それは事故だった。
他国から火の国へ親書を持ち帰る、ごくありふれたBランク任務だった。追って来た、第三の国の忍達との間に戦闘が生じた事もまた珍しくもない話だった。
親書は「上、中、下」の三つに分けられ、それぞれスリーマンセルのチームによって運ばれていた。届ける時点で一つに合わせるという段取りで、任務の半ばまでは順調に進むと思われた。
が、木の葉の忍達が里を出て九日目の夜に、『下』のチームが襲撃された。負傷は極小で親書は無事、敵忍は一掃した。十日目の夜、二度目の襲撃があった。それもまた、昨夜と同様の結果に終わった。十一日目、明日の夜には合流という時、三倍の人数での襲撃が原因となって、事故は発生した。
『下』のチームの構成は中忍が二人に、親書の最も重要な部分であるのでベテランの特別上忍がリーダーとして配されていた。中忍の一人は間もなく特別上忍として試験官職に就く予定の者で実力者だった。事故は二人の中忍の間で発生した。
三人ともが、三日間続く襲撃に疲弊していた。それぞれが、大蛇丸の襲撃によって忍の減った里のため任務に明け暮れていた時期だった。殊に、間もなく特別上忍になる予定のくのいちが最も疲労を強く感じていた。彼女は、この任務の直前にAランク任務を終えたばかりだった。彼女自身に特別上忍に昇格するという意気込みがあったのだろう、他の者に譲れたはずのこの任務を志願して受けたのだった。
兵糧丸を噛み締めての三日の徹夜、七人の敵忍を片付けた彼女は木立の間から仲間の一人を見つけた。敵の死体に手を翳し火遁で処分している姿に安堵して、彼女は彼の背後からゆっくりと近づいた。
彼女は、自分よりも三つ年下のその青年の事をとても案じていた。彼がアカデミーの教師で長く前線を離れていたからだ。彼と似たような経歴を辿ったが故に昇格が遅れた彼女にとって、彼の無事は心から喜ばしかった。
燃える死体は暗い夜空にゆるゆると灰を舞わせていた。俯いて肩で息をしている青年は泣いているようにも見え、彼女は声をかけるのをためらった。
その判断が、事故の原因となった。声をかける事をためらった瞬間、彼女は気配を完全に消した。それはほとんど反射的な行為で彼女に意図は無かった事だろう。そして彼女が音の無い一歩を踏み、ふっと気配を戻した瞬間死体を見つめていた青年は、くないで彼女の頚動脈を引きちぎった。
状況が正確に五代目に伝わったのは、その場にリーダーであった特別上忍が居合わせたからだった。リーダーの男は、彼女と同じように青年を見つけて近づこうとしていた。しかし、男は意識的に気配を濃厚にしていた。男からは青年の顔が見えており、その表情の固さと目の光に、未だ戦闘の緊張に捕まっていると察したからだ。極限状態から安堵に突き落とされた場合、精神のとがりはすぐには戻らない。青年を脅えさせぬように特別上忍は音を立て、手を振り、ゆっくりと近づいた。そして、青年の後ろで急に気配が揺れた。特別上忍の男ですら、一瞬敵忍の生き残りを想起するような気配だったという。
疲弊していたくのいちの迂闊な行動、そして青年の持続した緊張、前方の特別上忍に気を取られていた状況。それが、優秀な忍を同じ里の忍が殺害する、という『事故』を引き起こしたのだった。
特別上忍の証言により、五代目は青年に対して謹慎という名目の休養を与えた。また、特別上忍はこの『事故』について口外しないと誓約し、不幸なくのいちは殉職者として慰霊碑に名を刻まれた。それが『事故』の全てである。
アカデミーが再開し職務に復帰してから一週間が経つ頃、イルカはとぼとぼとひなびた道を歩いていた。落ちている石の位置を覚えている、と気付いて重く息を吐く。毎日、俯いて、通い続けているからだ。
ぶつりと首筋を引きちぎった感触、びっくりしたように目を大きく見開いてゆっくりと仰け反った彼女の姿。一瞬も忘れられない。だから毎日訪れる。未熟でひ弱な自分を見に行くために慰霊碑を訪れているのかもしれない。
