紅の陰影 7

 うっすらと雲に覆われた蜜柑色の空を見上げ、カカシは荷物を背負い直した。中の巻物を火影に届ければ任務は終わりだ。
 輪郭を曖昧にして滲むように地平に沈んでいく太陽を背に、カカシは冬枯れた草原を進んでいた。空だけでなく、足元の死んだ草達も燃えるように橙に染まり、盛りの頃を真似るように強い風にざわめいている。同じように煽られて一つ二つよろめきながら、カカシは背伸びをした。
 草原の彼方、月が昇る方向にかすかに黒く、里が見えている。この距離では日が落ちるまでには戻れない。幾分気落ちしながら冷たさを増した空気にぶるりと震え、カカシはもう一度バックパックを揺すり上げた。ぐっと顎を引き、身を縮めて歩き出す。
 だが、数歩で足を止めた。
 振り返った草波の後方、太陽の中に人影が見える。燃える光の中で黒く濃く影となった人物は、辛うじて木の葉の任務服を着た者だとわかった。
 先生だろうか。
 反射的に思った。しかしそれなら、スリーマンセルの残りの二人が一緒のはずであるし、あの古い文書の解読には今しばらく時間がかかるだろうから可能性は低い。
 カカシは人影に背を向けた。歩き出す前方の地平は群青を帯び、その中に太陽の残像がちかちかと点滅する。何度も瞬きを繰り返しながら、渦を巻くように昏さを増す雲を見上げ、カカシの歩幅は知らず大きくなった。
「……シ」
 季節はずれの小さな花を跨ぎ越した時、何かが聞こえた。
「カカシ」
 もう一度の声に勢い良く振り返った視線の先、煌々と日の終わりを告げる太陽を割る影は、見知った形になっていた。
「父さん」
 瞬きを続けながらカカシは呟いた。少し、驚いていた。一見してわかる重装備を身につけ夕日を纏ったサクモは、まるで戦いの最中にチャクラを燃え立たせているかのようだったからだ。
「……お帰りなさい」
 溜息のような声になった。ゆっくりと近付いてくるサクモは、輪郭をきらきらとオレンジに染めてひどく大きく見えた。それが一瞬かき消え、一巻きの風と共にカカシの隣に現れる。
「帰還途中で会うとは珍しいな」
 大して汚れていない見掛けとは裏腹に、ベストからは濃厚な血と火薬の臭いがした。しかしそれよりも、彼の周りに残る高揚した空気が胸を掻き乱し、カカシは一つ体を震わせた。忍になるずっと前から、戦うということがどういうことかをカカシに教えた気配だ。
「寒いのか」
 そう言ってサクモはカカシの肩に手を置いた。ちらりと見えた手のひらには、チャクラ刀が残した血豆があった。それが消えている手をカカシは知らない。初めからあるもののように、常に赤黒い粒を貼り付けている手がカカシは好きだ。
「平気」
「そうか」
 肩に乗ったままの手は、使い過ぎたのかとても熱かった。うん、と答えてカカシは俯いた。
 カカシが忍になってから、サクモとの親子関係はわずかに変わっていた。三忍と呼ばれる素晴らしく優秀でいずれ火影が出るだろうと言われている者達よりも、自分の父親が尊敬を集める強い忍であると知ってから、カカシにとって父親は単なる家族ではなくなった。サクモは、カカシの憧れの全てとなったのだ。だからこうしてお互い任務服で顔を合わせていると、緊張とも照れともつかない気分で一杯になってしまう。耳や頬が赤くなっているんだろうと思って少し恥ずかしく、指先で口布を引っ張り上げた。
「オレ、まだ任務中」
「その荷物か?」
「秘密」
「そうだな。残りのメンバーはどうした?」
「先生達とは向こうで分かれた。一人で任務をする練習だって」
「もうそんなレベルか。早いな」
「早くないよ。中忍になったの、三年も前だし」
「そんなになるか」
「早く前線に行ってみたいな」
「おまえが思うほど、面白い場所じゃないぞ」
 一緒に戦ってみたいのだ、とは言えなかった。『はたけサクモ』にそんな口をきけるはずがない。
「忍なら、前線に行かないと」
 曖昧に言葉を濁すカカシにサクモは答えなかった。ただ、笑うような気配が伝わってくる。それが悔しく、しかし同時に嬉しくも感じられてカカシはちらりと父親の顔を仰ぎ見た。案の定サクモは表情を緩ませており、急にずっと子供だった頃のような、思い切り抱きつきたい気持ちが胸の奥から押し寄せてきた。もう中忍なんだからそんなことはしちゃいけない、そう自分に言い聞かせて両手をぐっと握る。
「いつかは、いけるさ」
「うん……」
 いますぐにでも行きたい。サクモと一緒なら、どんな場所ででもがんばれるはずだ。言い募りたい言葉は幾らでも沸いてくるが、カカシは口を閉じて頷いただけだった。その頭を手のひらが撫でる。
「カカシ、飯はまだだろう。外で食って帰らないか」
「いいの? 三代目に報告があるんだけど待っててくれる?」
「ああ。何が食いたい」
「一楽のラーメン」
「……ふむ」
 いいだろう、と言うようにサクモは軽く頷いた。
「父さんは受付所?」
「ああ。上忍待機所で待っているから終わったら来い」
「うん」
 それで会話は途切れた。話題を探すこともせず二人は太陽の熱を失って冷えていく風に向かって歩き続けた。

