甘露 3

 あれからカカシの噂は聞こえてこなくなった。実際アカデミーに寄り付きもしない。話題の男が見えなくなれば人の口の移ろいは早いもので、アスマとイルカが並ぶ姿が当たり前の光景であると認知されるまでにさして時間は掛からなかった。
 カレンダーがめくられ、間近に迫った花と子供を迎える準備にイルカは忙しい。いずれアカデミーに勤めるのもいいかもしれん、そんな事を考え始めた頃、アスマに個人任務依頼がきた。いつの間にか彼の家に居着いてしまったイルカに見送られ、アスマは迎えの鳥を追って走った。

 鳥はアスマを木ノ葉病院に導いた。しかし指示者は見当たらず、病院の前でアスマは煙草に火を点けながら頭を掻いた。と、自分と同じように鳥に先導されて来る者が見える。
「おまえもか?」
 土煙を立てて止まった男はガイだった。
「アスマも呼ばれたか!」
 しかしガイはいつもよりも表情に乏しく、無駄な動きをしなかった。
「詳しい事は中で聞ける。行くぞ」
 せかせかと病院に入っていくガイに従い首を傾げながら、アスマは入り口に置いてある灰皿に煙草を放った。

「お着きですか!」
 病院に入ると二人を認めた看護士が安堵を顔に乗せて寄って来た。一体なんだ、と言いかけるアスマを制し、こちらへと彼女は階段を降りる。アスマも何度か世話になった事がある特別区だ。重症患者、それも忍限定の区画である。洗浄室、と書かれたプレートが付いた扉を押し開け、彼女は二人にシャワーと着替えを言いつけて姿を消した。
「おいガイ」
 なんだ、と答える男は腰の辺りで仕切られた半個室の中でシャワーを浴びている。
「こりゃ一体何の任務なんだよ、そろそろ言えや」
「抑制だ」
 簡潔に言ってガイはシャワーを止めた。
「抑制?」
 滅菌済みの上下に着替え、髪をドライヤーで乾かし始めたガイの隣でアスマもそれに倣う。
「読んで字のごとし。カカシを抑制する」
 眉を寄せ、アスマはガイを睨んだ。
「奴がどうした、」
「ご準備よろしいでしょうか」
 アスマの言葉は先ほどの看護士の登場で途切れた。髪を滅菌布で覆いながら、どうぞこちらへと導く彼女の背に従って部屋をゆるく仕切ってある観音開きの扉を抜けた。
「急なお呼び立ての上、早速で申し訳ありませんが」
 言い、彼女は更に仕切られた扉を開けた。
「一刻も早い処置へのご協力をお願い致します」
「なんの、友のためならいつでも参じるさ」
 ガイは気楽そうに彼女に笑い、奇妙な形のベッドに横たわった者の側に歩み寄った。
「久しぶりだな、カカシ」
 隣に並んだアスマは息を呑んだ。
「悪いね……二人共」
 カカシは囁くように言った。カカシの体はいたるところ包帯で覆われていたが、くぐもり詰まった音はそのせいではない。喉から鼻辺りにかけてが一体になる程に膨れ上がっているからだった。
「安心しろ、俺達が来たからにはもう大丈夫だ。好きなだけ暴れたらいいぞ!」
「……任務で、か」
 当然の事を呟くアスマにカカシは笑う気配を見せた。
「まあねー」
「はたけ上忍、モルヒネを打ちます。これがぎりぎりの量です、どうぞ堪えて下さいね」
 うん、とカカシは疲れ切った声を漏らす。看護士はカカシの左に回って注射針を突き刺した。

