イルカには秘密の恋人がいた。
彼は決まって夜、部屋に現れる。そして夕食を共にし、風呂に入り同衾し、朝イルカが目を覚ます前に消える。
二人の関係は部屋の外には持ち出されない。昼間顔を合わせてもただの知人のふりをして当り障りのない会話をする。
そんな関係が既に半年も続いていた。
「あ、いらしてたんですか」
音無く現れた恋人にイルカは笑顔を向けた。その夜もいつの間にか背後にいた彼をイルカはほれぼれと見つめた。
彼は笑い、イルカにキスをする。可愛らしい、からかうようなキスにイルカは顔を赤くし、ご飯、食べますか、と慌てて言った。頷く彼に背を向けて台所に向かった。
「ビール、飲みましょうか」
返事を聞かずに席を立つ。缶を二つ持って行くと手招きされる。素直に側に寄ると膝の上に座れと言われた。イルカは僅かに躊躇したが、半年も続く関係の中でそんな事は数知れず、今更照れるのもなんだし、と心で言い訳をしながら優しい手に従った。
夜風が冷たくなる季節だ。開けた窓からカーテンを揺らして入り込む風が二人の髪を撫でていく。風だけではなく、彼の指が髪に絡むのが分かってイルカは微笑んだ。
肌寒い部屋の中、どちらも窓を閉めようとは言わなかった。触れ合った胸と背が、充分体を温めてくれる。ビールを飲みながら他愛の無い話は続く。言葉を先に紡ぐのはいつもイルカだった。任務ばかりの恋人は、その日常ですら話せる限界があるからだ。それでも彼は、遠い国で見聞きした話を語り、いつか二人で行こうと含み笑う。悪戯を誘うように彼は言い、イルカは共犯者になったように胸を高鳴らせながら頷いて夜は更けていく。
いつもと同じく、一緒に風呂に入るか入らないかでじゃれ合い、その夜はイルカが勝った。わざとらしくならないように、しかし間違いなく意図的に勝敗は五分五分だ。先に済ませたイルカはベッドに入って本などを読んでいる。扉が開き、言いようの無い彼の気配が滑り込み、そしてイルカの肌に密着する。十日ぶりの逢瀬、二人はごく自然に寝巻きを脱いだ。明日に差し支えないような軽いそれにかすかな残念さを感じ、同時に生まれて初めて味わうような満足をイルカは覚える。
そうして夜が終わり、朝の光が満ちてイルカは一人目を覚ます。この瞬間だけはいつも心が少しだけ痛む。この、光の溢れるシーツの上に彼がいたらいいのにと、いつも心が少しだけ痛むのだ。
でも、二人は秘密の恋人だった。
イルカはそれを思って無理にも笑い、誰もいない空白に向かって挨拶をする。
「おはようございます、カカシさん」
そして仕事のために立ち上がるのだ。
その日もイルカは受付にいた。人手不足が身に染みる。休憩を取る暇すらなく、午後三時を回っていたが食事はまだだった。腹の虫が鳴るのを腹筋にぐっと力を入れてこらえつつ、眼の前の列をさばく。
「どーも」
カカシが目の前に立っていた。
「あ、カカシさん、お疲れさまです」
その一言と向ける笑顔に百万の思いを込めてイルカは彼を見上げた。眠そうに笑うカカシは報告書を差し出した。受け取る時に指同士が掠り、イルカはどきり、と心臓を跳ねさせた。
もっと直接的な事をいくらでもしている。しかし、隠しているからこそ、こんな接触にすら感じる。
「ええと」
誤魔化すように呟き、イルカは報告書を確認する。カカシの視線を感じて体の中がぽっと温まったような気がする。印を付いて顔を上げると視線がぶつかった。
「はい、結構です。確かに受領しました」
それを言う時、イルカの中は誇りでいっぱいになる。この、困難な任務をこなすたぐいまれな忍は自分の恋人なのだ。イルカだけを心に映している事を人に知られたくないなどと言う、繊細な恋人なのだ。
