カカシの思いを知り、あまり気負わずにいようとイルカは決めた。共にいるだけで幸せだ、と言ってくれる気持ちに答える事も、自分がすべき事なのだと思い至ったからである。
しかし、『その日』はあっさりとやってきた。キスから十日後の事だった。
二人は出来るだけ同じ時間を過ごそうとしていたから、任務でカカシが不在の日を除けばどちらかの家に泊まるようになっていた。ほとんど毎日隣りで眠り、同じドアから出勤する。穏やかで、時が止まったかのような生活の中、イルカはある違和感を感じていた。それは、ある早朝に決定的となった。
その朝イルカが目覚めると、カカシは隣でまどろんでいた。普段なら、必ずカカシが先に目を開けていて、シャワーを浴びる、と告げる。それがこの朝に限ってカカシは薄い瞼を震わせ目覚める直前、という様子だった。
あ、寝てる。
珍しいものを見るようにイルカは間近の顔をぼんやりと見つめた。まだイルカの意識ははっきりとはしていず、銀色のまつげがいじらしく動いて覚醒する様子を待っていた、その時だった。
ん?
とイルカが異常に気付いた瞬間、カカシはいきなり、がば、と体を起した。
「……風呂、いってきます」
半分落ちている瞼でカカシはそう呟き、ゆらゆらと風呂場に消えた。カカシの大きな動作ですっかり目が覚めたイルカは、ベッドに上体を起こして今の出来事を反芻した。
イルカが気付いた異常とは、正確には異常ではない。極めて自然な生理現象である。イルカは、自分の腰辺りにカカシの『朝のお勤め』をはっきり感じたのだ。ちなみに『朝のお勤め』とは、イルカが父から教えられたもので、思春期に突入してそれが始まり、怖がるイルカに父が笑いながら言った言葉だ。年頃の男子ならばいつ起こってもおかしくない、いわゆる朝立ちである。
始めは、ふうん、と思っただけだった。全く何の問題も無い。ただ、イルカの気持ちに引っ掛かる事があった。それは、これまで一緒に眠ると、翌朝に必ずカカシがシャワーを浴びにいく、ということだ。つまり、ほぼ毎日だ。夜にはちゃんと湯を使っているから、習慣なのだろうと思っていた。いつも、今朝のように半覚醒の状態でよろよろと風呂場に向かい、十数分後に妙にすっきりとした顔で戻って来る。
まさか。
イルカは思い、いやいやと首を捻る。カカシとイルカの年は一つ違い、自分の事を思えば。
でも、待てよ。
カカシは、一番最初に二人で眠った朝にもシャワーを使った。それは、イルカの家での事だ。カカシは想像以上に緊張しながらイルカを腕に抱いて眠った。いつもに増して紳士的だった。その彼が、朝目覚めて開口一番、風呂借ります、と言った。そして、寝ぼけているイルカの返事も待たずにさっさと風呂場に入ってしまったのだ。
あれは、不自然だったよな。
いくら朝風呂が習慣だとはいえ、初めて泊まった恋人の家で、夢うつつの相手を放り出してそれを強行するというのは、カカシの人柄を考慮すれば余計に不自然に思える。実は、カカシが毎朝シャワーを浴びる度に、イルカは小さな違和感を覚えていたのだ。
俺は大雑把だけど、あの日は何にもなかったけど、それでも初めての朝ってヤツにあんな事はしないぞ。カカシ先生なら、もっと繊細なはずだ。
などと思えば思うほど、まさか、と。
まさかカカシ先生、毎朝『お勤め』が!?
それを俺に知られないようにシャワーに行く、という事なのか!?
それはどうにも考えにくい。十七、八歳の頃ならまだしも、この年で毎朝、というのはどうだろうかと思う。同僚と飲みにいった折になど、朝勃たなくなったよなあ、もう年か、と冗談半分に言い合ったりするのだ。
しかし考えてみれば、イルカに対して元気過ぎる自分を見せるのはカカシとしては気まずいだろうと想像がつく。
そして毎朝、というのは男としてちょっと羨ましい……。
そんな事を考えていると、カカシが寝室に戻って来た。寝巻きを着直したリラックスした格好だが、そういう目で見れば見るほどにすっきりした顔をしているような気がする。
「どうかしましたか?」
カカシが軽く首を傾げる。
「い、いいえ!」
殊更に明るく言ってベッドから降り、着替えをタンスから引っ張り出す。すると、後ろからカカシがぴたっと体をくっ付け、イルカはひや、と声を上げた。寝巻き越しにもはっきり分かる、体の冷たさ。
これは、上がり際に冷水を浴びる、というレベルではないのかも。
ずっと冷たい水で体を冷やしていたような。
それは火照りを冷ますために……?