 カカシは、全身に火傷を負って帰還した。容態が安定するまでは集中治療室で密やかに手当てを受けており、彼の帰還を知る者は上層部と医療関係者のみに限られた。が、熱傷治療が本格的に開始され、問題が生じた。感染症を予防するための患部の洗浄に伴う凄まじい痛みに耐え切れず、暴れるカカシによって看護士が次々と怪我を負ったのだ。
 体力も気力も落ちているとはいえ上忍を抑制出来る看護士などおらず、結局同じく上忍のガイとアスマが病院へと呼ばれたのであった。
 運悪く五代目はシズネと共に風の国を訪問中であり、彼女が戻るまでは一般人に施されると同じ治療しか与えられない。ガイとアスマはモルヒネを限界まで投与されてなお、包帯やガーゼを剥がし壊死した組織をこそぎ落とされる激痛に悶絶するカカシを全力で抑制するという任務を与えられたのだった。
 治療が終わり、安堵に半ば失神しているカカシに付き添って病室に向かうアスマとガイに、カカシはよく耐えているのだと看護士は溜息を吐いた。無為に暴れるのではなく、痛みへの反射で手足をばたつかせるに過ぎない、それに弾き飛ばされて怪我をした看護士達もカカシに対して恨み事を言うでなく、上忍の不幸というものに同情しているという話だった。

  それから毎日、アスマはガイと共に『抑制』の任務に赴いた。口数が少なくなったアスマにイルカは何も問わず、ただいつもよりも笑顔を増やす。
 ――任務、だからな。
 自分への言い訳でしかないと分かっていながら、アスマはイルカには何も言わなかった。しかし、眠るイルカの顔を見つめるほどに、アスマの中に黒々と罪悪感がとぐろを巻く。
 ――罪悪感、か。
 己の心情を見極めてアスマは苦笑に唇を歪ませた。窓を覗き込む月の光が、角度を変えながら眠るイルカの顔を照らす様を眺めるアスマの中に、一つの恐ろしい推測が形を成し始めていた。
 あの異常なまでのカカシの行動、未だ誰も顔を知らぬ彼の妻、そして肘から下は無事だった左手に指輪が無い事。
「もう遅い」
 捕まってしまった。
「もうやれない」
 誰にも、渡せる訳がない。
 アスマは無理やり目を閉じた。脱力したイルカの手を取り、隠すように握り込む。
「イルカ」
 偶然なのか、その声にイルカは小さく返事をした。アスマは長く息を吐く。



