それから数日、サクモはまた夜の闇と同化していた。
胸の底まで空にする長い呼吸を一つ、銀杏の枝の上で立ち上がる。頭上では黒い雲が幾重にも重なりながら流れ、細い三日月が見え隠れしている。
「サクモさん」
任務を共にするのは三度目のアマニがするりと隣に立った。上忍になったばかりの若い男ながら昔気質に儀礼正しく、サクモとの相性が良いタイプだ。
「確実に目的のある動きに入っているな、草隠れは」
「ええ、予想通り良い動きではないですね。背後に砂の臭いがしますよ、これは」
「潜入できそうか」
「はい。波風に策があると」
「波風、か……」
数日前に定期任務で訪れたはずの草隠れとの国境線は、全く気配が変わっていた。
小競り合いは日常茶飯事、いつどこで大規模戦闘が始まってもおかしくない火の国と風の国との関係性は変わっていないが、二国に挟まれた草隠れと雨隠れは現在のところは火の国寄りで、緩いものだが正式な協定が結ばれている。
それを無視した木の葉側への警戒行為が、国境沿いの森と断崖に溢れていた。あからさまに、或いは巧妙に無数の罠が張り巡らされ、草隠れへの潜入は一見不可能に見えるほどだった。
「どういう策だ」
「時空間忍術を使った瞬身の術、と」
「初耳だ。奴のオリジナルか」
「そのようです。『目印』さえ付ければ、相当の距離でも瞬時の移動が可能だと言っていました」
「目印?」
「直接手で書くか、術式を書いた札をくないに巻いて、刺しておくのだと」
「口寄せの応用というところか」
「詳しいことは何も。企業秘密、だそうで」
アマニは肩を竦めて見せ、サクモは眉間に皺を寄せた。また自分が不快がっているのがわかって腹に力を入れる。
「多少怪しい術式でも、今の状況下ではその技に頼るしかなさそうだ」
「単独ですか、誰か付けますか」
「俺が行く。部隊の指揮はおまえがとれ」
「了解」
アマニは来た時と同様にするりと闇に溶けて消え去った。サクモは銀杏の大木から跳び、最も仕掛けが薄い断崖の南側に向かって枝を渡っていく。いくらも行かない内に、予想済みの気配が舞い降りるように背後に現れた。
「隊長も行くんだ」
笑いを含んだ言葉尻を無視し、サクモは事務的に答えた。
「そうだ。経験値からこの組み合わせが最適だろう」
「計算だけ?」
「他に何がある」
「今、隊長が考えたこと」
「俺は言葉以上のことは考えていない」
「ウソ」
ふっと笑って黄色い髪がわずか先に行く。思春期特有の、柔らかく強烈な弾力を持つ筋肉だけが出来る動きで、サクモの目にすら時に残像が残らないほど素早い跳躍で少年は跳んで行く。からかい癖のある性格を映したかのような大胆な跳躍を追いながら、サクモは目を細めた。
――これは、できる。
定期任務でも思ったことだった。チャクラの練り方、術の発動と連携、体術と、技術の全てが彼独特の俊敏さを基調として注意深く織り上げられ、年齢にそぐわない完成した統一感を見せる。しかもなお、この少年の能力内容にはまだ三割以上の余力があるとサクモは見ていた。それは、わかりやすく言えばチャクラ量が異常なほど多い、ということだ。このような子供をサクモはこれまでに一人も知らない。
「波風。おまえの上忍師は自来也だったな」
「そうだけど、ミナトって呼んでね」
――あいつが秘蔵っ子と呼んで育てたという噂は、嘘ではなかったようだ。
ただ、少々問題のある秘蔵っ子のようだが。そう思ったところで目的地に到着した。
「おまえの策を聞かせてくれ」
「ん、これ」
長軸のくないが四本、サクモの前に並ぶ。それぞれの軸にはアマニが言っていた通りに札が巻きつけてある。
「鳥を使ってこれをできるだけ遠くまで運ぶんだよ。隊長も一本持っててね」
「どういうことだ」
「俺はこれを目印に瞬間的な移動をするんだ。移動の間は罠の影響は受けないはずだよ。移動した俺は付近の罠を解除する。で、また隊長のところに戻るんだけど、その時は隊長の持っているくないが目印になる。そして今度は二人一緒に移動するんだ。これを繰り返せば、草の領内まで比較的安全に移動できると思うよ」
「……もしもこれを草の領内まで跳ばすことができれば、おまえはそこまで移動できるのか」
「できるよ」
「俺も連れて、か」
「ん、距離があるからどうかな。たぶんできると思うけど」
「わかった」
