イルカの『Sランク任務』は、火影の呼び出しの翌日に早くも始まった。これは、偶発的かつ必然的だった。七班の任務が終了して、受付にカカシが現れたのだ。
カカシはいつものように飄々と、任務報告書に経費請求書を付けてイルカに差し出した。それには不備があり、幾つか書き直させている間にカカシが思いついたように言った。
「今日ってですねえ、イルカ先生、残業?」
「とんでもない!」
何故か、隣のシラナミが答えてイルカは首を傾げた。
「ですよねえ」
書き直した請求書をついっと差し出し、カカシは笑う気配になった。
「ええと……受付が終わったら帰宅する予定ですが……?」
心の準備はまだ半分、イルカは狼狽してカカシを見つめ返したが、これはチャンスなのだと急に気が付いて口を開いた。
「今夜、夕食一緒しませんか?」
カカシとイルカは同時に言った。ぷ、と最初にカカシが笑い、イルカも鼻の傷を掻いた。
「じゃ、七時に校門で待ってますよ」
「あ、はい、じゃあ後で」
カカシはひらひらと手を振り、受付の扉を出て行った。
「……あああああー、緊張したっ!!!」
シラナミが変な声を出したのでイルカはまじまじとその顔を見つめた。
「何なんだよ、おまえ」
「だってよ、はたけ上忍、チェック厳しいんだぜ?」
肩を竦めてシラナミは言い、更に隣のウズメも口を挟む。
「そうよう、こないだ職員室にはたけ上忍が来たの。そんで『教頭さん』が言われてたのよ、あんたら、イルカ先生をイイようにコキ使ってると、知らないよって!」
ああー、怖いの怖くないのって、とウズメは寒そうに腕を擦る。『教頭さん』とはニックネームのような呼び名であり、本来の職分はアカデミーを統括する教育専門の特別上忍だ。『校長さん』ではないのは、火影を憚ってのことである。
「そ、そんな事があったのか……」
「ん、でもさ、確かにおまえが何でも引き受けてくれるからよ、皆、甘えてたよな」
「そうね、フェアにいかないと。『教頭さん』、慌ててシフト表を棒グラフに直して貼り出したんだし、分かってたのよ、きっと」
「ああ、アレ、それで貼ってあんのか。やー、俺は家帰っても暇だからいいんだけどな」
そういえば、最近他の教師が家庭を口実に残業を押し付ける事が無くなったと、不思議に思っていたところだった。イルカを気遣うシラナミもウズメも、群を抜いて残業が多い。他の教師がもうちょっと心してくれればと思っていたから、棒グラフのお陰で勤務状況が一目で分かるようになったのはありがたかった。何よりもこれからは、残業などしている場合ではないのかもしれない。イルカは密かに拳を握った。
今夜からだ。
火影は、早ければ三ケ月だと言った。しかし確実な数字では無い。長ければ一年、という曖昧な期間であることがそれを物語る。
一秒でも早く、カカシと接触しなければ。
「でもイルカさあ、はたけ上忍に気に入られて良かったのかねえ」
シラナミが頬杖を突いてイルカを斜めに見上げ、それにイルカは曖昧に笑った。
その夜、カカシとイルカは小奇麗な居酒屋を選んでカウンターに座った。二人きりで食事をするのは初めてだからか、カカシはやけに饒舌だった。想像外のカカシの姿にイルカは多少面食らったが、気遣いを感じさせない程度に行き届いたカカシの配慮で、話すほどに馴染む空気は心地良かった。
友人になれればどんなにいいだろう、そうイルカは淋しく思う。そんな時間などは無く、元よりカカシに友人は不要なのだとは分かっている。意識のどこかに鬱々としたものを抱えながら、イルカは精一杯笑った。カカシはあまりイルカと目を合わさず、しょっちゅうグラスを見つめ、微笑む時は少し俯きながらほとんど閉じた目をイルカに向けた。
イルカの目に映る、素顔のカカシは美しかった。彼を美しく見せるものは容姿だけが理由ではない。身の内の自信と責任感、そして厳しく生きた人生そのものがそう見せるのだろうと思うにつけ、彼が凡庸な自分に惚れているとはイルカには信じられなかった。火影の『とんでもない勘違い』を期待するようなしないような、そんな事を考えていたら杯が尽きた。
「出ましょうか。イルカ先生、明日も早いでしょ」
「あ、はい、そうですね……」
核心に触れないままに夕餉は終了し、イルカは焦った。帰り道は短く、カカシの自宅との分岐点が目の前に迫る。
どうしよう、家に誘ってみようか、それとも次の約束を取り付けるか、いや、がっつくのはみっとも無いし、ああ、こんな事になるのなら男と付き合っておくべきだった!
