雪中夢想 4

 自分のくしゃみでカカシは目を覚ました。うっすらと板の間に霜が下りているのが視界に入り、冗談じゃないと目を見張って腕の中のイルカを確認する。
「寒いね、イルカ先生」
 彼はよく眠っていた。浅い呼吸の度、彼の回りにもやのように白い息が広がる。土間の火は落ちており、小屋は表よりは幾分ましかという悲惨な状況だった。
「とりあえず、火……」
 体を擦りながらカカシは起き上がった。少し考え、ベストを脱いでイルカの肩に掛けてやる。腹の痛みは随分と治まっており、昨日よりも自分の足が軽いと感じながら小屋の木戸に手を置いた。
「……凍結してる」
 慎重にチャクラを練り、木戸に手のひらを当てる。溶ける先から凍っていく雪に閉口しながらも、木戸をがたつかせて辛うじて三十センチの隙間を開けた。腰まで積もっている雪を掻き分け、炭焼きの竈の脇を目指す。これ以上積もればもう補充もままならないと、何度か小屋と竈を往復して大量の薪を土間に運び入れた。この小屋の中で一番元気な雌鳥が、寒いと抗議するようにカカシの足元を走り回る。
「ハイハイ、飯ね。ああ、また卵産んでくれたのか。おまえは働き者だよ、ホント」
 たっぷりと餌を撒いてやり、卵を拾ってまな板の脇に置き、一抱えの薪を持って竈に戻る。節約節約と念じながら火遁で火を熾し、流れ出した暖気にほっと体の力を抜いた。
「イルカ先生、起きませんか。飯、食いましょう」
 昨日の鍋を火に掛けながらカカシは呼びかけた。返事は無く、イルカは静かに横たわっている。
「イルカせーんせ、食って回復する時期ですよ。後で眠らせてあげますから、」
 言葉を切り、カカシはイルカを覗き込んだ姿勢で固まった。
「……イルカ先生?」
 呼吸が速すぎる。この寒さの中、額に薄く汗が浮かんでいる。彼の右手が朦朧と動き、足の傷に当てられるのを見てカカシは土間に這い上がった。イルカを平らに寝かせて躊躇無く支給服のズボンを引き下ろす。途端、う、と息を詰まらせて顔を背けた。
「こ、れは……」
 暗い緑色の液体が傷口から滲み出ていた。痒いのだろう、無意識のまま掻き毟った部分からも溢れている。腐敗臭があっという間に小屋中に広がった。
「なぜ、こんな」
 眉間にきつく皺を寄せ、カカシはくないを手に取った。イルカは意識を失って小さく喘いでいる。
「ごめん、イルカ先生」
 感情を切り替え、鳥をさばくようにイルカの足にくないを滑らせた。腐った体液を抜き取るための行為だったが、すぐにくないを取り落とす。範囲が広すぎた。
「駄目、だ……。なんてことだ……」
 雪を溶かした水を充分に沸かして冷まし、毎日洗ってやっていた。昨日そうした時、傷は大方固まって痛みも随分和らいでいた。眠る前まで、こんなことにはなっていなかった。
「一体、これは、」
 チャクラ温存のために閉じていた左目を見開いた瞬間、一個の記憶が蘇った。
「草の風土病……!」

 二人がいるこの小屋は、草隠れに近い火の国の端にある。十数年前、カカシは医療班と共にこの辺りを訪れたことがあった。その年は積雪量が異常で風邪をこじらせる患者が多数見られた。それに混じって草隠れ独特の風土病が火の国に侵入してきたのだ。
 当時カカシは親友を失ったばかりで、あらゆる事象に無感動になっていたが、この病を目にしていきなり目が覚めた。それほどに激烈な症状だった。この名も無い病は、抵抗力を失った者が傷を負った時に感染、発病する。空気を嫌う細菌が原因で、傷が開いている間はほとんど悪化しない。そして傷が塞がるや否や細菌は爆発的に増殖し、一気に腐敗を引き起こす。そのために発見が遅れ、気づいた時には。