 五代目が里に戻ったという報せが届いた。予定よりも随分と早いその到着をアスマは病院で聞いた。その日の『抑制』は中止され速やかに治療術が開始される運びとなり、アスマはガイと並んでカカシの病室に向かっていた。
「五代目は、道中ずっと走り詰めで戻られたそうだぞ!」
 ありがたい事だ、と明るく言うガイは面やつれしている。アスマも似たようなものだった。洗浄を含めた最善の処置によってカカシは徐々に回復したものの、腐った組織の臭いやカカシのうめきが彼らの心に重く沈殿していた。
「なかなかの任務だったな」
 ぼそりと言うアスマにガイはうんうんと頷き、ばんとその背を叩いた。
「今夜は安心して眠れるさ! カカシはこれで痛みから解放されるんだからな」
「……だな」
 五代目は、一気に皮膚の再生まで行うという事だった。極端な身体変化によってカカシの体力は一時的に底まで落ちるが、傷を塞ぐ事でその後は劇的な回復が見込めるという医師達の見解あっての決断だった。
「そろそろ終わる頃だろう!」
「そんなに早いもんなのか? 俺は五代目の治療を見た事がないから分からんが」
「うむ、かなり早いのは確かだな! リーの時も時間がかかるとおっしゃっていたわりにはえらく早かったぞ」
「お、話し声がする、本当に終わったか」
 アスマが病室の手前で足を止めた途端、看護士がぱっと扉を開けた。彼女は二人を見上げるともう大丈夫ですよと嬉しそうに笑い、二人のために扉の隙間を少し残して足早に去って行った。ガイがノブを握りアスマがポケットから手を出した時、急にカカシの声が大きくなった。
「お願いですから下さいよ」
 笑うような含みのあるいつも通りのカカシの声だったが、何か切迫するような空気を感じて二人は顔を見合わせ立ち止まった。それは五代目の気配でもあった。
「ねー、五代目ってばー」
「いい加減にしろ」
 綱手の言葉には覇気が無かった。
「お願いですからー」
「駄目だ、駄目なものは駄目だ」
「なんでですかあ、いいじゃない、もう一個くらい」
「言ったはずだ、『金の輪』は二度とは与えない」
 ――金の輪?
 何の事かアスマには分からなかった。お菓子をねだるように手のひらを上に向けたカカシの右腕が細い視界に突き出た。その腕はケロイドに覆われてはいたが、確かに傷は塞がっている。
「下さいよー」
「だめだ」
 綱手がぴしゃりと言い、しかしカカシはねだり続ける。
「下さい、下さい、ちょーうだーいー」
「今治したばかりだろうが。もう痛みを忘れたか」
「痛いのなんていーんですよ、もう一個下さいよー」
「ばかもの……ゼロ任務は生涯一度と決まっている」
 アスマとガイは同時に口を開け、同時に言葉を飲み込んだ。
