食事を済ませ、やっと人間らしい気分を取り戻した頃に夜が明けた。起きていると言うイルカの横で、カカシは再び浅い眠りに落ちた。どうしても戦場では深く眠れない癖が、こういう時には邪魔になる。そう思いながら霧中に佇むような白っぽい微睡みを半日ほど続けた。
「……ったかいなあ、おまえは」
声が聞こえ、カカシは目を開けた。意識が鮮明になった瞬間、微々たるものだがチャクラの回復を感じた。それだけで随分と気が楽になる。視線の先にあるイルカの背中を見ながら、カカシはゆるゆると上半身を起こした。
「あ、起きられましたか」
土間に足を下ろし、板の間に座るイルカが振り返った。
「んー。もう日暮れか……」
「どうですか、少しはマシになりました?」
「そうだね。気持ち程度だけど」
「良かったです」
「あんたは起きてて平気だった?」
「俺、結構元気ですよ」
一人じゃないからかな、とイルカは言い、照れたように笑った。その体の影に何か白いものがある。なんだ、と目をこらせば小さな赤いとさかが見えた。イルカの腿の上に雌鳥が丸くなって座っていた。その空気を含んだ羽毛をイルカの指がそっと撫でている。
「何してんの、イルカ先生」
腹を庇いながら笑い、カカシはイルカの側に這って行った。雌鳥は気持ち良さそうに目を閉じている。
「暇だったもんで、餌で懐柔して湯たんぽになってもらいました」
楽しげに囁き、イルカは雌鳥を見下ろす。
「あったかいですよ。人慣れしてますから、カカシさんにも貸してあげますね」
「そりゃ助かる」
笑い合うと、雌鳥が頭を上げた。間近にあるカカシの顔に驚いて羽ばたき、イルカの足から転がり落ちるようにして逃げて行った。
「気が紛れていいね」
生き物の気配に気分を和ませ、カカシは腹這いのまま土間をつついて回る鶏を眺めた。
「ええ。その上働き者です」
イルカは手のひらをカカシに差し出した。その上には、白い卵が一つ。
「……ホントだ」
鍋の残りで卵雑炊作りましょうよとイルカは明るく言った。見下ろしてくるその顔に、何か知ったもののような懐かしいような、昨日と同じあの奇妙な感覚が沸き起こる。それは決して嫌なものではなかった。おそらく、自分はイルカとどこかで接触したのだろう。複数のチームが情勢を見ながら混じり合うような任務なら、互いに名乗ることもない。そしてイルカはその時もきっと、こうして笑って見せたのだろう。
カカシは口角を上げながら起き上がり、はたけカカシ出動します、とイルカの手から卵を取り上げた。
予定通りに二日後、カカシは再び口寄せで先日と同じ犬を呼んだ。犬は心得たとばかり、カカシが口を開く前にさっさと走り出してしまった。あまり遠くに行くなよ、と慌ててカカシはその背に叫び、吹雪に霞む犬は一声鳴いた。
「イルカ先生、どうですか」
発熱して寝たままになっているイルカを覗き込む。
「すみません……」
「気にしない。ちゃんと休んで下さいよ」
思ったよりもイルカの傷の治りは遅く、謝る彼をなだめながらカカシは心中で嘆息した。地面が少し下っているのか小屋が傾いているのか、雪は一番先に戸口に溜まる。夜半から降り止まずに凍り付いた戸を溶かした上での口寄せは、意外な程チャクラを奪った。カカシの回復も、予想を遙かに下回るスピードだったのだ。
「薬草が欲しいな……」
「俺、丈夫ですからすぐに治します」
「俺の傷もね」
「ああ……。あいつの薬があったらなあ」
悔しそうにイルカは言い、カカシは無言でその額に当てた布を取り上げる。溶けかけた雪に布を浸し、きつく絞ってイルカの額に戻す。
「ま、焦らずいきましょ。食って寝てたら回復しますよ」
大怪我の後の発熱はよくあることだ。丈夫な質だ、と言うイルカの言葉を信じ、カカシも重い体を板の間に降ろす。
「二人ならなんとかなりますよ、イルカ先生」
餌をついばんでいた鶏が、何を思ったか板の間に飛び乗った。イルカを覗き込み、カカシの手の甲を少しつつき、また土間に戻って行った。それを眺めながら、イルカは抑揚のない声で言った。
「カカシさん。本当にどうにもならなくなったら、俺を置いて行って下さい」
真剣な眼差しに肩を竦め、カカシも横になる。
「それは俺も同じです。自分が生き残る道を選択すると、お互い約束しましょう」
「……はい」
「ま、最悪の時はってことで」
二人で里に戻るのが基本です、そうカカシが言い切ると、イルカは困ったように眉を寄せ、天井を見つめてすみません、と呟いた。
――やはり、彼を知っている。