淡々と答えてサクモは二本のくないを手に取った。一本をポーチに押し込みもう一本で指先を切って印を組む。小さな煙と共に姿を現したのは、サクモがアンダーシャツの上に引っ掛けているだんだら模様の上っ張りと同じ布をベストに仕立てて着込み、額当てを頬被りした小型の犬だった。
「久しぶりだなサクモ」
流暢な人語を操り、犬は眠そうな顔でサクモとその隣を見上げた。
「新顔だな」
「部下だ。早速だが地中の様子はどうだ」
「深い罠が幾つかある」
「避けられるか、パックン」
「任しておけ」
「ではこれを」
「なんじゃい」
犬はサクモが差し出す長軸のくないを見上げて顔を顰め、可愛いねと手を出す若者から離れる。
「草の領内の、できるだけ目立たない場所にこれを立ててくれ」
「起爆札か?」
「いや違う。俺にも説明はできない。言った通りにしてもらえるか」
「危ないものじゃないよ」
若者の言葉をあからさまに無視し、パックンはサクモに頷いた。
「すぐ戻る」
言うなりくないを咥え、パックンはずるりと地中に潜った。速やかに遠ざかる気配に小さな口笛が飛ぶ。
「良い忍犬だね。土遁も上手だ」
「俺よりもベテランの忍だ。犬だと侮るな」
ふうん、とかすかに笑う気配がまた、サクモの胸に不快な塊を呼び起こす。だが今はそんなことに捕われている場合ではない。サクモは地に手のひらを押し当て、放った犬の気配を探った。
「戻る」
「……速い!」
驚く少年の眼下で、潜った時と同じ液体に近い様態で犬が地表へと抜け出した。くないはもう咥えていない。
「よくやった、パックン」
「選びはしたがな、あまり良くない場所だぞ」
「わかっている。ご苦労だった」
「先導に付くか?」
「いや、還ってくれ」
無事でな、あっさりとそう呟いてパックンは煙になって消えた。
「あれ、還しちゃった」
「パックンは戦闘型じゃない」
「また呼んで見せてよ。俺、犬好きなんだ」
「波風」
「ミナト」
「どちらでもいい。時間がない。今度はおまえの時空間忍術とやらを見せてもらおうか」
「よくないけど。ま、今はとりこみ中だからね……」
と、語尾が終わりきらない内にサクモの腕は引っ張られた。一瞬全身がひどく捻れた心地がして一歩たたらを踏み、は、とサクモは辺りを見回した。冷たい土の感触が頬に当たる。二人は、地面に潜り込むように半円の口を開けた狭い穴の中に腹這いになっていた。後頭部に何かが触れる感触があり、見上げるとそこには斜めに刺さった長いくないがある。
「……見事だ。素直に賞賛しよう」
「そう?」
肩が触れる距離、印を組んだままの指の向こうに、わずかに目元を細めただけの何事もなかったかのような顔がある。
「おまえが考案した技か、これは」
「うん。くないの札は自来也先生に手伝ってもらったけどね」
言いながら前ににじる少年の横でサクモも出口に向かって腕で進んだ。見る限り、下草で出口は上手く隠れている。しかし一歩出れば木の葉側と同じく罠や仕掛けで溢れていると考えるのが妥当だろう。
「隊長、潜入方法は?」
「草の忍が現れるまでここで待ち、下忍相当の者と入れ替わる。それぞれ別部隊に潜り込めればいいんだが」
「……来る」
息を殺し気配を断ち、二人は前方に現れた複数の足を観察した。年長の忍に大量の荷物を持たされている年若い忍を確認し、サクモは隣を見やった。仄暗い中で、頷き返す瞳がちらりと光る。
「行け。刻限は明日の日の出だ。長居はするな」
「了解」
薄皮を纏うように少年から少女へと変化を果たして彼は穴から抜け出、わずかの後、サクモの目の前に昏倒した草の少女が投げられた。
それから数十分後、サクモも新たな一隊の一人と成り代わり、くないの刺さった穴を後にした。
「サクモさん」
耳元で囁く声にサクモは目を開けようとした。開けたのかもしれない。しかし、視界は暗く見えるものは何もなかった。
「サクモさん、動かないで下さい」
アマニの声だ。視力だけでなく、体全体の感覚が鈍く、動いているのかどうか自分ではわからなかった。声に従って全身の力を抜く。
「左肩が脱臼しています。右側は裂傷です。応急処置レベルの整復は終わりましたが、治療を得意とする者がまだ戻りません。しばらく安静にしていて下さい」
脱臼、と口の中で繰り返したがサクモにはその覚えはなかった。どうやら記憶が混乱しているらしい。覚えているのは時空間忍術で草領内に入り、変化で敵方の忍とすりかわったところまでだった。そこまで考え、顎を上げる。