「どーも」
来た時と同じ事を言ってカカシは微笑みを落とした。その目が二人にだけしか分からない隠し事を語っているようで、イルカは体温が上がるのを感じた。そしてあっさりと背を向けて受付を出て行くカカシの足取りが浮き立っているように思え、イルカは目を細めてその後姿を見送った。
きっと今夜も来てくれる。
次の報告書に目を落としながら、くすぐったいような気持ちでイルカは鼻の傷を触った。
その日の夕方はいつもと違った。アカデミーを出たところでカカシと行き会ったのだ。受付で顔を合わせた後にも廊下でちょっと立ち話が出来たし、今日はなんて良い日だろうとイルカは感動してカカシに会釈した。すると彼はイルカを待っていたらしく、急いで側に寄って来た。これに大いに驚いてイルカは一歩下がった。
「終わりですか」
分かりきった事を聞くカカシにイルカは頷く。言葉が出なかった。
「あの、この後予定とかあるんですか?」
えっ、とイルカは息を飲んだ。
「いや、忙しいならいいんですけど、良かったら食事でもと思って」
カカシは僅かに視線を外してそう言った。
「いいんですか?」
思わずそう言ってから、イルカは慌てて周りを見回す。だって秘密なのだから。
「ええ、イルカ先生さえ良かったら」
カカシにじっと見つめられ、イルカは舞い上がるような気持ちになった。外で食事など初めてだ。カカシの心境にどんな変化があったのかは分からないが、屋内愛、とでも言っていい付き合いの二人には衝撃的な出来事になるに違いない。
「も、もちろん!」
声が裏返る。自分のベストの胸元を握り締めているイルカにカカシは苦笑し、じゃあ行きましょうか、と言った。
カカシがよく来るという小料理屋に二人は入った。店内はそれなりに客で賑わい、イルカはそれを見て一気に緊張した。しかしカカシは当たり前の様に机の間を抜けて、カウンターに座った。ぎくしゃくとその後に従い、イルカが席に着くとカカシは飲み物を聞いてきた。微妙な汗をかいていたイルカは迷わずビールを選び、カカシはジョッキを二つ注文した。
「どうしたんです? 緊張してるみたい」
困ったように笑い、カカシはイルカを見ている。
「そ、そりゃあ緊張するでしょう!」
囁くようにイルカは答える。カカシは仄かに笑ってメニューを広げた。注文は全てカカシに任せてイルカは背後を気にしていた。そしてビールがやってきて、二人はジョッキを合わせた。
カカシは面布を下ろしてくつろいだ様子だ。その顔に、イルカは奇妙な違和感を覚える。見知ったカカシとは違うように思えた。ビールを飲みながら横目でカカシを伺い、どうやら店内の灯りのせいだとイルカは思った。イルカの部屋の灯りは白いが、この店は雰囲気を演出するために和紙越しの黄色っぽい照明を使っているから影の落ち方が違うのだ。
ちらちらとカカシを見て、イルカは心中で大きく溜息を吐いた。こんなにいい男が、と今更に思う。優れていて面も良く、その人柄も言うまでも無い、こんな男が自分を求めているなど信じ難い。カカシが初めて家に来た時にもそう思ったものだ。唐突な出来事に流されたような形だったが、イルカはその時から今まで一瞬でもカカシを疎んじた事は無い。半年も付き合えば彼の繊細さについて、それなりに困ったものだと思う事もあった。しかし、妙に可愛げのあるカカシに結局は何もかも許してしまうのだ。今もカカシはビールのジョッキから水滴が垂れるのを気にして熱心に机を拭いているが、そんな姿もイルカにはただ心地よかった。
「ずっと俺を見てますね」
視線をカウンター越しの料理人に向けたまま、カカシは小さな声で言った。照れているようだ。