イルカの横顔を長く見ていられず、カカシはそわそわと寝返りを打った。日に日に親密になるにつけ、イルカのちょっとした動作や表情に、頻繁に既視感が生じるようになっていた。ここまで気になるなら、過去に任務で少し関わったから、という程度の間柄ではないはずだ。だが、他に心辺りはない。ただ気になるだけならともかく、こうして隣に並び、不安を押し殺しながらも消沈しているイルカの気配を感じていると、カカシの中に猛烈に慰めたいという気分が沸き上がる。まるで子供か何か、とても弱い者への保護欲に近い。
――いい大人が、なんだろうね。
偶然に行き会わねば、それぞれが己のみの力で生き残る道を模索したはずだ。忍という生き物にはつきものである、自己の限界との戦いというものを、イルカが知らない訳はないとカカシは思う。
それでも、抱きしめて慰めたい。
「あれ?」
「どうしました?」
「や、なんでもないです」
澄まして見せながら、内心では酷く慌てた。
――どういうことだ。抱きしめたい? なんだそれ。
自分の負傷が、思ったよりも精神に負担をかけているのだろうか。そういう時にはまれに、仲間意識が恋情の方向に曲がることがある。玄人との処理的な関係と同じく、その種の恋情は里に帰ればそれこそ雪のように消えてしまうものだから、カカシは戦場では情に頼らないと決めている。頼らぬように、己に言い聞かせてきた。
――俺もまだまだ未熟ってことか。
寝転んだまま腕組みをし、荒い木目を睨んだ。盛大に窓が鳴り、小屋そのものが揺れた。
「さすがに冷えますね。屋根があるだけでも幸運ですが」
「溜める先からチャクラが逃げていくよ」
薪だけは炭焼きの窯の周りを掘ればいくらでも出てくるので、炊事場の竈にはずっと火が入っていた。それでも薄い壁越しに冷気が伝わり、二人ともチャクラで体温の低下を防ぎ続けている。毛布の一枚もない状態では仕方が無いことだったが、今はそのチャクラが惜しい。
抱き合えば少しは暖かいだろうにと思い、カカシはとうとう苦笑した。
「どうしました?」
「いや」
ふふ、と彼から顔を背けて笑うと、カカシは鳴り続けている窓を見上げた。
「帰ってきましたよ」
遠吠えが聞こえる。イルカも窓を見上げた。
「早かったですね」
「遠くに行くなって言いましたから」
「俺の分まで労ってやって下さいね」
頷きながら立ち上がり迎えに行くと、犬はキジを一羽、持ち帰っていた。もう干し米は無い。血抜きをする間に顔をしかめながら体力とチャクラの計算をし、その結果、待たせていた犬を再び表に放った。それほど時間をかけずに戻った犬から山芋を幾つか受け取り口寄せを解くと、土間に座ってこめかみを押さえる。イルカが心配そうに名を呼んだ。
「大丈夫、大丈夫」
生きるだけならば、だが。今にも雪で押し潰されそうな小屋と動けないイルカ、そして自分の傷。カカシはそれらを脇に追いやってふらふらと板の間に寄って行った。
「腹減ってますか、イルカ先生」
「いいえ、全然」
とても分かりやすい嘘を吐くイルカに胸の内で謝り、カカシはサンダルを脱いで板の間に上がる。
「すみません。夕方まで寝かせて下さい」
「本当に申し訳、」
「いいからいいから。あんたも寝て」
「……はい」
強烈な眠気に身を任せてカカシは目を閉じた。戸惑うようなイルカの気配がしばらく感じられたが、やがて横になった音がした。
どうにでもしてくれという程の眠さにも関わらず、カカシは長い時間、覚醒と睡眠のちょうど真ん中辺りを漂った。イルカが側にいることがはっきりと分かり、しかし自分の体の感覚はまるで無い。壁の継ぎ目から漏れてくる冷気が背中を冷やしているような気がするが、それから逃れるために動くこともチャクラを使うこともできなかった。
ごそり、とイルカが動いた。彼もまた、熟睡はできないのだろう。腹を減らしているのだ。
早く食事を作ってやりたい、そう思いながらも指先一つ動かない。金縛りに近い感覚のまま、カカシは板の間の更に下へと吸い寄せられるイメージに囚われていた。
「……」
イルカが何か言った。いや、自分がうめいたのかもしれない。そしてそれと同時に急に暖かくなった。そうすると自分の体が異常に強張っていることに気がつき、肩から力を抜いた。安堵のように、首から胸へと脱力感が広がっていく。
――ああ、眠れる。
眠りながら、カカシはそう思った。そしてようやく、本当の睡魔に全てを預けた。
小さな窓から落ちる仄赤い光線が、日暮れの最後を告げている。カカシは何度か瞬きし、灯るように床に落ちた夕日の色を見つめた。
「随分寝たな……」
体が軽くなっている。そうなれば食事だとカカシは起き上がろうとし、しかしすぐに頭を下ろした。
動けない。何かが巻き付いている。首を回して背後を窺い、カカシはまた瞬きをした。浅く眠っている最中に温かさを感じた理由がそこにあった。背中にぴったりと胸を付けてカカシを抱き込み、イルカは平和そうな顔で眠っていた。
「いかんね……」