「波風は無事なのか」
「サクモさん?」
「負傷の前後の記憶が無い。俺は頭を打ったか」
「はい、頭部も負傷されています。心配だな……」
「波風は」
「無事です。現在戦闘に参加しています」
「そうか。しかしまずいな……。調査内容を覚えていないぞ、俺は」
「それはご心配なく。負傷して戻られましたが、気を失う前に全てお聞きしました」
「……そうか。俺が戻ってからのことを報告してくれ」
「はい。まず、サクモさんと波風の潜入調査結果ですが、砂の抜け忍が雨と草をとりこみ、木の葉に総攻撃をかけようとしていたと判明しました。波風の術でサクモさんは無事に木の葉側まで戻られたのですが、潜入に気づいた草の一群が国境を越え、戦闘となりました。水遁と土遁の複合技を使う砂の忍が総指揮かつ今回の騒動の首謀者です。その首はサクモさんが取ったのですが、国境の断崖が橋もろとも崩れてサクモさんと波風は生き埋めになりました」
「随分と無様をしたものだな、俺は」
「とんでもありません。私の指揮が未熟なために、大変なご無理をなさったのです……。その時の状況については波風にお聞きになって下さい。戦闘中のことで救出がままならず、数時間以上経ってやっと掘り起こし始め、つい先ほどこちらへお連れしました。全て私の責任です。お詫びの言葉もありません……」
「俺のことは気にするな。それよりも戦況はどうなっている」
「申し訳ありません……。現在、草は指揮系統が乱れて総崩れ寸前、木の葉に有利な展開です。戦線離脱した負傷者は二名、まだ死者は出ていません。間もなく暗部の援軍が到着することになっています」
「なんとかなりそうだな。ご苦労だった、アマニ。俺はこの通りだ、今しばらく指揮を頼む」
「はい。全力を尽くします」
空気が動き、衣擦れの音と共にアマニの気配は消えた。彼と入れ違いに入って来た表の風は、新しい血と火薬の臭いが濃く混じっている。アマニが言うほどには簡単な状況ではないのだろう。しかし、印の組めない忍など戦場では何の役にも立たない。サクモは深く息を吐き、小さくうめいた。少しずつ戻ってきた感覚のために、呼吸をするたびに肩辺りが痛む。脱臼、ともう一度呟いて眉をしかめる。アマニの言った砂の忍には心当たりがあった。正確には砂の抜け忍で、ビンゴブックに載っている。あの砂の里が、持て余して放逐したも同然の野心高い男だ。
「あれを殺ったか……」
サクモは苦笑した。自分一人の力では有り得ない。波風ミナトの強力なサポートがあってのことだろう。彼は戦闘中だというが、無事な体だろうか。アマニは無理をしていないか。
意識が遠くなるのを感じながら、サクモは血と火薬の臭いをひたすら追っていた。
それから一両日、戦いは木の葉の勝利に終わった。
砂の抜け忍は、雨には草を、草には雨を与えると約束してこの小戦争をそそのかしていた。木の葉はそれを利用して両国の潜在的な反逆姿勢を責め、その結果、以前よりも危うい均衡ながら、三国の間には一応の平和協定が結ばれた。
「やだ」
帰宅した玄関先、一言そう言ったカカシは跳ねるように家の奥に引っ込んでしまった。左手を吊り、右肩と頭には包帯を巻いた姿でサクモは一つ苦笑した。
「まあまあ、カカシちゃん」
還暦を過ぎた家政婦が困った顔をしてカカシが消えた方向を見つめた。
「この有様だ。驚いたんだろう」
「こんなにお怪我なすったのは、カカシちゃんが生まれてからは初めてですものねえ」
「大規模戦闘だったからな」
「そのお体では、お食事もままならないでしょうねえ。私、しばらく泊まりでお世話いたしましょうか」
「いや、その必要はない。左肩はしばらくかかるだろうが右は痛みも引いている。生活には困らないはずだ。いつも通りで構わない」
「そうでございますか? ご無理ならいつでもおっしゃって下さいな」
家政婦は一層弱り顔でサクモを見上げたが、こうと決めたら譲らないサクモの性格を知り抜いている古い馴染みの者だ。
「では、お茶でもお入れしましょうか」
彼女は小さく笑い、家の中へと歩いて行った。その後に続こうとしたサクモは、一歩を踏み出したところで足を止めた。
「つ……」
