冷たい別れ 6

「降ってきましたね」
 カカシが穏やかに言った。イルカはカカシの胸にもたれて胸に耳を当てている。ずっと、心臓の音を聞いている。ざあざあと、聞こえる音は表の雨なのかカカシの血潮なのか。
「朝ですね……」
 窓の向こう、遠くの空が淡く色を変え始めていた。
「行きましょうか」
 頷くイルカをカカシは抱き上げるようにして立たせた。喪服に袖を通し、二人は並んで家の扉を開けた。一歩遅れるイルカにカカシが手を出す。

 濡れるままに、二人は手を繋いで歩く。互いを労わって音も立てずに歩く。背後から、追いかけるように朝が走ってきていた。
「大丈夫?」
 カカシがイルカに言った。
「カカシ先生こそ」
 合った目が互いに笑う。どちらともなく歩みを止め、静かに口付けを交わした。

 三代目。俺は、間違いなくあなたの望みを果たします。
 あなたが望んだように、彼を愛しました。
 そしてあなたが望んだように、その最期に泣き喚くでしょう。
 だから、今日は泣かずに送ることを許して下さい。

 二人は微笑み、繋いだ手を軽く振った。そして、その時、それが来た。



 長く音を引く高い鳴き声を仰ぎ見た。見ずとも何かは知っているが。
「……式」
 どちらが言ったのかは分からない。白い鳥が二羽、二人の前に舞い降りた。その翼が美しく雨を弾いているのを二人はじっと見つめた。

「イルカよ」
 一羽が前に進み出てイルカを見上げて言った。三代目火影の声。
「難儀な任務をよくこなしてくれた。礼を言う」
 狼狽してイルカはカカシの手を離して式に歩み寄った。カカシに聞かせてはいけない。しかし、式はきらきらと跳び下がって捕まるつもりはないようだった。
「これは、わしが死ねば降りるように仕掛けておいたものじゃ。これをもっておまえの任を解く」
「……そんな! まだ、まだ……!」
 イルカは思わず反駁した。式には、通じるはずもない。
「わしの八卦がよく当たるのはおまえも知っておろう。おまえに言った死の期限は実はわしのものじゃ。何が理由かは未だわからん。しかし、この式は必ずおまえの前に現れるとわしは確信しておる」
「……どういう……」
 背後のカカシに動きはない。決して聞かぬ振りをしているのではなく、沈黙のままイルカを見つめている気配があった。白い鳥は、小さな嘴を閉じない。
「イルカよ。わしには心残りなどない。次の火影など、残った年寄り達が決めればいいことじゃ。よからぬ者を選ぶ者はおらんからな。ただ、おまえの事は気掛かりでな……。おまえが、孤独と苦痛を子供達への思いにすり替えて生きてきた事を知らぬわしではない。その一因が、わしの管理不行き届きに由来することもな」
 イルカは濡れた地面に膝を着いた。
「それで、おまえから孤独を奪ってわしが持って行く事にした。まあ、ちと問題ある人選だったやもしれんがの、荒療治じゃ。おまえの頑固さにはあやつくらいが丁度よかろうよ」
 鳥は、羽を震わせた。イルカの顔をその飛沫が打つ。
「言わずともわかろうが、一応言明しておく。カカシの心の臓に不調なぞない。……せいぜい長生きさせてやれ」
 言い終わると鳥は天に舞った。そして、朝日に向かって飛びながら雨に溶けてしまった。

「カカシよ」
 もう一羽が嘴を開ける。カカシは音無く、式を見降ろした。
「二人が一緒におる時に降りるようにも仕掛けておるからの、もう話は聞いたな。おまえの任もこれで仕舞いじゃ。イルカの息は止まったりせんぞ」
 うずくまるイルカが顔を上げた。
「カカシよ。おまえはあまりに真っ直ぐここまで走ってきたな。飢え尽した獣のようじゃった。……おまえの本性が変わる事はないやもしれん。しかし、一度だけでもおまえに『満たされる』心を知って欲しかった。おまえからあれを、四代目を奪ったわしの勤めだとも思っておる。カカシよ、知ったか? 知ったならば、離さぬことだ。では、さらばじゃ」
 冷たいほどにあっさりとした別れの言葉を告げて、火影の声は永遠に失われた。そして火影の心のままに美しい式は二人の頭上を旋回した後、突き上げるように天に飛びながら消えた。



