紅の陰影 5

 耳が痛い。頭を負傷したか。
 いや違う、噛まれている?
 どうなった、俺はどこにいる? 何故何も見えない? 首筋をねっとりと這うものは何だ。
 ――動かないで。
 誰だ、俺に何をしている、触るな!
 ――俺達、こうなると思ってたよ。


「よせ!」
 振り回した腕が柔らかいものに当たる。は、と一呼吸を激しく吐き出し、サクモは自分の周りを見回した。
 深夜であった。障子の影が月光に照らされて濃く畳に落ちている中、サクモは布団の上に身を起こしていた。殴り飛ばしたのは掛け布団で、足元辺りにくたりと丸まっている。
「……っ」
 急に動かしたせいだろう、右肩の痛みがぶり返している。鼓動が落ち着くのを待って布団をそろそろと手繰り寄せ、ちらりと隣を見た。サクモからわずかに離れて敷かれた布団の中、耳を澄ませないと聞こえない、小さな寝息が繰り返していた。怯えが収まると逆にしがみついて離れなくなったカカシを、今夜は側で寝かせたことを思い出してサクモはかすかに笑った。だが、それもすぐに険しい表情が覆い隠した。
 とうとう、全てを思い出した。
「なんてこと、だ……」
 頭痛の変わりに脳に突き刺さった記憶に、サクモは文字通り頭を抱えた。


 潜入は成功した。それが見破られるのも予測の内だった。ただそのタイミングが予想よりも早く、木の葉側へ逃げ切る直前に戦闘となったために、後方部隊への連絡が不可能となった。国境の橋の上、二匹の竜のように天高く立ち昇った水遁と土遁がサクモ達を襲い、応戦一方となったところに草の援軍が追いすがる。そこに戦闘に気づいた木の葉の忍達が駆けつけ、大規模な混戦状態へと戦いは移行した。
 抜け忍との戦いは苛烈を極めた。止める者達を振り切り、半ば捨て身で突っ込んだサクモは利き腕を深く負傷した。それで生まれた瞬きほどの隙を捕まえたミナトが抜け忍を昏倒させ、サクモがその胸に左腕を打ち込み絶命させた。その瞬間、最後の土遁の竜が橋を突き破って霧散した。死んだ抜け忍に腕を掴まれたままのサクモは崩落する橋と共に墜落し、ミナトがそれを追った。
 そしてサクモは瓦礫の中で意識を取り戻した。二人が身を寄せて収まれるだけの空間だった。サクモの両腕は使い物にならず、その応急処置をしたことでミナトはチャクラ切れ間近となりそこから掘り出るだけの力は残らなかった。だが幸いなことに、空気だけはどこからか入ってきていた。わずかに動けるだけの狭い空間で、二人は救援を待つしかなくなったのだ。
 その時点でサクモは意識を失いがちだった。何度か目を開け閉めし、その度に自分がどこにいるのか、わからなくなった。そして何度目かの覚醒と同時に、異様な感覚に襲われた。側に他人の体温があるのはすぐに理解した。だが、その接触の仕方が異常だとも気づいたのだ。
 半分重なった誰かが、首筋を触る。同じ場所に舌が這い、耳たぶを食まれる。叱責するように大声を出しても軽い笑い声が聞こえるばかりで行為は止まず、やがて性器を撫で擦られた。
 死を予感するような危険に曝されると人は性的に興奮することがある、そんなことをサクモは聞いたことがあった。長丁場の戦場で、性行為に関わるもめごとが多いのも実体験として知っている。だが、自分はそんなものとは関わりにはならないと信じてもいた。
 だから、器用に動く手に、有り得ないと呟いた。その手の中で反応する自身を自覚しながら、それでも有り得ないと呟いた。衣擦れの音が聞こえ、細い感触の足が腰に絡み、くぐもった声が聞こえ、決定的な感触に性器が包まれてもまだ、サクモは全てを拒否し続けた。
 狭い空間に、滴るように吐息が充満し、相手が波風ミナトであることを思い出した頃に行為は終わった。
「俺達、こうなると思ってたよ、隊長」
 脳に直接吹き込むように若い声が言い、それが瓦礫の中での最後の記憶となった。