里に戻ってからイルカは毎夜夢を見るようになった。彼女を殺した夢ではなく、殺さずに済んだという夢だ。くないを持たない手を彼女に上げて、お疲れさまと笑う夢だ。ああ良かった、殺す訳ないじゃないかと安堵したところで目が覚め、言い知れぬ幸福感を味わいながら寝返りを一つ打つ。そして、それが夢だと気付いて冷水を浴びせられたように跳ね起きる。それが日課となった。
謹慎を解かれた日、イルカがまずやった事は、五代目の元を訪れて教師を辞する意志を示す事だった。未熟で愚かな自分が子供を教えるなど、とてもできないとイルカは懇願したが、五代目はきつい眼差しを向けながら言った。詫びる気持ちがあるなら子供達に生き残る術を教える事で昇華せよ、と。
イルカには反論の言葉は無かった。過つからこそ、正す事が出来る。五代目はそう言っているのだとイルカには理解出来た。しかし、分かっている事と感じる事は同じではない。幸福な夢から現実へと落下する明け方、イルカはいつしか慰霊碑へ日参するようになっていた。
慰霊碑の前に立ち、イルカは握っていた枝を持ち上げた。小さくぽってりとした白い花弁が甘く香りを立ち昇らせる茉莉花(まつりか)の枝だ。それを慰霊碑の前に供えて手を合わせる。申し訳ないと、許してくれと、祈る事すら傲慢に思えてただ手を合わせて長くしゃがんでいた。
「イルカ先生?」
不意の声に立ち上がり、イルカは振り返った。
「カカシさん……」
カカシは、いつもと同じ飄々とした空気を従えて片目で笑っていた。教え子であるナルトを介して知り合ったその上忍とイルカは、会えば親しく話をするという程度の関係だ。
「いい香りですね。イルカ先生が?」
茉莉花を目に留めてカカシは言う。
「ええ」
それ以上は言えず、イルカはカカシに場所を空けた。すみませんね、と言って並んだカカシは手に白いものを持っている。随分と彼にはそぐわない、繊細なレースだった。カカシは手を合わせる事もなく、レースを抱えてじっと慰霊碑を見下ろしており、イルカは軽く頭を下げてその場を辞そうとした。
「……ああ、そうだ、二人要るんだっけ」
カカシが言って、イルカは首を傾げた。
「イルカ先生、茉莉花の縁で保証人になってもらえませんか?」
「は? 保証人?」
いきなりの事にイルカは首を傾げた。
「二人って、俺とカカシさんが誰かの保証人になるって事ですか?」
いえいえ、とカカシは顔の前で手を振って笑った。
「一人はここにいます。随分昔に刻まれた俺の親友です」
カカシは慰霊碑を指差した。
「あの、一体……?」
ああ、すみません、変なんですけど、とカカシは慰霊碑にふわりとレースを被せた。
「結婚するんですよ、コイツと」
真似ごとですがね、としゃがみ、穏やかに微笑むカカシは今度は別の名を指先で触った。それは一番新しく刻まれたくのいちの名だった。目の前が一瞬白くなり、イルカは額当てに片手を置いた。
「コイツね、どこか外国の結婚式を見てきたらしくて、こういうものを被るんだって言ってね」
レースをそっと撫でてカカシは言う。
「俺の家でコレを編んでたんです。今度の任務から帰って特別上忍になったら一緒になろうと話していたからね、がんばって仕上げてました。うん、もちろん、俺の家に置いてあったコイツの物、全部処分するってんで暗部が持っていっちゃったんですけど、五代目がコレだけ返してくれました。女同士で通じるもんでもあるんですかね」
カカシは顔を上げてイルカを見上げた。
「茉莉花ね、コイツがすごく好きでした。地味だけど香る、そういう忍を目指してたみたいで」
何も言えず、イルカは蒼白な面でカカシを見下ろした。カカシは静かに茉莉花の枝を持ち上げて優しい眼差しでそれを見つめた。
「ずっと一緒だ」
そう、小さな声が聞こえてイルカはたたらを踏んだ。カカシはイルカの様子には頓着せずに立ち上がり、慰霊碑からレースを取り上げるとイルカに向き直った。
「ごめんね、湿っぽい事に付き合わせて」
はは、と照れ笑いでカカシは言い、一度慰霊碑を振り返った。
「カカシさん、俺は、」
「いやー、イルカ先生は何もしなくていーの。これで満足。見ててくれてありがとね」
カカシは弓なりに目を細め、そしてきっぱりとした風情で慰霊碑に背中を向けると、演習場を横切って行った。
