風は静まり、雪の上に残ったくぼみが午後の日差しにじくりと溶け始めている。それは、左側は足跡と見分けられるが、右は小さなへこみだ。
――怪我は、足。
カカシはゆっくりと足跡を追っていた。彼自身が深手を負っている。脇腹の痛みは随分前から痺れて分からない。足元の紅に自分の血を混ぜながら、寄り添うように立っている二本の樫を迂回した。途端に開けた雪原の白さにカカシは思わず立ち止まった。一瞬の眩暈に強く目をしかめる。
見渡す限りの雪。延々と続く足跡。
――もう死んでいるかもしれない。
左右に振れ、時に雪を溶かすほどの紅を落としながら、足跡は続いている。カカシもまた、小さく揺れた。深く息を吐き出せば、真っ白い息がいつまでも自分の回りを漂って窒息しそうだ。その癖、こめかみには粟粒のような汗が浮いている。遠い地平は青く、早朝の光が乱反射してカカシの疲れきった左目を刺すが、かと言ってまぶたを閉じると真っ直ぐに歩けない。
しかめっ面で仰ぐ先、足跡は豆粒ほどに見える小屋に消えていた。右手に曲がっていく誰かの命の軌跡を追って、カカシはそろりと足を進めた。
徐々に視界に明らかになってくる小屋は、傾斜のきつい屋根に重そうに雪を載せて、炭焼きのための竈(かまど)の脇にひっそりと建っていた。カカシは目を細めたまま今にも雪に押し潰されそうな印象の粗末な小屋を眺め回し、ぴっちりと閉じている木戸に指先を伸ばした。
とん、と微かに戸を揺らす。中の気配がぴりりと揺れる。
「生きているんだな」
呟き、カカシは今度は思い切り良く戸を開けた。
「起きなくていい」
片手で制し、カカシは小屋の中に踏み込んだ。二畳ほどの土間には工具が壁に立てかけられ、簡単な炊事場に鍋が一つ転がっている。ところどころ割れている板の間は人が一人寝転べる程度の狭さで、そこに敷かれた薄汚れたむしろの上で男が身を起こそうとしていた。
「……木の葉」
「うん」
額当てを確認してくないを握った手を広げ、男は再びぐったりと体を横たえた。
「木の葉の忍具が落ちていたから追って来た」
「……すまん、しくじった」
「失敗?」
「いや、任務自体はなんとか。足はこの様だけどな」
「酷いね」
「そっちも」
カカシは土間の土を一歩一歩踏みしめ、男が寝ている板の間に腰を掛けた。堪らず深い溜息が漏れる。
「空けるよ、横になった方がいい」
「大丈夫」
横になったら最期、そんな気がした。カカシは震え始めた指先でポーチを探る。辛うじて二つ、血止めの丸薬が残っていた。
「こんなものしか無いけど」
一つを渡すと、男は微かに笑った。
「ありがとう」
男の素直な言葉に頷きながら苦い塊を噛み潰す。これが末期の食事にならねばいいが、そう思いながらベストを脱いだ。内側を探って軟膏とさらしを引きずり出す。
「あんた、手当ては」
「出来ることはやった」
男の右足の付け根には、くないを使ってきつく締めた止血帯が巻いてある。頷き、カカシは鈍い動作で上着の裾を捲くった。血を吸ってずっしりと重い支給服を脱ぎ、血が止まり始めた傷に軟膏を塗りこめる。大きな血管や内蔵に達しているわけでは無さそうだ。遅いだろうが、回復するだろう。安堵しながらさらしをきつく巻き、ようやっと男が空けてくれた場所に上半身を横たえた。
「そろそろ止血出来たはずだ。それ、外した方がいい」
男は軽く頷いて起き上がり、苦しそうな息遣いで止血帯を切った。傷口に溜まっていたものがわっと流れ出たが、紫色にうっ血していた肌が元の色を取り戻す頃には出血はほとんど止まっていた。大きな血管近くまで及んでいるが、彼の傷もなんとかなりそうだった。
「助かった……。本当に、もう駄目だと思ってた」
「薬は装備していなかったのか」
