カカシが言ったように、イルカは塔に呼び出された。
泥だらけの三人の顔が嬉しかった。想像もしなかった程にたくましい目の光が宿っている。にも拘らず、無邪気に抱き付くナルトを受け止めながら不意に十六の自分を思い出した。自分も、アカデミーの担当教官に迎えてもらったのだ。げんこつをもらった記憶ばかりの厳しかった師に、イルカも子供に戻ったように抱き付いた。その師は既にこの世にはいない。人が消えても折り重なっていくものが確かにあるのだと、イルカは痛みとともに感謝をした。師に、火影に、カカシに。
口寄せ直前に火影からの知らせを受けていたので、知らない振りで三人を労い励まし予選会場に導いた。が、サスケの首筋に見え隠れしている呪印に心中は穏やかではなかった。予選や本選には、審判というストッパーがある以上命だけは助かるだろう。しかし、この呪印は。
会場でイルカと顔を合わせたカカシは肩を竦めて苦笑した。カカシを見つけた途端に、イルカの顔に心痛がありありと映ったからだ。すれ違いながら、なんとかするよ、と呟く様にカカシは言った。
会場を去るのは辛かった。しかし子供達は既に『子供』ではなくカカシの『部下』であり、それぞれの忍道を歩み始めている。彼らに恥じないためにも、イルカは己の仕事に戻った。
他の教師と予選についての雑談を交わした後は、額を付き合せて慎重にシフトを組んだ。試験に纏わる業務で忍の数は大幅に減っている。本選までには一ヶ月の猶予があるが、その間も人数は今と大して変わり映えしない。任務を通常通りこなすため、教師自らが任務に出る段取りをつけるのだ。同僚の約三分の一が任務に駆り出される事になったが、案の定イルカは早い段階でアカデミー常駐に決まっていた。そうなると、サスケ以上にカカシを心配すべきだという火影の意志を、改めて感じずにはいられなかった。
イルカが護衛の任に就いたのは十の月。本選は八の月六日。
正念場とも言える残された数ヶ月。
ならば、せめて本選を見せてやりたい。
垂れ流すように命をきらめかして木の葉丸が騒いでいる教室の中で、一年、いや、一月でいい、自分の人生を裂いてカカシに与えてやってくれとイルカは天に願った。
その夜イルカの家を訪れたカカシは、願いもむなしく大層悲惨な宣告をイルカに与えた。
「山ごもり!?」
「ま、簡単に言えば、ですけどね」
「……」
「待って下さいよ、まだしゃべらないでね」
久しぶりに肌を摺り寄せた後だった。カカシは機嫌を取るような少々甘ったれた困り顔でイルカを見つめる。
「サスケを特訓するんです。呪印を無理やり封じた疲労が深いから何日かは休ませるけどね。ま、体そのものには問題はありません。退院したらその足で出かけるつもりです」
「なにも山ごもりまでしなくても……」
この時期にカカシと離れて過ごすのかと思うと、イルカは泣きたい気持ちになった。しかしナルトも修行に明け暮れる予定だというし、呪印のためにもサスケにはカカシが必要だ。頭では分かっていても、どうして、と思わずにはいられない。一ヶ月を眠らずに過ごせと言われたようなものだった。
「どこで修行しても同じだと思うかもしれないけど、今、里は浮ついているでしょ。出来るだけ人目の無いところで教えてやりたいんです」
カカシの言いように、何をするつもりかを悟ってイルカは溜息を吐いた。なんにせよ、カカシが教えるような紙一重の危険な術は、人里で練習するようなものではないのだろう。
「……反対は、しません」
「あー怒ったー」
逆にカカシがむくれた。
「俺だってそこらの空き地でやりたいよー。イルカ先生と一緒にいたいもん。でもやんなきゃならないんだからやるんです」
子供のような奇妙な説得力にイルカは苦笑した。
「だから、怒ってませんし、よく分かります。あなたの選択は最善だと思います」
「むうー」
一層むくれるカカシに吹き出しそうになりながら、じゃあどう言えばいいんですか、とイルカは呟く。
「カカシさんがいなくて寂しいけど我慢しますって言ったらいいんです」
しゃあしゃあと言うカカシの目は笑っている。この手の台詞は閨の肴、薄っぺらい気持ちであしらってきたはずの戯言に、イルカは自分でも驚く程に胸の中が熱いもので満たされるのを感じた。その通りだと、思えば更に温度が上がる。
