新品の歯ブラシ 2

 翌日、簡単だが専門知識の必要な任務を済ませて受付に向かったカカシの前にはイルカがいた。どうしてもイルカの列には並びたくなかった。しかし、他の受付の者は込み入った話らしく、巻物を何本も取り出しつつ報告者と真剣な顔で報告書を睨んでいる。その後に並ぶのは気がひけて、仕方なく順調に動いているただ一つの列に並んでいるのだ。
 近づいて来るイルカはいつも通りに笑顔で対応している。丁度受け付けが込み合う時間帯で、彼の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
 ――ああ、どんな顔をすれば。
 イルカは気付いていないのだから、普通の顔をしていればいい。しかし、カカシはその『普通の顔』を思い出せない。そうして焦っている内に列は短くなり、とうとう目の前にイルカが現われた。
「……どーも」
 先手必勝とカカシは半ば自棄で挨拶をした。イルカは前の報告書を握って視線を動かしており、はっと気付いて顔を上げた。
「あ、カカシさん、お疲れさまです」
 そう、『アレ』を知らなければいつも通りの笑顔だ。純粋に好ましいと思っていた昨日までの自分が懐かしい。反射的に笑い返してしかし、カカシは動揺を必死で隠しながら報告書を差し出した。その時わずかに指が触れ、『アレ』を知っているカカシには、イルカの頬がかすかに赤らんだのが見えてしまった。イルカは慌てたように報告書を手元に引き寄せ、恥ずかしそうに笑いながら「ええと」と言った。
 報告書を確認するイルカは本当に嬉しそうに見えた。反対にカカシの背筋は冷えていく。どうやらイルカの中では、これも重要な『触れ合い』に値するらしい。その事実が恐ろしく、カカシは固まったままイルカの確認が終わるのを数字を数えて待っていた。そうでもしなければ叫びだしてしまいそうだった。
「はい、結構です。確かに受領しました」
 イルカは判を押し、顔を上げてカカシを見上げた。カカシはその声にうっかり逸らしていた視線を合わせてしまった。イルカの頬はまだうっすらと染まっている。
「どーも」
 それだけしか言葉に出来なかった。そしてくるり、と背を向けると一心不乱に受付を後にした。ずっと、イルカの視線が背中を追っているのが分かる。廊下に出てもカカシの足は止まらず、ずんずん歩いて書庫まで行き、隠れる様にその中に入った。
「うわぁ……」
 頭を抱えてしゃがむ。
「どうしよ……」
 最後に顔を上げた時のイルカの笑顔は壮絶だった。黒い目が至上の喜びにうるんでカカシを映していた。まるで子供のような無邪気さと、昨夜のベッドでの囁きを思わせるような艶が同時に存在する瞳だった。カカシは思い出して髪を掻き毟る。
「どうすりゃいいんだよ……!」
 自分はあんな目で見られるような人間じゃない。少なくとも、イルカの期待に沿うような事は何もしてやれない。
 理不尽だ、とカカシは足元の床を拳で殴った。
 あの目に答えられない事に苦しむなんて、なんて理不尽なのだろう。一方的に思われている自分がなぜ、苦しまねばならないのだろう。
「なんで、俺が……」
 ぽつりと漏れた声が虚しく書庫に響いた。

 その日はどうやらカカシにとって厄日のようだった。
 肩を落として書庫から出、上忍控え所に行くと紅がだらりとソファーで本を読んでいた。彼女はカカシを見るなり三代目が探しているからアカデミーに戻れ、と言った。
 今朝、三代目が出張から戻ってきたのはカカシも知っている。早速調査結果を聞きたがっているのだろう。溜息を吐き吐き、幾重にも重い気持ちを引きずってアカデミーにとって返し、それでも廊下でぐずぐずとベストを脱いでは裏返してと、意味も無く時間を潰していたところにイルカがやって来た。
 授業に向かうらしいイルカはカカシを認め、出来るものなら括った髪を犬の尻尾のごとくぶんぶん振り回しそうなくらいに嬉しそうに目を見開いた。まともに顔が見られず、カカシは僅かに顔を背けていたが、イルカはすれ違う以上の距離には寄って来ず、大人しく会釈をした。
「今日はよく会いますね!」
 はずむ声でそう言われるとイルカを見てしまう。イルカは視線が合った事をとても喜び、足を止めた。
「そーね……」
 他になんと言えばいいのだろう。カカシは脱いだベストを手に握ってイルカを見つめた。一旦目に入ってしまえば逆に逸らす事が出来なくなった。
「イ、」
 何を言いたかったのか、その次の瞬間の出来事でカカシはすっかり忘れてしまった。廊下の端に、教師らしい気配がした途端にイルカが一歩下がったのだ。少し俯き、慌てて体を離した。元から親しい距離にいた訳でもないのにイルカは敏感に人の目を気にしてカカシから離れたのだった。
「これから授業なんです。それじゃ!」
 名残惜しそうに目を細めつつも、イルカはまた強烈な笑顔を残して去って行った。