 ゼロ任務、それは極秘中の極秘であり、かつ、確実に生きて帰れない激烈な内容であるが故に、住居も持ち物も人間関係すら全て片付けてから挑む事を義務付けられた最も残酷な任務とされている。ただし誰も噂以上の話は知らない。もちろんゼロ任務の性質上、それに当たった者や体験談が存在するはずはないのだ。
 アスマはそんな任務は訓戒のような伝説であって、実在するとは思っていなかった。カカシがそれを成し遂げしかも帰ってきたとはにわかには信じ難い。真実だったか、とアスマの代わりにガイが囁き、二人は息を潜めて耳を澄ませる。
「おねがい、もういっこちょうだい」
 子供のようにカカシはねだった。
「……そんなものが幾らも転がっていると思うのか」
「無いんですか、じゃあ特Sとかでもいいから」
 カカシは拗ねたように言う。
「カカシ」
 綱手の声色が変わる。
「本当にご苦労だった」
 常には無駄なくらいに自信に満ち溢れている綱手の声とは思えぬ、情のこもった声だった。
「あの任務内容で四人も生還したなど、正に奇跡としか言えん。おまえが居たからこその勝利であり、見事な結果だったと思う。何より里の宝であるおまえが無事に帰還してくれた事、心から感謝をしている」
 その瞬間、カカシが突き出す手の前に綱手の薄い色の髪が現れた。彼女はカカシに向かって頭を下げているのだ。厳粛でさえあるその姿にアスマは目を見開いたが、カカシは大げさな溜息で答えた。
「そんなのどうでもいいんです。難しい任務を下さい」
「おまえがでっちあげた話については、おまえに傷が付かないように上手く始末をつける。その他何でも援助をする、遠慮なく言ってくれ」
「そんなの、どうでもいいんですって」
「おまえはもう一度里で生きろ。自分の場所を作るんだ」
「どうでもいいんです」
「……イルカもきっと分かって、」
「いいんです!」
 突如、火影相手にカカシは全開の殺気を噴出した。あらゆる物を焼き尽くす程の熱さでもって、カカシは叫んだ。
「下さい、任務を下さい、戻って来られないような任務を下さい!」
 びりびりと微かな振動音すら聞こえる。綱手は何も答えない。随分と長くカカシは激情を燃え立たせていたが穏やかな綱手の気配に徐々に消沈し、終に哀れっぽく言った。
「火影様、俺に任務を下さいよ」
 カカシの手が、空を掻くようにして綱手に寄り、彼女の帯を掴んだ。それをそっと解き、立ち上がりながら綱手は言った。
「おまえの傷は、私の力を使い切る事になるとしても何も無かったように治してみせる。私に戻せるのは、それだけだ」
 彼女が出てくる気配にアスマとガイは身を引いた。五代目、と呼びかけるカカシの細い呟きを薄い生地のカーテンで遮り、綱手はゆっくりと二人の前に現れ病室の扉を閉めた。
「他言無用」
 厳しい目でそれだけを言い、綱手は背筋を伸ばして歩き去った。