「イルカ先生はあったかいですねえ」
いつもののんびりとした調子で言ってカカシは抱きついている。暖を取っているかのようだ。だ、だめですよ、遅刻します、とイルカはばりっとカカシを剥がし、カカシは子供の様に、ざーんねん、と笑った。
その夕刻、イルカが家に帰ると既にカカシがちゃぶ台の前に座っていた。
「あ、お疲れ様です」
「待ちました? すぐごはんにしますね」
「暇だったんで作っておきました」
まだ暖かいと思いますよ、というカカシを座らせて、イルカは台所に向かう。カカシの料理はなかなか上手だ。ガスレンジに置きっぱなしのフライパンの蓋を取ると、魚介類がたっぷり入ったピラフが湯気を上げた。
「わー、美味そう……」
軽く火を入れ、取り分けようかと思ってやめた。頭がついているエビや、大ぶりの貝などが綺麗に配置されているので、そのままちゃぶ台に持っていく。茶瓶敷きの上に乗せ、それぞれが好きに皿に取ることにした。
「いつもすみません」
このところ残業が続くイルカは、カカシに夕食を頼っている。
「今日はね、海の近くに行ったんです。これがお土産がわり」
「え、遠い所まで行きましたね」
「行って帰るだけだったからすぐですよ」
微妙に任務内容を誤魔化しながら会話は続く。完全に守秘すべき任務でなくとも、詳細を聞く事は互いにしない。他愛無い話を穏やかに交わし、テレビに集中したりもするいつもの夜だ。湯上りに動物番組を見ているカカシに、口が開きっぱなしですよ、とからかいの言葉を投げ、イルカは風呂に向かった。
……なんだか。
体を洗いながらイルカは苦笑する。風呂場、というだけでおかしな気分になるのだ。果たして今朝、カカシはここで体を冷やしただけなのか、それとも……。
いやいや、と頭を振って水を飛ばし、イルカは湯船につかった。顎まで潜って半目になる。
もしかしてチャンス……?
いやだめだ、カカシは繊細なのだ、そんな。
それに、朝立ちでセックスするのは体に悪い、と聞いた事がある。
……ホントに悪いんだろうか?
ぐるぐると考えていると茹だりそうになり、イルカは湯船から上がった。足元から冷水のシャワーを浴びて平常心を取り戻そうとする。
うん、ここまできたら、後はカカシに任せよう。それがいい、きっと!
結論付けというよりは匙を投げたイルカは、頭から冷水を浴びて一つくしゃみをした。
居間に戻ると灯りだけがあり、カカシはもう寝室に行ったようだった。寝支度を済ませて後を追うと、ベッドの側に黄色いスタンドの光を灯し、カカシは巻物を読んでいた。
「兵法ですか」
巻物の外面の文字を読んでイルカはベッドに腰掛けた。
「んー、人を使うという事は難しいですね」
カカシは眉間に皺を寄せている。覗き込めば、それはイルカには高度過ぎる内容だった。
「寝ましょうか」
くるくると巻物を畳んでカカシは柔らかに言った。そして目を上げて少し、怒った顔を作る。
「また髪を乾かしてませんね」
「いいんですよ、ずっとこうですから」
「濡れたまま眠ると、きゅーてぃくるが剥がれるってサクラが言ってました」
ぷ、とイルカは笑う。
「そんなもん、剥がれたって構やしません」
「枕が腐りますよ」
「俺の枕はパイプだから大丈夫なんです」
むー、とカカシは唸り、さっさと横になるイルカを見下ろした。そして、ふっと笑うと手を伸ばしてスタンドを消す。途端に広がる月の光。
「風邪ひくのに」
「ひきませんって」
「やっぱりだっこして寝なくちゃだめですね」
背中からイルカを抱きこむ手が、胸の前で月明かりに青白く浮かぶ。
「俺はそんなにヤワじゃないんです」
「そうかな……」
カカシの眠りは早い。まどろんでいる声で彼は囁く。
「ちょっとこっち向いて……」
振り返ると、肩の上でキスをされた。ちかり、と赤い目が光り、イルカは体をねじってその側にキスを返した。笑い、カカシは穏やかに目を閉じた。
上忍がこんなに無防備なんて。
特技、と言ってもいいくらいのカカシの寝つきの良さに感心しながら、イルカは苦笑する。人と体を触れさせて眠るのはイルカには苦手な事だったが、こうして寝息を聞くのは幾晩目だろう。僅かな間にすっかり慣れてしまった。
でも、この暖かさは期限付きなんだ。
息苦しい。カカシの手に自分の指を通してぎゅっと胸に抱き締める。
寒い季節でなければいいな。
うららかな春の日に、昼寝の途中にでも訪れるのがとてもいい。しっかりと腕に抱いて、最後の一息まで見届けてあげよう。