「イルカ先生?」
画策に浸っていたイルカは、泡を食ってばっと顔を上げた。カカシはその反応に少し驚いたようで、しばし無言でイルカを見つめた。
「……俺はね、イルカ先生」
「はい?」
カカシは言い澱み、足元に視線をやった。そして、ふ、と微笑みの続きのような溜息を落とすと、ごく何気ない風に言った。
「あなたが好きです」
心臓が跳ね、イルカは意味も無くあわあわと両手を振った。そ、そんないきなり、と、願っても無い展開を前に否定に取られかねない言葉を吐いてしまう。
「ふふ、そんな警戒しないで下さい」
カカシは猫背を伸ばしてイルカに向き合う。
「イルカ先生が嫌がるような事は、決してしません」
カカシは首を傾ける。
「あの、俺、あの……」
イルカは盛大に言葉を失った。あらぬ方向を眺め忙しなく頭を動かしているとカカシは一度俯き、はは、と笑い、しかしすぐに真顔になって言った。
「あなたを心配したり時々口をきいたりする事を、これからも許してはくれませんか」
開けた口もそのままにイルカはカカシを見つめた。
目が合って、カカシは面布の下で頬骨を上げた。淋しげに笑い、ひょろ、と長く立つ姿は叱責を待つ子供のようで、なんという事だろうとイルカは沈黙した。じんわりと涙が目に浮かぶ。
「カカシ先生……」
なんという事だろう、そんな思いに答えとなる言葉などがあるものか。
「……じゃあ俺はここで……」
どこか諦めた風にカカシは笑った。イルカの反応を待たずにさっさと自分の家に向かう道を選んで歩いて行く。
「カカシ先生!」
イルカは大きな声を出した。
「はーい?」
カカシは振り返り、ほとんどぶつかって来たイルカに、わ、と声を上げた。
「お、俺も、」
顔をカカシの二の腕に押し付けてイルカはどもった。
「カ、カカシ、先生が、す、好きです……っ!」
イルカは力一杯にカカシに縋りついた。そんな言葉しか吐けない自分がうらめしく、しかしそれ以外には有り得ないとも思いながらカカシのベストを握り締めた。カカシの両手はしばしふらふらとさ迷っていたが、体重を掛けてくるイルカを受け止め、背中をぽんぽんと叩いた。
「……本当に?」
囁くようにカカシはイルカの耳の側で言った。
「俺は、手に入れたものを絶対手放しませんよ?」
一生、一生ね、とカカシは囁きながらイルカの体を抱き留めた。
「……はい」
よ、よろしくお願いします、とイルカは言ってしまい、カカシは声を出して笑った。
「分かりました、こちらこそよろしく」
笑いながら言うカカシを見上げると、彼は面布を付けたままイルカのこめかみに口付けた。ひゃー、と素直な感想を述べるイルカにまた笑い、カカシは嬉しさを滲ませた声で誘った。
「明日また、デートしませんか」
イルカはこくこくと頷くばかり、赤くなったその耳にもカカシはキスを落とす。
「良かった……」
ぎゅっと抱きしめられるまま、展開の速さに付いていけないイルカは、初々しいとも見える無反応でカカシに体を預けていた。
疲労とも安堵ともいえない、重いものがイルカの胸の中に落ちた夜だった。
イルカの『任務開始』は遅滞なく火影に報告された。それを証拠に、アカデミーですれ違う度、火影は意味ありげにうんうんと頷いて見せるようになった。
「参ったなあ……」
思わず言葉が漏れて、イルカはきょろきょろと周りを見回した。
カカシの家だった。家主は朝風呂中で、ベランダに向かった大きな掃き出し窓からは、小春日和そのものの陽光が射しているばかりだ。
「早くしないと……」
二人の関係は、イルカが予定していたようには進まなかった。一ケ月経った時点でデートが五回にキス一つという実績に、イルカは大いに焦っている。火影が頷く度に、「頼む」と声が脳裏に響くように思えるのだ。