軟膏の容器を渡してやり、カカシは薄く開いた目で男を見上げた。
「仲間にやっちまった」
「そいつは?」
「敵と一緒に滝つぼに落ちた」
「……お疲れさん」
「あんたも」
ふっと男が笑い、その鼻の上を横切る傷もまた笑うように曲がった。
ごとごとと、はめ殺しの窓が鳴っている。
うつらうつらと眠りと覚醒を行き来していたカカシは、不意の感覚に起きあがった。隣の男は小さな寝息を立てている。
――食事を。
胃が引き絞るように空腹を訴えている。男を起こさぬように気配を抑えながら、カカシはいびつな形に固まっている上着を取り上げた。固まった血を崩しながら無理矢理に袖を通し、土間に足を下ろした。
小屋の中に食物が無いことは知っている。ベストを着込んで立ち上がると、くらりと大きく体が傾いだ。眉間を強く指で摘みながら戸口まで歩き、何かを考えて躊躇する前に戸を開けた。
足下の雪は厚みを増していた。真夜中の黒い空からちらりちらりと舞い落ちる大粒の雪に、振り込められることを予感する。振り返ると男が目を開けてカカシを見ていた。軽く手を上げ、カカシは刺すような空気の中に歩み出た。
生き物の気配は皆無だった。ふう、と息を吐き、カカシは脇腹を探って指に血を取った。竈の側の立木に両手をかざし、少し迷ってから一つの名前を呼んだ。きいん、とこめかみが冷えるチャクラ切れの前触れ、片膝を雪に埋めるカカシを煙と共に現れた中型の赤犬が支えた。包帯を巻いた首を何度も傾げて主を気遣う様子にカカシは笑い、頭を撫でて呟く。
「なんでもいい、人間が食えそうな生き物を捕ってきてくれる? 大きい方がいいけど、無理はしなくていい」
うおんと小さく答え、犬は雪混じりの風に溶けるように駆け去った。その背を見送ってやれやれと呟きながら、炭焼きの竈にいざって行き、半分程が雪で埋もれた内部を覗き込んだ。炭は残っていない。何かないかねと周囲を探れば、薪の束が雪の下から角を出していた。それを抱えて小屋に戻り、土間に下ろすとカカシもまた地べたに座った。
「大丈夫か?」
起きて待っていた男にカカシはひらひらと手を振った。
「へーきへーき」
もうすぐ何か食えるかもしれないよ、と呟く。眩暈が酷い。血も栄養分も足りていない。
「もう少し横になっていた方がいい」
ここへ、と自分の隣を指し示す男にもう一度手を振り、若干感覚が鈍くなっている足の裏を意識しながら立ち上がって粗末な炊事場を探る。木ベラと欠けの目立つ深皿を二つ見つけ、転がっている鍋を掴むと再び歪んだ木戸を開けた。
「おっと。もうきたか」
やけっぱちのように横殴りに降りしきる雪が視界を塞いだ。足場を確認しながら軒下にしゃがんで雪をすくって持ってきた道具を拭い、熱く痺れる指先で新しい雪を選んで鍋に詰め込んだ。急いで小屋に戻ると、自分の傷の具合を見ていた男が振り返って両眉を寄せた。
「雪まみれだ」
「吹雪だよ」
「参ったな……」
「ああ」
顔を見合わせて微かに笑い合うが、落胆の気持ちばかりが通じ合う。このままでは、速やかな回復に必要な薬草を探すことも、里への連絡も不可能だ。じりじりと体力を付けながら、チャクラが充実するまで待つしかなくなる。しかしこの寒さでは、体温の維持に使うチャクラの消費も馬鹿には出来ない。しかも食料の確保に口寄せをするとなれば。
己の限界値を計算しながら、カカシは男の側に戻った。彼は懐を探って紐を引っ張り出し、きつく髪を縛った。
「お互いぎりぎりだ。効率的にいきたい」
「ああ」
癖なのだろう、鼻の傷を触りながら男は真剣に頷いた。
「生活に必要なチャクラは俺が使う。あんたは絶対安静でチャクラを回復させて、里へ救援を求める」