 月が目の高さほどに昇った頃、里へと帰りついた二人は受付所と火影の住居とに二手に分かれ、小一時間ほどで再び落ち合った。一の月の終わり、いつ雪が降ってもいいしんと冷えた里はまだあちこちに明かりが残り、二人はその一つへと向かって行った。
「あ、お父さん」
 暖簾を上げるまでもなかった。客は一人、一楽のカウンターに座った足元を見てカカシは父親の袖を引っ張った。
「先生の先生がいるよ」
 その声とほとんど同時に、暖簾から太い腕が突き出ておいでおいでと二人を呼んだ。
「珍しいカップルがおいでなすった」
「久しぶりだな、自来也」
「おうおう、仲良くやっとるようだのぉ」
 だって親子だもん、とカカシが呟くと何がおかしいのかからからと笑いながら自来也はその背中を叩いた。
「元気か、カカシ」
「元気」
「そうかそうか。ううむ、別嬪になってきたのぉ、おぬし」
 いきなり引っ張り下ろされた面布を上げ直し、カカシは口を尖らせた。
「やめてよー」
「食いにきたんだろうが。下ろしとけ」
 ごりごりとごつい手で頭を撫でられてカカシは左右に揺れた。
「カカシ、塩でいいのか」
「いいよ父さん、ちょ、ちょっと、痛い、痛いって先生の先生!」
 注文をするサクモの横でぐらぐらと揺れながらカカシは笑った。風体も素行も妙な男だが、自分には無い豪快さをもつ自来也をカカシは気に入っている。なによりも、この世で二番目に尊敬する人物を育てた人だ。
 一通りかまって満足したらしく、自来也は最後にぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜてから銀髪から手を離し、箸を手に取った。
「で、ウチのはどうしとる」
 身内のごとく呼ぶのはミナトのことだ。
「まだ任務だよ」
「来たぞ、カカシ」
「あっまた野菜……」
「いいから食え」
 サクモとの外食では、何を注文しても野菜が山ほど添えられることになっている。一楽でもそれは変わらないらしいと学習しながら、カカシは山盛りのモヤシとニラを掻き分けてチャーシューを摘み上げた。
「わしが聞いとるのはサクモさんだ」
 自来也の箸が、答えを急かすようにかちんかちんと丼に当たる。モヤシを噛み切りながら、カカシはどちらの顔も見ることができずに丼に描かれた模様を見つめた。
「最近の前線はどんな面子が回しているものかと思ってな。アレは真面目にやっとるか?」
「波風か。前線で見かけることは滅多にないな」
 ぱきり、と箸を割るサクモの声は低い。
「ほう、会わないか」
「奴は俺と同じく部隊長か単独任務を任されることがほとんどだ。同じ戦場で顔を合わせる機会が少なくてもおかしくはないだろう?」
「ほうほう、そうかそうか」
 含みのある視線が二人の間、カカシの頭の上辺りで交差する。カカシは野菜の山と格闘しているふりをする。
「そうか、会っとらんか。つまらんのぉ」
「……飲んでいるのか、自来也」
「どうだったかのぉ」
 節回しのような声音で自来也が言い、サクモはわずか、警戒の気配になった。それにもカカシは気づいてはいけない。高めのカウンターに乗った丼に掴まるように顔を突っ込み、ただ黙々と麺を口に入れ続けなければならない。
「まあその内に会うこともあるだろうよ、なあサクモさん。そしたら伝えておいてくれ。そろそろ『あちらさん』が動くってな」
「何だと」
「近々三代目からもお達しが下るはずだ。でかい花火が上がるぞ」
 二人の気配が明らかに変わり、カカシは素早く顔を上げた。途端に、おまえは食ってろと自来也に後頭部を掴まれてラーメンに戻される。『あちらさん』とは砂の里を意味する隠語だ。深刻な事態を予感しながらカカシは野菜をかきこんだ。
「……タイミングは悪くないな」
「だろう? わしも出張らせてもらうぞ」
「おまえが指揮系統に入って戦う? 笑えない冗談だ」
「この自来也、やるべき時にはやる男だ」
 とくらあ、と笑って丼をごつんとテーブルに置くと、自来也は席を立った。
「それじゃあな、サクモさん、カカシ」
「ああ」
「さよなら、先生の先生」
「おまえさんは行儀もいいのか。困ったのぉ」
 意味のわからない苦笑を残し、自来也は身を屈めて店の暖簾をくぐって出て行った。
「父さん」
 大きな背中をじっと見送っていたサクモが強く目を瞑ってからカカシに顔を向ける。
「戦争?」
「今はどこもが戦争だ」
「……うん。気をつけてね」
 遠くを見る目をしていたサクモだったが、戻ってきたようにカカシと視線を合わせてふっと笑みを作った。
「ああ」
 硬い印象を与えながらカカシの好きな手が頭の上に乗る。寂しさともくすぐったさとも知れない気持ちを胸に波立たせながら、カカシも笑って見せた。