一方カカシといえば、強引な事は何一つ仕掛けない。イルカが落ち着くまで待っている、いや、逆に今の状況を楽しんでいる様子ですらあった。時間が無い事を知らないからそんな余裕があるのだとイルカの空回りは速度を上げたが、そんな反応は戸惑う姿に酷似していたようで、カカシに怪しむ気配は微塵も感じられなかった。それだけが僅かにイルカの慰めだった。
想像を絶する気の長い紳士。
それがイルカが評価するカカシの人となりだった。
ただでさえ、忍同士の恋は『足が速い』。何時相手が死ぬか分からない人生では、一瞬の隙も与えず奪い尽くすのが定法だ。元々カカシは余裕のある恋愛をするタイプなのかもしれないが、イルカの知るどんなカップルよりも自分達は『余裕をカマシて』いる。
もちろんイルカの当面の達成目標は、カカシとのセックスだった。そのために既に自宅にも呼んだし、こうしてカカシの家にも泊まった。しかしあまりにカカシは紳士然としており、昨夜もようやくキスまでは持ち込んだものの、寄り添って眠っただけだ。
「ヤらなきゃ意味無いな、うん、そうだな、それでなきゃアイジンじゃないもんなー」
ふーとイルカは息を吐く。木漏れ日がきらきらと瞬く清潔な居間に怪しいモノが積る気がして、ヤダヤダとイルカは窓を開けた。さーっと冷たくなった秋風が部屋に満ち、かさかさと何かが音を立てた。振り返るとそれはめくれたイチャバイの表紙。がっくりしながらイルカは見なかった事にしてベランダに出た。ベランダ専用らしい、古くなってぺたんこになった任務用サンダルを鳴らしてベランダの桟に腕を掛けた。
現実の俺よりも、イチャイチャシリーズのがソソルよなあ、やっぱり。
互いにもう少し若ければ多少の無理もきくだろうが、薹が立ってしまった今となっては相手がその気でなければそう簡単に抱いてはもらえまい。
俺って魅力ない、よな……。
なんだか倦怠期の団地妻みたいな自分の思考にオゾ気を催してイルカはぶるぶる頭を振った。洗ったばかりの髪から雫が飛んで陽光に輝くのも嘘くさい。
いや、大丈夫だ俺、カカシ先生は俺に惚れてる、すっごい惚れてる。アレはちょっとやそっとのもんじゃない。引き摺られないのが不思議なくらい、カカシ先生は大恋愛中なのだ!
それは不毛な自己弁護ではなく、事実だった。
語弊は多大にあるが、カカシはイルカを『お姫様』でも扱うように大事にしていた。あの告白の言葉通りの節度ある思いやり深い態度でいつも接するのだ。この間は嬉しそうに手を引くので、いよいよか、とイルカは覚悟を決めたのだが、膝に乗せられて丁寧に爪を切られてしまった。また、職員室での棒グラフの一件を単純に問うてみた時には、イルカ先生に迷惑が掛かるならもうしません、としゅんとして頭を下げた。今日のように二人共に任務が無い時には、カカシはイルカにくっ付いて、ただくっついて、幸せそうに匂いをかいだりしているのだ。
「はうっ!?」
「あれ、気付いてませんでしたか?」
カカシに抱きすくめられていた事にようやく気付いてイルカは少し飛び上がった。忍としてどうなんですかねえ、と面白そうに笑ってカカシは濡れた髪を頬に押し付けてくる。
「湯冷めしますよ。部屋に入りましょ」
よっと掛け声と同時にイルカは両脇を持ち上げられ、カカシに運ばれた。窓、閉めて、と言われて浮かされたままイルカは手を伸ばしガラス戸をスライドさせる。そうしてカカシは、イルカを居間に運んであぐらを組み、その上に座らせた。
会話の必要がない時間だった。カカシは風呂の最後に水をかぶったらしく、肌がとても冷たい。それがイルカの体温でゆっくりと温まっていく。
「イルカ先生はあったかいですねぇ」
「……水、かぶったんですか?」
「癖なんですよ。気持ちがパリっとするでしょ」
首をめぐらせるとカカシは目を閉じ、気持ち良さそうに微笑んでいる。面布を取ってくつろげた格好になったカカシは、必要以上に脱力して見える。イルカの腹の上で交差している腕にも意志は無く、カカシはふふーと笑った。