「え、あ……はい」
素直に答えるイルカにカカシは噴出す。顔を赤くしてイルカは両手を意味も無く振り回した。
「だ、だって、こんな所に二人で来るのって初めてだし、なんだかいつもと違うように見えてしまって」
「変ですか?」
「まさか!」
強く否定してイルカはジョッキを掴む。くっく、と笑っているカカシを睨みながらビールを流し込む。家で飲むよりも数段美味しい。それは、単に生ビールと缶ビールとの差、というものではなかった。
二時間ほどゆっくりと食事と酒を楽しみ、二人は店を後にした。
「ごちそうさまでした」
イルカは丁寧に頭を下げた。止めて下さいよ、とカカシが笑う。
「初めて一緒に外食したんですから今日は俺の奢りで当然です」
「すごく、楽しかったです!」
アルコールのために上気し、気持ちまでが浮き立っているイルカは笑ってそう言った。ほんとうに嬉しくて仕方が無かった。そんなイルカをしばし黙って見つめてからカカシは歩き出した。
ぽつりぽつりと街頭が並ぶ道から住宅街に入って一段階暗くなる。気持ちのままに、ごく日常的な話題をこの世の至福のように語っていたイルカの横で不意にカカシが立ち止まった。言葉を止め、イルカはカカシを見つめた。薄ぼんやりのカカシの顔は、何か迷っているようだった。
「カカシさん?」
首を傾げて見つめると、カカシは面布を下げて視線を返してきた。その表情はとてもいじらしく、イルカの胸が痛むほどだった。とても大切なものを見る目を惜しみなく向けて、カカシはイルカをそっと引き寄せた。
「カ、」
誰が見ているか分からない。驚いて止めようとしたイルカの言葉を奪い、カカシは口付けてきた。それまでのどのキスよりも優しく暖かい。すぐに目を閉じて全てを預けてイルカはカカシの胸に縋った。
軽く、しかし長い口付けを交わし終えてもカカシはイルカを抱き寄せたままだった。
「あなたの家に、行ってもいいですか」
問うてはいるが、決して引かないような意志を感じさせる声でカカシは言った。断る理由などどこを探しても見つからず、イルカは感動しながら頷いた。
夢のようなその夜を、イルカはその後も何度も思い返しては微笑む。
いつも淡白な素振りのカカシが熱にうなされたようにイルカを求めた事、そして、朝の光の中にまで彼がいてくれた事、それら全てをイルカは大切に心に仕舞っている。
カカシはそれ以降、劇的に変わって隠す事を止めた。きっとこれからもイルカは、なぜ変わったのかとカカシに問う事は無いだろう。その夜があったという事実だけで充分だと思うからだ。あの夜の思い出があれば、それでいい。
「よう」
上忍控えの部屋にはアスマが座っていた。タバコを灰皿に押し付けながら彼はカカシを横目で見、意味ありげに笑った。
「イルカとよろしくやってるらしいな」
「下品な言い方、しないでーよ」
ふん、と視線を逸らしてカカシは隣りに座る。
「ミイラ取りがミイラになりやがって」
「うるさいなあ、髭のくせに」
なんだそれ、と言いながらアスマは笑う。からかってはいるが、それ以上の意味は持たない視線にカカシは照れて横を向いたままだ。
「誰も損はしなかった訳だしな」
「三代目は面白くなさそうだけどね」
「報告したのか?」
「……しない訳にはいかないでしょ」
そりゃそうだな、と言ってアスマは新しいタバコを咥えた。
「なんだか先方さんも上手くいったらしいじゃねえか」
「そうそう、当のお嬢さん、どっかの大店の三男坊と恋仲だったのよ。それがまた頭が良くてねー。しかも店継がないからってやたら武道にのめり込んでナントカ流の師範代でね。親父さんたら大喜びで、もう祝言挙げちまったみたいよ」