「手遅れ、だ」
 こうなっては、腐敗が広がった部分を切除して焼くしかない。唖然とカカシは傷を見つめた。イルカの右足は、もう駄目だ。
「やるなら……早くしないと……」
 あの時もそうだった。堪忍してくれという家族を説き伏せ、患者の手足を切って回った。それを焼く臭いが村中に漂っていたのを忘れることが出来ない。 早い物理的な処置だけがこの病を沈静化させる手段、そう言ったのはスリーマンセル時代からの仲間。自分の医療忍術が及ばない悔しさに、顔を歪める彼女が脳裏に瞬いた。
 カカシはくないを握った。振り上げ、しかし、降ろせない。これを切れば、イルカはもう忍ではいられなくなる。
 ――駄目だ、命を失うよりマシだろう!
 もう一度くないを高く上げる。イルカは苦しんでいる。このままでは、後一日ももたないはずだ。
「……くそう!」
 両手を床に叩きつけ、カカシは吼えた。頭を抱え、必死で思考を回す。ここから里まで、どんなに急いでも丸一日はかかる、例え今帰れたとしても治せはしまい、いや今はあの人がいる、五代目が! 切るのはそれからでも、しかしここは火の国の北の果て、間に合わない、間に合わない!
 は、とカカシは頭を上げた。反射的に手を動かす。左目が教えるままに印を切り、全霊でイルカに手のひらを向けた。ひくり、と軽い痙攣がイルカの体を揺らし、そして静まった。
 体内活動を極限まで低下させる術だった。これで細菌の活動までが止まるかどうかは分からない、しかし、以前この術で重篤な肺炎を起こした子供を長距離の移送に耐えさせたことがある。他に思いつく手段は無い。
「帰るんだ、何としても」
 カカシは板の間の隅に寄せてあった忍具や携帯具を掻き集めた。一秒でも早く、里に帰るのだ。
「イルカ先生、がんばって!」
 こそりとも動かないイルカを背負ってベストと紐を使って自分の体に固定する。竈の火を蹴って消し、カカシは土間に飛び降りた。驚いて飛び上がる雌鳥を見て、カカシは一瞬考えた。そして炊事場の隅に置いてあった餌の袋の中身を全て土間にぶちまけた。
「後で仲間のところに戻してやる、少し待ってろ」
 イルカが可愛がっていたものだから。
 再び固まっている木戸を燃やそうと手を組み、辛うじて持ちこたえる。無駄なチャクラを使ってはならない。先ほどと同じように最低の加温で雪と氷を溶かして開け閉めし、深い積雪を分けてカカシは歩き出した。


 行きに踏みしめて歩いていただけで眩暈がした程の広い雪原を、雪をかいて行く。イルカの体温は低い。体内活動が低下しているためだが、その体のぬるさは最悪の想像をカカシに与える。
「イルカ先生、大丈夫、必ず里に着くから」
 それは自分を励ます言葉でもあった。余計なことを考えないようひたすら腕を動かし溺れそうな雪の中を進む。この雪原を越えれば枝走りの出来る森だ。それは遥か遠くに子供の拳程の大きさで霞み、カカシは目をしかめて前方を睨んだ。
 ――チャクラさえ、あれば。
 一気に雪を溶かして走れるものを。口に入る雪を吐き捨て面布を上げる。気ばかりが焦り、胸を掻き毟りたい衝動が何度も突き上げる。
 雪は胸の高さにせり上がり、カカシは時折イルカを振り返った。雪に塗れ、ばらけた髪先までが凍りついている。それを払ってやる余裕は無い。
「くそ……!」
 重い雪に手足は重く、もう感覚は無くなっている。
「カカシ、さん」
 消えかける火のように、弱くイルカが呟いた。意識は無いが、だらりと前に垂れていた腕がそっとカカシの胸を抱いた。
「……イルカ!」
 カカシは歯噛みした。なんという距離、なんという雪。空は澄み渡って青く、太陽光を反射する痛いほどの白。
 イルカの腕を抱き、カカシは目を閉じた。そして何度か手の甲を撫でるとそっと放した。
「大丈夫、助けるよ、イルカ先生」
 カカシは短い印を組み、手のひらを目の前の雪壁に向けた。





