冷たい別れ 4

 日々は順調に重なっていった。
 イルカにとっての一区切りである三ヶ月はあっさりと過ぎ、雪が少し降った。それが溶ければ少しずつ夜が短くなる。
 冬の間、イルカはよく空を見上げた。雪の少ない木の葉の里は、冬には独特の晴れ間を見せることがある。澄みきった水に似た薄く透明な空を見上げ、白い息を吐きながら、早く暖かくなれと太陽を呼んだのだ。
 やがて花がうっそりと咲き始める頃、イルカは同じように空に願った。どうか、もう少し、ゆるやかにと。
 しかし、こんな季節だったら良いのに、と思った暖かい昼間はやがて、過ごしにくい湿度をはらむようになっていた。



 時に恐ろしい気持ちが押し寄せる日がある。
 何時動かなくなるのか、果たして苦しむだろうか。その時側にいてやれるのか。
 俺は側で見ている。ただ見ている。触って確かめながら、笑顔を顔に貼り付けて甘やかして甘やかされる。
 そしてどんどん、苦しくなる。俺までが瀕死だ。いっそ先に逝ってしまいたい。苦しい気持ちだけで死ねるだろうか。……俺には無理だろう。
 この体が、この体が、近くに存在しない生活に戻れるのか。孤独と手を繋いでいたのに、急に暖かい手に絡められて未だ慣れない。その上この手が去ったら俺には何も残らない。孤独さえも。
 三代目。
 他になーんもありゃせんのじゃ、とあなたは言いましたね。
 彼を失った俺に、同じ言葉を言ってくれますか。



 ぼんやりしていたイルカは不意に我に返った。隣りのカカシを見れば、本を片手に壁をじいっと見ている。
「……暑いですね」
 視線を感じたのか、イルカを見てカカシは笑った。
「疲れてるみたいですよ」
 イルカは首を傾けて聞いた。波の国で無茶をやった話は、浴びるほどナルトに聞いた。どうやらナルトはこの任務でようやく、カカシを真剣に尊敬するようになったらしい。
「もう平気でーすよ」
 本来ならば、イルカの方がバテる時期が目前に迫っていた。中忍試験がアカデミー教師を多忙の極みに押し上げるからだ。既に次の休みの目処は立っていない。しかし、今期は調節さえ上手くやれはカカシとの逢瀬に差し支えはないだろうとイルカは思っている。
 早くも第一の試験の問題作りなど幾多の命令が中忍教師に下っている。受験者に気になる生徒がいると、イルカは中忍試験の伝令役を志願せずにはいられない。そうすれば、これらの雑事の上に口寄せ契約や試験会場の下見にまで時間を取られる事になるが、卒業して一年にならないナルトを含む生徒達が中忍試験を受けるとは、イルカは端から思っていなかったのだ。
 だから、間もなく火影から発表されるだろう中忍試験の話をあえてカカシにはしていない。
「今日は早めに休みましょうか」
 イルカの言葉に、カカシはうーんと伸びをしながら、ふあい、と言った。

 最近のカカシはどこか冷静になっているようだった。春頃までは、のぼせあがっているとしか言いようがない状態だったが、良い具合に落ち着いた。
 相変わらず過保護だけれど。
 先週の始め、イルカは軽い風邪をひいた。喉ばかりがやられて息苦しい、と愚痴った途端にカカシはイルカをベッドに運んで完全看護体勢に入った。声が出にくいだけだからと何度諭しても、トイレを除いてベッドから離れる事を許してくれなかった。挙句にアカデミーに休暇を出す、と言い出したので、イルカは怒って見せるしかなかった。
 そんな突発的な出来事はあるにせよ、今は無理に予定を合わせてでも一緒に過ごす、といった状態ではない。少しだけ、距離とも言えない自然な隙間を開けて、のんびりと触れ合っている。
 こうなれて良かったと、イルカは安堵していた。最高潮に密着したまま『最後の日』を迎えてしまったら、恐ろしい事になりそうだと思っていたのだ。長くて一年、『最後の日』は近い。一人に戻る、と分かっているなら慣らしておいた方がいいに決まっている。いいに、決まっている。
 そんな事を念仏のように唱えながら、イルカはカカシと共にベッドに潜った。