慰霊碑から去るカカシの背が消え、やっとイルカは体を動かした。途端に震える。
何も、知らないのだ、カカシは。
彼女が勇敢に戦って死んだものと思っている。自分のような未熟な忍に屠られたなどとは微塵も思っていない。これから先も、真実を知らないまま彼女を想って生きる。
イルカはふらふらと歩いた。出勤するしかなかった。
彼の顔色の青さに同僚は早退を勧めたが、イルカは力無く笑って勤務に就いた。アカデミーは未だ混乱の最中であり、生徒の安否すら完全には把握出来ていないのだ。伝令の小鳥を飛ばし、煩雑な手続きを数限りなくこなしながら、イルカは瞼の裏にカカシの背中をずっと見ていた。
当たり前のように残業しようとしたが、誤魔化す程度の昼食しか採らず顔色を一層沈めていくイルカは、教師全員によって職員室から追い出されてしまった。どこにも行きたくは無かったが、イルカは溜息と共に定時にアカデミーを出た。
――このまま自分が黙っていれば時が悲しみを流すのかもしれない。
イルカの足は自分の家には向かわなかった。
――言えば傷をえぐるだろう、いらぬ苦しみを与えるかもしれない。
カカシの家を目指しながらイルカは何度も止めようと思った。自分の気持ちの整理を付けるためにカカシを利用するようなものだと心のどこかが叫んでいる。
それでもイルカは制裁が欲しかった。罰せられないという事は時に苦しみを深くする。それこそが一番の戒めなのだと分かってなお、イルカは誰も与えてくれない罰を求めてカカシの家に向かった。
「イルカ先生? よく俺の家が分かりましたね」
果たしてカカシは帰宅しており、任務服のままだった。黙ってたたきの上に立ち尽くすイルカを不審げに覗き込んだ。
「どうしたんです、黙ってちゃ分からない」
中に入ったらどうですか、とそっけないながらもカカシの言葉は単純で優しい響きだった。イルカは顔を上げて首を振った。
「……アカデミーでこちらの住所を聞きました」
「そうですか。ああ、別に問題ありませんよ、隠し家なんかじゃないですし」
「カカシさん」
「はい?」
カカシは笑いの形に目を細めすらしてイルカを見た。
「……俺が、やりました」
言った瞬間、心臓が小さく縮んだような気がしてイルカは息を詰めた。
「は?」
カカシは不思議そうにイルカを見ている。イルカは、自分の唇がぱりぱりに乾いていると思いながら続けた。
「俺が、あのひとを殺しました」
「は?」
カカシは全く理解しない顔付きだった。その、邪気の無いと言って良い顔に発作的に狂うような激情を感じてイルカはいきなり叫ぶようにまくし立てた。
「あのひとは俺が殺しました、戦闘直後で敵忍と誤認してあのひとの首を掻き切ったのは俺です、火影様から何とお聞きになったか存じませんが俺が、やりました!」
「は?」
穏やかな声でカカシは同じ顔付きでまた問うた。
「カカシさん、巻物を届けるあの任務で、俺があなたの大切なひとを殺したんです!」
叫び散らしてイルカは肩で息をした。カカシは黙ってイルカの顔を見つめていた。
「……なんて言いました、イルカ先生?」
イルカはもう一度同じ事を言った。あのひとを殺しました、敵忍と間違えてあのひとの頚動脈をこの手で掻き切りました。
「なんて、言いました、今」
「俺が彼女を殺しました、敵の忍と間違って首を、」
「イルカ先生、今、今なんて、言ったんですか」
「俺があのひとを殺しました、敵の忍と間違えて、」
「なんて言ったんです、今、」
カカシは言いイルカは説明した。カカシが常に纏っている生ぬるいような暢気な気配は消え殺気が徐々に狭い玄関を侵食しカカシの両手がぐっとイルカの胸元を掴む。なんて言いました、俺があのひとを殺しました、何度も二人は繰り返した。
「俺が殺しました!」
イルカはいつの間にか泣いていた。それは恐ろしかったのではなく、カカシの殺気がとても悲しかったからだった。
「嘘だと言え、言ってくれ!」
そう叫んでカカシはイルカの体を玄関の扉に打ち付けた。
「カカシさん、俺がやったんです、俺が、」