「ほほう。始めから探す必要なんざなかったんだな」
そうなのよ、とカカシはふてくされて言う。タバコに火を点けるためにアスマは火遁の印を結ぼうとした。
「ま、俺は火影邸のトイレ掃除を一ヶ月やらされたけどね……」
ぼそり、とカカシが言った途端にアスマの肩がぶるぶる震え、そしてとうとう声を出しての大笑いになった。
「笑うな! 他人事だと思いやがって!」
「ああ、他人事だ、他人事は面白ぇに決まってる!」
「もう、一体なんのバツ当番なんだ! 説明してよ!」
「ト、トイレ、」
手が震えて印を結ぶ事が出来ないアスマはひーひーと笑い続ける。
「火、火が点かねえー!」
「ああ、点けてやる!」
器用に手の平の上に小さな火球を出現させてそれを振りかぶったカカシから飛び退り、笑い続けながらアスマは窓にもたれた。
「くくく、まあ、くく、三代目はお気に入りを盗られてご不満だろうがな、おまえらが幸せならいいじゃねえか。そうだろ?」
「ああ、幸せだよ!」
不機嫌な、しかしどこかに照れを残した顔でカカシは言った。まさか、こんな事になるとは思わなかった。『最初の半年』を思えば正直気持ちが穏やかではないのだが、相手が『自分』ではどうにもならないし、確かに今が幸せならいいじゃないか。
「大事にしてやりゃいいのさ」
「言われなくとも」
にやにやと笑うアスマを睨み付け、カカシはごろりと長椅子に横になった。
あの日もこうして時間を潰していた。何を待つとも知れないこの部屋で。
「カカシよ」
いきなりの三代目の声に、カカシは久しぶりに心底驚いた。見事な気配の無さはさすが火影、少し悔しい気持ちも湧かせながらカカシは身を起こして居住まいを正した。
「なんでしょ、三代目」
「なんでしょ、じゃないわい」
鼻から煙を噴出し、三代目はむすっとカカシを見下ろした。
「例の件、どうするんじゃ」
「どうするもこうするも」
「だからどうなんじゃと、」
「あー、やー、お断りしたはずですが」
「ち」
舌打ちかよ! と心の中で突っ込みつつカカシはじっと三代目を見た。我慢比べのように無言の時間が過ぎ、はあっと三代目は煙交じりの溜息を吐いた。
「仕方ないわい」
「すみませんねえ」
全く心がこもっていない声に眉を寄せ、三代目は呟く。
「ふーむ参った、どこに持っていくかのう……」
「髭はだめですよ。もー、紅一筋ですから」
「それくらいは知っておる」
「ガイはどうですか」
「柄じゃないのう、なにせ青春野郎じゃ」
「うーん、ライドウもアオバも相手がいるらしいしなあ」
「だからおまえが、」
「諦めたんでしょ、男に二言は無いでしょ!」
「忍は裏の裏まで読むものじゃ」
「意味分かりません」
ふーと二人ともが溜息を吐く。
三代目の目下の悩みはある縁談の取りまとめだった。先方は一般の家だが伝統ある家柄で、代々の火影と付き合いがある。その縁で、一人娘の婿探しに三代目を頼ってきたのだ。その娘は器量も人柄も申し分ないが少々体が弱い。家柄が良い程に様々な煩わしい出来事が生じがちなのは仕方が無いことで、父親は家と娘を任せる婿には丈夫で力のある男を求めていた。平たく言えば、身心ともに鍛えられた忍の中から婿を決めたいという意向なのだ。
「上忍でなくちゃだめなんですか?」
矛先を逸らすためにカカシは言い、三代目は一声唸る。
「いかん、という訳ではないが。家柄負けしないような者でないとな」
「ガイは負けませんよ?」
「勝ちすぎじゃ!」
三代目は控え室をぐるぐる歩き回っている。ぶつぶつと小声が聞こえていたがカカシは聞かないふりをしていた。
「そうじゃ、アレがおったわい!」