「大丈夫ですか、イルカ先生」
 背後からのカカシの声に、イルカは唖然としたまま振り返った。カカシが手を出してくるのでそれにすがって立ち上がる。
「ったく……とんでもないジジイだな」
 苦笑でカカシは空を見上げて顔で雨を受ける。
「カカシせんせい……」
 イルカは、ぼんやりとカカシを見つめた。
「やれやれ、というところかな。お疲れ様でした」
 に、と笑ってカカシは言った。そっと腕が肩に回る。イルカは火影の言葉を反芻し、やっと腹の底から喜びが湧きあがってくるのを感じた。
 この人は死なない。
 カカシは穏やかに微笑んでいる。
 この人は、死なないのだ。肩に置かれたこの手が、冷たく冷える事も、慰霊碑に名が刻まれる事もない。あと何日なのかと、思うたびに胸が引き絞られて喚き散らしたくなる必要なんかない。
「カカシ先生……!」
 イルカはカカシに向き直って彼の両腕を掴んだ。しかし言葉が出てこない。苦しみで言葉を失う事は何度も経験してきた人生だった。まさか、喜びで声を無くすなど。
「カカシ先生……」
 イルカはカカシの胸にすがった。自分がどれほど嬉しいのか、カカシに知らせたくて唇を寄せる。が、カカシは笑ってイルカの腕を解いた。
「俺、もう行かないと」
「あ、はい……」
 にこ、と笑ってカカシはイルカの頭をぽんぽんと叩く。お疲れさま、ともう一度聞こえて、もしや、とイルカの背筋がぞっと粟立った。
「あの、カカシさん……」
「何?」
「今夜また、会えますよね……?」
「なんで?」
 笑顔のままカカシが言った。
「任務は終わりましたよ?」
「あ、の、」
「そんな気ぃ使わなくていいよ。ま、じじいに踊らされたのは癪だけどさ、たまにはこういう気晴らしも悪くない」
 これじゃ三代目の思う壺か、とカカシはからからと笑った。そして、ああ、と呟くと、イルカに向かって両手を合わせて拝む仕草で苦笑した。
「この件、他の人には内緒にしてくれる? 男とナニする任務なんて恥ずかしいでしょ。ま、アンタもそうだろうけどさ」
 笑い含みでそう言う。イルカは、つられるようにして笑った。
「もちろんです。お互い、大変でしたね」
「ほんとにねー」
 じゃね、と手を上げてカカシは背を向けた。イルカは、お疲れさまでしたと言いながら微笑んだ。

 朝が弱々しく雨を照らす中で、イルカはカカシの背を見つめた。真っ直ぐな道を歩いて行くから、いつまでも彼は消えない。
「ふ……」
 一度漏らすと笑いが止まらなくなった。膝が震えて立っていられなくなり、イルカは小雨の中、道に突っ伏して笑った。泥が口に入るのも構わず笑い続けた。

 完璧だった。彼は、完璧に『任務』をこなした。それだけ。

 自分だって始まりは苦痛ですらあった任務じゃないか。それなのに、カカシは全て好意的に受け取った。自分が火影に言われて信じたように、カカシは惚れられていると信じ、そして自分はそれに答えるだけの演技をした。
 それだけの事なのに狂いそうになっている。そんな自分が可笑しくて、いよいよ笑いが収まらない。びしゃり、と道を叩き、イルカは身を震わせた。あはは、とのたうち、何度も拳を打ちつけながら痙攣して涙を零した。

「俺は嫌だ」
 静かな声に顔を上げる。まだ、収まらずにしゃくりあげながらイルカは、ふふ、と零した。
「ねえ、何してるの、アンタ、嫌じゃないの」
 カカシの顔が歪んでいるのは雨のせいだろうか。
「嫌だ!」
 叫び、カカシはイルカを引きずり起こした。
「こんなのは嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!」
 揺すぶられながら、イルカは微笑んでカカシを見つめた。
「何か言って、イルカ先生、俺は嫌だ、嫌だ、嫌なのに……」
 反応の無いイルカにカカシの声は次第に小さくなった。ずるずるとうずくまり、カカシはイルカの膝の前で額を泥に埋めた。足首に両手がすがる。
「嫌だ、嫌だ、頼むから……」
 何度も同じ言葉を繰り返す。とうとう力無い手までが、ぱしゃん、と水溜りに落ちた。
「カカシさん……?」
 見えていないように、イルカの手がカカシを探った。頭を見つけ、両頬に手のひらが添う。
「カカシさん」
「はい」
 泣きながら、カカシは顔を上げた。イルカの手を辿ってのろのろと身を起こした。
「嘘つき」
「はい」
「あなたも俺を、罵って下さい」
「好きです」
 二人は膝を付いた姿勢で抱き合った。しばらく凍ったように動かずにいたが、洟をすすりながらカカシが促すので支え合いながら立ち上がる。よろよろと道端の木に二人でもたれると、まだ涙を零しながらカカシが掠れた声で耳元で言った。
「イルカ先生……死なない?」
「……死にませんよ」
「ホントに?」
 打ち捨てられたような目で見つめられ、イルカは溜息を吐いた。
「三代目に、何て聞いたんですか……」
「任務で息が止まる呪を受けて……それが解けないって……」
「そもそもそんな大層な任務が俺に依頼されると本気で思ったなんて……」
「だって」
「あなたなら、有り得ますけど」
「だって、好きだって聞いたから」
 ふう、と深呼吸してカカシは続ける。
「あなたは俺が好きなんだって、最後に会いたい人だって言ったって三代目に聞いたんです」
「俺も同じですよ」
「違うよ。俺、嬉しかった。あなたに好かれてるって知って、嬉しかったんだ」
 ぶる、とイルカは震えた。カカシはそれに気付かなかったようだ。
「嬉しかった。きっと幸せにしようって思った。時々は悲しかったけど、あなたが側にいる事が嬉しくて仕方なかった」
「じゃあなんで……さっき、あんなに簡単に……」
「やっぱりって思ったから」
 カカシは項垂れ、イルカに巻きつけた両手を外した。
「イルカ先生、いつも怖がってたでしょ。あなたの昔の話を聞いて……それが原因だと思おうとしました。そして、あなたほど愛してくれた人はいないなんて、嘘を言いました。何かが違うと頭のどこかで分かっていたけど、愛されていると……無理やりにでも信じたかった。でも、式の言葉で、やっぱり、って。俺は違ったけれど、あなたにはただの任務だったんだって。だから……」