次の瞬間、イルカは全身を硬直させた。前を閉じていたベストがびいっと音をさせて裂けたからだった。木の葉の忍の命を守るため、特別頑丈に作られたベストをカカシは生手で裂いた。
初めて本物の恐怖を覚えてイルカはカカシを凝視した。彼はイルカの首に手を回すと思い切り締め上げる。
「……殺してやる」
低い羽虫の唸りのようにカカシは言った。そしてイルカの首を持って振り回すようにして床に叩き付けた。とっさに受身を取ったイルカの上にカカシは跳びかかり、目を見開いたイルカの顔を殴った。
「殺してやる」
行動の激しさとは逆にカカシはひどく落ち着いた声で言った。そしてまたイルカの首を握ると床から頭を浮かした。
「殺して、やる、一番、ひどいやり方で」
カカシは全身で呼吸をし、そしてイルカの頭を床に打ちつけた。ああ、とイルカは強烈な視界の揺れに嘆息した。なぜ玄関がこんなに狭いのだろう、もう少し広ければ、自分の頭は木の廊下ではなく石のたたきの上で中身を散らばせる事が出来たのに。
イルカは抵抗しなかった。たとえする気があっても出来なかっただろう。カカシから流れ出る殺気は渦を巻くように降りかかる。ベストと同じように、カカシはイルカの任務服を次々と千切った。そして足を開くとイルカの後口にいきなり指を突き入れた。ひ、と引き攣れる呼吸でイルカはそれを受け止め、そして絶叫した。指でぐっと開けた隙間にカカシが性器を押し込んできたからだった。
「犯り殺してやる」
カカシは火影が任務内容を読み上げるような冷静な声で言った。そしてめりめりと性器を埋め込むと振り回すようにして動き始めた。
「ぎ……い、ひっ、」
息も出来ずにイルカはカカシの胸元を掴んだ。ぶつり、と体の中から裂ける音が聞こえてイルカはまた絶叫し、カカシは舌打ちをしてイルカの顔を殴った。
「煩い」
カカシは千切れた服を引き寄せるとイルカの口に押し込んだ。そして淡々とイルカを揺さぶる。繋がったところから体を左右に裂かれているのだと確信しながらイルカは顔を左右に振った。激痛は時に熱さにすり代わりながらイルカを責め、塞がれながらもなお、喉からは獣の咆哮が漏れる。生理的な涙を飛び散らせて頭を振る姿に苛つくのか、カカシは時折殴った。そして、目障りだ、と呟くとまた千切れた服を拾って今度はイルカの顔に巻きつけた。視界を無くしてイルカの恐怖が一層膨らみ両手をじたばたと動かす。飽き足らないのか、目障りだともう一度呟くとカカシは繋がったままイルカの体を回してうつ伏せにした。激痛だと思っていたものが大した事では無かったとイルカが知ったのはその時で、傷口を捩られた彼は痙攣しながら吼えた。カカシは何も無かったようにそれまで以上に激しく動く。
――死ぬ、死ぬんだ。
体の痛みは既に指先まで広がって自分の意思では何も動かせない。カカシは止めようとする気配すら感じさせず延々と揺さぶり続ける。動かされる度に、血まみれの足が床に当たってぴちゃりと音と立てる。イルカは視界の無い場所で時折痙攣する自分の体を意識した。
――カカシに私刑をさせてしまう、俺なぞのために……
それでも黙ってはいられなかった。
イルカは、激痛の中で僅かに救われる気持ちを覚える自分を軽蔑しながら強く目を閉じた。やがて強烈な痛みが白い光となって瞼の裏を覆い、そして何も分からなくなった。
気が付くとそこは真っ暗で何も見えなかった。
真夜中だろうか、どれくらい時間が経ったのか。
そう思ったのは一瞬で、実際は自分の任務服の残骸が顔を覆っているのだと思い出し、それを取り外そうと両手を動かした。が、その両手は何かに阻まれて動きが鈍い。なんだろうと思いながらも拘束ではない緩く纏わり付く物を泳ぐようにかいて顔に持っていく。それだけで全身がずきずきと脈打つように痛み、全力疾走の後のように喘ぎながらイルカは顔にへばり付く布を引き剥がした。やっと冷たい空気を口に含み自分の姿を確認すると、それは白っぽい物で覆われていた。
「う……っ、く、」
そこから抜け出そうと体を捩る。ぎらぎらと激しい苦痛が体の中央から弾けるように全身を焼き通す。はあはあと息を継ぎゆっくりと白い物を剥がしていくと、自分が全裸で、身を覆っていたのはシーツの類の大きな一枚布だとイルカは知った。目の前は短い廊下で、そこが自分の家だと認めてイルカは一旦その場に崩れ伏せた。