三代目はいきなり歩を止めるとぽんと手を打った。
「誰です?」
独り身の上忍は他に心辺りが無くカカシは首を傾げる。
「アカデミーのイルカじゃ」
「イルカ先生? なんで?」
ぼんやりとしか思い出せないその男は、極めて一般的な中忍教師だ。家柄負けするだろう、絶対。
「アレはな、両親共に上忍だった。うみの家と言えば代々なかなか良い忍をだしておるし、九尾の一件でも相当に働いてくれたからのう、先方も不足はあるまい」
「でーもー、本人はフツーのヒトでしょーが」
「ふん、十八で教師になれる奴が何人いるか、言ってみろ」
「十八、ですか」
それは大したものだとカカシは感心する。その年齢で、教師資格を取れる程に心技体のバランスが取れていたという事だ。教師にならなければ、能力のどれか一つを伸ばして上忍になっていたのだろう。
「教師職ならそうそう危険もない。忍を続けながら家を切り盛りできるだろうしな」
納得する三代目に、これで完全にお役ごめんだ、とカカシはへらへらと笑っていた。
「でじゃ、カカシ」
「は?」
「イルカの身辺調査を頼まれてくれ」
「なんで俺が!」
立ち上がってカカシは抵抗の意を示した。
「暇そうではないか」
う、とカカシは言葉を詰まらせた。確かに暗部を辞めてから個人の任務が少なくなっており、まだ下忍を合格させていないこともあって妙に空いた時間が増えている。だからといってそんな面倒は願い下げだ。
「そ、そんなの三代目がイルカ先生に聞けば済む事でしょーが!」
「わしゃ、出張でしばらく空けるんじゃ。そして先方はお急ぎじゃ」
「俺の知ったこっちゃありませんよ!」
「付き合っている者がおるかどうかが分かればよい。それとも中忍に気取られずに身辺調査する自信が無いか?」
「冗談言っちゃいけません、朝飯前に決まってます!」
「そうか、やってくれるか」
「あ」
そんな理由でイルカを調査する事になったカカシは即座に『作戦』を開始した。こういう面倒はさっさと終わらせるに限る。
『作戦』は尾行。周りに聞き回っても不確かな部分が残る事は否めないし、何よりカカシとイルカは受付越し程度の面識しかない。そういう関係で身辺をあからさまに嗅ぎまわるのは、あらぬ誤解を受ける恐れがあった。
尾行を開始してすぐに判明したのは、イルカの一日のスケジュールはパターン化されている、という事だった。パターンを破るのは残業の有無くらいなもので、概ねイルカはカカシが思う通りに行動してくれた。
「真面目ってゆーか、なんかねぇ……」
その夜もカカシは身を隠しながらアカデミーから出て帰宅の途につくイルカを眺めていた。残業は幾分長く月が眩しく道を行くイルカを照らす時刻だった。
「何が面白くて毎日おウチに直行なんだろ」
これで連続十日間である。仕事が終わると商店街で買い物を済ませて帰宅。判で押したようなこの繰り返しに、カカシは飽き始めていた。
「ま、俺も大して変わらないけどね」
カカシの場合は里をうろつき、気に入った場所で読書か昼寝なぞをするという程度の寄り道が加わる。そしてたまには色街にゆく。女を買うというよりも美味い飯を食うのが目的だ。
「んー、ま、こんなもんでしょ、こりゃ女っけゼロだ」
一足先にイルカの部屋に入って天井裏に潜み、板の隙間から見下ろしながらカカシは『作戦』の終了を確信した。これまではさすがに家の中までは侵入しなかったが、『作戦終了』を前に完璧を期すための行動だ。ざっと見たところ、イルカの住居には他者の痕跡はほとんど無く、僅かにあるものはしょっちゅう出入りしているアカデミー生徒のナルトの私物であると判明した。ただ、歯ブラシが二本ある。それが気掛かりだったのだ。