「……あなたがいないと寂しい」
突然真剣味を帯びた空気にカカシは、あれー? と笑った。イルカは茶化さなかった。
「ずっと触っていたい。いつでも側にいたい。でも、そんなに依存したら俺が困る事になるし、俺が困ったらあなたはもっと苦しいだろうと思います。だから、我慢せずに普通に暮らすように努力してみます」
この先を、見据えた上での真実本心であったかもしれない。
「……がんばって下さーいね」
優しくカカシは言い、イルカの背を撫でた。イルカは遠慮も照れも全て捨て、自分の体が望むようにカカシにしがみついた。
「俺も、がんばりまーすよ」
「はい」
「時々、様子くらいは見に来るからね」
「未練がましい。いっそ会わない方がいいんです」
「そ、そんな、別れるみたいな……」
しおれた声音にイルカは笑う。
「別れる、なんて無理じゃないですか。馬鹿馬鹿しい」
ふふー、とカカシは笑った。照れたような嬉しげな顔にイルカも同じ笑顔を返そうとしたら、腰辺りがくすぐったくなった。
「ちょっと、カカシさん、」
「もうちょっとね、もうちょっとだけ」
「だから、あなたのはちょっとじゃすまないんだから、あ、」
「じゃ、たくさんしましょ」
「いっつもそんな事言って……」
「俺のこと、好き?」
急に、珍しい事をカカシが聞いた。
「好きです……」
そういえば、さっきは夢中で睦言どころではなかったと思い出す。
「カカシさんが好きです」
呪術のように。
何もかもがカカシに向かっている。それを認めるのが嬉しい。
「俺もイルカが好きだよ」
シーツは汗で湿って気持ちが悪いし、二人共、何かよく分からないもので汚れている。よく利かないクーラーは、がんばっていますよと、無粋な音を響かせ、古いベッドはきいきいと癇症に鳴る。
でも、ここほど素晴らしい場所はない。
浮気したらだめですよ、とイルカは言った。
イルカセンセイったら熱いんだから、とカカシは笑った。
その後の一月、二人は結局それぞれの言い分を通した。
カカシは深夜、窓の桟に爪先立ってイルカを覗き込み、イルカは決して目を開けなかった。互いの呼吸と心音を壁越しに確かめるだけの逢瀬だった。
そして待ちわびた一月の後、里に熱風が吹き荒れた。
それは全てを覆い、全てを乾かし干上がらせ、そして最後に大きな火を吹き消して通り過ぎた。
やがて、雨が降る。
しかし、消された火は飛び散り、幾百の小さな炎が雨の中に残った。
里には瓦礫ばかりが目立っていた。整然とした機能を失い、水さえもが足りない有様だった。アカデミーは事実上の休校、任務だけは辛うじて遂行されているのが、何かしら皮肉に感じられる。
イルカ達教師はアカデミーのグラウンドで過ごしていた。家を失った者達を集め、大きな釜で炊き出しをし、テントを作ってやり、病院からあぶれた軽症の怪我人を治療する。そして目に付く限りの場所に瓦礫の片付けに行く。先生にそんなことを、と家族は恐縮するが、教師らは何をも厭わない。
アカデミーの生徒に死者が一人も無かったのが教師達の誇りであり、この困難に際しての力の源になっていた。それこそが火影が望んだ事だと彼らは思い、笑って働き続けていた。
降り始めた雨は、未だ止む気配はなかった。
「明日の葬儀は晴れればいいなあ」
シラナミが、大きなタンスを持ち上げて言う。倒壊した家屋を掘り起こしながら片付けているところだ。
「このまま雨でも構わないわよ。涙雨って言うじゃない」
柱を二本、軽く担ぎながらウズメが言う。くの一の中でも飛び抜けた力自慢に呆れた視線を送ってシラナミが笑う。
「まあなあ。イルカなんて洟垂らして泣くんだろうから、雨のがいいか」
「煩いなあ、泣いてる余裕なんてないよ」
イルカが苦笑しながら大きな戸板を引き起こすと、下から小さな人形が出て来た。それを拾って埃をはたく。先生、と呼びかけられて顔を上げると、この家の家主が手を振って駆けてきた。
「先生方、ウチはもう充分ですんで、お仕事に戻って下さいよ」
すまなさそうに彼は言った。それもそのはず、三人は傘という存在を知らないように、濡れ鼠になって作業を続けていた。