 それから数日、サクモとカカシは二人そろっての休暇を家事に費やすことになった。家政婦はカカシが中忍になった頃に引退したので、家の中は男所帯らしいごたついた有様になっていたのだ。
 掃除と庭仕事を終えた休暇二日目、洗濯日和がやってきた。良く晴れた陽の下、二人は溜まった洗濯物をせっせと洗っては干した。満足して縁側に腰を下ろした時には、庭中に布がはためいていた。
 当然のごとく、夜になって乾きあがったタオルや任務服はちょっとした山になった。それをカカシが引き受け、サクモは風呂へと向かった。
 遠く聞こえる水音を聞きながら、カカシは上機嫌だった。サクモは明日、一日中修行に付き合うと約束してくれたのだ。カカシの倍は忙しいサクモとの修行は随分久しぶりとなる。期待と少しの緊張にカカシは口元をもぞもぞと動かし、居間からは見えない風呂場の方向にちらちらと目をやった。明日を思えば手は止まりがちになる。それを叱りながらタオルをたたんでいると、サクモが風呂を終えて出てくる音がした。しかし、耳を澄ませていても足音が聞こえてこない。サクモは大概風呂上りに晩酌をするから、居間に戻ってくるはずだ、そう思って首を傾げたカカシは、はっと顔を上げた。
「玄関……」
 思わず呟き、カカシは手に持った自分のアンダーウエアをぎゅっと握った。戸締りはとうに終わっている玄関で、父親がやることは決まっている。仕掛けをするのだ。
「父さん……」
 いつの頃からかほとんど毎夜、彼は幾つかの仕掛けを玄関戸に施す。簡単なものではなく、カカシにはまだ手に負えない式や札が使われるそれは、うっかり中から戸を開けたとしても何も起こらない。あくまでも侵入を拒むための仕掛けであった。それが何のためなのか、たぶん、カカシは知っている。知っているから、困っているのだ。
「カカシ」
 真後ろからの声に、カカシは飛び上がるほど盛大にびくついた。全く気づかなかった。考えごとをしていたとはいえ、忍としてあってはならないことだ。明日はさぞしごかれるだろうと首を竦めて振り向くと、サクモは小さく苦笑していた。
「そろそろ寝なさい」
 サクモの手の中で、徳利と猪口がちりちり鳴っている。どんな寒い季節でもサクモが飲むのは冷酒だった。ほんのりと鼻をくすぐるアルコールの匂いが、一日の終わりを告げている。
「あとちょっとだから」
「俺がやっておく。湯冷めする前に布団に入れ」
 大きな手が、一つ頭を撫でた。
「うん……」
 歯切れの悪いカカシに視線を当てながらサクモは炬燵に足を入れた。
「どうした?」
 冷たい酒を猪口に注ぐ父の顔は穏やかだ。カカシはぽんとタオルの束を叩くと立ち上がった。
「なんでもない。おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
 もうちょっとだけ一緒にいたい、そんなきりのない気分を無理やり飲み込んで、カカシは居間から背を向けた。