「……反対する理由はないな。でもなあ、俺のチャクラ量は満タンでもそれなり、だ。いいのか?」
どこかのんきな風情の男にカカシは苦笑した。
「まあ、なんとかなるでしょ。俺も空っけつじゃないしね」
「前向きにいくか」
にやりと笑い、男はカカシに向かって手を出した。
「俺はうみのイルカ。アカデミーの教師だ」
へえ、とカカシは呟いた。首を傾げる男の顔をしげしげと見つめ、差し出された傷だらけの手を握った。
「あんたがイルカ先生なんだ。俺の部下があんたのことを良く話してたよ」
「部下? 教師を辞めた後輩かな」
「いや、小さいの。ナルトとかサクラとか」
え、とイルカは目を見開いてカカシの顔を見た。
「じゃ、じゃあ、あんた、いや、あなたが」
「うん、はたけカカシです。よろしくイルカ先生」
うわあ、とイルカは手を離し、勢いよく頭を下げた。
「すみません! 上忍の方だとは、しかもナルトがお世話になったというのに失礼しました!」
あらら、とカカシは頭を掻いた。
「やめてよ、俺達には使役関係は無いでしょ」
いやでもしかし、とイルカは両手を振り回し、そして少し頭を落として気まずそうに笑った。
「……お世話になります」
「ハイ、こちらこそ」
それにしても、とイルカはじっとカカシを見つめて大きく息を吐いた。
「すごい偶然もあるものですね……。いままでお会いしたいと思いながら、受付ですらお見掛けしなかったのに」
「そんなに改まらなくても」
「いやあ、教師はこんなもんです。ご不快ですか?」
いきなり言葉遣いが変わったイルカに肩を竦め、カカシはひび割れた板の間に横たわった。
「ご不快とかじゃないけどね。ま、あんたがそれで楽ならいいよ。俺もやりたいようにやるし」
「はあ……。それにしても申し訳ないことです、はたけ上忍に動いてもらうことになるなんて」
「非常時もいいところだから、気にしないの。実際俺の方が動けるわけだし。あー腹減った」
ごろりと寝返りを打ちながらカカシが言うと、俺も、とイルカは胃の辺りを押さえた。
「俺はこの四日くらい干し米を摘んだだけだよ。あんたは?」
「滝に落ちた奴が食料も持っていたんです。兵糧丸で三日ってところかな」
「こう、視界が揺れるよね」
「チャクラが無いと特に腹の減りが早いような」
「体力がチャクラに変換されてるんじゃないの」
「はは、まさか。ところではたけ上忍」
「えーと、それはやめよう。カカシでいいよ」
「はあ。それじゃあ……カカシさん」
「ハイハイ」
答えながら、一瞬カカシは眉をひそめた。カカシさん。それに聞き覚えがあるように思ったのだ。そう自分を呼ぶイルカの声に。これが初の顔合わせなのだから聞いたはずはないのだが、どこか懐かしいような奇妙な感覚がカカシの心に閃いた。しかしその閃きは、捕まえる前に意識の奥に消えてしまった。
「こんな時になんですが……。ナルトの様子、ご存知ないでしょうか。自来也様と旅立って随分になります。お恥ずかしながら、今でも何かと心配で」
イルカには違和感は無いようだ。カカシは首を回し、複雑な表情を浮かべるイルカを眺めた。眉を少し寄せ、過保護ですみません、と呟くイルカは教師というより肉親の顔をしているようで、ナルトがうらやましく思える。
――うらやましい? 馬鹿なことを。
内心で自分を笑い、カカシはまた寝返りを打つ。
「俺にも連絡は無いんですよ。ま、自来也様は無茶はしますが無体な方ではありませんから、気長に待つといいです」
「そうですね……」
困ったような笑顔でイルカは口を閉じた。何故だか励ましたくなり言葉を継ごうとした時、おおんと犬の声が聞こえた。
「お、帰ってきたか」
かりかりやっている音にちょっと待てよと声を掛け、カカシはゆっくりと戸口に向かった。