 眠りに着いていくらも経たない頃、イルカは気配を感じて目を覚ました。あえて目は開けずに窺えば、顔に手が添えられていると分かる。
 また……。
 カカシの手がそっと頬を包んでいた。唇に触れている親指が、すうっと動いて何度か唇の上を行き来する。
 癖なのか、それとも眠れずに暇なのか、時折カカシは眠るイルカの顔を触る。てのひらが暖かく心地よいが、唇に触れる親指がたまらなくくすぐったいのだ。普段なら、うつらうつらしている間にそれは終わるのだが、今夜は少々しつこかった。くすぐったさに身悶えて、たまらずイルカは目を開いた。
「起こしちゃいましたね」
 闇の中、カカシは白く浮かぶようだった。
「何しているんですか……?」
「何も。あなたを見ていただけ」
 目が慣れてくると、カカシは横臥して片手で自分の頭を支えながらイルカを見下ろしていると分かった。何の光を受けたのか、カカシの左目が赤く光っている。もしかすると、暗闇の中でこの目が笑っている事を瞬時に見抜けるのは自分だけかもしれないと、イルカは思う。
「……俺、寝ます」
「はい」
 カカシの手が離れ、同時に彼の頭が肩に寄り添った。湿度で寝苦しいはずなのに、とても暖かいとイルカは思った。そして、手を握る振りをして、カカシの脈を数えながら目を閉じた。

 こうして日々が重なっていくものと、イルカは信じていた。穏やかに順調に、ただ一つの終結を目指して重なっていくのだと、信じていたのだ。





 イルカは大きな溜息を吐き、よろよろと家のノブにすがった。扉を開けるともう立っていられない。たたきに座り込んだ。全身が、べっとりと疲労をまとい、事実重いと感じる。
 その日、イルカはカカシと深刻な対立をする羽目になった。お互い言い過ぎ、案の定イルカが頭に血を上らせた。しかも、火影の前で。
 ずるずると這って行ってちゃぶ台の前に座る。かちかちと、時計の音が耳についた。
「お茶でも飲もう……」
 台所に行く。出掛けにカカシがいじっていた布巾が、魚の形に折りたたまれて水場にぽたりと落ちていた。それを見て、はーと生ぬるく息を吐く。

 カカシは、口出し無用、と言った。
 そしてなにより、潰してみるのも面白い、と。

 からからと音が鳴りそうな空洞を抱えた頭の中でその言葉が回る。正直その時、殺意さえ覚えたのだ。アカデミーに戻ってもイルカの怒りは解けず、彼の醸す雰囲気に声を掛ける者はいなかった。それくらいにはイルカは激怒していた。
 しかし、イルカを真に打ちのめしたのは、カンカンに怒りながら家路を辿っていた時に思い出した自分の台詞だった。思えばそれが発端だったと。

 ナルトはあなたとは違う。

 ちらりと、言い過ぎたかなと思った。しかし、カカシの悪質な冗談は普段の彼を知っているだけにとても許せるものとは思えなかった。いや、言いすぎていない、それどころかもっと言ってやっても良かったと、イルカはどすどす歩いていたが、急に心細くなった。いつものカカシを知っているからイルカが怒ったように、いつものイルカを知っているからこそカカシはあんな毒舌を吐いたのかもしれない、そんな風に考えて道端に立ち止まった。
 すると思考が止まらなくなった。多くはなかったが、イルカはカカシの昔話を聞いていた。だから彼が非常に不自然な育ち方をしたとイルカは知っている。しかもカカシにはその自覚があった。幼少の頃は、自分が同じ年代の者達とあまりに隔たった感性である事に傷つき、成長してからは、忍として褒められても人としていびつである事に傷ついてきたのだ。それは、他人にはどうにも出来ない種類の苦悩だと、昔話を聞く度にイルカは受け入れる言葉を与え続けた。

 その口で、おまえは違う、と言ってしまった。

 ふがいなさと恥ずかしさ、それでも残るナルト達を彼よりも知っているという矜持、そして得体の知れない後悔。
 その夜、一晩中イルカは待った。ここがいい、とカカシが言うからイルカの家でばかり会うようになっていたからだ。しかしカカシは訪ねては来なかった。『任務』の開始以来、一人の夜は何度もあったはず、しかしイルカは脅えながら眠れぬ夜を過ごした。何に脅えているのか自分でもよく分からなかった。しかし、一人になる練習だとも思わず、仲が壊れて任務が失敗に終わるという懸念も浮かばず、不思議なくらい純粋にただ、脅え続けた。