 これは、『俺』がさせている……?

 カカシはショックを受けた。これだけ素直に愛情を垂れ流しているイルカが他人の目を気にする事は有り得ない、そうカカシは思ってショックを受けた。決して悟られないように、家の外では他人のフリをするように、『カカシが言った』に違いない。
 思わず振り返ると、さっき別の教師が立っていた場所にイルカがいてカカシをじっと見送っていた。そして、振り向いたカカシに驚いてちょっと跳び上がった。本当に跳び上がった。一センチくらい。
 イルカは恥ずかしそうに笑い、そして角を曲がって行ってしまった。
 昨夜、気持ちが悪いと心底思ったイルカのテンションの源を知った気持ちになってカカシは自分の血が下がる音を聞いていた。
 想像の中でさえ、イルカは自由では無い。きっと、心のどこかでイルカは分かっているのだ。完全に意識にはないだろうが、自分が浸っているのが妄想なのだと分かっている。だから『カカシ』と自分が秘密の恋人なのだと言い聞かせ、現実のカカシに迷惑が掛からないような歯止めを着けている。だから、誰もいない部屋の中では一心にカカシに尽せるから幸せそうに笑っていたのだ。誰も使わない新品の歯ブラシを大切にコップに差しているのだ。
 いつ、それ程に思われたのか、カカシにはそのきっかけに心辺りが無い。しかしイルカにはある。閉じられたあの狭い部屋を中心として、何か得がたい喜びをイルカは持っている。
 一体どれくらいの時間、イルカはそうしていたのだろう。そして、これからどれくらいの時間、そうしているつもりなのだろう。例えば自分が死ねば、あるいは伴侶を見つけたならば、イルカの中で勝手に恋のエンディングが作られるのか。
 どれもこれもカカシの責任ではなかった。しかし、カカシは受付で三代目に、まだよく分からないのでもう少し調査しますと言い捨てて、アカデミーを飛び出した。そして身を隠して日が暮れるのを待った。
 別れを告げるためにカカシはイルカを待った。せめてそれくらいは『自分』がやってもいいと、思った。



 その日は残業がなかったらしく、イルカはほぼ定時に仕事を終わらせてアカデミーの門を出て来た。どこか楽しげな足取りに罪悪感が沸く前に、カカシはすっと側に寄った。イルカは驚き、しかし笑ってこんばんは、と言った。
「終わりですか」
 分かりきった事を聞いたカカシにイルカは頷いた。
「あの、この後予定とかあるんですか?」
 えっ、と息を飲むイルカは焦っている。こんなところを誰かに見られたらいけないと、不安になっているのが手に取るように分かってカカシの胸は痛んだ。
「いや、忙しいならいいんですけど、良かったら食事でもと思って」
 カカシは僅かに視線を外してそう言った。
「いいんですか?」
 嬉しそうに言うイルカは周りを見回した。それを止めさせたくてカカシは畳み掛けるように言った。
「ええ、イルカ先生さえ良かったら」
 イルカの瞳がきらきらと自分を映した。
「も、もちろん!」
 こんなに喜ばせてしまってどうしようとカカシは思う。これから別れを告げるというのに。何度もストーリーを考え、結局月並みに他に女が出来た、という事に決めたのに。親しいくの一にでも協力してもらって見せ付けようとまで決めたのに。
 ベストを握り締めて喜びを噛み締めているイルカに笑おうとしたが上手くいかなかった。じゃあ、いきましょうか、と言うだけで精一杯だった。