「ち……」
歩く振動に合わせて刺さるような痺れが腹から喉に駆け上がり、その熱さと重さに閉口しながらカカシは戸を開けた。新しい積雪のために若干開きにくくなっていることを気に掛けながら、跳び込んで来た犬を見下ろす。
「悪かったな、吹雪の中」
くおん、と犬は鼻を鳴らし、咥えていた塊を土間に下ろして得意そうに顔を上げた。
「兎か。え? 内臓取ってやったって? おまえ腹減ってたんじゃないの。まあいいや血が抜けてるし。んでこれが雌鳥、って、ちょっとおまえ、」
おいおい、と言うカカシの足の間で、雌鳥はがばっと飛び起きた。こここ、と驚いたような声で鳴きながら、土間の隅に向かって走り出す。
「なんなのこれ。え、山際の農家から拝借って、駄目じゃない、卵食えって、おまえねー。なに、餌も盗ってきたの? 仕方ないなー」
そんなに遠くまで行けるとは思っていなかった。その家の人間に助けを呼んでもらった方が良かったと思っても後の祭り、溜息を吐き吐きカカシは犬の頭を撫でた。これは犬の本性が強いタイプだ。言われた以上の機転を期待するのは難しい。この程度で上等と言わねばならないだろう。
赤犬を巻物に返し、カカシは兎をまな板に乗せた。
「走ってるの、鶏ですか?」
起きあがって首を伸ばしながら、イルカは面白そうに言う。
「はあ。農家から盗ってきたらしいです。こんなことなら、助けを呼ばせれば良かった。失敗したな」
「近くに人がいるのか……。良かったじゃありませんか。また次がありますよ」
「いやそれがね」
兎をくないで捌きながら、カカシは肩を落とす。
「チャクラ量から言って、次に犬を呼べるのは二日後くらいです。それに、その農家はここから森を幾つか越えた先の、山の側にあるらしくてね。二日後にまた、そこまで行かせられるかは正直微妙だ」
「もしかしてかなりの無理を……」
「いやいや、仕方ないです。まずは食わねば」
無理もいいところだった。思った以上の犬の遠出に後追で疲労が積み重なってくる。手先も危うく、叩くように兎を捌いた。
「塩か何か……」
言いながら屈んで低い位置にある戸棚を開ける。埃を被った物が幾つかあるが、たわしや折れたひしゃく、カビかけの草の束など、益体も無い物ばかりだ。
「俺、塩持ってます」
イルカが身を起こし、ぎこちなく歩いてきた。
「こら、イルカ先生は絶対安静」
「あ、そうでした」
苦笑しながらイルカは丸い容器をカカシに渡した。
「結構あるね」
「術に使うので。ただの塩ですけど」
「いいの?」
「罠系の術なんで、もう必要無いでしょう」
それじゃあ、と細切れになった肉に塩を振り掛けて揉み込み、溶けかかった鍋の中の雪に放り込む。
「何とか食えそうですね。俺の持ってる干し米入れて、雑炊にしましょう」
「嬉しいなあ、あったかいもん、久しぶりです」
鍋を覗いて口元を緩めるイルカに頷き、カカシは拾ってきた薪を炊事場の竈にくべて印を結んだ。
「カカシさん!」
薪が火に包まれた瞬間、代わりのようにカカシはぐらりと傾いた。しゃがんだ姿勢のまま土間に崩れるカカシをイルカが慌てて支えた。
「……くそ」
頭を振りながらカカシはイルカの手をやんわりと押し返した。僅かに彼が、足を庇いながら顔を歪めたからだ。
「大丈夫、ちょっと貧血。イルカ先生は寝てて下さいよ」
「カカシさん、もうチャクラが限界なんじゃ」
「……まだ、平気」
鍋を火にかけ、カカシはヘラを握った。
「カカシさん」
「米、入れたら寝るから」
枯れたような声でカカシは言って、イルカの背を押した。
NARUTO TOP・・・
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