 カカシと会えないまま、とうとう中忍試験が始まった。互いに忙殺されているからだと思っても、イルカは眠れない。
 がらんとした部屋で自分の呼吸と時計の音を聞く。ナルト達は無事『第一の試験』を通過し『第二の試験』に突入している。イルカに出来る事は現時点では何も無い。途中だろうが塔に着いてからだろうが、巻物を開けば自動的に口寄せされるので通常の生活をしていればよい。眠れないのをいい事に、雑務は家に持ち帰ってやり終えてしまったし、口寄せによって突然放り出す訳にはいかないので授業も免除された。仕事が楽になった分、無駄にものを考える時間が増えてイルカの苦痛は増えていた。精一杯ナルト達を心配してみたが、それも長くは続かなかった。
 担当の上忍達は個人任務を外され、他国の者が頻繁に出入りする里の警備に駆り出されているか、ゴールの塔に詰めているはずだ。なんにせよ、自由な時間など無いだろう。イルカはその事実を、かすかに慰めとした。避けられているのではなく、どうしようもないのだと、自分に言い聞かせる。

「……カカシさん」
 呟くと痛みが胸に走る。カカシは呼び捨ててくれ、と言った事がある。セックスに夢中な時でもなければイルカには気恥ずかしく、妥協案である「カカシさん」でさえ、あまり口にはしない。言い出しっぺのカカシも似たようなものなので、すぐにお互い気にしなくなっていた。でも今は、カカシの望むように呼びたかった。
「カカシ、さん」
 あまりに胸が痛い。ぐっと胸元のシャツを握り締める。目を閉じて、カカシの笑っている顔を思い出そうとした。
「どうしたの」
 急に声が掛かってイルカは体を震わせた。
「苦しい?」
 開けた視界に任務服を着たカカシの姿があった。まるで火影の側に控えるように、膝を付いて真剣な顔をしている。この前風邪をひいた時と同じ顔だ。口を開けてカカシを見上げていると、声も出せないくらいに苦しいのだと判断したらしく、腰のポーチから何やら丸薬を取り出す。口に入れられそうになってやっと、イルカは両手をぶんぶん振って、違います、と言った。
「駄目、飲みなさい」
「だから、本当に違うんですって」
「薬も飲めないくらい子供ですか」
「体じゃなくて、気持ちの問題ですから!」
 大きな声を出すと、不審そうに一つ見えている眉を曲げて首を傾げる。
「気持ちって、どうしたの?」
 そっと髪を撫でてくる。何のわかだまりもなく、ただ自分を心配するカカシに泣けてきた。予兆も嗚咽もなく、涙だけを零し始めたイルカに、今度はカカシが狼狽してしっかり抱き締めてきた。カカシのベストからは埃っぽい匂いがした。
「カカシ先生」
「泣かないで」
 彼の腕を押しのけ、イルカはぐっと涙を拭った。泣いている場合ではない。
「カカシ先生、謝らせて下さい」
「は?」
 不思議そうにまた首を傾げるカカシの肩に手を置いて、イルカは食い入るように彼を見つめた。
「あなたがナルト達を中忍試験に推した時のことです」
「ああ……。ま、あなたの立場なら仕方ないですよ」
 苦笑してカカシはイルカの前にあぐらを組んだ。
「良くないんです。俺、あなたに酷い事を言いました」
「そうでしたか?」
 イルカは瞬いてカカシを見た。あらぬ方向を見つめて思い出そうとしているカカシは、本気でそう言ったらしい。
「あなたとナルトは違う、と俺は言いました」
「ああ」
 カカシは困ったように笑った。
「あんなこと、俺だけは言ってはいけなかったんです」
「あの場での議論と、俺の育ちは根本から別物ですよ」
 カカシは正確にイルカの意図を読み取った。気にしていなければそうはならないだろうと、イルカはぐっと肩を掴む手に力を入れた。
「それでも、言ってはいけなかったんです……」
 イルカはカカシに頭を下げ、許して下さい、と呟いた。
「もちろん」
 カカシは気軽に言った。
「でも正直、許さなきゃならないような事なんてありませんでしたけどね。ま、あなたがそれで楽になるなら、いくらでも許しましょ」
 カカシは面布を押し下げ、口付けしようとイルカの顎に指先を当てたが、
「でも、謝るのはそれだけですから」
 イルカがきっぱり言い、カカシは驚いたように体を逸らした。
「あなたはナルト達は自分の部下だと言いました。部下なら、導き育てるべき部下ならば、潰してみるのも一興などとは死んでも言ってはいけません」
 黒々とした目に睨まれて、カカシはぱちぱちと目を瞬き、
「……はい」