「カカシ先生……」
「はい?」
イルカは虚脱した腕の中で体を返してカカシと向き合った。
「あの……俺、結構寒いんです」
「エアコン、入れましょうか?」
うう、と唸ってイルカはカカシにしがみ付いた。悪いのは、自分の誘い方なのか、察しが悪過ぎるカカシなのか。
「ええと……」
「……まだ、早いんじゃないの?」
急にカカシが声を低くした。そしてちゅ、と音を立ててイルカの耳先にキスを落とす。
「俺は気が長い方だから。ゆっくりいきましょ」
カカシの肩に額を摺り寄せてイルカは顔を熱くした。察しが悪いどころか、すっかり気付かれている。
「カカシ先生……」
顔を上げられない。イルカは背中に回した手に力を入れた。
「俺、俺は、速攻派なんです、だから、あの、カカシ先生が良ければ、あの、」
「でもイルカ先生、全然準備出来てないじゃない」
笑い含みで言われてイルカは一層顔を赤くした。イルカは欲情していない。全く、その気配は無いのだ。
「……っ!」
「ちょ、イル、」
体重が掛かって引き倒されながら、待って、とカカシは両手を突っ張り、イルカはがむしゃらに唇を併せて馬乗りになる。
イルカは必死で口付た。惚れているなら我慢が出来なくなるように、そう胸の中で唱えながら舌を伸ばしてカカシの歯列を舐め、柔らかい肉に絡める。カカシの両手が背に回って穏やかに撫で始めたのを知り、イルカは一層キスにのめり込んだ。
次第にカカシの腕はきつく絞まり、あ、とイルカが思った時には体勢は逆転し、カカシが乗り上げてきた。頬に片手が添えられ、うなじにも強く指が絡む。すぐに主導権はカカシに移り、イルカの体から力が抜けていった。
肌の冷たさとは裏腹にカカシの舌は熱い。唇はとても意識に近いものだと感じながら、イルカは伸びてくる舌に絡まる。ふう、と息継ぎの音を聞かせて角度を変えると、今度は舌を噛まれる。途端に、びり、と全身を強張らせてイルカは強く目を閉じた。カカシは離さずきつく吸いながら咀嚼するようにもぐもぐと歯を動かした。
女に似たようなキスをした記憶はあったが、自分の舌に激しい刺激を受けるのはイルカには初めてだった。止めて欲しいようで続けても欲しく、ぶる、と震えながらカカシの上顎に舌先を触れさせると、カカシもまた震えた。その振動でどうしてだか恐ろしくなって、イルカは薄く目を開けた。
カカシの表情はこの場に不似合いなほど真剣だった。イルカの脅えが伝わったのだろう、視線が合うと目だけで仄かに笑って身を引いた。そして落ち着かせるような軽いキスを何度か落とすと、ぼうっとするイルカを腕にしっかりと抱く。イルカも彼の体重を心地よく受け止めて強張った筋肉から力を抜いた。
何も言わず、二人は長い時間抱き合っていた。イルカは毒気を抜かれたように大人しく、カカシの耳がじんわりと温まっていくのを感じていた。
「イルカ先生」
眠気すら感じていた意識に、カカシの幸福そうな低音が響く。
「俺はね、今までこんなに愛されたこと、ないです」
頬擦りを繰り返し、震えだしたイルカの上にカカシは身を起こした。
「愛した人に愛される、あなたはそれが、奇跡だと知っていますか? 俺がどれだけ嬉しいか、あなたに分かりますか?」
呟き、カカシは、ああ、と大きく息を吐いた。
「ね、ゆっくり、味わわせて下さい。この奇跡を」
イルカを引き起こし、その両手を握ってカカシは額を触れ合わせた。
「……どうして、泣くの?」
首を横に振りながら、イルカはカカシの目から逃れるように胸の中に突っ伏した。何度も背を撫でる手のひらにもっと泣かされながら、イルカはごめんなさい、と聞こえない声で囁いた。
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