 十日ほど後、アスマはカカシが退院したとの報せを受けた。それと同時に綱手が放ったのであろう『噂』が広がり始めた。
 さすが写輪眼のカカシ、最高ランクの任務の指揮を務め犠牲も最小限に留めたらしいという話から始まり、酷い怪我を負ったカカシのため五代目は彼の自宅にまで通って治療を施しているという目撃談、更にはその怪我の酷さに忍の妻を続ける自信がなくなり女房は逃げた、そういった話が羨望や感嘆、同情の溜息と共に勢い良く語られていく。
 イルカは相変わらず忙しく、そんな雀の鳴き声など耳に入らぬという風情で立ち回る。そしてアスマには殊更優しい。未だ理由を知らないものの『なんらかのダメージを受けているアスマ』のためにあらゆる手を尽くしていたわりを見せる。
 が、ふとした瞬間にイルカは視線を落とすのだった。アスマの声を聞き逃す回数も増えた。今も、目を逸らせぬ何かを見つけたようにじっと自分の膝を見て固まってるイルカを横目に、アスマは酒を口に運んだ。
「イルカ」
 やや空けて、イルカはアスマに笑顔を向けた。
「漬物、もっと切りましょうか?」
「いや」
 何を見ていたんだ、そうアスマは聞きたかった。しかし手を伸ばし、猫を撫でるようにイルカの顎を触るに留める。くすぐったそうにイルカは身じろぎ微かに笑い声を立てた。

 二人は久しぶりにイルカの家で過ごしていた。たまには帰って風通しをしねえと畳が腐るとアスマが強く主張したからだった。イルカはこのアパートを引き払うつもりで引越しの日までは放置しようと決めており、アスマの提案を少し嫌がったが、荷物の算段もあるじゃねえかと言われて渋々頷いた。
「早くアスマさんの家に移りたいです」
 大根の尻尾を摘みながらイルカは柔らかく言った。そうか、と答えながらアスマは僅かに眉をひそめた。
 ここのところイルカは焦っている。何かに追い立てられるように、夏頃にはと言っていた引越しを早めた。卒業生の初任務に丁度良いと、引越しの手伝いを里に依頼したのは昨日の事だ。里の中ならばどこに住むのも個人の勝手だが、家族でもない者の家に越すとなれば多少の詮索は覚悟しなければならない。しかもその手伝いを下忍に依頼するというのは、里に対して二人の関係を発表するようなものだった。イルカからその決心を聞かされてアスマは大いに驚いたが、特に異を唱えはしなかった。どうしてそれほどイルカが焦るのか、手に取るように分かっていたからだ。
 イルカはアスマに対する気持ちを証明したがっている。後戻り出来ないところまで進む事で。痛々しい思いでアスマは机に突っ伏したイルカの括られた髪先を見つめる。
 ――カカシみてえな真似はしねえってか。
 胸の中で呟く。あくまでも真摯にイルカはアスマへの思いを極めようとしていたが、アスマには揺さぶられる心から目を背けようとしているように見える。いや、そうなのだ。イルカは間違いなくカカシを案じている。大怪我を追った体を、妻に逃げられた傷心を。もしもアスマがいなければ、蹴られても殴られても、怯む事なく側にいるのだろう。そんなイルカだからアスマは惚れた。
「おい、ちゃんとベッドに行け」
「んー、もうちょっと」
 何がだよ、とアスマは笑ってイルカの髪を引っ張る。少し湿った感触が指に心地よく、そのままぐりぐりと撫で付けた。うーんとイルカは体を揺らして甘ったれた声を出した。
「運んで下さいよー」
「面倒くせえ」
 言いながらアスマは立ち上がってイルカを引っ張り上げた。いつものように脇に手を入れてずるずる引き摺る。おらよ、とベッドに乗せるとせいぜい甘えるつもりのイルカは両手を突き出した。
「ったく」
 アスマは笑ってベッドに座った。腰に手を回して懐くイルカを起こして強く抱く。
「体温高いな」
「風呂上りですから」
「忍に向いてねえよ」
「そうでもなさそうですけどね」
「イルカ」
「はーい」
 本当に寝ぼけてきたらしい声でイルカは幸せそうに答える。
「イルカ」
 アスマは、完全に眠ってしまうまで心地良い熱さの体を抱いていた。白々と照らす月が傾いても、その寝顔を見つめていた。朝などくるなと、かつて憎んだ明けぬ夜に詫びながら。