「有り得ない……」
 ああいう危機的状況下で性行為に及ぶなど、サクモでなくとも思いつきもしないだろう。何を考えているのかわからない少年ではあったが、これほどとは思っていなかった。
 髪を掴み固まったように体を縮めていると、小さな、ほんの小さな寝息が胸に迫るように耳の中に響く。無邪気なその音から顔を背け、サクモは着崩れた藍鼠に矢鱈縞の浴衣を直してからそっと布団を抜け出した。
 サクモの自室は玄関とは真反対に位置する。古い物置と灯篭が影を落とす庭を縁側から見下ろし、深呼吸をしながら冷たい汗を浮かべた額を拭った。
 高く昇った月は上弦の半欠け、薄青い雲が横切っては月光の光度を変える。それと一緒に庭の影も淡く霞み、時に濃く焼きつく。その繰り返しをサクモは長く見つめていた。
「眠れない?」
「さあな」
 もう驚きはしなかった。するりと屋根から下りてきたのは任務服姿、無機質な声を投げつけても軽く首を傾げて唇の先で笑う。
「思い出したんでしょ、あのこと」
「意味の無いことだ」
「あるよ」
 雲の切れ間から矢のように月光が落ちてくる。ちり、と砂を鳴らして近寄って来る金髪が、それを浴びて濡れたように輝いていた。
「あなたの髪の色が好きだと言ったよ、俺は」
 水中で揺れる水草のように、ゆらりと近付く姿にサクモは一歩下がった。
「あなたがいいんだ、隊長」
 飛び起きてからの汗がひかない。背骨の上を滑り降りていく冷えた雫に目を顰め、しかしサクモは歯を剥くように笑ってみせた。
「俺は、誰も必要としない」
「へえ」
 縁側に膝を掛ける少年の周りを、霧のように月の光が包んでいる。
「今その背中に、隠しているものも?」
 がたりと障子が鳴った。指先に触れる乾いた和紙の感触が妙に生々しくサクモに伝わる。
「その子も、同じ髪の色だね」
「何が言いたい!」
 閉まった障子の合わせを背に、サクモは細い木枠を握り締める。柔い紙をぶつりと指が突き破った。
「あなたがいいんだ」
 ぺたりと、裸足の足裏が磨かれた床に置かれる。少年の動きは、決められた型を演じる舞踊のようだった。
「そう、さっきから、言ってるでしょ」
 両腕が伸びる。手のひらが胸に触れる。襟合わせから入ってくる指の意外なほどの華奢さにぞっと背中を逸らし、しかしサクモは掴んだ障子の桟を離さなかった。
「気に入らなかった? 俺の体」
 胸の真ん中に唇が押し当てられる。
「……よせ」
 小さく突き出した舌は鎖骨を越え、頚動脈の上で止まった。
「皆、喜んでくれるんだけどな」
 しゅる、と帯が解かれる感触がした。
「波風!」
「起きるよ、あなたの大事なものが」
 その言葉に、障子の桟が折れた。あの狭い穴の中でやったように、犬歯が緩く耳を噛む。胸から腹を越え、華奢な指が性器を柔らかく掴む。顔を背けるサクモの頬を一舐めし、耳の側で揺れていた金髪はゆっくりと下降した。
「……何を考えている」
 跪く少年は両手で性器を掴んではんなりと笑った。
「どう思う?」
「愚問だな……」
 生暖かい口内に飲み込まれながら、サクモは苦く笑った。たとえ答えを聞いたとしても、自分には理解などできないだろう。
「座って」
 抵抗する気持ちは残っておらず、サクモは手を引かれるままその場に足を投げ出した。
「外から見られるかもね」
 板の間の上、水飛沫のように月明かりを浴びながら、誰かに見て欲しそうにミナトは言った。そしてベストを脱ぎ、その下のアンダーウエアも放り投げ、膝立ちの姿勢で下穿きと下着を引き下げた。躊躇のない手付きで全裸になった少年はベストから薬が入っているらしいチューブを一本探り出して中身を手に出し、再びサクモ自身へと顔を埋める。
 先端から根元へと、小さく音を立てて口付けを繰り返し、今度は根元から先端へと舐めあげる。行き着いた丸い粘膜に舌を当てながら、彼は金髪を揺らして顔を上げた。
「立ってきた」