と、大人しく答えて微笑んだ。するとイルカは急におろおろと視線をさ迷わせる。
「ご、ごめんなさい、謝りたかっただけだったのに」
「たくさん、真面目な事を考えて苦しかったんですねえ。イルカ先生らしいなあ」
 む、とイルカが顔を向けると、はは、とカカシは笑った。実はね、とカカシは背後に回ってイルカを抱き締める。
「あの後、アスマに一喝されたんです」
「猿飛上忍に?」
 腹の前に回った手を握ってイルカは振り向く。
「おまえが悪いって。あんなんじゃ伝わらねえって言われました」
「……どういう事ですか?」
 イルカの束ねた毛先をひっぱり上向かせると、カカシはキスを軽く落とした。イルカが頬を赤くすると満足そうに笑う。
「言ったでしょ、俺が中忍になったのはナルトよりも六つ下だったって。それでイルカ先生は怒っちゃった」
「はあ……」
「あれはね、人には好機というものがある、と言いたかったんです」
「好機……」
「それが俺は六つだった。ナルト達は今です。あいつらは少なくとも、精神力を試す第一の試験を乗り越えられる。これは、あいつらの元々の気質とも言えます。そして、基礎忍術を測る第二の試験は、ぎりぎりです」
「ぎりぎり、じゃとても、」
「あのね、米と麦は育て方が違うでしょ。米は、まっすぐ伸ばしても豊かに実ってちゃんと頭を垂れる。でも、麦は一度踏まないと育たない」
 カカシが何を言い出したのかとイルカは黙って気配を窺う。
「リーくん達なら米かもしれないね。でも、あいつらは麦だ。今、踏んでやらなきゃならない。今の力のままならぎりぎりで不合格になる。大切だけど生ぬるい任務をこの先いくら続けたって大して伸びはしないだろうとも思う。あいつらは今、命掛けで何かに向かうべき時期なんです。だから中忍試験は丁度いいと思ったんです」
「カカシ先生……」
「今頃、あいつらは必死で伸びてるよ。ぎりぎりを、マイナスからプラスへと振り替えている最中です。きっとあなたは塔に呼ばれる。信じてやって下さい」
「そう……かもしれない……」
 カカシは頭を掻いて苦笑する。
「いやー、こんな事、三代目の前で語るなんて嫌でねえ。でも、俺がちゃんと言ってたら、イルカ先生を悩ませずに済んだのに。それは、ごめんなさい」
「と、とんでもない」
 慌ててイルカは首を振った。
「でも俺も、謝るのはこれと、あの冗談だけです。ま、ちょっとムカっときて言い過ぎたのは本当ですから」
 イルカが小さく笑って緊張を解き、カカシにもたれてきた。
「それでいいんです……」
 カカシは強くイルカを抱き締め、首筋に唇を当てた。何も変わらない優しい感触に、安堵のあまりにイルカの全身から力が抜けた。
「来てくれてありがとうございます」
 心から言った。嘘の様に胸の痛みも心の重みも消えている。
「なんかイルカ先生、熱いね」
 ずるずると崩れる体を抱きとめ、カカシが少し心配そうに言う。
「眠くなってきましたから……」
「……眠れなかったの?」
「内緒です」
 カカシは、はは、と笑ってイルカをさっと抱き上げるとベッドに向かった。
「カカシ先生も」
 降ろされながらイルカはカカシの袖を引いたが、カカシは微笑んだまま首を横に振った。
「リタイヤしてしかも森から出られない奴らがいますから、拾いに行くんです」
 拾う、という言葉にそれ以上の意味を感じてイルカは眉を寄せた。しかし、見ればカカシの目の下にも隈が濃い。
「……カカシ先生こそ休んでないんじゃ」
「俺は命掛けじゃないですよ。それに期限は明日ですから、そろそろ塔に詰めます。そうなれば昼寝くらいしかする事はありませんしね」
 そんな言葉を信じられるほど子供ではなかったが、イルカは頷いた。
「……お気をつけて」
「はい」
 返事と同時にカカシはそっと口付けた。少しだけ深いキスにイルカは目を閉じ、気付くとカカシは消えていた。
 悩んでいる時間の長さに比べて、逢瀬はあまりに短かった。しかし、既に何を煩っていたのかさえ思い出せない程の安心感に包まれ、イルカは眠りに落ちた。



 その夜夢の中で、イルカはカカシに抱かれた。それを、とてつもない幸福だと感じた。そして泣きながら目を覚ましてやっと気付いた。愛しているから泣くのだと、やっと、気が付いた。

 地獄の幕開けのように、イルカは目覚めた姿勢のままいつまでも泣いた。






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