 言われる前に言った。お疲れさま、と。

「ねえ、イルカ先生」
 茫然とイルカが目を上げると、カカシは眉を寄せ、戸惑った後にイルカをやんわりと抱き締めた。
「あなたが嫌ならこれっきりでもう触れません。でも、時々口をきいたりあなたの心配をする事だけ、許してくれませんか」

 なんという事だろう、なんという事だろう。
 いつかも聞いた言葉、カカシは覚えているのだろうか。
 あの時、自分はどう答えたんだった?

「嫌です」
 これまで、衝撃のあまりに止まっていた涙がどっと溢れた。
「嫌です、言って下さい、絶対手放さないって、言って下さい」
 カカシの顔がまた歪んだ。抱き締める腕に力がこもった。
「いいんですか、一生ですよ、一生」
「よろ、しく、お願い、します」
 しゃくり上げながらイルカは言った。そして、額を合わせて見つめ合い、二人は泣きながら笑った。







 しばらく後、イルカは例の暗部の女と会った。落ち着いて話せる場所だったので、随分と長い話をした。
 彼女は、早い段階で三代目から事情を聞いたらしい。ただし、単にイルカとカカシを心配して、といういたずらめいた言い方だったので、彼女は呆れはしたが、深くは考えなかった。イルカ達の下に白い鳥がやって来た頃、彼女の元にも同じく式が訪れ、それで全てを知ったという。真実味を持たせるために第三者の彼女まで謀って心労をかけた事を、火影は式を通じて丁重に詫びてくれたと彼女は言った。
「……あの、一つ気になる事があるんですけど」
「なんでしょう」
「今のお話だと、しばらくはあなたも火影様の言い分を信じてらしたんですよね。真実味を増すために第三者が必要、ということなら、カカシ先生側にもあなたのような役目の人がいないと駄目って事になりませんか?」
 ああ、と彼女は笑った。仮面の下なので、笑ったように感じた、というのが正しいか。
「アスマ上忍です」
「……なるほど」
「先日お会いしましたが、笑っておいででした」
「そうかあ」
 参ったな、とイルカは鼻筋を掻いた。彼女は静かに窓の外を眺めていたが、ゆっくりと立ち上がった。
「今度は気持ち良くお願い出来ます」
「はい?」
 黒髪を滝の様に肩から流しながら、彼女はイルカに深々と腰を折った。
「なんにせよ人生はそう長くはありません。どうか幸せに過ごして下さい」
 あなた方だけは、と彼女が心の中で付け加えたのをイルカはもちろん知らない。
「はい、必ず」
 はっきりと言ってイルカも頭を下げた。顔を上げると案の定、彼女は風のように消えていた。



 人生はそう長くはない。
 確かに彼女の言う通りだ。出来るだけ早く、幸せになろう。出来るだけ長く、幸せでいよう。
「だから早く起きて下さいよ」
 本当の意味で心を通じた途端に眠ってしまった男の頬を突付く。そのまま手のひらを当てると自然に親指が唇に触れた。思いついて、カカシがよくやっていたように親指で唇をなぞってみる。

 あ。

 暖かい息が親指を湿らせる。

 そうか。

 イルカは唇を触ったまま、カカシの手を自分の心臓の上に押し当てた。
 互いに指で呼吸を聴き、鼓動を聴く。

「早く、起きて下さいね……」

 そして生きていきましょう。俺達は、生きていきましょう。

 眠りの中、ほんのりとカカシが笑ったように、イルカは思った。






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