 にやりと笑い、いよいよきつく吸い上げる。顔を逸らしたままのサクモは眉を寄せて深く息を吐いた。だが、下腹部から聞こえる水音とは別の粘着質な音に視線を動かせば、ミナトは自分の手で自分の体を開いていた。チューブから出した潤滑剤を塗りつけ、何度も指を行き来させながらゆるゆると腰を動かしている。
「は……」
 性器から口を離し、透明な糸を引きながら喘いでみせ、細く弓なりに笑う目がサクモを見た。
「もういいよ」
 子供の遊びに似た口調で言う。そしてサクモが動かないのは予想済みだと言わんばかりに、藍鼠の浴衣を大きく肌蹴た場所にのし掛かってきた。素直に伸びた若木のような足が絡み、握られた先端の粘膜が、じわじわともう一つの粘膜に割り込んでいくのを、サクモはひとごとのように感じていた。
「ん……」
 サクモには協力するつもりはなかった。左肩を庇いながら右手で自分を支え、絡んでくる白い体からただ目を逸らし続けた。
「ああ、ふ、う」
 全てを飲み込んだ体が、白すぎる喉を月に向かって逸らす。
「隊長、気持ちいい?」
 ふ、ふ、と息を吐く音と同時に腰が上下する。
「ああ……」
 反りきった喉から続く唇は、舌を突き出し細く唾液を垂らしている。
「は、あ、あ、」
 徐々に動きが激しくなる。サクモの腰を掴んでいた手が片方外れ、真上を向いている性器を擦り始めた。それは既に先走りに塗れ、手のひらに擦られる度にひどく卑猥な音を立てた。
「い、って、よ、隊長、も」
 夜目にも鮮やかに、白い顔が紅潮していく。男を体内に飲み込み、自ら己を煽り、快楽だけの生き物になっている少年がそこにいた。
「あ、ああ!」
 がくっとミナトの体が痙攣した。性器を抑える指の間からだらだらと白濁が零れる。それと同時にサクモを咥え込んだ場所が内部からねじれるように締まった。
「く……っ」
「はあっあっ、あ、あああ!」
 細い体は限界まで背骨を反らし、そして一気に脱力した。二人分の荒い息が流れる中、サクモは胸に倒れこんできた体を押し退けた。
「気がすんだだろう……」
 気だるそうにサクモの上から降り、縁側の板張りの上にぺたりと横たわった少年は笑った。
「は……はは、ふ……。隊長、良かったんでしょ」
 良くないはずがない、そう言いたげな目は情事の直後とは思えぬほどに澄んでいた。そしてその答えは、答えないサクモよりも彼の方がよく知っているのだ。
「帰れ……」
「言われなくても」
 のろのろと体を起こして服を手探る姿に背を向け、サクモは帯を拾って立ち上がり、湯殿へと足を向けた。たまらなく、水を浴びたい気分だった。
「また、来るよ」
 その声に振り返った。未だ全裸のままのミナトはかすかに首を傾げ、その体は撒き散らすように月光を反射していた。青く、どこまでも碧くサクモの奥底までも見通すような視線、子供にも大人にもなりきれない過ぎた美しさを纏う肌、燃えるように流れそよぐ太陽色の髪、それはとうてい生き物には見えずサクモの全身の肌が粟立った。そして急に思い出したのだ。彼の背後にいるもののことを。
 サクモは帯を放り投げた。これほど無様に走ったことは忍になって初めてかもしれない。明らかに驚いた表情の少年の腕を右腕だけで渾身の力でひねり上げ庭に突き落とし、確かに走った激痛を無視してその服もまた蹴り落とした。
「去れ!」
 障子に背を当て叫んだ。部屋の中で、ごそりと小さな音がした。出てくるな、とまた叫び、驚いたまま固まっている少年を激しく凝視した。
「去れ、行け!」
「……ひどいね、隊長」
「うるさい、今すぐ去れ!」
 厳しい視線に肩を竦めて見せ、ミナトは手早く身支度を終えるとするりと背を向けた。そして前触れもなく跳躍して向かいのブロック塀の上で一度サクモを振り返り、そして消えた。

「去れ……」
 ずるずると障子の前に座り込み、サクモは呟いた。
「去れ、去ってくれ……」
 しかし、今度こそはどんな記憶も、サクモが手放すことはなかった。







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