玄関から乱暴に放り込まれただけのようだ。足の先はまだ玄関の上がり縁の上にある。再び意識が白くなり、このまま倒れていようとイルカはシーツを手繰り寄せた。が、思い直して頭を起こした。
明日は間違いなく出勤出来ない。無断欠勤の自分を誰かが探しに来た時に、見苦しい姿を曝したくない、せめてベッドに入っていたい。
乾き始めた血糊で貼り合わされた足を剥がす。ほとんど力が入らず、努力するほどに痛みが増していく。噛み締めた奥歯を鳴らして壁に爪を立てて跪き、自分を覆っていた布と服の切れ端を丸めて持った。そして僅かな距離を信じられないほどの時間をかけて這い、寝室へと入った。丸めた物をゴミ箱に押し込み、ほんの三十センチの高さを断崖絶壁を越えるようにぜいぜいと上がり、ベッドに倒れた。
自分の臭いが染み付いた布団が優しい。このまま死んでも良いくらいの安堵を感じながらイルカは布団を被って溜息を吐いた。体が痙攣のように震えている。じくじくと痛みの中心から出血が続いているのが自覚でき、しかし手当てする余力など無い。イルカは重い瞼を下ろした。彼の望み通り、このまま死んでしまう事が自分に出来る唯一の償いなのか。
――でも、俺が死んだら……カカシさんはどうなるんだ。
私刑は許されない、それが里の大きな決まり事だ。
――俺のせいでカカシさんが……
閉じた目から涙が零れ、それが伝った唇に染みた。殴られた時に切ったのだろう。
――行くんじゃなかった……。俺は、堪えねばならなかったんだ。
望んだ罰を与えられて救われたように感じた思いはもう、イルカの中にはどこにもなかった。恋人を失いその上に罰せられるだろうカカシを思ってイルカは泣いた。
曖昧になっていく意識の中で、慰霊碑から去っていくカカシの姿が瞼に浮かぶ。寂しそうで、そして優しい背中だった。その背中を追うようにイルカは手を伸ばし、そして気を失った。
ふっと意識が浮上して、イルカは白いものを見つめた。依れたシーツだ。自分の指も見える。動かすと意図通りに動く。
――生きてる。
イルカはぼんやりとシーツを見つめた。そこに落ちる光は妙に薄暗く焦点が合わないようなものだったが、朝の光ではなさそうだ。誰も探しに来なかったのだろうかと考え、自分はそれ程気にされていない存在なのかと思う。別に、それで良かった。
「……起きましたか」
誰かの声を聞いたように思った。誰もいるはずがない。イルカは目を閉じた。
「イルカ先生、薬を飲んで下さい」
びっくりして飛び起き、しかし強烈な痛みに体の中央を刺し貫かれてイルカは悲鳴を上げた。上げたが、寝ぼけているのか自分の声が聞こえなかった。
「丁度いいです、ちょっと我慢して」
背中に手を当てられて座るように促される。強く目を瞑って痛みをやり過ごそうとしたが、その余韻に加えて新たな痛みが次々と沸いてイルカは足の先をつらせた。口元に何かが当てられ、嫌だと首を振ったが強引に液体が入ってくる。むせることも許されずにその温いものを飲み干す。
「化膿と痛みを止める薬です」
解放されてベッドに横たえられ、イルカは涙を零しながら何度か咳き込んだ。それでまた、体中に痺れるほどの苦痛が走る。側の気配は一旦消え、少しするとまた戻って来た。
「何度も済みませんがね、これ、食って下さい」
イルカは首を横に振って目を閉じる。これ以上何も出来ない、絶対に動けない。しかしまた強引に起こされ、ひ、と息を詰めたところにスプーンが突き出された。
「食って下さい。あなた、夕べからなんも食ってないでしょう」
粥だった。イルカは粥とそれを差し出す者の顔を見比べてまた咳き込んだ。それはこの場にもっともそぐわない人物、すなわちカカシだった。
あまりよく顔が見えない。夢なのだろうか。こんなに痛い夢なんて初めてだ。イルカはぶるぶると震えて苦痛と戦いながら、目の前でスプーンを持ち上げる男の顔を朦朧と見つめた。カカシはすくった粥を唇に押し付けてくる。この粥も、かなり温い。
「口開けて」
