」
「あん、たは家に、帰って、カ、カシは私が、」
激怒のあまりに言葉を途切らせる紅の右手は、爪が三本折れている。カカシ? そう聞き返して一瞬の後、アスマの顔が強張った。
「イルカ、か」
紅は忙しなく頷きながらかいつまんで事情を話し、アスマは開いた窓から飛び出した。
「イルカ!?」
かつてこれほど慌てて自分の家に跳び込んだ事があっただろうか。アスマはサンダルも脱がずに廊下を行く。古い家屋故の長く暗い廊下の距離は憎いほどだった。
「おかえりなさい」
居間のふすまをぱしん、と開けると、座り込んでいたイルカが言った。急いで引き上げたと一目で分かる乱れた任務服のままで、涙を滂沱と頬に伝わせ、笑ってイルカはそこにいた。
「……イルカ」
それだけを口にするのが精一杯だった。サンダル、とイルカがアスマの足先を指差して笑う。
「イルカ」
にじるようにイルカに寄る。細心の注意を払って体を抱くと、触れた部分から零れた水が広がるように、小さな震えがイルカの全身を覆っていった。
「イルカ」
それしか言えなくなり、アスマは機械的に繰り返す。
事の顛末は、アスマの予想をはるかに越えていた。
職員室に突然カカシが来たのはその日の午後、陽が傾く時間だった。カカシは真っ直ぐイルカの机に向かい、目の前で両手を合わせ、ごめんちょっと来て、と言った。上忍に拝まれて席を立たない中忍はいない。紅はその時新しい生徒の事で元担当教師と話をしていたので現場に居合わせ、不審に思って後を付けた。
カカシはイルカを連れて中庭に向かった。そして校舎から死角になる位置でイルカを手近の木に押し付けた。
ごめん、ちょっとやらせて。
カカシは木に押し付けたイルカの耳元でそう言ったという。
カミサンが法事で隣国に行ってて溜まっちゃって。商売女だと病気が心配でしょ、その点あんたなら安心だから。ああ、アスマにバレないようにゴム付けるし、ほんの五分で済ますから。
そうして剥き出しにした尻に一物を挟んでいるところに、勇敢にも紅は飛び掛かった。
「イルカ」
震えるイルカの背を擦り、頭を撫でてアスマは言葉を探した。何も、見つからない。自分の感情すら死んでしまったかのように平らかだった。カカシに対して怒りも無ければ軽蔑も無く、ただイルカの悲嘆が哀れであった。
「俺、心のどこかで……信じてたんです」
澄んだ声だった。イルカは自分の袖で顔を拭う。
「あのひとも、別れを悲しんだんだって。ちょっとくらいは辛いと思ってくれたに違いないって思ってました。一欠けらくらいは、俺を好きでいてくれた時の気持ちが今でも残っているかもしれないって」
イルカの目は黒々ときらきらと、ある種の情熱を持ってアスマを見上げた。
「でもあのひと、勃たなかったんです。溜まってるって言ったのに、やっぱり男じゃダメかなって、俺ホントにコレに突っ込んでたっけ、あーダメ、ねえ舐めてくれない、嫌なの? 仕方なーいねって尻に挟んでごしごしやって、ああ、このひとはちっとも『俺』が見えてないんだ、これはモノなんだな、そんな事を思ってたら紅さんが来てあのひとを思い切り殴って、やだなあ紅ちゃんたらノゾキはダメよ、ってあのひと笑ってて、それで俺、ここに来ました。紅さんがアスマさんを呼ぶって言ってくれたから」
イルカはアスマをじっと見つめた。久方ぶりに泣きたい気持ちを思い出しながらアスマはイルカに口付けた。イルカらしくない、冷たい唇だった。
「抱いて下さい、アスマさん」
背に腕が回る。
「忘れられないけど」
優しく、優しくイルカは言った。
「でも、もう、アスマさんが、いい」
それまで何度も体を重ねてきたが、初めて抱き合うような夜だった。
甘みのある腕、口付けをねだって上がる顎、揺らされながらアスマの耳を齧る歯の音、本気で受け入れるイルカの体は術のようにアスマを混濁させ、完璧に制圧した。
二人の関係はまたもや変化した。イルカという人間が、愛する事で相手を屈服させるタイプだと気付いた時には、彼の溢れ出る情愛の濃さにアスマは息も出来ずに跪いていた。あれほど固執した場所をやすやすと差し出すイルカに、本当にこれが自分に与えられても良いのかと、アスマは何度も自問した。
しかし、まだ青い時間に目を覚ますとイルカの指がそっとアスマの顔を撫でているのだ。アスマにとってイルカがそうであるように、イルカにとってもアスマは男以外の何者でもないに違いない、しかしイルカはその厳つい顔を大切なものとしてそっと指で辿る。鼻先に落ちる掠めるような口付けの後遠慮がちに呼ばれる名、それは、アスマ、と音になる。
胸に収まった暖かい体、白く浮き上がる顔の傷跡、アスマの記憶に焦げ付くように染み込んでいくイルカはある朝笑いながら起きた。すごく年をとった夢を見ました、俺達二人共しわしわで、煙草に火を点けてあげたいのに、あなたの唇も俺の指も老人性の何かで震えて全然だめでした。
そんな、正しく夢などをみる者、それがイルカという存在であり、アスマはそれを得た。
終わる冬、アスマはイルカを得る事を許されたと、知った。
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