「はは、これが仕事みたいなもんだ。気にしないで下さいって。でもまあ、土台が見えてきたからこんなもんかな」
シラナミが見回して言う。
「そうね、そろそろ炊き出しの準備をしなきゃ。あたしはグラウンドに戻るわ」
「本当にありがとうございました」
深々と頭を下げる家主の肩を笑って叩き、ウズメは元気よく駆けて行った。
「あ、あたしの」
家主の後ろに隠れていた女の子がイルカの懐からのぞく人形を指差した。おいで、と手招きするとおずおずと寄ってくる。
「はい。お人形さんには怪我はないぞ。ちっと汚れてるけどな」
にこ、と笑って手を出す女の子に人形をしっかり抱かせる。
「ありがとう」
うん、と子供の頭を撫で、イルカは腰を伸ばした。
「じゃ、行くか」
「ああ」
手を振って見送ってくれる家族に手を振り返し、イルカ達もアカデミーへ向かった。しかし、そこら中に溢れる唖然と座り込む者たちを、励まし手伝う内にとっぷりと日は暮れ、いつの間にか雨が止んでいた。
炊き出しを配り、帰る場所の無い被災者を校舎に招きいれてグラウンドが静まる頃、やっと教師達は夕食にありついた。といっても、炊き出しはあらかたなくなっているから、任務時に持って行くような乾燥米に湯を掛けただけの味気ないものだ。明日の予定を簡単に話し合ってそれぞれ帰路につく事になった。もちろん、集まった者達のためにアカデミーに泊まり込む者もいる。
居残り組に手を振り、イルカはぬかるむグラウンドを後にした。
薄雲に遮られ、月は心細げな光を放っている。真夜中には遠いが、疲れ切った里は早くも寝静まっているので、そんな光でも夜道は明るかった。
イルカの足は泥を跳ね上げながらだんだんと速くなる。どんなに忙しく日中を過ごしても、どんなに生徒を愛して心を砕いていても、この道を辿り始めるとイルカは教師ではなくなっていく。こんな非常時でもそれは変わらなかった。
歩みが速まる毎にただの『イルカ』になる。期待をしてはいけないと心を殺しながらも、ドアの前に誰かがいるかもしれないと思わずにはいられない。自分で会わないと言ったくせに、この一ヶ月、毎晩それを考えた。そして溜息と共にドアを開ける、その繰り返しだった。
あの角を曲がれば、と思って急に悲しくなった。イルカの部屋が見える場所だった。ドアの前の人影も、はっきりと分かる。いつも、ここで落胆するのだ。
イルカは俯き、前を見ないようにして最後の数メートルを行く。安物の階段を駆け上がり、ポケットを探って鍵を手にしてから勢いよく顔を上げた。
「……あ」
イルカは足を止めた。駆け寄りたい気持ちが大きすぎて動けない。じっとその場に固まっていると、待ちきれないようにドアの前の影がふっと動いた。
「ずぶぬれですね」
言うカカシの髪も、すっかり頭に張りついている。
「お疲れさま、イルカ先生」
吸い寄せられるようにイルカは体を投げた。精一杯抱き締めると、カカシの体は想像以上に痩せていた。
「……カカシさん」
それ以上は言葉が出なかった。うっとりとカカシの匂いを確かめている間に、部屋に入れられて濡れた服を脱がされていた。抱き締められたまま暖かいシャワーを浴び、子供のように洗ってもらい、拭いてもらってベッドに運ばれた。
「イルカ先生」
「カカシ先生」
かつて、罪悪感さえ覚えて嘘の思いを乗せたその名に、愛をこめることが容易い。けれど、偽りを告げた時の何倍もの苦しさが胸を締め付ける。
「イルカ」
呼び捨てられると、彼の人の胸に宿った気がする。
「カカシ……」
呼び捨てると、彼の人が胸に宿った気がする。
最初に抱かれた時のようにイルカは朦朧とカカシにすがった。苦痛と快感は生と死のように表裏にあり、全てがただ一人に繋がっているのだと知る。
「顔が見たい……」
シーツの上を滑る声は、他人のもののように淫らだった。それ以上に生々しく、卑猥な音をたてて体が返る。
「カカ……」
汗まみれの体がびしゃりと被さって、残りの息を吸い尽して舌が絡まる。はあはあと、大きい息継ぎの合間に、どうなってもいい、とカカシが呟いた。
愛している、愛されている。
それだけがあればいい。
二人共が意識を危うくして疲れ切った体を横たえても、ささやかな寝室には呼び交う声が残った。
NARUTO TOP・・・6へ