呟き、カカシはイルカの腕を触った。すると嫌だとでも言うように力がこもり、カカシの肩辺りに強く額が押し当てられた。
「起きてるの? イルカ先生」
返事は無く、代わりに規則正しい寝息が聞こえる。子供みたいだ、そう思いながらイルカの腕を撫でると、戦闘の名残が散々に焼きついている指先がぴくりと震えた。
まだ微熱があるらしい体は熱く、背中のぬくもりにカカシはしばし酔った。このままずっと、何もせずにこうしていられればそれでいい。そんな投げやりとも充足感ともつかないあやふやな気分は悪くは無かった。汗じみているはずのイルカの体臭に、心までが暖まるように感じる。懐かしい。いや、もっと切実な何かがイルカから伝わってくる。
「イルカ先生、あんたは誰だ?」
自分の声が耳に響き、眉間に皺が寄る。考えてみれば不自然だ。初めから何の迷いもなく『イルカ先生』と呼んだのはなぜだ? 確かに彼の配属はアカデミーで、お互いに思い入れの深いナルトを指導した。しかし任務先でこんな状況で出会い、いきなり『先生』と呼ぶのはおかしくはないか。なぜ、その呼び名を選んだんだ、俺は。
――何か、忘れている。
そうなのだ。思い出せない何かがある。それは重大なことのように思われ、カカシは強く目を瞑って記憶を探った。この腕や体臭を知っているとするなら、こんな風に抱かれたことがあるということなのか。
男と肉体関係を持った経験は何度かある。しかし、その中にイルカはいない。無いと絶対に言い切れる。それらの男との関係は事故と言って良いようないい加減なもので、少なくとも再び会って抱きしめられて安堵するような、そんな関係ではなかった。
ならば、顔や名を覚えていられないような状況下で関係したのか? いや、そんな記憶は無い。無い、はずだ。
「分からん。さっぱりだ」
「……ん」
イルカが小さく声を出し、カカシはびくりと反応した。そして目覚めようとしているイルカの腕を強引に解き、完全に覚醒する前に逃げ出した。
吊るしておいたキジを掴んで羽をむしる。イルカは一つ大きなあくびをしてから上半身を起こし、ぼんやりした様子で笑った。
「もう夜ですね」
「うん」
それだけ答えるのがやっとだった。丸裸にしたキジをまな板に置き、溶かしておいた雪で山芋を洗う。よろよろとイルカは起き上がり、サンダルをつっかけて土間に入って来た。
「山芋だ」
イルカは洗い終えた山芋を摘み、珍しいものでも見るかのようにしげしげと眺める。山芋の皮剥きに集中した振りで、カカシは精一杯冷静な表情を作った。
「犬に土遁で見つけてもらった」
「器用ですね、カカシさんの忍犬」
「まあそれなりには鍛えましたからね」
「三つもある。しばらく食いつなげるなあ」
「滋養にも良いですし」
「ああ、山薬とも言いますね。とろろ、美味いだろうな」
「それは里で食いましょ。お互い早く回復して」
「ハイ。俺、キジやります」
熱が下がったらしく、イルカはしゃっきりと背を伸ばしてくないを手にした。ざくざくとキジを切っていく横顔を盗み見て、カカシはまた奇妙な懐かしさを覚えた。
――よくこんな風に……隣に並んだ?
一緒に作業をするのが当たり前のように感じる。体臭や温度を知っているような印象といい、まるで生活を共にしていたかのようだ。戸惑いながら鍋を火にかけるカカシの横で、イルカは歩き回っている雌鳥と戯れながら、小さな肉片を放ってやっている。
「うわ、食っちまった」
「食いますよ、鶏は雑食ですから」
「こらおまえ、共食いって知ってるか?」
「まあ、微妙にセーフでしょう」
「はは、そうですね。猿食う人間もいるし」
「猿か。犬が捕ってきたら食えますか?」
「えっ、猿、猿かあ、サル……」
真剣に考え込むイルカに笑い、煮え始めた鍋を掻き回す。イルカに渡された塩を多めに入れると、カカシは壁にもたれた。思いの外回復しているイルカを見ていると、足から力が抜けて座り込みそうになる。無意識下に相当の緊張がかかっていたのだ。しかしその緊張は、己の生存が危うくなっていたからだったのか、イルカが傷ついていることそのものへの心配だったのか、どちらか判然としない。
「イルカ先生、チャクラはどんな具合?」
雌鳥に粟をやりながら、イルカはカカシを見上げた。
「一割くらいはなんとか」
「里まで式を飛ばすとしたら、どうだろう」
「そうですね……。確実に飛ばすなら、あと二日待っていただけたらと」
「そっか」
良かった、とカカシは呟き、鍋にヘラを突っ込んだ。今もまた、里への連絡を入れられることに喜んでいるのか、イルカが回復したから嬉しいのか、どちらかよく分からなかった。
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