ちり、と意識が震えた。

 目を開け、カカシは朦朧と目の前を見つめた。徐々に木目が視界の中に入ってきて、やがて天井だと知れる。また、空気を裂く音が小さく聞こえ、それでカカシは完全に目を覚ました。
 来た、と胸の中で呟くと、三つ目の仕掛けが外れる気配が伝わる。それで、暗くうち沈んだ古い家の中は無音となった。だが、何かが動いている。
 カカシは深く布団に潜った。それでぴたりと動きを止める。石や木になりきる時のように鼓動を鎮め、一定の呼吸を繰り返し、眠っている体を作りこむ。しかし意識はとめどなく冴えていくばかりだった。
 たまらず、布団の端を小さく開けると、闇の中で障子が白く淡く浮かび上がっている。近付いてくる気配は糸を渡る蜘蛛のように密やかで迷いない。もうすぐ、あと一つ角を曲がれば。
 そう思った時、それは一瞬でカカシの部屋の前を行き過ぎた。
 行き過ぎたとわかったとはいえ、それは気配ですらなかった。障子に映りこむべき人影は全く見えず、月が雲に翳るように風が不意に止まるように、違和感すら残さないそれを何と呼んで良いのかカカシにはわからない。

 わかっているのは、あの人は、自分が起きていることを絶対に知っているということ。
 そして、今から誰と誰が何をするのかということ。

 また一つ、今度は火を消すような感覚が伝わってきた。
「結界」
 ぽつりと呟いた。これでもう向こうのことはわからない。自分の音も彼らには聞こえない。聞こえないはず、なのに。
 カカシは布団の中に頭まで潜り込んだ。あの日に聞いた声から逃げるため、耳を押さえ息苦しい空間で体を丸めて縮こまる。

 ――隊長……

 甘い声で呼ぶ人の顔が二重にぶれる。お兄ちゃんと呼んでいた頃の柔らかい頬の線と、先生と呼ぶ今の清冽な輪郭が幾重にも揺らめき、しかしその目の色だけは全く同じに刺し貫いてくる。
 あの時、自分は幾つだったのだろう。一人で眠るのが怖い時があり、それを父は許してくれていた、そんな小さい年頃だった。深夜に近い時間に怖い夢をみて目が覚め、父の部屋へ行こうとびくびくしながら自室を出た。暗い廊下を曲がった先、襖はわずかに開いていた。
 父親の部屋は月明かりに満ちていた。だから夏かそれに近い、雨戸の閉まらない季節だ。縁側から差し込む月光は眩しいほどで、障子の描く模様が畳を縦横に切り刻んでいた。
 その中で二人は獣のように絡み合っていた。傷だらけの父の背の向こうで見え隠れする白い体、荒い呼吸、軋む喘ぎ、形容のできない濡れた音、そして、甘く響いた声。
 ――もっと、して、隊長。
 あの人はそう言った。

 もうあの人は、『隊長』などとは呼ばない。自来也と同じようにサクモさんと呼びかける。
 しかし、この夜には?
 今、父の部屋で、あの人はどんな声を上げている?
 カカシはきつく目を瞑った。一体自分が何から逃げたいのかわからぬまま、本当に眠ってしまうまで、カカシは耳を押さえ目をきつく閉じて身を縮ませ続けた。







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