 もう、自分の息の音しか聞こえない。血が沸騰しそうな勢いで回っている。森を二つ抜け、カカシは次の森へ向かって再び雪の壁に手を向けていた。
 ぎいん、ときつい収縮をこめかみに感じる。ぼ、と細い火遁が弾道のように雪を割った。瞬間、真っ暗に視界が歪んでカカシは膝を突いた。凍ったイルカの髪が首筋を叩く。

 最後の手段として、一つだけ持っていた丸薬を飲んだ。それは暗部時代に支給された特殊なものだった。秋道家が開発した肉体活性化の試作品で、基本的に飲むな、と言われて支給された丸薬だった。秋道家らしくチャクラの量を増やす代わりに脂肪を燃焼させるもので、使用後の命の保障は無い。
 回復したチャクラで最低限の雪を溶かし、それでも相当の労力を要して道程の半分までに達した。
 ――息を吸う度に肺が焼けるようだ……!
 カカシは荒い息を継ぎながら、背中のイルカを見やった。森の中で傷を確認すると腐敗の進行は止まっていた。雪で冷やされたことも手伝っているのだろう。このままならなんとか間に合う。イルカの頬は青く唇の色は褪めて死体のようだが、微かに打つ鼓動がカカシを励ましている。
「もう少し、もう少しだ……」
 カカシは雪の中に出来た細い道に突っ込む。こじ開けるようにして雪をこぎ、次の森を目指す。その森を抜ければ雪は格段に減るはずだ。そして最後の難所である山を越えれば、里が見える。
「間に合う、間に合わせる……!」
 雪を割った道が途切れた。雪に潜るようにして木の幹を探す。細い枝が手に触れ、カカシは木に体を引き付けた。幹にくないを打ち込みながら、渾身の力でもってそれに足を乗せ体を引き上げ、頭上の太い枝に近づいて行く。
「……よし」
 枝に足を掛けたカカシは全身で息を吐き、しかしすぐにイルカを振り返る。雪まみれの口元を払ってやると、微かな息づかいがカカシの指先を温めた。
「カカシ、さん」
「え」
 凍った睫を震わせ、イルカは目を開けようとしていた。
「イルカ先生! そのまま、そのまま眠っていて」
「カカシさん……俺、」
「何も言わなくていい。里に向かってる、もう少しなんだ。大丈夫だから眠っていいよ」
 カカシの息で温まり、イルカの睫が水滴を垂らす。
「俺……」
「がんばって、イルカ先生。寒くてごめん」
「カカ……」
 朦朧とイルカはカカシを見つめた。そしてほんの少しの笑みを作り、また意識を失った。
「イルカ……」
 彼の睫から落ちた水滴が頬の上で凍る。涙の形のその氷を舌先で舐めとり、イルカと自分を繋ぐ紐を確認するとカカシは枝を蹴った。普段なら足元など見もせずに駆け抜けるような森を、一歩一歩確認しながら枝を選んでいく。かじかんだ手足を温めるチャクラはもう無い。凍った枝に何度も滑りかけながら、転落しないことだけに注意を払ってカカシは森を抜けた。

「あ、ああ」
 思わず声が出た。抜けた先の山裾は、黒い地面がところどころ見えている。豪雪地帯は終わった。
「助かった……」
 予想にたがわぬ雪の少なさに、カカシはしばしその場に立ち尽くした。走れる、走れる!
「全力で、行く」
 言い聞かせるようにそう呟くと、カカシは左目を開いた。最後のチャクラを足に集め、前方の山を仰ぎ見る。
「何も、邪魔をするなよ」
 祈るように囁き、黒い影のような山に向かってカカシは走り出した。






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