額を押さえて痛みをやり過ごす。時折こうして襲う頭痛と同時に、失われた記憶が細切れになって現れるのだ。ビンゴブックの男の顔、竜のように天に昇る竜巻、確かに戦ったのだと繋がっていく記憶に安堵しつつ、サクモは頭を振った。
「どうせならいちどきに戻ればいいものを……」
呟き、居間へと入る。すうっと通った風に目を向けると、開け放された障子から明るい光が差し込み萌黄色の座布団を照らしていた。
「さあさあ、お座りになって」
盆に茶器を乗せた家政婦に勧められるまま腰を下ろそうとして、サクモは視線を庭へとやった。まもなく満開になろうとしている赤白の萩の下、ちらちらと葉陰を顔に映しながら小さい膝を抱えている子供の姿があった。
「カカシ」
呼びかけながら縁側に出れば、カカシは膝を見せたまま後ずさりしていく。
「そんなに怖がるな」
夏の名残の暑い日差しを浴びる二色の萩を見ながら下駄をつっかけ、乾いて白くなった土を踏む。
「おいで」
しゃがみ、手招きするが、ぽかりと目ばかりを大きく開けたカカシは首を横に振る。
「ちゃんと帰ってきただろう。何も心配は無いんだ」
「そうですよ。出ていらっしゃい、おやつにしましょうねえ」
家政婦もサクモに並んで呼ぶが、いよいよ頭を振り回してカカシは薄暗がりに引っ込む。
「カカシ、来なさい」
「そんなんじゃあ、出て来ないよ」
ぎょっとして振り返ると、庭と街路とを分ける板作りの塀の上から、黄色い頭が覗いていた。
「……何をしている」
「隊長のお見舞いに」
こんにちは、と家政婦に愛想の良い笑顔を向け、一旦、頭は引っ込んだ。そして庭を回った玄関先から、入ってもいい、と大きな声がした。
「まあお客様ですか、珍しいこと。すぐにお茶をお持ちしますわね」
いそいそと縁側へと上がっていく家政婦にぎこちなく右手を伸ばしたものの、違うとは言えずにサクモは大きく息を吐いた。だらだらと歩いて玄関に向かうと、門扉から体半分を入れた少年の姿が見える。
「来い」
「いらっしゃい、とかはないの?」
「茶を飲んだら帰れ」
「ふーん」
背後に付いた気配は軽い。サクモは庭に戻り、縁側から上がるように指示してからまた、萩の前に戻った。
「カカシ、そろそろ出て来なさい」
「だからそんなんじゃ、来ないって」
「上がれと言っただろう」
「だからね、そういう言い方じゃダメなんだって」
「おい、波風」
「ミナト」
言いながら彼はめくるように枝を掻き分けた。中でカカシが動く音がし、サクモは止めようと足を踏み出したところで顔を顰めた。
また、頭痛だ。
遠く、カカシが何かを言っているのに被って戦場での記憶が瞬く。白く泡立つ水遁の飛沫、黒く降り注ぐ土砂、そしてその中で囁く声が耳の側で聞こえた。
――こうなると思ってたよ、隊長。
「隊長」
びくり、と背を伸ばした。途端に両肩に痛みが走る。ざっと背中に冷や汗が浮かび辛うじて踏ん張った足の先、日を浴びて金色に透ける髪が赤紫の萩を割って現れた。眠った犬の子のように無抵抗なカカシを抱き、光るほど澄んだ海色の目がサクモを捕らえて笑う。
「可愛いね、この子」
俺の子を返せ、そう腹の中で黒く感情が渦巻いた。しかし、甦った記憶がこの若い忍へと近づくことを許さない。目も眩むような二つの強い感情に挟まれ、サクモは小さくたたらを踏んだ。
「隊長と同じ髪の色だ」
――俺の好きな色だよ。
どこからがあの日の記憶なのか。未だ曖昧な部分が、忘れていた『不安』という感情を呼び覚ます。
「隊長?」
耳の側で聞こえる声に強く頭を揺する。全身にかいた汗が一気に冷えを呼び込み、サクモは身震いした。
「おとうさん、いたいの?」
幼い声がした。その途端、サクモは夢から覚めた思いになって顔を上げた。目の前にカカシがいる。いつのまにかしゃがみ込んでいたのだ。
「カカシ」
自由になる右手で柔らかい体を引き寄せた。それは腕の中で一瞬もがき、しかし小さな手がすぐに抱きついてきた。それは骨に染みるほど暖かかった。
痛みを感じながらもサクモはカカシを抱き上げ、首を傾げているミナトに背を向けた。
「隊長」
「帰ってくれ」
「……いいよ、今日はね」
含みのある言葉を残し、淡い髪は去った。
無言で萩の前に立ち尽くすサクモの顎の下で、おとうさん、いたいの、とまたカカシが言った。
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