「アスマさん、起きて下さい、起きてって、」
 起きろこのクマ、と耳を引っ張られて笑いながらアスマは体を起こした。
「あー、もう朝か」
「朝ですよ、新しい朝ですよ!」
 アスマをまたいでイルカがベッドから降り台所に向かう。その背をしばし眺め、アスマはのろのろと着替えを済ます。着ていた寝巻きをいつものように洗濯機に入れようとして、止めた。丸め、雑多な物も拾い歩いて袋に押し込み、一番上にベストを突っ込んで玄関に置いた。
「アスマさん、早く飯食って下さい!」
 ベストを着込みながらイルカが居間に顔を出す。おう、と答えて居間に向かう。イルカは細々した皿を卓袱台に乗せている。
「もうちょっと早く起きてって何度も言ってるのに」
「善処する」
「そればっかりです」
 目元で微笑んで飯を食むイルカを見ながらアスマも味噌汁をすする。残念ながら味はしなかった。
「そろそろ出ましょう」
 鞄に巻物を詰め込みながらイルカが居間を出る。その後に続き、アスマは一度振り返った。大丈夫だ、色濃いものは何も残っていない。
「いい天気ですねえ」
 伸びをしながらイルカは歩く。斜め掛けした鞄がどうもやはり子供じみている。しかし似合うものだと思って笑うアスマにイルカが首をかしげながらやはり笑い返した。
「イルカ」
 アスマは空を見ながら言った。
「はい?」
 イルカは電線の上のスズメを見ている。
「ゼロ任務って知ってるか」
 途端、イルカは硬直したように立ち止まった。
「いや、俺じゃねえ、俺じゃねえ」
 手を振ってイルカを呼び、アスマは苦笑する。
「噂くらいだろうがよ、知ってるな」
「ええ……。帰って来られないから、自分の全てを無かった事にしてから里を出なければならないから『ゼロ』、なんですよね。死体を判別するための術を体に染み込ませるため、事前に何かの形にして与えるくらい、厳しい任務だって話を聞きました」
 そんな任務、本当にあるんでしょうか、とイルカはまだ不安そうに頬を触り、アスマは笑って視線を合わせる。
「あるぜ。術は金色の指輪の形で与えられる。だから『金の輪』ってな隠語で呼ばれるらしい」
「あるんだ……」
「例えばだ、俺がそれに行って、」
「アスマさん!?」
「例えばって言っただろが」
「いやです、喩えでも」
 真摯に言うイルカにアスマは心を打たれた。決心が痺れるように甘く揺れるのを、煙草のフィルターを噛む事で堪える。
「まあ聞け。行ったとして、万一帰って来たらどうする?」
 え、とイルカは首を傾げた。
「戻れないんでしょう?」
「天地がひっくり返って何もかも上手くいって、戻って来たら、だ。どうする?」
「そりゃ、嬉しいです」
 イルカは真面目な顔で迷い無く言った。
「事前に何も知らせず、酷えやり方でおまえを捨ててもか?」
「そんなの関係ないです、そんな任務で帰還出来るなんて、それだけで何もかも無しです!」
 そうイルカが拳を握っている間にアスマはベストを紙袋から引っ張り出し、残りの全てが入ったままの袋を電信柱の周りに溜まっているゴミ袋の群れの中に放った。
「そうか、そりゃ良かった」
「アスマさん?」
 また首を傾げるイルカの目を、黒い、とアスマは思った。黒い、黒い目。
「ほれ」
 ベストのホルダーから取り出した物をイルカの目の前にぶら下げた。イルカは一瞬呆けたような顔になり、そして一歩後退った。
「なんで、それ、」
「俺が預かっただろうが」
 受付でカカシがイルカに返そうと必死になっていたあの紐だった。そう、カカシは必死だったのだ。
「要りません」
 あの日と同じにイルカは言った。しかしその目は穏やかだ。
「いいから、持ってみな」
「要りませんって」
 イルカは拗ねたような顔になり、ぷいと横を向いた。
「まだ俺を疑っているんですか」
「疑うって何をだ」
「アスマさんのそういうところ、好きじゃないです」
 嫌いじゃないけど、とフォローを入れつつイルカは俯く。その横顔を、美しいなとアスマは思った。正直なところイルカを美的に高く評価した事は無い。しかし、自分を思って拗ねるその顔は美しいと思えた。
「じゃあ、頼む、と言ったらいいか。頼むから、ちょっと持ってくれ」
「……全く」
 こんなの、平気なんですから、そう言ってイルカは子供のわがままを聞いてやるような飽きれた表情で紐の端を摘んだ。アスマが指を離すと、紐はイルカの指先からぶらんと垂れた。
「これでいいですか」
 嫌そうに紐を振り回す。
「端っこ、見てみな」
 イルカは言われたように持った紐の端を覗いた。
「ん?」
 それに気付いて目の近くに掲げ、イルカは慎重にもう一方の手で見えている白いものを引っ張った。
「……アスマさんがやったんですか?」
 へんな悪戯、言いながらイルカは取り出した細いこよりを指先で回した。やっぱり紙か、アスマはそう思いながら、そ知らぬ顔で言う。
「解してみろ」
「はいはい」
 苦笑しながらイルカはこよりを丁寧に開いた。そして、呼吸を止める。