それはナルトなら使わないような大人用の大きめの歯ブラシで、使いかけの毛先が少し開いたものと、新品同様のものが一つのコップに無造作に入っていた。おそらく前の女のものを捨てきれないのだろうとカカシは思った。そうでなければ掃除の為に使っているのかもしれない。それにしては、同じコップに入れられているのが不自然な気がする。イルカが気分によって使い分けている、というだけの事かもしれないが。
イルカがそれらをどう扱うかを確かめる必要がありそうだった。数日も潜めば訳も知れるだろうとカカシは気楽に天井裏で腹ばった。
やがて、かちゃり、と鍵を開ける音がしてイルカが帰宅した。ふうーと溜息を一つ落としてイルカはビニール袋をがさがさ鳴らしながら居間に入って来た。買った野菜などを流しの台に乗せると額当てを外しベストを脱ぐ。
そして、彼は言った。
「あ、いらしてたんですか」
カカシの心臓が飛び跳ねた。まさか、気取られるとは思ってもいなかった。仕方が無い、訳を話そう、そう思って姿を現しかけたがイルカの視線は全く違う方向に向けられていると気付く。
彼は、嬉しそうに自分の目の前を凝視している。そして、僅かに後ずさり若干仰け反るようにしてから目を大きく開いた。その目はすぐに閉じられて、イルカはうっとりとした表情でしばしその場に固まる。
――なんだ?
天井裏の動揺には全く気付いていないらしいイルカは、ふっと目を開けると少し赤くなっている頬をさっと俯けて、ご飯、食べますか、と言ってから台所に向かった。
――どういう事だ。
それから数時間、カカシは有り得ないものを眼下に見つめていた。イルカは始終幸せそうに誰かをもてなしているように見えたが、彼が視線を向ける先には何も無い。逆に、自分の目がどうにかなってしまったのかとカカシは思ったが、おかしいのはイルカの方であるという事はすぐに知れた。大皿に盛られた料理を食べているのはイルカだけで、『誰か』のために並べられた小皿や箸は全く動いていない。イルカが置いた『誰か』のためのビールは結局イルカが飲み干してしまった。
――あ、危ねぇ、コノヒト危ないよ!
カカシの背中に冷たい汗が浮かんでは服に染みていく。
――架空の情人かよ……。しかもありゃ、男だ、絶対!
一緒に風呂に入ろうと抱きついてくる相手に抵抗しているらしいイルカを見ながらカカシは戦慄した。これはマズイ、絶対縁談なんて無理だ。すぐに三代目に相談しないと、いや、それじゃ俺が困るんだけど、いやそうじゃなくて。そんな事がぐるぐると頭を回ってカカシはどっと疲労を感じた。
そして、極めつけはベッドに入ってからだった。明らかに一人の布団の中でイルカは掛け布団を抱き締めながら悶え始めたのだ。それから数分ともたず、カカシは顔面の色を無くしつつイルカの家を抜け出してしまった。
「え、えらい事、知っちゃったよ……」
いつもよりも背を丸めてカカシは家路を辿る。
「でもこんな事……。三代目に知られたらイルカ先生困るだろうなあ」
既に同情の域に達している。この手の事態にカカシは多少の理解はあった。なにせ暗部出身なのだ。ヤバイ奴らには事欠かないあの特殊な集団では、イルカ程ではないにせよ、オカシナ言動をする者が多かった。もちろん自分もその一人である。
「しかも相手が……」
ずーん、と肩に重しが乗ったようにカカシの背が一層丸くなる。
「俺、何かした……?」
イルカはベッドで「カカシさん」と感極まった声で囁いた。それが耳から離れない。
「何もしてないよねー!?」
見上げる月はただ明るく、カカシは長い間、道の真ん中で拳を握って震えていた。
NARUTO TOP・・・2へ