不意に、もう、一人で眠る事など出来ないような気がした。イルカは固く瞼を閉じ、カカシの手を握り締めた。
鳥……。
光の中、小鳥飛ぶ新緑を見た。しかし、季節は晩秋だ。
視界が澄んでくると、目の前にくったりとカカシが横たわっていた。
スズメの鳴き声が甲高く聞こえる。視線をカカシの背後に伸ばせば窓の外、雛鳥らしい小さめのスズメがぽつりとうずくまり、親を呼んでいるようだった。イルカは、夢と現実を混ぜ合わせながらそれをぼんやりと見ていた。やがて慌てたように親がやって来る。子スズメに嘴を擦り付けて羽を繕ってやると、促すように羽ばたく。今度は子スズメが慌て、先に飛び立った。不器用に飛翔して、放物線を描いて緩やかに下降する。イルカの視界から子スズメが消えると、その後を親が追って行った。
朝……まだ、早い。
思考が形になる。今日は二人ともが休日だ。最近よくかち合う。どこかで誰かが操作しているように思える。考えるまでもないか、とイルカは微笑んでカカシを見つめた。
平和な顔だった。縦に瞼を割る亀裂すら、朝の光の中ではただの模様に見える。少々間抜けなくらいに脱力した体にイルカは擦り寄った。起きるか、と思ったが、カカシはもぐもぐと何かを言っただけで眠り続けている。
妙に可愛らしい。そっと抱き寄せ、よしよし、と頭を撫でると微笑むように口角を上げ、ごそりと動くとイルカの肩に頬を乗せた。あんまり近い位置だったので、イルカは顎を突き出してキスをした。鼻先にちょん、と当て、続いて唇に。
気温が随分と下がっている。初霜が降りたのかもしれない。カカシを抱き締めながら、イルカはその暖かさに酔って再びまどろみ始めた。薄まっていく意識の片隅で、カカシが『朝のお勤め中』であると気付く。構わなかった。暖かさが幸せだった。カカシがにじり、顔を寄せてきた。望まれているような気がして、朦朧とキスをした。柔らかい唇を舐める。軽く開いた歯の向こうにもっと柔らかいものを見つけ、その感触を楽しんだ。
急に、カカシがびくん、と体を震わせた。覚醒したらしい。シャワーに行くんだろうと思った。もう少しだけ暖かさが欲しく、イルカは唇に甘えて舌を絡ませたまま、二度寝をきめこもうとした。もうちょっとだけ、もうちょっとだけこのままで、とイルカが眠りに引き込まれようとした時、カカシが乗り上げてきた事が分かった。
時に人の重みは気持ちが良いものだ。イルカは無邪気に手を伸ばし、カカシの背中を抱いた。少し、息が苦しいような気がする。ずっとキスが続いているからなのだがそれはイルカには知覚できなかった。瞼が重く、体はどうやら眠り始めているらしい。体のあちこちを撫でられて、余計に眠りが濃くなっていく。くすぐったい部分に指先が当たり、ふふ、とイルカの唇から音が出た。
「イルカ先生……」
押し殺すような声が聞こえた。固く抱き締められている。イルカは抱き締め返したつもりだったが、腕に力が入らない。ああ、目覚めなければと思うが、どうしても瞼を僅かに開ける以上の動きがとれない。体中がくすぐったい。カカシの真剣な顔が見え、なんだろうと思う。ふう、と大きく息を吐くと、むしゃぶりつくようにキスが落ちてきた。
キスをされている、くすぐったい、起きなければ、動かない。
ううん、と自分の声、イルカは痛みのようなものを感じた。するといきなり、額辺りを殴られたような感覚と共に、全意識がわっと覚醒した。
「……あっ!?」
「イルカ先生」
どきどきと、自分の鼓動が耳元で聞こえる。汗が噴出す。びっくりして硬直していると、痛みがすっと引いた。
「力、抜いて」
震えるような声でカカシが言い、イルカは目をぱちぱちとさせながら事態を把握しようとした。しかし、何かを理解する前に、強烈な痛みが下肢から伸び上がった。
「ひ、あ……っ!」
カカシが何か言っている。よく分からなかった。カカシの背に回した自分の腕を、どうやっても外すことができない。腰辺りの痛みだけが感覚の全てで、しかし、次第に収まってくる。驚いたせいで強烈に感じただけで、大して痛くなかったようだ。安心すると力が抜けた。すると、ベッドが軋み、音を立てていると知れた。次第に知覚が戻ってくる。顔に、何かが垂れているようだ。
目を開く。今度は完全に開いた。また、びっくりした。いきなりカカシが汗まみれになっているのだ。ぽたぽたと、イルカの上に汗が垂れてくる。そしてイルカはやっと、自分がカカシと体を繋げているのだと理解した。