 行き付けの小料理屋に入り、カカシは真っ直ぐカウンターに向かった。個室、とも考えたが泣き出されてしまったらそれこそどうしたらいいのか分からなくなる。卑怯だが人前であることを利用して、イルカの感情を押さえつける事にした。
 客で賑わう店内にイルカは緊張しているようだった。飲み物を勧めると迷わずビールを選ぶ。受付でも汗をかいていたなとカカシは思いながらジョッキを二つ注文した。
「どうしたんです? 緊張してるみたい」
 どうしたもこうしたも、と自分に突っ込みを入れつつカカシはイルカを見つめた。肩をすぼめて小さくなっているイルカはぱっと顔を上げた。
「そ、そりゃあ緊張するでしょう!」
 囁くようにイルカは答える。やはりというか当然というか、イルカは『カカシ』と部屋から出た事がないのだろう、メニューを広げたが、イルカおろおろするばかりでカカシが全て選んだ。ジョッキを合わせる時にも、イルカの目は泳いでいた。
 運ばれた料理を突付くために面布を下ろしながらカカシはふと思う。イルカは現実には自分の顔を知らないはずだ。想像とは違う顔だったりはしないのだろうか。なにげなく伺うと、やはり違和感を感じているのかビールを飲みながら横目で観察されている。随分な勢いで一杯を飲み終えるとイルカは新たにジョッキを頼んだ。
 はー、と溜息を吐くイルカの頬は、黄色い光の下でも赤いと分かる。酒のためだけではないだろうその顔が、今から別れの苦痛に歪むのかと思うとカカシの眉が寄る。その顔を横からちらちらと見られているのが喩えようも無く心地悪かった。手持ち無沙汰も手伝って、冷えたジョッキから滴る水滴をせっせとお絞りで拭いた。
「ずっと俺を見てますね」
 視線をカウンター越しの料理人に向けたままカカシは言った。本当に隠して付き合っていたかのようにカカシの胸に罪悪感が降り積もって小声になった。
「え、あ……はい」
 あんまり素直に答えるものだから、ふっとカカシは笑う。イルカは両手を振り回して笑われた事に抗議を始めた。
「だ、だって、こんな所に二人で来るのって初めてだし、なんだかいつもと違うように見えてしまって」
 真っ赤になっている。喜んでいるのだ。あまりに喜ぶから、暗い気持ちが徐々にほぐれてカカシの口元が本気で笑い始める。
「変ですか?」
「まさか!」
 カカシ先生はかっこいいです、と囁いてからイルカはジョッキを掴んだ。動揺しているらしく口に付けた瞬間、がちりと歯に当たった音がする。教師を何年もやっているとは思えない。想像もしていなかった姿にカカシは喉を震わせて笑った。睨んでくる顔はやはり目の中に一杯の愛情が詰まっている。
 二時間もかけて糸口を探したが、カカシにはイルカと別れるための言葉を差し挟む隙が見えなかった。イルカは他愛ない話を一生懸命に語り、また、カカシのくだらない話をさも大事な事のように聞いた。ふっと黙り込む瞬間には、イルカから何か特殊なチャクラが放出されているように感じる。店を出る頃には、カカシは当初の目的をすっかり忘れてイルカとの食事を楽しんでいた。