 金の輪をもらいました。ひどいことしてごめんね。これからもっとしますから俺を覚えていて。

 細い紙の真ん中に、小さな文字があった。ひ、と思い出したようにイルカが息をする。その字が誰のものか彼は忘れてはいない。アスマは溜息を煙で隠し、あれだけ自分をけしかけておいてこれを残そうとした男の、矛盾しそして引き裂かれた心を思う。思い、自分を誤魔化した。
「てな訳だ」
「そんな、そんな、」
 イルカは見事なほどぶるぶると震えてアスマを凝視した。
「悪いなイルカ、俺もそんなに暇じゃねえんだ」
 アスマはぐるっと振り返った。つられるイルカの前に肩を竦める影がある。
「ごめんなさいねえ、イルカ先生。そろそろアスマを返してね」
 紅だった。彼女は艶然と微笑みイルカの横を通り過ぎると、アスマの腕にするりと自分の白い指を絡めた。
「死にに行く奴の頼みじゃあ断れねえ。まあ、ほとぼりが冷めたらこいつに戻ろうとは思っていたんだがな」
 イルカは茫然とアスマと紅、そして手の中の紙を見比べる。
「カカシの奴が帰って来て一安心だ。俺の役目は今日限りにしてもらえねえか?」
「アスマさん……」
 イルカは混乱し、紐と紙を持った手を胸に押し当てた。アスマは盛大に溜息を吐き、イルカの背を押す。
「行けよ」
「そんな、」
 イルカはおろおろと首を巡らし、そしてアスマを見上げて目をきらめかした。
「行け、いいから行け」
 そんな、と繰り返してイルカはアスマの袖を握った。アスマはそれを乱暴に取り戻し突き飛ばすようにイルカを追い立てる。
「アスマさん、」
「要らねえんだよ、いつまでもカカシばかりを見てるようなヤツは」
「そんな、」
「抱いてても俺なんぞ見ちゃいなかったじゃねえか。突っ込んでくれるヤツなら誰でも良かったんだろうが。突っ込まれてイイ気分になって、カカシとやってるつもりで喜んでいただろうが」
「違う、アスマさん、」
「面倒くせんだよ、おまえは」
「アスマさん……」
「まあ、カラダは良かったぜ。カカシが骨抜きになるのも無理はねえ」
 膝でイルカの尻を押す。振り返るイルカの目が水っぽく揺れる。
「行け、面倒はもう充分だ」
 アスマさん、とイルカは呟いた。言いながらイルカは泣き、アスマの喉元も熱くなり声が上ずる。
「おまえなんか要らねえんだよ、知ってるか、俺は『とうの立ったお古の穴に夢中だ』なぞと言われてんだぜ、ぞっとする」
 ばちん、と背中を叩かれてイルカはふらつき涙が飛び散った。紅がアスマの手を引き、ぐうっと喉を鳴らすイルカから引き離して微笑む。
「アスマのは、私のものよ。あなたのはあっちでしょ?」
 紅はアカデミーの方向を指差した。機械仕掛けのように首を回したイルカの視線の先には、校門の前でこちらを向いて硬直している銀髪があった。彼は杖を付き、手甲ではなく手袋で右手を隠している。
「あなたのじゃイキ足りないってアスマが煩いの。私の、柔らかいのが良いんですって」
 高く笑い、紅はアスマに抱き付いた。紅の精一杯の言葉だった。彼女はそれっきりアスマの胸に顔を埋めて肩を震わせる。アスマさん、と小さく呟くイルカの声が聞こえぬように、二人は寄り添い背を向けてアカデミーから離れて行く。 
「……ごめんなさい!」
 息を止めてアスマは立ち竦んだ。振り向きたくなかった、しかし。
「ありがとう、アスマさん」
 うっと最後にしゃくりあげながらイルカは必死で笑っていた。そしてぱっと身を翻し、駆け出した。



 紅に詫びて体を離し、アスマはアカデミーから遠ざかる。
 遠く、カカシの絶叫が聞こえた。わあ、とか、ああ、とかいった音、それに被さるように小さく、小さく、聞き逃す事のない者の嗚咽をアスマは聞いた。
「良かったんだ」
 それだけを思ってアスマは歩く。これでいい、きっとこれで良かった。彼らはもう離れる事はないだろう。
「ああ、面倒くせぇ」
 ――面倒なやつらだ、この俺様が狂言回しかよ。
 はは、と笑った拍子にアスマの眼下に光るものが落ちた。次々と零れて止まらない。信じられない、こんなものを見るなんて。しかし笑おうとしてももう喉からは潰れた音しか出なかった。
 子供のように腕で顔を拭いながらアスマは歩いた。どこへ向かうのか自分でも分からない。少なくとも、自分の家にはとても帰れないだろう。別にいい、イルカの匂いが濃く残るあんな家など燃やしてしまえばいい。アスマはせいぜい唇を歪めて笑いを作り煙草を探したが、どうしても見つからなかった。
「水、だったな」
 呟き、また目が燃えるように熱くなる。

 魂も肉体も疲れ果て、乾いた血をばりばりと落としながら倒れた時に差し出される一杯の水。
 カカシは、アスマになら分かると言った。
 ああ、分かる、俺には分かる。あの一杯の水の尊さが、喩えようもなく甘いその味が。

 イルカは確かに水だったのだ。命を静かに癒す、甘露という名の。






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