カカシはうめいて俯いた。目を閉じ、しっかりとイルカを抱き締め抜き差しを繰り返している。驚きながらも、イルカは自分の体が興奮している事に気付いた。気付くと、突然快感がきた。また混乱に陥って、イルカは悲鳴のようにカカシを呼んだ。カカシはイルカの性器を掴んで擦り上げながら噛み付くようにキスを与え、イルカは担ぎ上げられた足先がカカシの肩の向こうでぶらぶらと揺れているのを見た。記憶を探りだすように、イルカの中から性感が沸き起こってくる。徐々に全身が支配され、カカシ先生、と呼びながら、痺れるように意識が飛び始めた。切り取った風景を眺めるように、カカシが汗を滴らせ、自分を見つめ、興奮に喘ぐ様が視界を流れる。ぶれた写真のように何もかもが曖昧で、しかし快感だけが鮮明で、吐精したらしい感覚と共にイルカはついに失神した。
「……先生、イルカ先生」
呼ばれ、目を開ける。すんなりと目覚めの感覚が訪れた。ほっと息を吐き、イルカは天井を見つめた。
「大丈夫、ですか……?」
心細げな声に横を見れば、カカシが覗き込んできた。ちゅ、と額にキスをされて妙に照れ、顔を赤くしたイルカは視線を切った。ほう、とカカシの溜息が聞こえ、体を引き寄せられる。
「……ごめんなさい」
しおしおとカカシは言ってイルカの背を撫でる。顔を上げると、カカシは眉尻を下げ、困ったように笑った。
「大丈夫、ですから」
夢かと思っていたが、素肌が触れ合う感触に、現実に抱かれたのだとイルカは認識した。そっとカカシの体に手を回すと肌はもう濡れてはいず、しっとりと手のひらに馴染んだ。自分の体も綺麗に拭いてあるようだ。
「ちょっと寝ぼけてて……。びっくりしましたけど」
「そ、そうでしたか」
黙って抱き合った。カカシの手は何度もイルカの腰辺りを撫で、頬や瞼にキスが降る。随分長くそうしていた。
「……あの」
額を合わせてカカシが言った。
「格好悪いですね、俺」
すっかり赤面していた。
「最初って肝心ですからね、何かこう、良いムードでって色々考えてたんです。そうしたら……毎朝勃つようになってしまいました。ね、知ってるんでしょ、イルカ先生」
「た、溜まってたんですか!」
必死で笑いを押し殺すイルカにカカシは盛大に溜息を吐いた。
「ガキみたいで恥ずかしくて隠してたんですが……。今朝はなんだか夢のようで、気がついたら……」
後は言葉にならない。とうとう、くく、と笑いを漏らしながら、さぞや気まずいだろうとイルカは思った。長く味わいたい、と言った舌の根も乾かぬ内、しかもこんな生理現象が原因だなんて、俺だって落ち込むんじゃないかと思う。
「カカシ先生」
イルカはカカシの髪を触りながら微笑んだ。
「俺、ホントのところを言えば、男と寝るのなんて嫌です」
カカシは神妙な顔つきになった。
「初めて上忍と組んで任務に行った時、手篭めにされました。里に帰ってからもそれが続いて、その人の友人とやらまで加わって、とても、苦しい時代がありましたから」
イルカはもそもそと動いて、カカシに乗り上げる。
「黙っていたんですけど三代目に知れました。その人達は遠方の国に長期任務で派遣されて、それで終わったんです」
「……知りませんでした」
「ええ、言いませんでしたから。よくある事ですし」
カカシは抱き締めていいものやらと、両手を浮かせている。
「あの時は寒かったな……」
イルカがそう言ってぎゅっと抱き締めると、カカシはおずおずと手を回してきた。
「カカシ先生と一緒だと暖かいです」
「イルカ先生……」
「俺は、それだけで充分なんです。足りないものなんてないでしょう?」
カカシは笑って頷いた。胸の上に乗ったイルカの頬をくるくると指先でなぞる。
「ありませんね」
「強いて言えば、腹が減ったって事くらいかな……」
「はは、俺が何か作ります。でも、もう少しだけこうしていたいです」
「はい」
カカシの胸に耳を押し当て、イルカはある種の満足感に浸っていた。それは、任務が最終段階まで進んだ安堵だった。しかし、髪を梳きうなじをくすぐる指が、どうしてこんなに気持ちがいいのだろうと不思議に思ってもいた。
そして、カカシには言わなかったが、とても驚いていたのだ。あの上忍達から一度も得られなかった快感を、カカシから得た事に。
ゆっくりと朝が過ぎていく。いつしか二人は、小鳥が鳴くように名のみを呼び交わしていた。
「イルカ先生」
「カカシ先生」
「イルカ先生」
「カカシ先生……」
カカシは「愛している」と言う代わりに。
イルカは「愛している」と聞こえるように。
雛鳥のようにまだ、ぎこちない。
NARUTO TOP・・・4へ