 ほぼ無理やりカカシが奢った。ごちそうさまでした、と頭を下げるイルカに、初めて一緒に外食したんですから今日は俺の奢りで当然ですと、分かったような分からない様な事を言った。
「すごく、楽しかったです!」
 イルカは幸せそうだった。三文芝居に浸りきって幸せそうに笑うイルカにカカシも幸せを感じて目を細めて彼を見つめた。イルカはその視線に照れ、へへ、と首を傾げて笑った。胸が潰れそうで、カカシは慌てて先に立って歩き出した。
 ぽつりぽつりと街頭が並ぶ道から住宅街に入って一段階暗くなる。暗がりに月の色を映した荒地待宵草が咲いている。イルカは優しい声でごく日常的な話題をこの世の至福のように語っていて、薄い花弁の黄色い花がふわふわと揺れる様子に良く似ている。カカシは言葉少なに頷きながら半歩遅れて歩いた。
 これきり二度と誘わなくてもイルカはきっと不満に思う事すらしない。このまま何も言わなければ、明日からもイルカは一人芝居を続けるのだろう。この夜の事をいつまでも覚えていて、思い出しては微笑むのだろう。
 カカシは立ち止まった。
 これからもイルカは、誰もいないあの部屋で使われる事のない歯ブラシを見つめて過ごす。黒い目にただ、愛情を映しながら。
「カカシさん?」
 嫌だ、とカカシは思った。そんなのは嫌だ、どうしても嫌だ、許せない。
「カ、」
 誰かに見られればいいのに、と思いながらイルカにキスをした。驚いて止めようとするイルカの右手を掴んで長く長く口付けた。最初、イルカは脅えて震えていたが唇を離す頃には、熱中するあまりに体重を掛けるカカシの背に自由な手を回して支えるようにしてしがみ付いていた。
「あなたの家に、行ってもいいですか」
 キスが終わるとカカシは言った。聞いてはいるが引くつもりは無く、イルカもそれを分かっているような顔で嬉しそうに頷いた。

 その夜、カカシはイルカの中に貯まっている思い出に激しく嫉妬しながらイルカを抱いた。二十四時間前には鳥肌を立てて天井裏に潜んでいたのが嘘のようだった。
 その時は見ていられずにすぐに逃げてしまったためにカカシは知らなかったが、イルカの中では互いに慰め合うだけでそれ以上の行為はしていない事になっていた。それにカカシは驚き僅かな優越感を持った。結局は『カカシ』が相手であったのだから、嫉妬にも優越感にも意味は無い。しかしカカシは常に無く感情を波立たせ、しかも、あまり慣れていないんです、などと恥ずかしそうにイルカが言うので、激情が募って少し泣かせたりもした。
 それでもイルカは、半年かかってやっと出来ましたねと笑った。なんと答えていいものか分からず、カカシはイルカと抱き合いながら、もう隠さなくていいですよ、と囁いた。
 そして二人で風呂に入った後で一番やりたかった事をカカシはした。実は、セックスよりもそちらがしたかったからイルカの家にやって来たのだった。
 温まった体をくっつけ合い、狭い洗面台の前で二人で歯を磨いた。イルカは時折嬉しそうにカカシを眺め、その度カカシは行き場の無い恨みをこめて歯ブラシを握る手に力を入れた。だから口を濯いだ水がピンク色になってしまい、イルカを心配させた。



 おや、とアスマが顔を上げる前に、陸にあがった魚が跳ねるようにしてカカシが長椅子の上で体を起した。
「あ、こちらでしたか、猿飛上忍」
 書類を抱えたイルカが上忍控え室に入って来た。そして窓を離れて寄って来たアスマにそれを差し出す。
「次回任務の資料だそうです。火影様よりお渡しするようにと」
「ああ、ありがとよ」
 アスマは再び肩を震わせ始めた。しかし今度はカカシはすねてはいない。それどころではないらしい。もちろんイルカも気付いてはいないようだった。
「じゃあな、カカシ、イルカ先生」
「ああ、行け行け」
「お気をつけて。ご無事のお帰りをお待ちしています」
「おう、また受付でな」
 片手を上げてアスマは控え室を後にした。締めるドアの隙間から二人を振り返るととうとう噴出してしまい、慌てて閉める。そしてげらげら笑いながら特に用事の無い者の足取りでゆっくりと建物を後にした。

 控え室に入った瞬間から、イルカは一度もアスマを見なかった。丁寧に書類を両手で差し出し、労う言葉を紡ぎながらも顔だけはカカシの方に向けられていた。そしてカカシの視線もまた、接着されたようにイルカの顔に固定されていた。
「全く、まぬけ面曝しやがって!」
 隙間から見えた二人は、これから愛の告白をしようとする初心な恋人同士のように見つめあって顔を赤らめていた。
 だから、火が点かねぇんだよ! と笑いながら遠ざかる声も、二人には聞こえていない。






NARUTO TOP