どうやら夢ではないらしい。そう認識した途端に恐怖が蘇り、イルカは素直に口を開けた。咀嚼し飲み込むが、温いはずの粥が燃えるように喉を焼く。しかし次のスプーンが待っているので口を開ける。機械的に繰り返して皿が空になるとカカシは今度は湯のみを持ち上げた。
「水です」
そっけなく言って突き出す。またも機械的にイルカはそれを飲んだ。僅かに喉が楽になりほっと息を吐いたイルカを丁寧に寝かせ、カカシは枕元に立った。
「イルカ先生」
呼ばれてもイルカは返事をしなかった。疲れ切って瞼を下ろしてそのまま寝てしまおうと脱力する。
「イルカ先生、目を開けて下さい」
声の調子に切羽詰ったものを感じてイルカは目を開けた。見上げるカカシの輪郭は曖昧で、しかも顔色が悪いように見えた。光線の加減の問題で、本当はいつもと変わらないのかもしれないなどと、他人事のように思ってぼんやりと見つめていると、カカシはベッドの脇に正座をした。あれ、とイルカが不審に気付く前にカカシは床に額を付けた。
「申し訳ありませんでした」
カカシはそう言った。なんの事だろうとイルカは思い、カカシが顔を上げるのを待った。しかしカカシはその姿勢のまま動かない。ややあってイルカはおずおずと言った。
「どうしたんですか、カカシさん」
言ったつもりだった。出た声は引っくり返って全く音になっていなかった。うん、と咳払いするとまた体が震え、イルカは苦労して再度発声した。
「頭を上げて下さい」
やはり声は囁きほどにも通らなかった。
「口、塞いでたから自覚がないでしょうけど、だいぶ叫んでましたから声が出ないんですよ」
頭を下げたままカカシは言う。
「それから数日はまともに動けませんから」
「カカシ、さん?」
辛うじて声が音になる。
「俺には多少の医療経験があります。どうしても血が止まらなかったから縫いました。場所が場所だから……当分辛いです」
顔を横向けて見るカカシは変わらずに顔を上げない。
「それに、鏡見たらこんなんじゃ許す気にはならんでしょう。本気で殴ったから酷い、です。視界が悪いでしょ、左目が腫れてほとんど開いてないからです。喉もね、思い切り締めたから真っ青になってます」
「いいん、です、俺が悪い、です、頭を……上げて下さい」
イルカは囁いたがカカシはそのまま動かない。
「申し訳、ない」
「カカシさん」
「取り乱したとは言えあなたにそんな事をする権利なんて俺にはなかった。事情があったんだろうにそれを確かめもせず乱暴してしまうなんて最低だ」
「いいえ、俺は、」
「イルカ先生、あなたも生徒に教えるでしょ、木の葉は同志を尊ぶ里だと。俺のした事はアカデミーの生徒ですら理解できる大事への裏切りだ。たとえあなたが許しても俺は許せない」
よく見ればカカシの肩は震えていた。本気で言っているのだと分かってイルカは動揺した。
「カカシさん……」
「アカデミーには休暇届を出しておきました。俺が世話するんじゃ迷惑だろうから、それなりの者の手配もしました。ですから元気になるまで養生して下さい」
「体は、治ります」
イルカは悲しくなって痛みを忘れて頭を起こし、手を伸ばしてカカシの頭を触った。彼は動かなかった。
「治るんです、俺は。でもあなたの大切な人は、」
「これは俺の信義の問題です。俺は……自分がこんなに未熟で馬鹿だとは思わなかった……! 庇って頂かなくて結構、自分で始末を付けます」
言うとカカシは立ち上がって背を向けた。
「カカシさん!」
大きな声を出した途端、イルカの視界は反転してベッドに体が貼りついた。くらくらと目眩がして鼓動と共に頭にまで痛みが走る。カカシは振り向かずに去ってしまった。
カカシさん、と呟きながらイルカは泣いた。未熟で馬鹿なのは自分の方だ。『罰せられない辛さ』に耐え切れずに罰を求めた自分の方だ。カカシには何の非も無いのに。
泣きながらイルカは指一つも動かせなかった。さっきの薬に混ぜ物があったのかもしれない。深い眠りに落ちてゆきながらイルカはごめんなさいと呟き続けた。
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